ぼくはぼくさ(2)
ぼくの不安は的中した。結局ぼくは部長の押しの強さでボクシング部に、正式に入部することとなり、毎日の練習にまで参加させられることになった。
ぼくの一番嫌がっていた、走ったり縄跳びしたりミットを打ったり、重い物を持ち上げたり腹筋したり無駄に汗をかいたりするあれだ。
練習は主に体育館の隅っこだった。練習前には校舎の周りをロードワーク。この時点でほとんどの部員のやる気のなさが見て取れた。みんな息を切らさない程度のペースでしか走らない。ぼくは時間が惜しかったので、先にノルマをこなしてしまうことにした。走るときに、注意しないといけないことは沢山ある。呼吸、姿勢、それからペースだ。人のペースで走って疲れるなんて、ごめんだ。
体育館に戻ると、赤いジャージ姿の女子マネージャーが練習用具を準備している最中だった。やっぱりと思うかも知れないけど、マネージャーは丘野香織。部長の妹だ。
「悪いんだけど、手伝って。部室のサンドバッグ持ってきてくれない?」
体育館は、全ての部が共同で使っているので、常時サンドバッグを吊しておくわけにはいかない。練習のたび部室から運んできて体育館の隅に吊さなければならなかった。けっこう重い。
みんなが戻ってくると、やっと軽く準備運動。なんか順番が違うと思うんだけど。で、その後に三ラウンドぐらいシャドーボクシング。みんな軽快にステップを踏んで、華麗にパンチを繰り出している。相手にはパンチをかすらせもせずに、自分のパンチを当てている。鏡の前で陶酔している奴もいた。変則的なステップ、見栄えだけいいパンチ。無駄なコンビネーション。ガッツポーズまで決めていた。
ぼくはなるべくそういうのとは離れて、黙々とシャドーをする。
三ラウンドのシャドーが終わると、その後は各自で好きなようにやっていいようだった。サンドバッグを叩く者もいれば、二人一組でミット打ちをする奴らもいる。軽いスパーリング、マススパーをする奴らもいる。もう休んでいる奴も。
ぼくはそれらとは、なるべく離れてシャドーを続ける。
ぼくのことをみんながこころよく思っていないのは、充分に感じていた。それはそうだ、いまさら入部してきて、なんのつもりだって思っているだろう。ぼくの実績のことも知られているだろうし。なんだかすごくやりづらい雰囲気だ。
二、三ラウンド過ぎたところで、部長がぼくにパンチンググローブを渡した。
「ミット、やってみようか」
「はぁ、お願いします」
ミット打ちなんて、ぼくはやったことがない。けど、まぁ、いいや。郷に入ったら郷に従えってやつだ。
二ラウンドもミット打ちをやらされたあげく、部長に言わせれば、ぼくは基本が何もなっていなくてリズムもフォームもなっちゃいないらしい。実際、自分でもひどいもんだと思った。
部長はぼくの実力をたいしたことないとふんだらしい。スパーリングまでやらされることになった。
相手はさっきのガッツポーズ男だった。まいったな。
こういうのは嫌なんだ。ぼくにはぼくのボクシングがある。ぼくが自分の頭で考え、構築してきたボクシングだ。それは確かに従来のボクシングの基本やなんかとは違っているかも知れない。だけど否定はしないでもらいたいんだ。ぼくだって、みんなのボクシングを否定することはしない。ただ、互いの考え方の違いがあって、それは試合でどちらがどう優れているか決まる。それでいいと思うんだ。
彼らはそうは思っていないらしい。基本を守って、身体能力を上げて、たくさん練習すれば、勝てるようになると思っているんだろうか。あとは運か才能? そんなギャンブルみたいなのがボクシングなんだろうか? 殴られるというリスクを負ってまですること? もしかしたら死ぬかもしれないのに。
流した汗は嘘をつかない。そう、嘘はつかないさ。じゃあ真実は?
さて、この時点でぼくは自分でも驚くぐらい苛々していた。こんなに自分が怒りっぽいとは思わなかった。例のガッツポーズ男は名前を八城といった。学年はぼくと同じだ。着ているジャージの色で分かった。体格もだいたい同じ。ちょっと猫背だから、ぼくよりも少し低く見える。
「八城、胸借りてみろ」
ぼくの頭に汗くさいヘッドギアを被せながら、部長が彼に言った。
当の八城は不服そうな顔だ。ヘッドギアをつけていても分かるぐらいに。
ぼくらがグローブを、ちょんと合わせて挨拶をすると、ラウンドの始まりを告げるブザーが鳴った。
ブザーはいい。ゴングよりも耳障りじゃない。ぼくらのスパーリングを周りの奴らもじっと眺めていた。そんな暇があるなら、自分の練習をすればいいのに。
さて、八城だが、彼はやっぱりさっきのシャドーで見たまんまのファイトスタイルだった。無駄にフットワークを使い、好き勝手にパンチを打つ。相手のリズムや体勢なんかにはあんまり関心がないみたいだ。少しやりづらいタイプかな。
面倒なのは、彼のパンチがどこを狙っているのか分からないこと。正確でないのだ。こういう変なパンチに運悪く当たったりするのは不愉快だ。
しばらくぼくは様子を見る。適当に彼のボクシングに付き合ってやる。彼は軽やかにステップをしてぼくを翻弄しようとする。
ぼくは秒数をカウントしている。一分程経ったところで、彼は息を切らせ始めた。おいおい、本当かよ。ぼくはこれも罠なんじゃないかと思いながら慎重に、距離を縮める。ジャブが飛んでくる。当たる距離じゃない。フォームもしっかりしていない。ぼくのガードを崩せない。一気に距離を詰められ、彼は慌てる。離れようとバックステップするが、ぼくはそれにぴったりとくっついていく。彼はガードをあげた。ぼくが顔を殴るふりをしたから。こんな子供だましに普通はかからない。
ボディブロー。ぼくは回りくどくサイドからレバーを打ったりしない。ストレート気味にボディを打ち抜く。彼は少し後ずさった。あんまり効いていないと思う。ぼくはパンチ力がない。
ぼくにたいしたパンチがないのを知って、彼は少し強気になったようだ。打ち合っても大丈夫だと思ったんだろう。さっきよりも距離を詰めてきている。実はそれがぼくの狙いだ。
ぼくはわざとガードを下げ気味にする。こうすれば、相手はぼくの顔面にパンチを集めてくるだろうから。そうしてくれれば、ぼくもカウンターが狙いやすい。
案の定、彼のワンツー。なかなか、リズムが合わない。ぼくは少し後ろに下がる。彼は疲れてきているせいか、もともとの癖なのか妙なリズムでコンビネーションを打ってくる。でも、一度見ればもう充分だ。変則的とはいっても、彼のは隙がありすぎる。
もう一度、距離を詰めてワンツー。そのワンの左手を引き、ツーの右手を打ち込む瞬間にぼくの右のパンチは彼の顔面をとらえる。少し柔らかく当てた。寸止めみたいに。彼は少しよろけて、まだ顔の前に突き出されたぼくのグローブを、身をよじって避けようとする。それを追ってぼくの左の拳が彼の顔を正確にとらえる。寸止め気味に。
そこでブザーが鳴った。
部長が八城に「どうする」と聞いていた。八城はただ顔を振るだけだった。少し可哀想なことをしたかも。
まぁ、これでもうスパーリングを申し込まれずに済むかもしれない。
少し、息を整える。それほどは、苦しくなるほど激しい動きはしていないけれど、やはり少し緊張してしまって体に力が入ってたみたいだ。深く息を吸う。呼吸のコツは肩を上げないこと。お腹に空気を溜め込む感覚で、苦しくても、深く長く息を吸い、吐く。数回深呼吸をすれば、もう息は整っていた。
ぼくが一人でグローブやヘッドギアを外そうと手間取っている間に、部長に話しかけている奴がいるのに気付いた。さっきのジョギング中にはいなかったはずだ。
なんかバスケットボールでもしそうなかっこうだった、パンツはだぶだぶで、シューズもバスケ用のだし。タンクトップの背中に二十一の番号が入っていた。
「なんか、こいつがやりたいってよ」
部長がこっちを見て、言った。
ぼくは片手をあげて答える。もうやめましょう、ってジェスチャーのつもりだったんだけど、部長は「よし、グローブつけてやる」って言って、二十一番にグローブをはめさせてる。
しょうがない。ぼくは頭を切り換えて、次のラウンドにそなえた。
部長が近寄ってきて、耳元に顔を近付ける。
「あいつ、今年の一年でさ、ジムにも通ってるんだってよ。生意気だから、ちょっと痛い目見せてやってくれや」
「はぁ」
そんなこと言われても困る。要するに、このボクシング部で、嫌われ者の二人がスパーリングするってことだろう。どっちが痛い目を見ても、みんなは胸がすっとするに違いない。
ブザーは鳴る。ぼくらの事情なんかお構いなしに。
そして、ラウンドが始まった瞬間には、ぼくもそんな事情にお構いなしだ。おそらくは相手もそうだろう。ここにはリングがないけれど、相手と向かい合うってことは、リングに上がるっていうことはそういうことだ。子供の頃からボクシングをやっていようと、結婚して子供がいようと、重い病気を克服した奇跡の人であろうと、引退を目前にした老体であろうと、この試合に命やそれよりも大事な何かがかかっていようと。何の関係もない。
そんな事情で、ボクシングはできない。
ボクサーはリングの上で、ボクシングしかしない。
左の目尻から血が出ていた。
切れたところに痛みは感じなかった。
スパーリングは途中で止められてしまった。二十一番は故意にエルボーブローをしかけてきた。ぼくはそれをかわしたつもりだったけれど、そのせいでちょうど目尻の部分に少しかすってしまったようだ。もちろん、ルールでは反則。カウントした秒数は二分十秒ぐらいだった。まぁ、彼にも色々と言い分はあるだろう。ぼくもかわしきれなかったんだから文句を言うつもりはない。
「すまんな。あいつにはよく言っておくから」
部長があんまりすまなさそうじゃない顔で謝ってくれたけど、二十一番の方は謝らなかった。
「大丈夫?」
丘野が、丘野香織が、消毒液の沁みたガーゼを顔に近付ける。
「一人で、できるから」
ぼくはガーゼを丘野から受け取る。バンテージに消毒液が落ちる。
「ごめんね、せっかくきてもらったのに」
「なにが?」
ぼくは分からない。なぜ部長や彼女が謝るのか。いや、今回の件は誰からも謝られることはないはずだ。悪かったのは肘打ちを受けて目尻を切ってしまったぼくなのだから。悔しさはある。だけど、リングの上では何が起こるか分からないのが、ボクシングだ。昔だったら。もっと昔の、原始的な殴りあいだったら、こんなことでは止められもしない。血を流したぼくが間抜けなのだ。だから、謝られるのは不思議だった。
「あいつさ、馬鹿にしてんの。この部のこと」
「誰?」
傷口に沁みた消毒液が頬をつたう。
ぼくは右目だけを開けて彼女を見た。
「木村。さっきの二十一番」
「あぁ。でも、部活には出てるんだ」
「馬鹿にするために出てんの。自分よりレベル低いの相手にして満足してるんだ」
「そう言ってたの?」
「そうは言ってないけど。見れば分かるよ。ほとんど真面目にやってないし」
「ジムに通ってるんだ?」
「そうらしいよ。たいして強くないくせに、それだけが自慢みたい。まぁ、うちの中ではレベル高い方かも知れないけどね」
「ふぅん」
ぼくは木村くんとのスパーを思い出す。最初は真面目にやっていたはずだ。ジャブからストレート、コンビネーションの左フック、ボディ。動きもこなれていて、ジムに通っているというのはうなずけた。フォームも悪くない、スタミナもすぐに切れたりしない。今まで対戦した中でもそこそこ手強い相手だと思った。ぼくはパンチから目を離さずに、タイミングをうかがう。彼はぼくよりも背が低い。差は五センチぐらいだろうか。もちろん、その分リーチも短い。だけどまぁ、このぐらいのリーチの差は、たいして安心できる差じゃない。それにぼくは距離をとって闘うタイプじゃない。カウンターを狙うためには彼の距離に合わせる必要がある。
彼は左フックをダブルで打つ。一発目はガード、二発目はサイドにステップする。少し、左斜めに入る。右のガードをわざと下げてみた。反応が早い。ガードの下がった右にさらにフックを重ねる。
彼の腕の内側に右腕を潜り込ませる。この時、ぼくの腕は背中と、骨および筋肉の緊張によって、強く結ばれている。そして背中から腰、足も同様につながっている。腰の位置を下げる。フックが丁度頭の位置に。だけど、ここまでは届かない。ぼくの右腕はフックともアッパーともつかない角度で左のフックを押さえつつ、彼の左顎をとらえる。これがぼくのカウンター。
威力はない。威力をねらってはいない。目的は相手の体勢を崩すことだ。ぼくは腰を落としたまま、少し前進。すると顎を下から持ち上げられた格好の彼は、簡単に後ろにのけぞる。素早く右腕を引き、左のボディストレート。
ちょっと効いたかも知れない。彼はファイティングポーズをとりなおしたけれど、明らかに動きが鈍っていた。
「大丈夫か、止めてもいいぞ」
部長が声をかける。
「まだやれますよ」
はじめて、彼の声を聞いた。苦しそうなのを押さえているような声だった。
ここまでで、一分三十秒ほど。ぼくの繰り出したパンチは十発に満たない。とても効率が良い。相手からは一発も殴られていない。
彼は接近してくる。足は、まだ軽やかだ。やっぱりあんまり効いてはいなかったかも。それとも回復が早いのか、慣れているのか。どちらにしろ、動きはさほど鈍ってない。
また同じ左フックから。今度は一発目にタイミングを合わせることができた。綺麗にストレートが入った。といってもぼくのストレートはボクシングの教科書からすれば、変なフォームの中途半端なパンチだろうけど。彼は打たれても潜り込んでくる。クリンチにきた。こういうのは苦手だ。アマチュアの試合だと、頭だけを下げるのはバッティングの注意を受ける。こういう入り方をする選手とは対戦したことがない。ぼくは彼の頭を押さえつけ、腰に手を回されないように距離をとった。離れ際に闇雲にフックを振り回してくる。突然、彼のスタイルが荒っぽくなった。パンチに力が入っている。固い動きだ。
固い動きはカウンターがとりやすい。また潜り込んできて、ボディ。カウンターで右のストレート。また綺麗に入った。すこしぐらつきながらも彼はさらに潜り込んでくる。またクリンチだ。打ったストレートの手を残して、彼の頭を押さえた。彼はその手を払ってまで、クリンチにきた。
やれやれだ。こんなことして、なんになるんだろう。この距離ではパンチはほとんど打てない。前進する力がなければパンチに威力は生まれない。足を止めて打つパンチはさほど怖くない。少しの、油断があった。
ここだ。ぼくはクリンチに来られて、油断してしまった。気を抜いてしまったのだ。問題点は見つかった。次はもう、あんな手はくわない。ぼくは成長した。
シャワーを浴びて帰り支度をする間、ぼくはちょっとにやついていた。
楽しかったからだ。部活動も悪くはない、と思っていた。
体育館を出ると、部長とその妹が待っていた。
「遅えぞ」
部長が言った。
「待っていたんですか?」
「そうだよ、ちょっと話しながら帰ろうぜ。時間いいんだろ?」
「別に、帰るだけですから」
こうして、ぼくら三人は一緒に下校することになった。やっぱりぼくは流され続けているような気がする。部活に入ったのも、スパーリングをさせられたのも、試合をさせられるのも、一緒に帰ることになったのも。
ぼくらの通っている高校はすぐ前に川が流れている。川には橋が架かっている。この地域は埋め立て地で、毎年わずかではあるが地盤沈下であちこちが沈んでいる。ぼくらの高校も、橋も、それからぼくの住んでいるマンションも。
橋を渡ってすぐにマンションの建ち並ぶ地域がある。同じような白い建物が並び、その隙間をぬうようにつくられた公園。それから何軒かのスーパーに郵便局。ぼくは子供の頃からこの地域に住んでいる。高校はここから一番近かったから、そこに決めたまでだった。それもやっぱり流されているってことなんだろうか。
部長も、その妹も、橋を渡りきったのに、口を開かなかった。
「あの、ぼくの家すぐそこですけど」
「いや、おじゃましたりはしないよ」
部長は慌てて答える。
なんだか勘違いされた。どうやら、ぼくが話を始めないといけないらしい雰囲気。
「話ってなんですか?」
部長は妹と顔を見合わせる。こうして見ると似ているような、そうでもないような。目つきの感じは似ている。あとは、口元とか。
「あぁ、悪いな、今日は色々と」
「どのことですか?」
「いや、木村がさ」
「そのことはもう解決しましたよ」
そうなのだ、もうその問題は解決した。他にも彼が何であんなことをしたのか、とか問題はあるのだろうけれど、所詮は他人事だ。ぼくに分かるわけがない。彼にはあの行動を起こさせる、彼なりの理由があったんだろう。ぼくには理解できないだけの話だ。考えても無駄なので、そのことは保留にしてある。明日には忘れているだろうけど。
「何年ぐらいやってんだ? 誰かに習ったのか?」
部長はジェスチャーでパンチを打つ。きっとボクシングに関する質問だと解釈する。
「二年ぐらいですか。誰にも習ってません。本は読みましたから現行のルールは知ってます」
「我流かよ。よく試合に出させてもらえたな」
「ルールは破ってませんから」
「あんな試合してたら何か言われるだろ」
「えぇまぁ」
話はそこで途切れた。部長は、ぼくが言われた何かを聞きたかったのかも知れない。だけど、そういう質問をしたからには、だいたいは推測できるだろう。
試合は、確か五試合ぐらいしたと思う。
最初の二試合は覚えている。鮮明に。審判から受けた注意も、試合後に受けた誰か知らない大人からの忠告も。
要するに、ぼくが従来のボクシングを遵守していないのが問題なのだろう。それから審判に受けた注意は手数が少ないことだった。他のみんなは当たろうと当たるまいと手数を出している。ラウンドの終わり間際には元気良くラッシュをかけたりする。もう試合後はへとへとになるぐらい。でも実際に当たっているのはわずかだ。
ぼくはカウンターを狙っている。確かに一試合目はそれを狙いすぎて手数が少なかった。相手のパンチを引き出すためには試合のリズムを作る必要があることも学んだ。こちらが打って、あちらも打つ、こちらが引けば、あちらも出る。そんな簡単なことだけど、試合をしないと分からないことだった。そう、最初の二試合は発見が多くて、新鮮な喜びに満ちていた。
ぼくが忠告を聞いていないように思ったのか、知らない大人からは特には何も言われなくなった。審判からは注意を受けないぐらいに手数を出すようにした。
「あれって何か意味あんのか?」
「どれのことですか?」
「お前のさ、姿勢って良すぎるよ。ボクシングっていうよりは何か、こう空手とか合気道みたいな。それからパンチもなんか変なフォームだし。腕が伸びきってないんだよ、あれじゃ威力でないぜ」
「そうですか」
ぼくはどっちも詳しくないので分からない。だけど、空手も合気道も昔からある戦いの技術なのだろうから似ている部分があるのは不思議じゃない。パンチのフォームが変なのは腕と背中と体重の移動との関係があるからだ。体重移動の終わりとパンチの打ち終わった瞬間は厳密に一致している必要がある。そうしなければパンチに体重がのらず、相手を崩す力が出ない。その瞬間はほんの一瞬なので、腕が伸びきっていないように見えるのかも知れない。
「ボクシングの試合っぽくないんだよ。相手が、すごいやりづらそうなんだよな」
「相手のやりやすいようにするのがボクシング?」
「いや、そうじゃなくて。相手に嫌がられるだろ」
「相手の嫌がることってなんでしょう? 殴られることですか? それとも負けること?」
また会話が途切れた。こういう所も相手に嫌がられるんだろう。ボクシングも会話でも、ぼくはきっと色んな人に嫌がられる。その度にぼくは少し傷つく。
ぼくは自分のマンションの前で別れた。部長たちは、来た道を引き返して行った。どうやら、彼らの帰り道は逆だったようだ。
ちょっと悪いことをしたかな、と思った。
そういえば、丘野香織は一言も喋っていなかった。
ぼくは自分の家の部屋がある階までは階段をつかう。エレベーターは使わない。八階まで自力で上る。階段を上り下りするのは、とても面白い。駅やデパートなんかで階段を上り下りする人を見ていると、共通の特徴がある。上るときも下りるときも、人は一段踏み終わるごとにわずかだが上下に揺れる。歩くのを後ろで見ていても面白い。一歩ずつ、わずかな上下左右の揺れがある。
ボクシングでも一緒だ。見ていると分かる。一歩ごとに、上下に、左右にも揺れる。わざと自分で揺らしていることもあるだろうけれど、それ以外にも、揺れはある。自分が意識していようといまいと、揺れている。
人間はとても不安定な生き物だ。肉体も、感情も。二本足で立つ、歩く、走る。そのどれもがバランスをうまくとることで成り立っている。四本足の動物とは比べものにならない不安定さ。机や椅子の足が二本だったら、座ったりはできないだろう。それと同じだ。そして感情も。机や椅子みたいに、じっとはしていない。
家の鍵を開ける。両親は共働きで留守だ。自分の部屋に入り椅子に座る。四本足の。今日の出来事を思い返す。練習。スパーリング。切れた目尻。痒みを感じる傷口。帰ってきた両親は心配するだろうか。
朝起きて、鏡を見た。傷口は塞がっている。腫れてもいない。もう痒みはなかった。鏡の前で両手を顔の前に出しファイティングポーズをとる。この姿勢をとらないと審判に注意される。競技を行うという意志を表しているのだそうだ、こんなポーズが。このポーズのどこに闘う意志が感じられるのか、未だに分からない。顔の前に出された両手。それで何を表現しているのだろうか。
ぼくのファイティングポーズはもっと手が低い位置にある。本当は腰の位置までだらりと下げたいのだけれど、あんまり下げていると注意されるので、胸の位置ぐらいで止めておく。そこからパンチ。左のパンチを打つときは左足が前に、右の時は右足が前に出る。カウンターのコツは自分の体勢を崩さないことだ。お互いがパンチを打ち、そしてぼくだけが打ち勝つには自分から体勢を崩すようではいけない。体をよじったりひねったり顔だけよけたり、そんなことをしてはいけない。仮にそんな崩れた体勢でパンチが当たっても、相手を崩すまでには至らない。もしかしたら、自分が崩されてパンチを受けてしまうかもしれない。だから自分から崩れない姿勢が必要。それから相手を崩すための腕の角度。
ぼくは鏡に向かって、パンチを打つ。一発ごとに少し足を踏み込む。この踏み込みが大事だ。距離が短くても、腕だけで打ってはいけない。それは体重があれば効果があるパンチかも知れないが、ぼくのような体型の人間には効率が悪い。あくまで自分の体重とそれが移動する力を拳にのせなくては威力が生まれない。
ぼくは中学の物理で習った作用反作用の法則を思い出す。パンチが当たる。ぼくの拳はその対象物に与えた同じだけの衝撃を受ける。その衝撃は拳から肩、背中、腰や首に広がる。何度も続けていたら、体を壊すだろう。それを緩和するためのグローブであったり、バンテージであったりする。しかし本当にそんなものが必要だろうか?
この辺は、まだまだ考慮の余地がある。
昨日の部長の言葉を思い出す。姿勢が良すぎる。嫌がられる。
それは確かにそうだ。勝つためには相手に嫌がられることをするのが当然だろう。それに文句をいうような競技者は、競技をする資格がない。相手だってぼくの嫌がることをするだろう、きっと。
昨日のスパーリングを思い出した。木村くんとの。彼も、ぼくの嫌がることをしようとしたんだろう。もしかしたら、次にやった時に、ぼくが必要以上に警戒するかも知れないと、そこまで考えたのかも知れない。だけど、ぼくのボクシングには、もうあの手は通用しない。ぼくは昨日のぼくよりも成長した。毎日、成長したいけれど、そうもいかない日もある。だからたまに成長した実感があると、ぼくはとても嬉しくなる。
今日も部の練習には参加しよう、と思った。また何か発見があるかも知れない。
そういえば、練習試合の日はいつなのだろうか。聞いていなかった。次に部長に会ったら聞いておかないと。
「今週末だ」
部長は、それだけ答えた。機嫌が悪いようだった。
「土曜?」
「日曜だよ。向こうの高校まで行くからな。空けておけよ」
「はい」
どちらにしても、日曜日にすることなんて勉強かボクシングぐらいしかない。友達もいるけれど、休みの日にまで会って遊ぶような奴はいない。
「おまえな、知らないだろうけど、相手の高校、レベル高いぞ」
「はぁ」
「有名な奴がいるんだよ。テレビの企画かなんかでタイまでいってボクシング留学みたいのやってた奴が。見たことないか? チャンピオンにスパーリング頼んだりしてたの」
部長は、ぼくの知らないチャンピオンの名前をあげた。銀河系を想像するような名前だった。一度聞いただけでは覚えられない。ぼくは人の名前を憶えるのが苦手なんだ。日本人ですらままならないのにねえ。
その日は練習の前に、部長から練習試合の説明があった。みんな、あんまり乗り気じゃないみたいだ。緊張もしているようだった。まぁ、無理もないと思う。試合なんか今までしたことないんだから。
ぼくだって初めての試合は緊張した。自分なりに立てた仮説が覆されるのは怖くなかったけど、自分の思った通りに体が動くか、それが心配だった。一度で慣れたけれど。
練習試合には一応、みんなが参加するようだった。それはそうだ。部員の数はこちらは五人程度、向こうは有名な高校らしいからそれ以上はいるんだろうし。
「おれ、けがしちゃうかも」誰かが言って、それに笑いが起こる。
それは試合でだろうか。それとも練習中にだろうか。
その日の練習はみんな動きがぎこちなかった。部長も動きが固かった。八城も、なんだか真面目ぶってシャドーなんかやってる。木村くんは来ていなかった。
ぼくも真面目に練習をやってみた。ロープスキッピングと呼ぶには程遠い、小学生の時以来となる縄跳びもやってみた。サンドバッグも叩いてみたし、練習後には腹筋や腕立て伏せなんかもやってみた。感想は、やっぱり無駄なような気がする。汗はかくし、筋肉に疲れは溜まるけれど、あんまり意味が感じられない。
やっぱり次からは自分の練習をしようと、改めて思った。世の中には、間違ったこともやらないと正しいことが分からない、なんて言う人もいる。それはある面で正しいとも思う。はじめから正しい人間なんていないだろう。あとから考えてみて、間違っていたと分かることだってある。だけど、間違ったことを、間違ったことと思ったままやるのは苦痛でしかない。自分にとって正しい道筋が見えているのに、回り道をしなければならないのは辛いことだ。もちろん、今のぼくには何が正しいかなんて分かっていない。だけど、ぼくには理想とするボクシングがあり、それに向かっているのは確かだと思ってる。
そうでなきゃ、練習なんて楽しくないと思うんだけどなぁ。
今日も体育館を出ると待っている人がいた。部長はいなかった。その妹だけだった。
「遅いよ」
「待ってたの?」
「ん、ちょっとね」
「なに?」
「歩きながら、話そう」
ぼくは、帰り道に向かう前に聞いてみた。
「君の帰り道ってこっちだった?」
丘野は驚いたような表情を見せた。改めて見ると、表情がよく変わる、しかも分かりやすい。怒っているのも、喜んでいるのも、笑っているのも、驚いているのも。でも、もしかしたら表情とは別の感情があるのかも。考えすぎだろうか。
「いや、ちょっと買い物があるから」
「ふぅん。部長は?」
「みんなとミーティング」
「あぁ、そう」
会話が続かない。ボクシングだったら、審判が注意をしているだろう。仕方がない、相手の距離で闘うのがぼくの流儀だ。
「話って、何?」
「あ、あのさ」
「練習試合のこと?」
「ん、いや、いいや」
「なにが?」
「今日はやっぱ買い物いいや。もう帰るね。じゃあ」
丘野は早口で言うと、行ってしまった。
なんだあいつ。