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ぼくはぼくさ(3)

 その週は、ボクシングのことで頭がいっぱいの週だった。毎日新たな発見があり、それとともに更新される自らのボクシングがある。そのことがなによりも、楽しく嬉しく、喜ばしい。ぼくの体を通して、新しいなにかが、毎日のように生み出されていく。季節はとっくに秋めいていたけど、ぼくはもう春が来たかと思うぐらいに、浮かれていた。もちろん練習試合も楽しみではあったのだが、それよりもぼくはボクシングをする喜びを、体全体で噛みしめるように練習できているのが、嬉しかった。

 みんなは今更のように色んなボクサーのビデオを見たりして、研究しているようだった。どれほど効果があるかは分からないけれど。

 ぼくは、ビデオやカメラといった映像を信用していない。どんなに高速度で運動をとらえるカメラであっても、その映像は、人間の肉眼がとらえる運動とはまるで違う。実際のボクサーは一時停止できたりスロー再生されたり巻き戻されたりはしない。一秒間に何コマって分割して動いているわけでもない。だからぼくは、カメラが見たものより、自分の目で見たものを信用する。ぼくの体はそれを基準に動く。どんなに相手が速く動いたって、光より速く動けるわけじゃない。まっ暗じゃないかぎり、相手に反射した光がぼくの目に届く速度の方が速い。だからぼくに見えないパンチなんてないんだ。あとは、それに的確に反応するだけ。そのための練習をするだけ。


 そうこうしているうちに週末はすぐにやってくる。ぼくがいつも通りの練習をしていようと、八城や部長が付け焼き刃の猛特訓をしていようと、それから木村がほとんどサボっていようと。

 試合に向けての最後の練習が終わった後、部長から確認のために試合に参加する部員の名前が発表された。まず、部長本人、それからぼく。一応、木村も参加するらしい、その時もいなかったけど。あとは八城。それに渡辺くんに松永くん。最期のふたりは名前と顔が一致しない。その六人が試合に出る、と向こうの高校には連絡してあるそうだ。それから、こちらの人数があんまりに少なかったので、別の他校とも合同で練習試合を行うことになっているらしい。

 それを聞かされて、みんながざわついた。つまりは観客が多いってこと。試合とは無関係なノイズが、多いってことだ。

 でも試合には無関係だ。

 どうせリングに上がれば、ふたりっきりなんだ。審判もいるけど、そんなのは眼中にない。相手を応援する観客が多くいたって、それで相手が強くなるわけじゃない。セコンドが声を張り上げたって、それで自分が強くなるわけじゃない。誰も助けてくれないし、誰の助けも欲しくない。ぼくは、自分のボクシングをただただ相手にぶつけるだけだ。

 

 なんだか、大仰な漢字が並べられた高校の門をくぐると、うちとは大違いの立派な風格のある校舎がそびえ立っていた。決定的に違うのは敷地面積の広さ。あとはそれを埋める設備。新しい設備も多いが、それに囲まれた古いものには歴史が感じられる。その広大な敷地の中に、ボクシング部専用のジムがあった。みんな「すげぇなぁ」とか「うらやましい」とか、そんなことしか言わない。ぼくはうらやましくもない。お金をかければ、こういう設備は手に入る。だけど、この設備で何をする? お金で強さが決まるわけじゃない。あれ、もしかして少しは嫉妬しているのかも。

 体育館ぐらいの広さのジムに入ると、ミットやサンドバッグを叩く音、それからロープワークやシャドーをする床を擦るシューズの音が聞こえてきた。

 熱気で曇ったガラスの引き戸を開けると、高い天井に備え付けられた水銀灯の照らす、二つのリングが見えた。

 その周りには幾つもサンドバッグがつり下げられていて、それから何に使うのか分からないような器具もあちらこちらにあった。

「こんちわ」

 と、部長が言うと。暴力的なまでにみんなが大声で挨拶を返してくる。

「ちわす」とか「おいっす」とか。あとは判別不能。みんな、その挨拶に気圧されたように、固まってしまっている。

 向こうの部長さんなんだろうか、爽やかそうな坊主頭の人が小走りにやってきて、ぼくらに改めて挨拶した。

「ども、今日はよろしくお願いします。部長の飯田です。着替えなんかは、奥に控え室なんかありますから、そこで。貴重品なんかは自分で管理して下さい。あと練習なんかは適当にそこら使ってもらってかまいませんので」

 ウチの部長は「よろしくお願いします」というのがやっとだった。

 まぁ、部員数の差があるからね。

 着替えて戻ってくると、揃いの黒いジャージを着た一団が増えていた。胸の所に金色で校名が刺繍されている。どうやら、今日参加する他の高校の人たちみたい。

 なぜだか、顧問の先生らしき人に、もう怒鳴られていた。何が理由なのかは分からない。ぼくは無視して自分の練習を始めた。後で分かった事だけど、彼らは別に怒鳴られていたわけじゃなかったらしい。ただ、その先生が、そういう風にしか喋れないだけみたいだった。

 鏡はなくてもよかったけど、一応、鏡の前に行って、そこでシャドーボクシング。他のみんなは隅っこの方で、戸惑っていた。試合の結果は、まぁこれでだいたい分かった。ぼく以外はね。まぁいい。向こうの高校はぼくを指名してきたも同然なんだ。なんて思ってたら、木村くんはちゃっかりサンドバッグを借りたりしてる。さすがだね。

 ぼくが鏡に向かってシャドーをする。動きの確認だ。ここの所、縄跳びやら腹筋やらでいつもの動きが変わってきた気がする。良い方に向かっていれば問題はないのだけれど。それが気になって、何度もパンチのチェックをする。それから相手に対する腰の角度。踏み込む足の角度、位置。握った拳の小指側から肘、そこから背中から腰に繋がる筋肉を意識する。その上半身に力を与える下半身。その動きの繋がりを再確認。なかなか悪くない。

 縄跳びや筋トレなんかは、あんまり意味がないと思っていたけれど、それなりの効果もあった。もちろん、単純な筋力アップなんかは関係ない。そんなのは気休め程度にしかならない。気休めで試合に勝てるのなら何の問題もないけれど。

 ぼくが感じた効果は筋肉、それも普段は使っていない筋肉を酷使することで身体感覚の変化があったってこと。使わなくてもいい筋肉、それから無駄な動きがはっきりと自覚できた。いままでは惰性で使っていたかも知れない筋肉や使わなくてもよい筋肉を整理することで、より細かく、無駄なく体を使うことができるようになった。ぼくはまた少し、自分の理想とするボクサーに近付いている。

 今、鏡の前にいるのは明らかに一週間前よりも強くなっているぼくだ。表面的な変化はほとんどない。だけど、ぼくには明らかに違って見えた。

「変わったボクシングするね、君」

 さっきの坊主頭の飯田部長さんが、気さくに話しかけてきてくれた。あんまり邪魔しないで欲しいんだけど。でもまぁ、ここは向こうの施設だし、ぼくら自体がお邪魔な存在なんだから、我慢して愛想よく答える。ぼくなりにだけど。

「よく言われます」

「君の試合、見たよ。こないだの。面白い試合だったよ」

「それも、よく言われます」

「あそこでさ、サンドバッグ打ってる、あいつ。浪岡って言うんだけどね、今日の君の相手があいつだから」

「タイでやってた人がいるって聞きましたけど」

「あ、知ってるの? それが、あいつね。やってたって言ってもテレビの企画で一ヶ月ぐらいだったらしいけどさ。まぁ、お手柔らかに頼みますよ」

 彼は、浪岡くんはこちらの視線に気が付いたのか、サンドバッグを叩く手を止めて、鋭い目でじっとこちらを睨んでいる。そして一発、豪快なフックをサンドバッグに叩き込んだ。ギシギシ揺れる。腰の入った強いパンチだ。当たったら、ぼくみたいな痩せっぽちはひとたまりもないだろう。身長はぼくよりも低いみたいだけど、体格はがっしりしていて、もうプロでもやっていけそう。体格だけでプロになれるなら。

「おぉこわ」

 と言って、部長さんは黒いジャージの一団に近付いていく。挨拶に行くんだろうか。

 向こうはまだ説教が続いていた。練習しなくていいんだろうか。いつもならしないはずの人の心配をしてしまった。それぐらい説教が長い。説教で強くなれるなら、ぼくも一緒に聞いてみたいものだけど。

 努力と根性は必要だ。ぼくはそれらを否定しない。どんな勝負事にだって、そういった精神的な何かは必要だし、努力は殊更に必要だ。

 だけど、怒鳴られたり、説教されたりすることが努力したことになるんだろうか。それとも根性をつけるためにやっている? やっぱり理解できない。

 人間が絶対的に強くなる瞬間は、時々ある。それは奇跡のような瞬間で、それを知ってしまった人間は、またその瞬間がくることを信じて、更に努力する。それ以外の相対的な価値観による強さは、なんの喜びも、ぼくに与えてくれない。たまたま、試合の相手がぼくよりも弱かった、もしかしたらその時体調が悪かっただけかも知れないし、足が滑ったりしたのかも、精神的に落ち込んでいたのかも知れないし。とにかくそんなもんだ。せいぜい言えるのは、ぼくはもしかしたら対戦相手よりは強かったかも知れないっていう程度のこと。

 今から対戦する彼は、浪岡くんはどうだろう。ぼくよりも弱いのか、それとも強いのか。浪岡くんとの対戦は楽しみではあるけれど、その勝ち負けに関しては、割とどうでもよい。ぼくも彼も手を抜かずに自分の信じる技術をぶつけあう、その結果、勝敗が生まれる。ぼくに必要なのは、その技術のぶつかりあいの中で見つかるなにかだ。それだけがぼくにとっての真実。

 五ラウンドほど、シャドーをやったら、マイクでアナウンスが入った。そんな設備まである。練習試合は二面あるリングの両方を使って行われるそうだ。公式の試合ではないので、正確な計量はしない。部員の体重は事前に申告してあって、もう試合は組まれていた。階級の軽い選手から順に試合をしていくことになるらしい。ぼくは比較的早い方になるのかな。

 すぐに壁に試合の組み合わせと順番が張り出される。張り紙の周りに人だかりができる。

 リングの感触を確かめておこうと思って、みんなが色々準備している間に上がらせてもらった。少し、やわらかい気もする。でも沈み込んだりはしない。シューズとの相性も悪くなさそうだ。少し、足を動かしてみる。シューズの底の種類はだいたい二種類。よく滑るか、それとも滑らないか。足を使って試合を組み立てるアウトボクサーなんかはよく滑る方を履くらしい、その逆は滑らないほう。それだって人によってまちまちだろう。一般論の話。ぼくのシューズの底は革だ。滑るようになっている。

 ゴムのような滑らない素材は、ぼくの理想のボクシングには向いていない。カウンターをどんなタイミングでもとろうと思ったら、体も足も、常にそれに備えていなければならない。いつでも動けるように、両足が少し浮いているような感じがいい。足が滑るように、どんな方向にでも動かせるのが理想だ。それに腰から上がついていき、そして移動とパンチの打ち終わりが一致する。腰の捻りはなるべく使わないようにする。そうすることで、純粋な直進運動が生まれる。相手の中心に向かって最短距離を通る直線に近づいていく。ぼくには、フックやアッパーは回りくどいパンチのように思える。やはりストレートが、好きだ。

 なんて、リングの上で動きのチェックに没頭していたら、いつの間にか、みんなに見られていた。

 こういうのは、ちょっと恥ずかしい。

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