Knock.0/無題
「今日はどこに向かうんですか」
この馬車に乗り込んでから既に五分は経っている。私の右隣で、膝に置いた大きな革の鞄を掻き混ぜながら、男はこちらに問いかけてきた。
「乗ってから聞くんだね」
「まあ、どこであっても付いていきますし」
「にしてもなあ」
「先生が昨日のうちに教えてくれてたらよかったじゃないですか」
「行くと決めたのは今朝だったから」
「そうですか」
どことなく投げやりな口調で言葉が返ってくるが、なにか感情が篭っている訳ではない。探し物が見つからないことに気を取られているようだ。ただでさえ広くはないこの空間で、鞄から伸びるベルトを肩にかけたまま何かを探しているせいか、うまく腕が使えておらず動きがぎこちない。ふ、と少し息を吐いて、男の上着ポケットに手を突っ込んだ。
「だから、探し物はまず上着を疑いなさい」
「あ、ここか。どうもありがとうございます」
慣れた様子で微笑みながら、わざとらしく頭を下げて両手を差し出してきたので、こちらも丁寧にそれを置いてやる。ポケットの中に仕舞われていたのは、男がそのまま手を閉じれば包み込めるくらいの、小さな手帳だった。
「やっぱり持ち運びやすいように裁断したのが良くなかったかな」
「あれ、元からこうだったのかと」
「違います。お店で一番小さな手帳を、さらに半分にしたんです。だから、同じものがもうひとつあるはずなんだけどな…」
手を刃にして何かを切るような動きをしてから、男はまた一心に鞄の中を探し始める。少し前に自分がした質問すらすっかり忘れているようだった。
私は諦めて車窓に顔を向け、ひとりでに話し始める。
「今日行くのは第四王国のミレガート侯爵領。伺うお宅もミレガート侯爵家だね」
「侯爵。伯爵より高位の家は初めてじゃないですか?」
「そうだね。国境付近に領地を構えているらしいから、案外はやく着くと思うよ」
「信頼できる貴族にしか重要地帯は任せられない、か。それで、どちらのお方ですか?」
「侯爵令嬢のロゼッタ・ミレガートさま。半年後、成人の儀にあわせて婚約者のロジャー皇太子殿下とご結婚されるそうだ」
「15歳で結婚か。貴族社会は全部が慌ただしいですね」
「そういうものだから」
いつの間にか捜索活動を諦めていた隣の男は、揺れが激しくなりつつある馬車の中で、先ほど見つけた手帳に何かをさらさらと走り書いている。多分私が口にしたいくつかの名前だろう。聞いたことはまず書き留めろという教えをしっかり守っている、素直な子だ。
ある程度舗装されている道を外れて、いよいよ母国の保護下から出た。車輪は地面の変化に応えるように音を立て始めたが、馬たちは歩みを止めることなく地平を進んでいく。
外にやっていた目を閉じて、これから出会うはずの、顔も知らない少女にかけるつもりの言葉を心のうちで復唱する。
狭い馬車に流れる空気は澄んでいる。頭を埋め尽くす言葉たちも知らぬ間に凛と冷えていく。一言だって間違えてはいけない。何度も何度も話し合って決めた、呪文のような言葉たち。
扉の隙間から入り込む風が、出立地に吹いていたものよりずっと暖かくなり始めて、自然と目を覚ます。どうやら寝ていたらしい。そうして、気付かぬうちに随分と移動していたことを知る。
遠くの城壁が霞み始めている。目的地は近い。
顔を窓から戻すと同時に、隣の男からの視線に気づいた。ちょうど私の肩を叩こうとしていたようで、少し驚いた顔をしたまま男は手を下ろす。
隣に座る男の名はトキ。私の教え子であり、私と共に旅をしている。
そして私はロフェル。この旅を始めてもう十数年になる、放浪教師だ。
今日も私たちは、転生者を訪ね歩いている。