おかえり
声が聞こえた。
「また訊きに来たよ」
老婆の声だ。
何度も聞いた、懐かしい声。
必死に首を動かすと、うっすらと見えた。
肩と頭には、うっすらと雪が積もっている。
でも彼女は落とす素振りなく、ゆらりと立っている。
まるで死神みたい。
「もし生まれ変われるとしたら、どんな人間になりたい?」
そうだ。この質問を、一度訊かれたことがある。
あの時、なんて答えたかしら。
ダメ。全然頭が回らない。記憶を思い出す余裕もない。
でも、今の想いははっきりしている。
(娘に、会いに行いきたい。胸を張って、会いたい)
声が掠れて、うまく言葉を紡げない。
息が苦しくて、咳がゴホゴホと出てしまう。
もう、全身の感覚がない。
「そうかい」
素っ気なく言うと、老婆はフッと消えてしまった。
アタシの願いの届いたのだろうか。
わからない。
でも、この人の優しさは、よく知っている。
この人は自分のことを『倫理観のない人』と自嘲していた。
だけど、アタシたちには倫理観なんてどうでもよかった。
そんなものは、心にゆとりがある人たちのためのものだから。
アタシたちは自分の力で生きていける術が欲しくて、一緒にお客さんの愚痴を言える場所が欲しかっただけだった。
彼女は自分を一番の悪者みたいに言っていた。
でも、それはきっと、アタシたちのためだったのだろう。
アタシたちの分の罪悪感を、背負おうとしてくれていた。
貯めたお金なんてほとんど使ってなくて、病気になった子に大量の見舞金を渡していることも知っている。
服もほとんど従業員から送ったものしか着ていなかった。
たまにネタTシャツを渡されても着ていたのは、かなり面白かった。
なぜか『銭ゲバ』と書かれたTシャツは気に入って、パジャマにしていたらしい。
いつも悪ぶっているくせに、いつも従業員のことを考えてくれている。
だから、アタシは彼女が本当に好きだった。
最期の楽しみのつもりで入ったガールズバー。
そこで、助けられた。
うんと世話を焼いてくれた。
本当のママだったらいいなぁ、と本気で思うぐらい、幸せだった。
このタイミングで来た意味はわからない。
でも、きっとアタシのために来てくれたんだ。
そう信じられるほどに、アタシは信頼している。
これも、届いているといいな。
今までありがとう、ママ。
大好き。
◇◆◇◆◇◆
次に目を覚ますと、アタシは知らない家にいた。
「ねー。紗淑ちゃーん」
中年ぐらいの女性が、
とても優しそうな顔で、大盛りの大衆食堂とか給食センターにいそうなイメージだ。
自分の体を確かめると、とても小さい。
中年女性は、アタシを産んだママみたいだ。
でも、アタシには前世の記憶がある。
八箇徳美。それが前世の名前。
普通の家に生まれたけど、ママがかなり過激な人で、よく叱られていた。
一分でも家に帰るのに遅れたら、1時間以上は怒られるし、物を窓から捨てられたことだって1回や2回じゃない。
今思えば、本当に最悪の母親だった。
でも、当時のアタシには逃げる選択肢は思いつかなくて、ずっと母親の顔色ばかりを窺って生きていた。
何度も考えた。
なんで子は親を選べないんだろう。
なんで周囲には優しい親がいっぱいいるのに、アタシの母親はそうじゃないんだろう。
下校途中。いつも憂鬱だった。
みんなは笑顔で家に帰るけど、アタシの足取りは重かった。
アタシにとっての家は『帰る場所』じゃない。『帰らないといけない場所』だった。
帰りたくないけど、帰らないと色んな人に迷惑がかかるし、母親のヒステリックが怖かったから、帰っていただけだった。
そんな日々に、アタシは耐え続けていた。
高校卒業後、アタシは母親の親戚が経営する会社で勤めることになった。
どこにでもありそうな、町工場。
他の従業員は男性で、しかも体育会系な気質の人ばかりで、風当たりが強かった。
無視されるのは当たり前。セクハラ当然。
でも、面と叱られるよりはマシだったから、耐えられた。
だけど、ある日告げられた。
40歳近い会社の社長と、婚約関係にあると。
親が勝手に決めた、婚約者だ。
ひどく気持ち悪かった。
アタシは我慢できずに、家を飛び出した。
でも、すぐに気づいた。家の外で生きる方法なんて知らないことに。
少しはお金を持っていたから、なんとか食つなぐことはできた。
初日の夜。警察に補導されかけた。
警察は絶対に保護者に連絡を入れる。
そうなってしまえば、終わりだ。
このチャンスを逃したら、アタシは母親から逃げられなくなってしまう。
必死に逃げ続けたけど、すぐにお金が尽きてしまった。
でも、あの家には死んでも帰りたくなくて、ゴミ箱を漁ったりして耐え忍んだ。
そんなある日、あのガールズバーの前を通り過ぎた。
本当はバニーガールを見たかっただけだったのだけど、店で雇ってもらえることになって、アタシの生活は激変した。
アタシのような境遇の人はいっぱいいて、みんな必死に生きていたのが、とても心強かった。
そんな中、一人のお客さんから猛アタックを受けた。
彼の名前は荒川咲春。
最初は困惑したけど、少しずつ受け入れられるようになった。
そして、交際が始まった。
彼はとてもよくしてくれて、本当に理想の彼氏だった。
エナドリが好きなことと、顔が地味なことと、少し楽観主義すぎること以外は、欠点らしい欠点はなかった。
あるクリスマスの日。
アタシたちはデートをした。
彼の誕生日でもあったから、お手製のマフラーと手袋を用意した。
マフラーがクリスマスプレゼント。手袋が誕生日プレゼント。
必死に本を読みながら編んでみたけど、悪くない出来にはなった。
高そうなレストラン。
ロマンチックな夜景。
ビシッと決まった服装。
なんとなく察してしまった。
今日、プロポーズされるんだ、と。
その瞬間、怖くなった。
プロポーズを受けたら、その先がある。
婚約して、同居して、結婚して、子供を産む。
アタシに、そんなことはできるだろうか。
アタシは幸せな家庭を知らない。
もし、ママみたいに子供を傷つけてしまったら、どうしよう。
アタシは妻にも母にもなれる自信がない。
それに、プレゼントだってそうだ。
アタシはお手製の編み物。
対して、彼は高級ブランドのバッグ。
婚約指輪だって用意しているに違いない。
全く釣り合っていない。
アタシ自身が、この人と全く釣り合っていない。
「いやっ!!!」
その結果、アタシは彼を突き飛ばしてしまった。
彼は予想もしていなかったのか、盛大に転んで、噴水に落ちてしまった。
それ以来、彼はガールズバーにも顔を出さなくなり、連絡も来なくなった。
(ああ、やっちゃった)
後悔して、凹んでしまった。
ある居酒屋で飲んでいたら、出会った。
その後、一人のミュージシャンに出会った。
名前は三戸喜怒哀楽。
彼はとてもダメな人だったけど、ミュージシャンという夢に一途な人だった。
夢。
アタシは『何かを成し遂げたい』と思ったことがなかった。
いつも逃げることと耐えることばかりを考えていた。
だからこそ、彼みたいな人が、キラキラ輝いているように見えてしまった。
自然とキスして、付き合うようになった。
毎日のように世話を焼いた。
彼は本当に何もできなくて、ウサギの世話をしているみたいで少し楽しかった。
そして、妊娠した。
結婚もしてなかったけど、デキてしまった。
最初は怖かった。
でも、子供を授かった以上は覚悟を決めて、よい母親になることを誓った。
彼が逃げても、その覚悟は変わらなかった。
そして、アタシは子供を産んだ。
かわいいかわいい娘。
それ以降の記憶は思い出せない。
もしかしたら、思い出したくない程に辛い出来事があったのかもしれない。
(まあ、そんな前世があっても、今のアタシには関係ない)
今のママパパは優しくて、順風満帆な生活を送っている。
家はお金持ちとは言えないけど、人並みの生活を送れているし、周囲にも恵まれている。
幼稚園も楽しかったし、幸せな毎日はすごい早さで過ぎていった。
でも、小学校に入学する前に事件が起きた。
両親が経営していた食堂が、無くなってしまった。
貧乏になったせいか、両親はよく喧嘩するようになった。
最初は優しかった顔立ちも、徐々に恐ろしいものに変わっていった。
ずっと家の中は冷え切っていて、家にいるだけでも辛かった。
前世よりはマシかもしれなかったけど、日々泣いていた。
そんな時、テレビである人を見て、笑った。
バラエティ番組で、おバカなことばっかりを言っている人。
八箇純玲という、女芸人だ。
昔は子役として活躍していたらしいけど、今はおバカタレントになっているらしい。
(なんで?)
意味不明な経歴だ。
一時期全く活動してなかったらしいけど、再開直後に方向転換したらしい。
ちなみに、女装が得意な彼氏がいるらしい。
その結果、もう10年近くも芸能界で生き残っているのだからすごい。
彼女の顔を見ていると、なぜか懐かしい気持ちになって、胸がいっぱいになった。
(会いたい)
調べてみるとちょうど、近くに来るイベントがあった。
アタシはお小遣いを片手に、そのイベントに向かって、こっそり控室に侵入した。
悪いことをしている自覚はあったけど、それほどに会いたかった。
彼女の隣には、かっこいい女性が立っていた。
だけど、なぜか片手にノンアルコールビールを持っている。
仕事中じゃないのかな?
いや、それよりも純玲ちゃんだ。
憧れの人。
アタシは必死に掛ける言葉を選ぼうとした。
だけど――
「スミレ……?」
ついつい、呼び捨てにしてしまった。
スミレは驚いたように目を見開いてから、アタシの顔を見た。
でも直後に、くしゃっと笑った。
その瞬間、思わず走り出してしまった。
おぼろげな記憶が、徐々に鮮明になっていく。
前世で出産した後の日々。
娘が生まれて、余命が8年と宣告されて、喧嘩して離れ離れになって、再開して早々車に轢かれて、幼児退行して、死んでしまった。
本当に壮絶な人生だった。
だけど、今ではどれも大切な思い出だ。
最期に、約束をした。
とっても大事な約束。
ああ、わかる。
絶対に、彼女は言ってくれる。
ふと、ドアが見えた。
何の変哲もない、玄関のドア。
のぞき穴がついていて、ところどころが錆びついている。
周囲は暗闇で、ドアの隙間から温かい光が漏れている。
自分の手を見ると、とてもシワシワで、みすぼらしい。
何年も手入れしていないのだろう。
全身は倦怠感で包まれていて、今すぐに倒れてしまいそう。
今のアタシはまるで捨て犬だ。
でも、必死に体を動かして、ドアを開けようとする。
鍵を入れなくても、ドアノブはするっと回ってくれた。
玄関には靴が放り投げられていた。
アタシは呆れながらも、きっちりと揃える。
光に吸い込まれるようにリビングへと向かう。
喉を鳴らしながらドアを開けると、そこには人がいた。
その人は立派な恋人のようにも、かわいらしい娘のようにも、頼もしい姉のようにも見えた。
この人とは、何回も喧嘩した。
一方的に突き放して、全く合わなかった時期もある。
アタシはいっぱい理不尽なことをした。
我がままもいっぱいした。
普通だったら、呆れられて、捨てられてもおかしくない。
でも、最終的には一緒にいてくれた。
いくら突き放されても、死んでも、生まれ変わっても、一緒にいてくれた。
だからこそ、確信を持って言える。
(この人は、何があってもアタシと一緒にいてくれる)
ここにいてくれる。
その人はアタシの顔を見ると、くしゃっと笑みを浮かべて、ある4文字を発してくれた。
「 」
たったそれだけで、全身が温かくなって、頬がトロリと融けてしまう。
やっとわかった。
ずっとずっと、アタシが求めていたもの。
愛なんて大層なものじゃない。
本当は、誰でも持っているはずのもの。
アタシは、思わずスミレの胸に飛び込んでいた。
「ただいまっ!」
温かさに、包まれる。
えくぼが出来た頬に、涙がつたっていく。
すごく遠回りしたけど、やっとたどり着いた。
アタシだけの、優しい場所。
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