ぼくはぼくさ(1)
ぼくは。
こういうのは、やめておこうか。いや、まぁいい、とにかく話を始めよう。
ぼくはボクサーだ。洒落ではなく。
どういうわけだか、そういうことになってしまった。
ぼくの人生(といってもまだ二十年に満たない)をかいつまんで紹介しても面白いところなんかまったくないし、振り返ってみると、ほとんどが成り行きに任せたままの人生だった。たいていの人がそうであるように、ぼくは自分の生い立ちにも育ちにも何の疑問を持つこともなく、そのまま成長して、どうにか今に至っている。
ぼくはそういうどこにでもいるつまらない子供だ。とはいえ、大人になるちょっと手前の、どっちつかずの不安定な時期でもある。
それを青春なんて言葉で美しく飾ることもできるし、思春期なんて言葉で締めくくることだって悪くない。
そんな自分の人生を思い返してみて、それからこの後何十年か続くだろう自分の人生を想像してみて、そういう気分の所に、ちょっとしたきっかけがあり、なぜだかボクシングなんて始めてしまったわけ。
きっかけは、本当に些細なことだった。テレビをぼんやりと見ていると、時々はボクシング中継なんてのがやっているよね。特に他に見たい番組がなかったんだろう。チャンネルも変えずに、そのままにしていた。
その時、カメラは控え室を映していた。生中継らしく、カメラは慌ただしく揺れながらもベンチに座る選手に向かう。そして試合前の選手のインタビュー。
「今日は、命をかけて闘います」
そんなことを言ってた気がする。アナウンサーはその選手を、武士道とか侍とか言って持ち上げていた。その選手は最近まで網膜剥離で引退も考えていたらしい。手術をして、そして復帰を果たした。その第一戦目だった。
やがて試合は始まり、その選手は負けた。悲壮感をたっぷり漂わせて試合内容を伝えるアナウンサー。頑張れぐらいしか言わない解説。場違いなラウンドガール。何ラウンドやっていたのか数えてないから憶えていないけれど、その選手は判定で負けた。
顔の形は盛大に変わっていた。瞼が青黒く変色して、頬の辺りまで垂れ下がっているように見える。その目があると思わしき隙間から涙が流れ落ちていた。それから鼻血混じりの鼻水。血だらけのバンテージを巻いたまま、マイクを掴み、涙声で観客に謝罪をする。引退する、とも言っていたかも知れない。そんなのを聞かされて対戦相手はどんな気持ちだったろうか。
そして、ボクシング中継は終わった。クイーンのウィーアーザチャンピオンかなんかが流れた。もう感動しろと強要されているような終わり方。
ぼく? ぼくは別に。なんとも思わなかった。
いや、一つだけ疑問に思ったことがあった。そう、これが、ボクシングを始めた理由だ。
なぜ、こんなに殴られないといけないのか。
ボクサーは毎日練習する。しかもハードな。それはなんのためだ? もちろん試合に勝つためなんだろう。お互いが、お互いに勝ちたいと思って、相手より多く、より強くなるために練習をする。そして結果がこう。
ぼくはボクシングの練習に疑問を持った。なぜ、これほどの時間を練習に費やして、それでもこれだけ殴られてしまうのか。網膜剥離になってしまうくらいに。
ぼくのその時の結論はこう。従来のボクシングの練習法には限界がある。この練習を続けていても、こういう結果しか生まれない。
では、どういう練習が、その限界点を突破できるのか。
その研究のために、ぼくはどういうわけだかボクシングを始めてしまった。
といっても、ぼくはどこかのジムに通っていたり、それから学校のクラブ活動なんかでやっていたりするわけじゃない。まったくの独学。いわゆる我流というやつでやっている。
もちろん、ボクシングのルールはわかってる。それについての本は色々と出ているし、トレーニング方法だってご丁寧に紹介してある。できることからできないことまでね。
ぼくはジムに通ってまでして人に尻を叩かれながらやりたくなかったし、部活動なんて人間関係の面倒な場所ではやっていけないだろうと思った。それに、ぼくがやりたいことはボクシングジムではできないだろう。厄介者扱いされるのがおちだ。だいたい、部活動がやりたいわけではない。ぼくがしたいのは研究だ。
そんな理由から、ぼくは一人でボクシングをやっていた。
当然だけれど、一人でやっていてもそれほどは面白くない。なぜってボクシングっていうのは、試合をする相手がいてはじめて競技としてなりたつスポーツだ。一人で殴りっこはできない。していたら、それはちょっと痛々しい。
ここで、おおよその紹介。ボクシングってのは二人の人間が一つのリングの中で殴りあいをして、勝った負けたを競うスポーツだ。その歴史はちょっと古い。スポーツとして認知される前のことを考えたらもっと古いんじゃないだろうか。
まず、ぼくが考えたのはここだ。なぜ、拳で殴りあうのか。もちろん人間は戦ったり、争ったりもする生物だ。知的なね。それがわざわざ、なぜ拳のみで殴りあうのか。
世界にはたくさんの格闘技ってやつがあるね。それをざっと見てみても、拳だけを使って、ただ殴り合うってのは珍しい。組み合ったり、蹴ったり、投げたりと、相手を傷付ける方法はたくさんある。手の使い方だって拳を固める以外にも色々とある。チョップやビンタや目潰しとかね。どれもされたくないけど。
と、それだけの選択肢があるはずなのに、どうしてボクシングは、二つの拳だけを使用して、その打撃の対象を相手の腰より上のみに限定しているのか。
そういう理由からボクシングは制約、ルールが多くやってはいけないことが多いように見える。けれど実際にはそんなことはない。
リングという四角い空間の中でなら、どこで相手を殴っても自由だ。これは制約ではない、自由を産み出すための限定された空間だ。
ぼくの拳はときどき、人を叩く。それよりももっと少ない数の拳がぼくの顔や腹を叩く。ごくごく少なめに。
その数の差が、だんだんに広がり、やがて相手は倒れる。倒れなかったとしても、ぼくと相手の当たった拳を数えている人間が何人かいる。その人たちが、ある種、公正に勝敗を分けてくれる。
だけど、ぼくはそんな勝敗に興味はない。それは一時の気の迷いのようなものだ。日々の体調や精神的なもので相手もぼくも常に変化している。それに運だってあるだろう。それによって勝つときもあれば、負けるときもある。そう、それは人生だってそうだ。ボクシングはラウンドを決めることで、その人生の浮き沈みを切り取る。
そして、たいていの人間は勝ちばかりを望むものだ。負けるのは嫌だ。屈辱的だ。なんて考えをもつ。まぁ当然だと思う。そういう人情はすごくよく分かる。みんな自分だけが飴をなめて生きていきたいと思うだろう。そう、自分だけはそれに値する選ばれた人間なんだって考えて、誰よりも練習する。そういう感情は誰でも多かれ少なかれあると思う。
しかし現実はこうだ。勝つときもあれば負けるときもある。勝つだけのボクサーはいない。本当だ。もしいたとしても、それは試合の記録だけのこと。
毎日、ボクサーは闘ってる。なにと?
一番分かりやすいのは、相手のいる試合だけどね。
ゴングが鳴る。けたたましく鳴る。ヘッドギアをつけているから、それほどうるさくはない。対戦相手は対角線上のコーナーにいる。ぼくのグローブは赤、相手のグローブは青い。あの青い塊はぼくの顔や腹を目指して飛んでくる。ただそれだけのことしかしてこない塊だ。ぼくはそれを知っている。ぼくはそれを確認して安心する。そして、あの青い塊には、それを操る大元がいる。そいつを倒せば、青い塊はぼくに危害を加えなくなる。やることはなんだ?
相手を倒すことだ。
相手はむやみに突っ込んでくるようなタイプじゃなかった。ある程度、近付くと距離をとってから牽制のジャブを数発。なかなか軽快なリズム。微妙に高さや角度、距離を調節して放ってくる。だけど、どれもぼくには当たらない。程遠い距離。
頭の中で秒数をカウントする。もう五十秒ほど、こんな牽制を続けている。長すぎる。ぼくはアマチュアの試合だとジュニアに属する。試合時間は二分三ラウンドしかない。
ぼくは相手との距離を縮めた。これなら相手のパンチは届く距離。だけど相手は更に距離を広げた。
つまらない奴だ。負けるのが、殴られるのが怖いんだ。怖さを知ることは勇気につながるかも知れないけれど、こいつのはただの臆病だ。
殴られるのは、ぼくだって怖い。誰だって怖いはずだ。だけど、ぼくが相手を殴るためには、相手のパンチが当たる距離に入らなければならない。こいつはそれも怖がっている。距離をとって、自分だけのパンチが当たればいいのに、なんて考えのしみったれだ。
ぼくは更に距離を縮めた。相手が距離をとろうとステップをする、それをすぐに追う。逃げ腰で打つパンチはさほど怖くない。腰が引けていて手も伸びきらない。どのパンチもぼくの数センチ前で勢いを失い、軽いパリングではたき落とされる。
ぼくが一番好きなのは、カウンターのパンチだ。ボクシングの本にはカウンターの取り方が幾つか紹介されている、写真入りでね。あんなのは幾ら読んでも、練習しても大抵、役に立たない。カウンターっていうのは、そういう教科書で読んで覚えられるようなものじゃない。
カウンターこそがボクサーの技術の集大成だとぼくは思う。どんな場所に打ってきても、どのタイミングで打たれても、カウンターをとれる。ぼくがなりたいのはそんなボクサーだ。
ぼくには、ぼくのカウンターがある。これはぼくだけのオリジナルだ。これはどのボクサーとも違う。そこが研究の成果とも言える。
相手の青い右拳がフック気味に飛んでくる。その瞬間を見逃さない。カウンターのコツその1だ。絶対に相手から目を離さないこと。見るのは相手の両の拳、それから相手の顔。
フックはぼくの左の頬のあたりを狙って飛んでくる。その瞬間、彼の顔のガードを担当するのはもう片方の拳だけ。右の拳が稼働中なら、右の頬を守るのは誰か。ぼくはその隙間にストレートを打ち込む。そのままだと距離が詰まってしまって威力が出せない。だから、踏み込む前足を少し、後ろへ下がり気味に着地させる。
スパン、と小気味のいい音がして、相手の顔にぼくの拳がヒットする。でも、ヘッドギアもしているし、今のは距離が詰まりすぎていて力が乗り切らなかった。ダウンはせずに、少しよろけただけ。
相手は、びっくりしたようにバックステップで急いでぼくから離れ、その後、亀のように消極的になってしまった。
パンチを打たない相手からはカウンターはできない。
コーナーに詰まらないよう、ぐるぐるリングを回る相手を追いかけるのは面倒だ。
ぼくには、相手を一発でダウンさせるパンチもない。速くもなければ強くもない。せいぜい頭を使うことができるぐらいだ。
結局、この試合には判定で勝った。でもそれだけのこと。
ぼくには、それだけのことだったので、もうやめることにした。
試合をしなくなったボクサーは、何のためにトレーニングをすればいいのだろう。
などと考え込むこともなく、次の日からぼくは練習を開始した。新しい理論に従って。もともと、ぼくは試合をするために練習をしているわけじゃない。強くなるためだ。試合はぼくの強さを相対的にしか計ってくれない。
さて、ぼくの練習はさらに無駄がなくなった。ぼくは走ったりしない。重い物を持ち上げたり、縄跳びをしたりもしない。腹筋すらしない。サンドバッグもパンチミットもメディシンボールも必要ない。三分間を計ることもない。
ぼくがするのは、シャドーボクシングだけだ。これはとても効率が良い練習方法だ。ある程度の広さがあれば、どこでもできる。恥ずかしさを感じなければ、本当にどこででも。
学校の休み時間にだってできる。帰り道の途中でふと思い立ってすることもできる。近所の腕自慢にからまれたりしないように周囲には注意を配ってね。それから家の中でもできる。自分の部屋でもできる。一畳か二畳ぐらいのスペースがあれば、充分。下の階から苦情を言われることもない。静かに、ゆっくりとやるからだ。
速くやる必要はない。強く踏み込む必要もない。あちこち動き回って無駄に汗をかく必要もない。必要なのは、しっかりと相手のパンチを見て、それにパンチを合わせることだけ。カウンターを。
もちろん、こんなことをしていると、誰からも馬鹿にされる。到底ぼくの練習はボクシングをやっているようには見えない。まるで朝の公園で老人がやっている太極拳みたいだって思われる。ぼくもそう思っている。
しかしぼくには、思いもつかない。他の練習方法が。
「おじいちゃんみたい」
こういう感想には慣れているつもりだったけれど、やはり少し傷つく。同学年の女の子に言われれば尚更。
ぼくだって、健康な高校生だから、女の子の評価は、多少は気になる。その評価がこうだと、少しは落ち込む。
ぼくは動きを止めて、その女の子のほうを振り向いて言った。
学校の屋上は風が強く、聞き取りづらいと思ったから、少し大きな声で。
「なにか用?」
そのせいで、少し言葉がとげとげしくなったかも。まぁいいか。
「なにしてんの?」
彼女は言った。彼女は同じクラスの丘野だった。名字しか覚えていない。
「ボクシングだけど」
ぼくは答える。
「それ、ボクシングだったんだ。時々、見かけて変な踊りかと思ってた」
「そう、ボクシングだったんだ。ぼくも時々、変な踊りと間違える」
「試合とかするの?」
「もうしない」
「負けたの?」
「負けたことはないけど」
「じゃあ強いんじゃん」
「いや、強くない」
「でも勝ったんでしょ?」
「勝ちと強さは、あんまり結びつかないよ」
「ストイック?」
「創始者はゼノン」
彼女はため息をついた。
「あんたの言ってること、全然分かんない」
「ぼくも君の質問の意図が、よく分からない」
「じゃあね」
ぼくが「じゃあ」と言う前に彼女は背中を向けて階段を降りていった。
ぼくは屋上で、シャドーボクシングの続きを始めた。
相手の右に左のカウンターを合わせたところで、さっきの彼女は何が言いたかったのか考えてみた。
答えは出なかった。
そう、話しかけられることは結構ある。人目を気にしてはいるけれど、集中していると、途中であまり気にしなくなってしまうから。
変な目で見られるくらいならまだいい。さっきみたいに話しかけられたりするのは、練習の邪魔になる。何が楽しくて、ぼくなんかに話しかけるのだろう。
一応はボクシングの真似事をしているように見えるらしく、にやついた笑いを浮かべて話しかけてくる人もいる。たいていは男だ。
君、あんた、おまえ、ぼく、呼び方は色々だ。で、だいたい最初の質問は「なにやってるの?」。ぼくは「ボクシング」と答える。まず、ここまでがワンセット。
その後は様々だ。「おじさんも昔やっていたんだよ」「知り合いにもやっている人がいる」「プロが友達にいるよ」「どこかジムに通ってる?」「走ったりするんだ」「若い人はいいねぇ」「頑張って下さい」などなど。
一番多い質問が「強いの?」だ。
見れば分かると思うんだけどなぁ。
「強くありません」ぼくはそう答える度に少し傷つく。ぼくが強くないのは事実だから仕方がない。だけど、そういう人間にわざわざ、言わせることもないだろう。
強くないから、強くなりたいから練習をしているんだ。彼らにはそれが分かっていない。だから平気でそんな質問ができる。平気で人を傷つける。
ぼくはシャドーボクシングを続ける。そうしているうちに傷口の痛みは、綺麗になくなる。
「おまえ、ボクシングやってんだってな?」
こんなこともある。
ぼくの目の前にいる威圧感たっぷりの、でっかい壁は、実は壁じゃなくて一学年上の先輩だ。名前は知らないけど、体格が良くて目立つから知っている。全校集会とかでも、頭一つ出てるからね。
廊下の真ん中で、道をふさいで、下校するぼくが教室から出てくるのを待っていたようだった。でも、ぼくには話しかけられる心当たりがまったくなく。
「はぁ」
と、曖昧な返事をしてしまう。
「どっちだよ?」
先輩は、そんなぼくの態度に苛立っているようだった。
「やってます」
「どこでやってんだ。なんでウチの部活でやらねぇんだ」
「どこでもやってますけど。ウチにボクシング部ってありましたっけ?」
「おれが部長だよ」
「あ、そうなんですか」
「おまえ、なめてんのか」
いつも通りのぼくの態度のせいか、部長とやらは突然怒りだした。
「ちょっと、つらかせや」
ぼくは言葉の意味を読みとろうと考える。きっとどこかに顔を出して欲しいということなんだろうと解釈した。
「はい、いいですけど」
そんなわけで、ぼくはボクシング部の部室とやらに初めて顔を出すことになった。
ウチの学校にボクシング部があるのは本当に知らなかった。そもそも、部活でボクシングをやる気はなかったし。試合に出るときはウチの高校の名前を出していたけれど、それはぼくだけだったはずだ。それに学校の設備にリングもサンドバッグもなかったと思うけど。
校庭の外れにある部室棟の中頃、汚い落書きとポスターとシールで元の色が分からなくなっているドアを開くと、そこにはサンドバッグが転がっていた。棚にはあまり手入れのされていないらしい傷んだパンチングミットやグローブが雑然と並べられている。薄汚れたバンテージなんかも吊されて干されている。汗のすえた匂いが鼻をついた。
「まぁ、座れや」
ぼくは、どこに、と聞こうと思ったがやめた。座れるような場所は一カ所しかなかった。ぼくは、錆が浮き、クッションの切れ目からスポンジのはみ出たパイプ椅子に座る。軋む音が耳障りだった。
「体重は?」
急に聞かれて、答えに詰まった。ぼくは普段から体重なんか気にしていない。どの階級でも構わないって思っていたからだ。
「多分、五十四キロぐらいです」
「やせてんなぁ」
「そうですか」
「まぁ、いいや。試合に出てるんだってな。強いのか?」
まただ、またこの質問だ。
「強くはないですよ」
「戦績は?」
「いちいち覚えてないです。負けたことはなかったと思いますけど」
「へぇ、強いんじゃん」
「だから強くはないですって」
「そんぐらいにしとけよ。おまえ、ウチの高校の名前出して試合出てんだろ」
「はい」
「それってどういうことか分かってる?」
「いえ」
まぁ、つまりはこういうことらしい。僕は別にボクシング部だと言ったつもりはないのだけれど、ウチの高校のボクシング部の代表として今まで試合をしていたことになっているのだそうだ。それで、そんな話は知らない部長さんが顔を潰されたと思って怒っている、と。でも、ぼくは校長先生には許可を得ているし書類も書いてもらったんだから、それでいいんだろうと思っていた。ちなみに後で聞いたら、ウチのボクシング部にはとても試合に出られるようなレベルの部員はいなかったそうだ。練習も不真面目。部員も何人いるのかよく分かってない。それなのに対外的な評価がぼくのせいで上がっていて、不思議だったのだろう。
それで部長の怒りを解決するためにはどうしたらいいのかと聞いてみたら、しごく簡単だった。ぼくに他校との練習試合に出てほしいんだそうだ。と言っても、その他校だって、ぼくがボクシング部にいると思って申し込んできたんだから、ぼくが出るのは当然だろう。慌てたのは部長さんや他の部員で、それでぼくのことを探していたそうだ。よく見つかったね。
でも部長さんの名前を聞いて、なるほどと思った。丘野勝幸。屋上で話をした丘野の兄だった。
また、試合に出ることになった。
申し込んできた他校の名前には、まったく覚えがなかった。
やれやれだ。またトランクスとシューズを引っぱり出してこないと。もしかして、練習もみんなと一緒にやらないといけないのだろうか。
それだけは考えると不安になる要素だった。