1. ヴィランとヒーロー
さあ、そんな夜毎が祭典の、いかれた街の裏通りに、冴えない風体の青年がひとりだ。
よれよれで薄っぺらなコートの下は、Tシャツ一枚。
モスグリーンの猫背をさらに前のめりにして、やけに急ぎ足だ。
擦り切れた青い革靴で、バタバタと慌ただしく、どこへ向かうのやら。
乱れた前髪から覗く黒瞳は、何も映じぬかのように虚ろに見える。
しかしその闇の奥深さは、真理を求める隠者のそれのようだ。
未だ霧に閉ざされし昏く朧な景色の先を、じっと見すえるその瞳にも似て。
踊るように、挑むように、彼は路上の人々を避けていく。
行く手を遮るは、右や左へと千鳥足で兎歩※1)を踏む男、聳える客引き黒人二人組の結界、行き先で揉めながら鞄を綱引きする男女などなど。
難易度設定も絶妙に、次々と現れる敵キャラを、ふわりするりと華麗に避け――とはいかないようだ。
急停止してたたらを踏み、腕を振り上げバランスを取り、上半身を大きく仰け反る――そんな危なっかしいパフォーマンスを披露しながら、何とか躱して先を急ぐ。
彼の悪目立ちする即興舞踏を、誰も気に留める様子もない。
避けそこなって派手に転ぼうが、ぶつかって諍いになろうが、その反応は変わらないだろう。
ここは何でもアリの、新宿深夜の歌舞伎町なのだし。
青年は賑やかな通りから外れると、人影もまばらな小路へ吸い込まれていく。
よれたコートの裾が、風をはらみながら丁字路を鋭角に折れると、そこは狭い路地裏だ。
くたびれた青い革靴が、ようやく停止した。
ザリリ――残暑の熱を刻した砂利を踏みしめたその先には、小さな白い人形(ト―クン)たちが、いくつも転がり散乱していた。
丸い頭部から直に広がった可愛いスカート、手足はない……なんとも味のある表情が、ひとつひとつに油性ペンで描かれている。
今どきは、めったに見られなくなった気象呪物――てるてる坊主だ。軒下に吊るし、雨天からの回復を祈願する。
深緑色した紙の手提げ袋からこぼれ落ちて、黙して横たわり、その身の不幸にも微笑みながら静かに耐えている。
さらにその向こうには、派手な服装の男の背中がふたつ並び立ち、足元には、哀れな老人が横たわっていた。
ボロを纏う老いた浮浪者が、男たちの一方的な暴行を受けているところだった。
「――テルオさん」
乱れ髪した頭が音を発すると、その寝ぼけたような相貌に、人並みの表情が降りてきた。
彼の名は相馬吾朗。
表の世界では、特にこれといった肩書はない。
深夜にこうしてフラフラしているのは、裏の世界での仕事――のようなもので、それも今回は時間外労働ともいえるだろう。
その仕事に、労基が適用されればの話だが。
相棒でもあり、案内者でもある宿得からの、緊急呼び出しに応じて駆けつけてみれば、この有様だった。
ここは悪漢に襲われる罪も無いお年寄りを、颯爽と登場した主人公が救出する場面が期待されるわけであるが……。
だがしかし、相馬吾朗は焦っていた。
そう、彼はその期待に応えることができそうにない。
なぜならこの世界の彼は、からっきし腕っぷしの弱い、ポンコツであったからだ………。
※ ※ ※ ※ ※
「無理ゲーだろ……」
俺は思わず呟いた。
はっきり言って、とんでもなく面倒な状況になっている。
なんでこんなケースに不向きな俺が、よりによって呼び出されたのか?
理由は至ってシンプルだ。
一番近くにいて、さらにはいつも暇だからだ。
確かにことさら暇にかけては、俺の右に出るものはそうは居るまい。
ところがどっこい、まさに今夜だけは違っていたのだ。
このあと超大切な密会があるのだ。
そのためにわざわざ歌舞伎町くんだりまで、こんな時間にも関わらず、とぼとぼ歩いてやって来たのだった。
憂鬱な気持ちを堪えて急ぎ来てみれば、この状況だ。
俺には荷が重すぎる。
ヤドゥルのヤツなら事もなげに「選ばれし者に選ばれし役割が、与えられただけですん」とか何とかしれっと言うのだろうが。
路上に散乱するてるてる坊主は、テルオさんのお眼鏡に適った変人だけに送られる、心のこもった恩恵だ。
それが路上に散らばって、残念なことに泥で汚れてしまっている。
そして哀れな老人を容赦なく蹴りつけているのが、たった今この時も、この苦い夜が明けたその後も、さらに明日も明後日も、この先将来、未来永劫ずずーっと金輪際、まっとうな生き様には、まるで縁のなさそうなクズ野郎二体だ。
「ウゼーんだよ、ジジイ」
「クソジジイがテメエ、クッセーんだよ!」
註:1)兎歩:日本の陰陽道の呪を込めた歩行法で、災いを退ける舞にも用いられた。古くは「うふ」と読んだ。古代中国夏王朝の太祖である聖帝兎の伝説を起源とする。
道教では旅の安全を祈願する呪法。