三
彼女の家を尋ねてからもう既に数週間たとうとしていた。最近では季節は冬だと宣言しているかのような北風が登下校中の僕を縮こませている。同様に僕の小説の方も冬眠をしているのかと見紛うほど進んでいない。
それは僕のモチベーションや時間だとかの理由ではない。単純な話、書く題材がないんだ。
他人事じゃ泣けない彼女の為、最近の小説のほとんどは彼女を起点として起きたことを題材にしていた。それ故また新たに小説を書くには彼女からインスピレーションを得なければいけない。
ただ最近は彼女も暇ではないらしい。この数週間、僕の方から声を掛けても用事があるとしか言わない。しかもその用事とやらが友人に勉強を教えるだの委員会の雑務だの。まとめて言えばそれら全部が慈善活動だ。
僕はそれに対して波風立った感情はなく、ただ理解が出来なかった。何故僕にあれほど泣かせてくれと頼んだのに彼女はそれに協力的じゃないのだろうと。本来なら友人も学校も捨てていい問題じゃないのか? その慈善活動は君の言う『人間でいるため』に必要なものなのか?
一昨日断られた時、僕はそれを口にしようとして諦めた。今、必死に彼女を振り向かせようとしている自分を客観的に見た時、酷く滑稽に映ったからだ。
彼女と距離を置くこととなった数週間は僕を正気に戻すには十分すぎた。孤独と無為な時間は好きだが、必然的に自分を見つめる時間が増える。そうすると今まで目を背けていたことがどんどん浮き彫りになっていく。自尊心を薄めて、今手に残ってるのは誰かさんのぎこちない微笑のせいで価値の無くなった小説だけ。自愛を忘れ、自己嫌悪に陥っていく。彼女の姿を模倣しないと何も満足するものが書けない。寝る間も惜しんで書いた小説にさえ一寸の価値も与えてやれない。
そんな様に自己否定ばかりしていると毒が溜まる。吐き出そうと部屋を見渡す、目を付け手を伸ばしたのはボロボロの手帳。嗚咽しながら日が落ちたことも気づかずプロットを書く。毒が尽きて書いたプロットを眺める。酷く汚れて中身のない言葉に嫌悪する。
万策尽きた僕はまた先生に頼ることにした。何度も何度も情けなく思うがいつまでもこうして暗い部屋で頭を抱えている訳にもいかない。週末、恥を忍んで先生の部屋の前まで足を運んだ。
実際先生は現役の小説家で、これまで沢山の小説を書いてきただろうからアイディアの引っ張り出し方もいくつか持っているだろう。問題はそれを教えてくれるかどうか。
一抹の不安を抱いてドアを二回ノックした。数秒後奥から先生の声が聞こえて中にはいる。
薄暗い廊下を抜けて見慣れた六畳に出た。先生は相変わらず机に向かって小説を書いている様子はなく、座椅子に背を預け小説を読んでいるようだった。僕の姿を横目に入れると「いらっしゃい」と笑った後、机の上から青い花が描かれた栞を取ってページの間に挟んだ。僕は挨拶代わりにその栞について触れてみた。
「綺麗な栞ですね」
すると先生は少し嬉しそうに閉じたばかりの本を開けて、その栞を僕の目の前に差し出して言った。
「いい絵だろう。勿忘草って言うんだ」
僕はそう説明されてからまた栞を眺めた。色鉛筆で描かれた勿忘草は儚く消えてしまいそうな青色の花とそれを支える茎や緑葉のコントラストがとても美しかった。絵自体の完成度はプロが書いたそれと差異ないだろう。というのもこの栞、見たところ勿忘草が画かれた画用紙を透明なフィルムで挟んだシンプルなものらしいのだが、そのフィルムの縁が綺麗な直線でなかったり画用紙とフィルムの間に気泡が入っていたりなど市販品らしからぬ不器用さが窺えるのだ。
「もしかしてこの栞、手作りですか?」
「ああ。実はこの絵は貰い物なんだよ」
この時、僕は栞を見つめる先生の目に哀の影を見た。気がした。笑顔しか見せない誰かのせいで過敏になっているだけかもしれない。
「私はもとより本を読むのが遅くてね、数週間経って本を開けると内容をよく覚えていないなんて事が珍しくもない。それを、知り合いに話したら読んだ内容を忘れないようにという意味と読むことを忘れるなという戒めを込めて勿忘草を紙に描いてくれたんだ。その絵を私が栞にした」
少し不格好だがね。先生は恥ずかしさを隠すように笑って栞を本の間に戻した。先生は相変わらず、その絵を描いた人が誰かを話さない。また一人、僕の中で先生に関わりのある人間の蜃気楼が増える。前に聞いた亡くなったという友人の話も相まって僕はさらに肥大化した好奇心が空腹だと口を開けて暴れ出すのを感じ始めた。それは聞いたら先生を困らせるとか空気を重くするとか、まどろっこしい理性を忘れさせて、好奇心を満たすためだけに口を動かせようとする。そこから流れを変えてくれたのは自我ではなく、先生の言葉。
「今日はどうしたんだい。ふらっと寄ったわけじゃないんだろう?」
僕は浅い眠りから覚めた時のように体を震わせた。そして口の中に残る言葉に気づくと急いで腹の底に押し込める。幸い先生には気づかれていないようで僕も何変わらない振りをして「そういえば」なんてぎこちなく話を切り出した。
「最近どうもこれだって言うアイディアが浮かばなくて。先生はどうやって小説のアイディアを出しているのか聞きたいんです」
「それは蒼汰、人それぞれだから私の話を聞いたって参考になるものは無いかもしれないよ?」
僕は無言で頷く。一切引こうとしない事を先生も分かったのだろう、苦笑いの後に話を始めた。
「そうだね、私の場合、美しい物を見に行くかな」
「美しいものですか?」
「ああ。例えば春なら桜散りぬる河川敷に、夏なら人気の無い公園のベンチで蝉時雨に浸かる。そうしていると心と脳が満たされるんだ、なら後はその感情を言葉にするだけ」
「なる、ほど」
「試しに想像してごらん。蒼汰も桜を見た事くらいあるだろう? ならいくらだって脳内に景色を作れるさ」
正直まだ先生の話を理解できていない節があったが、言われたからには早速想像してみる。桜散りぬる河川敷、地面が見えないくらいに積もった花びらの上に僕は立っている。散った桜の木に青々しい葉が付いているのが見える。
脳内で立体感を持たせるために過去、僕の目で見た桜を引っ張ってきて景色を作った。実際に見るものよりは見劣りするだろうが美しい景色が脳内で出来上がった。ただ、それを僕が見ていると想像した時、まるでどうしてだろう。
「なんだか書ける気がしません」
空っぽの僕だけが桜の下に立っているだけなのだ。
「だろうね。私も今となっては何故書けていたのか分からない」
先生は笑ってそう言ったが、反対に僕は少し不機嫌な顔つきでいた。僕の問いに対して先生が不真面目な回答をしたと思ったからだ。
しかし先生は僕の不満げな顔を見るや申し訳なさそうな顔を返したから、悪意があっての事では無いと分かると、今度は軽率に怒りを焚いた自分が恥ずかしくなった。
「すまない。不快にさせるつもりは無かったんだよ。本当に自分でも分からないんだ」
その時の酷く悲しそうな表情で僕はさらに自分を責めた。さっきの先生の笑みはきっとその感情を隠すためだったのだと気づいたからだ。
「今から少し、時間はあるかい?」先生は僅かに躊躇って言った。猛省していた僕は何も聞き返さず頷くと先生はすっと席を立ってポールハンガーにかかった厚手のコートを羽織る。
「どこかに行くんですか?」
「うん、場所を変えよう。こんな殺風景な部屋じゃ話をしようにも言葉が出ない」
僕は簡単な返事だけ返して、先生の後ろについて行った。様々な感情がいりみだっていたのは言うまでもない。先生に早とちりの怒りを抱いてしまったことの後悔、それに先生が場所を変えようと言うほど動揺した姿を見るのも初だ。
先生は何を話すのだろう。顔はちっとも分かっていないようにとぼけていたと思う。しかし心はついに先生の過去を食えると期待し唇を舐めているのを僕は気付かないふりでいた。
二人揃って部屋を出てしばらく住宅街を流れる川に沿って歩いた。頭上には秋の乾いた空と下りだして間も無い太陽がある。河川敷には黄泉の国を彷彿とさせる彼岸花が無数に咲いていて会話の無い道中を飽きさせなかった。会話を交わさなかったのは話す事が無かった訳ではなく、先生の背中から発せられる空気がとても陽気な口調で話しかけていい雰囲気ではなかった。
行き先も聞かないで進む道は途中から徒歩からバスに変わった。今日が日曜だということもあってかそれなりに混雑した車内で揺られながら着いた駅のバスターミナルで乗り換える。
次のバスも初めは混んではいたがいくつかバス停を過ぎていくうちに一つまた一つと席が空いて先生も降りる素振りを見せないまま、ついにバスの乗客は僕と先生だけになった。終点も近く、あと三つ停留所をすぎたらこのバスは車庫に戻る。
ここまで来た時、先生はずっと何か考え込んでいるような思い詰めた表情を解いてゆっくり口を開いた。
「蒼汰は、この前、美しい物をそのまま言葉にすることを否定した私が美しい物を見て小説を書いていた事に矛盾を感じるかい?」
「それは思いません。前に先生が言っていたように言葉で出来る範囲内で美しさを表現すれば、何もおかしなことなんて」
この時の言葉は決して忖度の混ざった言葉では無く、本心だった。それなのに途中で言葉を止めたのは横に座る先生の顔が暗くなるのが見えたから。
「そうだね、それなら、おかしなことなんてない」
先生は一見納得したように頷きながらまた口を閉じる。なのにその後、窓の縁に肘を置いて遠くを見つめる先生は何処か物憂げに見えた。
「最低だ」小さく本当に聞こえたか聞き間違いか分からないほど薄い声が僕の隣から聞こえた気がした。が、その後すぐ、次に止まるバス停の案内にかき消された。
僕と先生が降りた場所は終点より一つ前のバス停だった。一直線に続くアスファルトの先にはもう既に松の木が外壁のように並んで生えている。鼻腔には潮の匂いも。
終点が近くなってきてから何となく目的地の見当もついていたが、こうして鼻や目から情報を得ると勝手にテンションが上がってしまう。
途中、先生のご厚意に甘え自販機で暖かいコーンスープを買って貰ったりしながら歩けば五分もしないうちに地平線と乱反射する海が眼前に広がった。僕は久しぶりに感じる海の匂いも色も新鮮な気がして、大きく息を吸った。気づくと先生も隣で気持ちよさそうに伸びをしている。
「ずっと、ここに蒼汰を連れて来て話したいと思ってたんだ」
その言葉を聞いて、突然僕の目に映っている海は光を失った。
「もうこの際だから、さっきの事とついでに蒼汰が気になってるであろうことを話そうと思う」
海は確かに美しい。しかし目の前にある海よりも僕の目を奪うものが現れてしまった今、僕の目は海の色を映さない。
先生が手招きする方についていき、僕と先生は防波堤の砂浜へと下る階段に並んで腰を下ろした。もうこの時には海も風も僕にとってはそこにあるものでしかなく、感情も盲目的になりつつあった。先生は腰を下ろしてから一回風が凪ぐのを見計らって話を始めた。
「きっと聞きたいことは沢山あるんだろうが、蒼汰が一番気になっているのは『本当に私が小説家なのか』って事じゃないかな?」
僕は頷く。だが実の所、僕は先生が小説家ではないんじゃないかと疑ってはいない。先生の全てが僕をそう思わせない。ただ、疑っても仕方ない理由があるのも事実だった。
「そうだろうね。なにせ私は蒼汰に自分が書いた小説も自分が書いている姿も見せたことがないんだから。でも残念ながら私が小説家なのは事実だ」
「じゃあ今先生はスランプとか?」
「まぁ、似たようなものだね。ただもっと詳しくするなら書きたいものが書けないから書かないと言った所か」
「先生の書きたいものって?」
聞くと先生は人差し指で目の前の海を指した。
「あれだよ」
「海、ですか」
「海に限った話じゃない、風景全般さ。私は元々、世界の美しさを言葉にしたかったから小説を書き始めたんだ」
先生が指さした先を見る。不思議と先程までモノクロに見えていた景色が色を取り戻したように見えた。
「私の小説で教えてやりたかった。たった一人の大切な人に、どれだけ世界が綺麗で季節の色彩がどんなものかを。昔の私は小説ならそれが叶うと信じていた、六畳間から窓の外ばかり見て景色を言葉に出来ていると思い込んでいた。実際はそんなこと有り得ない。言っただろう? 言葉には限界がある」
僕は話す中で先生の語気がどんどん感情の籠もっていくのを感じていた。今まで無いくらいに悲哀と憤怒を押さえつけた声で、僕は相槌を打つだけで精一杯だった。
それと反して先生の声は情動を隠すこと無く、言葉と一緒に口から出続ける。
「どうしたって超えられない一線がある、青色と言えば? と聞かれてすぐに海や空を思い浮かべられない人がいる。私はそれを知るのが遅かった。だからもうね、どうしようもないんだよ。私にはもうこの海の言葉何一つ読み取れやしない。もし読み取れたとしてもう遅いのさ。書く理由も書くための目も死んだ今じゃ、遅いんだ」
土砂のように崩れ落ちていた声は最後まで言い終わる前に勢いを無くしていた。後に「遅いんだ」と言い終えた先生の顔に何処か清々しくも、瞳から哀が零れそうな危うさが残るばかりだった。
もう僕は先生の過去を暴きたいなど頭の片隅にも残っていない。先生の語り口が、言葉が、まるで、晩年に残す言葉と同じ儚さだったから、腹の虫も喉の渇きも疾うに失せて、先を歩く先生の背中を引き止めるような言葉を漏らした。
「遅いなんてそんな、今からだって遅くないですよ。言葉に限りがあったって先生が僕に教えてくれたように、その箱庭の中で美しいものを書きましょうよ。そうすればいつか書く理由も目も」
ここまで言ってから気づく、先生の悲しそうな微笑を。恐らく、そんな問題じゃない。今の言葉は私情だ。
「駄目だよ。もう死んだんだ私は。前に話したろう、愚直に美しい小説を書こうとした友人が死んだという話を。あれは嘘だ」
躊躇うことなく、さらりと打ち明けた先生の嘘は僕に驚きよりも安堵を与えた。僕に嘘をついてたって関係ない、友人が無くなったことを朗らかに話す先生は偽物だった事が何より嬉しかった。しかし、先生の話すべてが何も無いところから生み出したとも思えない。寧ろ、窮屈に押し込まれた感情の一部分を更に形を変えて僕に見せているだけで氷山の一角と同様に思える。じゃあその氷山は誰のものかなんて、今更先生に聞くほど僕は察し悪くない。
「蒼汰の表情を見るに想定内と言ったところかな」
「今、先生の言葉を聞いて気づいただけです」
「そうか、流石に出来合いの下手な嘘はネタばらしまで持たないね」
先生は恥ずかしそうに後ろ頭をかいた。
「言った通り、私にそんな白痴な友人はいない。あの話は自分の事さ。美しさを求めた過去の私はもう死んだ、生きる意味が無くなったからね」
「でも今もまだ先生は美しい物を求めているように、僕は見えます」
「求めているだけさ、そのために行動することは無い」
なんで。今聞くべきその三文字は僕の口からは鉛のように重い言葉だった。先生の思いを完全に理解出来ない訳では無いからだ。
先生は世界の美しさを小説にしたかった。しかし言葉には限界があることを悟り、筆を置く。
先生の理想はその先にあった。目で見る景色と同様の感動を言葉で表したかった。なら箱庭の中で言葉を綴ろうなんて妥協案、侮辱に等しいと今なら思う。先生は僕が同じことを言った時「蒼汰の自由だ」と背中を押してくれたというのに。
そうだ、今の僕は以前先生の言葉に楯突いた時とはまるで真逆の事を言っている。考えが変わった、現実を知った、そんなこと愚直な僕には無い。ならなんで僕はこんなことを口走ったのか。自ら己の過去を語り出す先生が、夜空で爆ぜる打ち上げ花火に見えてしまったからだ。咲けば二度と戻ることの無い花。このまま行けば先生は花火のように消えてしまうのではないかと、根拠のない確信が形になりつつある。
「書けます、先生なら。僕にはわかるんです」
だから、たとえ話のわからないやつになったって、僕はその確信を否定しなくちゃ駄目だ。
沈む太陽を追って少しでもその姿を見ていたい。延命治療でも構わなかった。依然、そこには私欲の他にない。
しかし先生は僕の醜い感情を知らず。私欲でただをこねる僕を優しい口調で諭した。
「蒼汰、私はね、美しい小説にしか生きる意味を見いだせない人間なんだ。もう、分かるだろう? 冗長に時間を重ねるだけの物語に価値はない。人生も同じさ、色褪せないうちに結末を描く事が何よりも大切なんだ」
「もう、分かるだろう」その言葉に込められたものは、もはや僕の言葉では足を止められないくらい遠くにある気がした。
それ程までに確固たる意志を持つ先生を尊敬せざるを得ない。人間として小説家としての理想像が今こそ本当に僕の中で先生しか居なくなった。ならもう僕は打ち上がった花火が咲くのを待つしかないじゃないか。
「いつ、書くんですか?」
溢れそうな情動を押さえつけた声で聞いた
「そう遠くない。ただ、今のままじゃ顔向けできない人がいるからもう少しだけ貪るよ」
先生の声は自身の命火を表しているかのようで今にも海風で煙になってしまいそうだった。そう思った時、僕は横で揺れる命火より、残された自分のことを考え出す。
先生が居なくなってしまうことは僕にとって道標が無くなる事、散った花火の後、闇に包まれる僕が容易に想像出来た。
壁にぶつかる度、先生に頼ってきた僕だ。もしそんな状況が訪れれば、僕は自分で歩く道を見つけることが出来るのか。たちまち、今際限なく湧いてくる悲しみが何に対してなのか分からなくなった。先生の消失か、道の途切れた将来か。
ああ、でもやっぱり。僕のこの悲しみは利己的感情でしかない。
「この先、僕はどうすればいいですか」
こんな言葉が躊躇いもなく出るのだから。
先生は苦しそうに腕を組んで空を見上げた。僕の言葉がそうさせたのかと思ったが、何か言おうとして躊躇うように見える口元が、自身と葛藤している時の動作と同じだった。
「蒼汰は、誰のために小説を書いている?」
躊躇いながらついに零れたその問いに僕が自信を持って答えたい言葉は「自分」ただ一人。しかしそれはまだ叶っていない、事実とは異なった理想。傍から見れば僕のしている事は。
「泣けないクラスメイトを泣かせるためです」
今だけは。その言葉に尽きた。先生も僕の答えに疑いは無く頷いた。
「なら蒼汰は一度その子と一緒に、そうだね、絵を描くといい。言葉と絵じゃまるで違う物のように思うかもしれないが本質は同じだ。美しい物を言葉にしたいなら、まずそれがなぜ美しいのか理解する必要がある。その点において絵を描くことは言葉よりも自分の心を理解しやすいんだ」
「それは、分かったんですが、二人じゃなきゃ駄目なんですか?」
「ああ、それがいい。私から見れば今蒼汰に必要なのは小説のネタでも美しい言葉でもなく、一歩後ろに下がって周りを見渡すことだ。理想が必ずしも最善とは限らない。案外近くに二人の納得する答えが落ちていたりするんだよ」
先生の言葉はまるで解答用紙を読み上げているような自信と説得力があった。その理由は海でも空でもなく、砂浜に散乱した花火の燃えカスを眺めていた先生の目と口が語る。
「私の人生がそうだったから」
その一言は容易に僕の背中を押す。道の先なんて知らない。先生の言った理想と最善、周りを見渡す。どれも僕の経験と人生観では消化できなかった。ただ、先生の人生が物語っているというのなら、愚直に先生を追う僕は余計なことを考えず殉情に先生の顔を見た。
「やってみます」
「ああ、蒼汰なら私が諦めたことも必ず出来るさ」
先生はきっとその言葉を鼓舞として言ったんだろうけど、僕は足に鉄球をつけられたように歩みが重くなった。しかしやるしかない。彼女を泣かせなきゃ僕の小説に未来はない。
僕が一人で焦燥に駆り立てられている時、先生は先生で何かに苛まれていたらしかった。さっき自分の過去を吐露している際に見せた悲しそうな顔とはまた違う、誰かを憐れむような慈愛に満ちた哀情。でもその憶測は先生の言葉でまた分からなくなる。
「本当に私は最低だ」
今度ははっきり聞こえた。しかし何のことに対してか分からない。だから自分が思うことを言った。
「僕は先生を尊敬しています」
「……蒼汰もじきに気づくさ」
そう言い終わると先生は立ち上がり「そろそろ帰ろう」と海に背を向け歩き出した。聞き返すことなく頷いて、その背中を追う。背の海には振り返ることは無かった。
美しい話が書けない僕は美しいものを見たい。朝日を見た時とは違う、今の僕は眼前に広がった海に飽和してくれと頼まなくてもいいほどに満たされていた。それ程までに先生の話は、美しく儚く、僕の喉を潤した。
今の構図は、僕が先生の生気を吸って生き永らえる妖怪のようだと思った。もしかしたら僕は先生が自分の手で物語の幕を下ろす前に喉元を食いちぎってしまうのではないか、先生の人生でさえ僕はいつか小説にして濁らせるのではないかと考えると寒くもないのに震えが止まらなくなる。
しかし自分ではそれを否定できない。だからこそ余計に恐ろしいのだ。
腹の底に住む化け物の気分次第、いつだって僕を利己的人間と化けされる。奴は美しい物に限って満腹を知らない。
本当に僕は最低だ。まるで今の僕にちょうど良い言葉だったから、何度も頭で反芻した。