二
その晩、食べて風呂に入ってなどの事を終え、もう寝るばかりの僕はパソコンの前にあぐらをかいて小説を書く態勢を整える。
時計は八時半、アラームはかけない。いくら時間が掛かっても今日で書き上げる、書き上げられる。そんな自信があった。その無駄に昂った自信は全て、先生の過去の一端を乞食のように食い散らかした結果だ。
感化されたくない。それは先生以外の人間全てに対してだ。他の誰でもない、先生の血肉なら僕はいくらだって飲み込み言葉にする。先生は僕の理想像なんだから、寧ろ飲み込んで近づこうとしなければ駄目だ。
ワープロソフトを立ち上げて、以前意識が途切れてから手をつけずにいた書き途中の文章が現れる。
全体の流れを一通り頭に入れてからキーボードに手を置く。そして書き出す前に一度、目を閉じて雑味の少ない夜の空気を胸いっぱいに吸った。そうしたら心はもうあの廃屋に居る。瞼の裏には西日が差す和室の情景。僕は孤独に怯える地縛霊になった。
呼吸も瞬きも邪魔な作業は全て無意識下に落とした、力の抜けた体は地縛霊と同化する。余った意識でブルーライト越しの廃屋を描いた。
書き上げたのは悪霊も一仕事終えておやつ休憩に入るだろう真夜中。最後のエンターを押して意識が画面外に広がっていくと忘れていた呼吸の気だるさや地球の引力が体に重くのしかかった。その勢いのまま倒れ込んで寝てしまう前にタイトルを付ける。
「廃屋、地縛霊」前作に倣って似たような文字列にした。その理由と言うには情けなく惨めな話だが、彼女のアイディアで書いた小説と自分のアイディアだけで書いた小説とは何処かで区切りをつけたかった。それが読点としてタイトルに出ている。
読点でタイトルを切り離すことで、この小説はお前の力だけで書いたんじゃないと言い聞かせる。自分に酔わせない為に。
今の僕がそうだ。書き上げた小説を流し読んで満足気な顔をしているんだから。僕の感化された頭からは到底出てこないであろうプロットと風景描写、全ては彼女が見せたもの。僕の言葉は依然、彼女に飲み込まれたまま。これに酔うくらいなら三半規管ごと捨てた方がいい。ただ、悔しい事にこの小説の持つ美しさだけは本物だ。前作以上、今までで一番の小説が書けたと実感している。
佐藤優を泣かせるための救いのないバットエンド。
僕にとってこの小説には神様が宿っていると言っても過言じゃなかった。自信があったんだ。
だからこそ、彼女の反応が手に取るように分かる。
「うん、面白いよ」
翌日の放課後、帰り道の公園で彼女はそんな感想を零した。
僕の予想が当たったことは彼女のその言葉と僕を煽るような笑みが教えてくれる。
「前と同じかよ」
「……ごめんね」
「……謝んないでよ」
僕らはふたつ並んだブランコに座っていた。雨風に晒された年季か、少し動くだけで金属が擦れた音が響く。
「まぁ、何となくそんな気はしてたよ。佐藤さんはこんな小説で泣かないだろうなって」
「そんな。こんな小説って言うことないよ。私は泣かなかったけど本当に面白いと思ったし、コンクールとかに出したらきっと」
「佐藤さんの為に書いた小説で佐藤さんが泣かなかったら、誰がこの小説で泣くんだよ」
彼女は気まずそうに顔を落とす。そんな彼女の言葉を遮った後に思った。今僕が言った言葉が全てだ。シンデレラが脱ぎ捨てたガラスの靴が他の誰の足にもはまらないのと同じ。魔女の特注品なのだから。もしシンデレラ本人さえ履けないようなガラスの靴を作る魔女がいたならば、その無駄に広がった鍔の三角帽を脱ぐことを勧める。
今の僕がまさにその魔女。プライドも才能も矜持も作品も、つまりは人生を、否定出来る言葉だった。
そんなこと、もうとっくに知っているはずなのに、言葉にするとどうしてこんなに虚無感に襲われるのだろう。
もう僕は想像でさえ、彼女が泣く顔を浮かべられない。彼女の微笑がずっと頭に焼き付いて離れないから、人形が表情を変えないように彼女が泣く事も有り得ないと勝手に思い込んでしまっている。
「佐藤さんって本当に泣けないの?」
否定してくれたらいい。本当はいくらでも泣くことが出来て、今泣けないのは僕の小説が稚拙なだけだと。
「泣けないよ。嘘じゃない。私は身を持って知ってるから」
両足を前後に揺らしてブランコを漕ぐ彼女は、僕にはまるで涙を流せない運命を背負った悲劇のヒロインには見えなかった。
そんな言葉じゃ、僕の猜疑心は納得しない。
「じゃあ、それを教えてくれよ。あるんでしょ、佐藤さんが泣けなくなったきっかけがさ」
「聞いたって面白くないよ。創作のネタになるような経緯でもないと思うし」
「そんなの関係ない。佐藤さんを泣かせる小説を書くなら知っておかなきゃいけない事だよ」
彼女はまた困ったように笑う。僕に察しろとでも言いたいのだろうか、生憎僕はそんな余裕を残しちゃいない。
目を逸らそうとしない僕に彼女は根負けしたらしく、振り払うような溜め息をひとつ。揺れているブランコを踵で止めて立ち上がった。
「なら話すよ。でも期待はしないでね。それと変な希望も持たない方がいいと思うよ」
「希望って?」
「私が泣けなくなった理由を元に私を泣かせられるかもって考える事」
彼女の見透かしたような薄笑いは事実として僕の思惑を言い当てていた。
「それなら杞憂だから安心しなよ」
なのにこんな言い訳をしたのはもう言わなくてもわかるだろ? ただの意地だよ。
しかもこの意地によって諦めたかと思ったら大間違い。言葉では杞憂だと強がりつつも彼女から聞いた泣けない理由次第じゃ僕は躊躇わず文字にする。君が言ったんだ、他人事じゃ泣けないって。まぁそれも免罪符でしかないんだろうけど。
「なら早速行こっか」
「行くって?」
「どうせなら内緒の話をするのに適した場所に移動した方がいいでしょ」
彼女は公園の出口を指さして「行くよ」と一言。僕としては寂れた公園のブランコでも一向に構わないと思ったが話し手である彼女が場所を変えたいと言うのであれば御付きの僕は是非も無くその背中について行くだけ。
行き先は聞かなかった。彼女の事だ、教えてくれる訳が無い。傾いた太陽はまだ落ちない。それでもあまり遠くまでは行きたくないなと思いながら進む背中に付いて歩くと途中から見慣れた道に出る。それだけなら道中通ってもおかしくは無い。ただ僕には彼女の目的地の候補になりそうな場所がこの先にあることを知っていた。確かこのまま道を少し行くと見覚えのある緑の棟違い屋根が、見えた。
僕らの後ろから赤く染まった夕の光は深緑の屋根を白ませ緑青に変える。彼女は案の定、その家の前で足を止めた。
「荷物でも置きに行くの?」
「何言ってるの、せっかく私が男子で初めて青木くんを家に招待してあげるって言うのに」
「それはとても光栄だね。じゃあくれぐれも御両親に勘違いされないような言い訳をお願いするよ」
「そうだね。友人と勘違いされない様に彼氏として紹介してもいいかも」
恐らく冗談として言っただろう彼女の発言は僕の眉間のシワを深くさせた。
僕は未だに彼女が使う笑えない冗談のあしらい方を心得ていない。何の意味もなく、ただその場を混乱させるだけの嘘はいい加減辞めて頂きたいが、ここで下手に「馬鹿な冗談は止めろよ」とでも言ったら彼女の背中を押すだけになる。今は無言が正解。
玄関に続く飛び石を踏む彼女はレスポンスが無いのが気になったのか後ろを振り返った。
「あ、笑ってくれてもいいんだよ?」
言われた通り、僕は口角の不自然に上がった笑みを見せてやった。それでも彼女は満足気に前を向く。
玄関まで来ると一息も置かずインターホンを押して、数三秒待っても誰も出ないとわかると通学バックから鍵を取り出して手際よくドアを開けた。後ろから見ていた僕はそれが日々繰り返されてきた動作故の素早さとは違って無理に急いでいるように見えた。
「ただいま!」「お邪魔します」と二人お決まりの挨拶をして中に入る。開放感のある玄関は丁寧に揃えられた二つの靴と下駄箱の上に置かれたミニカレンダーくらいしか生活感のあるものがなく、いつぞやの廃屋を思わせた。
僕らの挨拶が家の中で反響していくのを見ているとその思いはさらに強くなる。今鼻から息を吸ったら新築の檜が香るのではとさえ。だから二階の小さな物音も余さず耳に入った。
扉をゆっくり開ける蝶番の唸る音、擦る足音、それが段々下ってくるのに気がついて玄関の正面に続く階段を見るとショートカットの女性が片手に掃除機を携えて降りて来る最中だった。
「優おかえりー。あら、お客さん?」
「そうだよ、クラスメイトの青木くん。テスト近いから苦手な科目教えてもらおうと思って」
「へぇ、勉強を」
その言葉の後、二人の視線が僕に向かう。彼女の学力からすると少し無理のある建前だが無駄にしないよう当たり障りない挨拶をする。
「青木蒼汰です。突然お邪魔しちゃってすいません」
浅く一礼をして目線を戻すとショートカットの女性は優しい微笑を僕に向けていた。それは正しく佐藤優が見せる笑みと瓜二つのように見えて、また全くの別物のようにも見えた。目元が淡く腫れていたからか。
「いいよいいよ、そんな畏まらないで。ゆっくりしていってね」
空いている片手で僕らに手を振ってその女性は玄関から左手の扉に入っていった。
「あの人がお母さん?」
「そうだよ。私の顔立ちから想像はついてただろうけど美人さんでしょ?」
「前置きを無視して頷いてもいい?」
「えーどうせならついでに私も褒めてくれてもいいのに」
彼女は不満げな息を吐いたが足取りは軽かった。対抗すべく息を潜める。
「……それならまず建前をしっかりしてよ。僕が勉強を教えるって無理がある、せめて逆にしないと」
「だってそれじゃあ家に呼ぶ理由が薄くなっちゃうじゃん? 結果良ければだよ。あ、私の部屋は二階だから」
ついて来てと手招きされ、律儀に靴を揃えてから階段を上る彼女の背中を追う。螺旋状になった階段を登りきると薄暗い廊下に手前から扉が三つ並んでいる。彼女が指さしたのは一番奥の扉。
彼女の後をついていくその途中、奥から二番目の扉が半開きになっているのに気がついた。先程、彼女のお母さんが閉じ忘れたんだろう。
ただ僕には配慮と常識がある。他人の家で非常識に部屋の中を覗いたりなんてしない。そう思って扉の前を通り過ぎようとした僕だが、ふとした瞬間に僅かな扉の隙間から部屋の中が視界の隅に映ってしまった。それだけなら直ぐ目線を逸らせばいい。なのに僕は数秒、目線を逸らすことを、部屋の中を覗く非常識を、忘れていたように思う。
僅かに見えた、カーテンが締め切られ薄暗く綺麗に片付いている室内で眠ったグランドピアノと目が合ってしまったから。
パッと見で六畳ほどあるだろう。グランドピアノはその大半を占めていた。ピアノに覆い被さった黒のカバーは掛け布団のよう。寝息の代わりに部屋中を寂寥感が漂う。
「……ねぇ」
先に言葉が出た。無神経に部屋を覗くことを自制する心も、隠す卑しさも、好奇心には叶わなかった。
彼女は扉のノブに手を掛けたところで振り返る。
「んー?」
「この部屋のグランドピアノって佐藤さんが弾くの?」
僕がそう問いかけると何故か彼女は手を口に当て堪えるように笑いだした。自分が弾けるわけないという自虐的な笑いだろうか、それなら分からなくもないが。
一頻り笑いのツボを超えた後で口を開く。それから彼女が言ったのは僕の問いへの答えじゃない。
「この家に住んでるのはみんな佐藤さんだよ」
僕は彼女が笑っていた意味を知ると同時に重箱の隅をつつくような下らなさに辟易とした。
「はいはい失礼しました、訂正しますよ。佐藤優さんが弾くんでしょうか?」
「私も多少は弾けるんだけどねーあのピアノに見合う腕は持ってないかな」
「じゃあ誰が?」
「弟だよ。私なんかよりも、ずっっっと上手なんだ」
喉で溜めた声は彼女の感情が乗る。まるで自分の宝石箱を自慢するような雰囲気があった。それほど自慢の弟なんだろう。それだけを思った。
僕が彼女の足を止めさせて聞いた話も切り良く終わって、僕らはやっと本題に入ることが出来る。
軽快に開け放たれた扉に通されて僕は彼女の部屋に足を踏み入れた。その室内は僕が驚くようなものは何も無かった。女子らしくもなく室内の全体の雰囲気は家具屋さんの展示室と同じくシンプルだったから。寧ろ僕はそこに驚いたと言える。
木製のタンスから本棚、学習机、ベット、カーテンに至るまで複雑な柄の物はひとつもない。彼女曰く、両親の部屋やリビングなどで使っていた家具を買い換える時にお古を貰っているからシンプルなんだと。確かに部屋の大半を占める家具たちは単調な色合いだが壁掛け時計が猫を模していたり、何かの動物が抽象化されたクッションがあったりして細かな所で自分の色を部屋に取り込んでいるのが窺えた。
そうして僕が感想を脳内に並べている内に彼女は自分の部屋だけあってカバンを部屋の隅に投げて、上のブレザーを暑苦しそうに脱ぎ捨ててからベットの上に座り込む。ついでに大きな溜め息をひとつ。色々と自覚した方がいいと思う。
僕はこれまたシンプルなデザインのサイドテーブルの前にある座椅子に座っていいと言われたから遠慮なくその上であぐらをかかせてもらった。
一息ついた僕は世間話ひとつせず、自分の手持ち無沙汰を理由に彼女の話を急かす。間が持ちそうにもなかった。
「さぁさぁ、さっきの話の続きをしようよ。ここまで連れてきたんだから濁さず話してくれるんでしょ?」
「もちろん、私の部屋まで連れてきたのだってちゃんと理由があってのことなんだから!」
ベットに沈みかけた体を立てて、僕から見てテーブルを隔てた向こう側に腰を下ろした。そして至極真面目な顔で僕を見据える。僕はたじろぎ唾を飲んだ。
彼女は口角が揺れる笑みを見せる。
「青木くんはさ、私のお母さんを初めて見てどんな印象を受けた?」
そう聞かれて、玄関であった微笑の女性を思い出した。その時感じたことを言われるがまま言葉にする。
「親しみやすくて、優しそうな雰囲気だったけど」
「うんうん、まあそうだろうね」
「何か違うの?」
「いいや、とんでもない。むしろ私のお母さんは青木くんが思うより、ずっと優しくて朗らかで私の自慢のお母さんだよ」
「ならいいじゃないか。僕は君の母親自慢を聞きに来たんじゃないんだから早く本題を話してよ」
彼女の回りくどい話口に僕が呆れに近い、微熱のような怒りを覚えはじめて来た頃、次の瞬間にその怒りは育ちきることなく煙になった。
決して天変地異の類じゃない。突如背後から鳴った二回のノックが、僕を心臓にナイフを刺されたような心地にさせたからだ。
反射的に両肩を持ち上げて驚く僕と、彼女は至って平然に「入っていいよ」と声を返す。ノックの主は当然、彼女のお母さんだった。両手で持ってきた四角い盆の上から真っ白のマグカップと袋菓子をテーブルに置いてくれる。僕はそれに少し遅れて「すいません、お構いなく」と添えた。
「ゆっくりしていってね」彼女のお母さんは寄り添うような微笑とその言葉を残して、部屋を去っていく。その後、僕はさっきまで何を思っていたか、話していたかを忘れ、まず手前のマグカップに手が伸びた。中に入ったまだ熱の残る紅茶を一口飲み込んで嵐が過ぎ去った後のような心を落ち着かせる。すると、なぜ一瞬忘れていたのか分からないほど僕の目的は目の前にあった。
袋菓子を乱雑に開けて口に運ぶ。彼女は、僕の事を忘れ満足気にポテトチップスを咀嚼している。
「随分と呑気なものだね」
「これでいいの。焦ったってなんにもならないんだから、常に目の前に運ばれたお菓子を一口食べる位の余裕は持っておかないと」
なんとも意味の分からない事を言って、二口目のお菓子に手を伸ばす。いつまで続くんだと思ったが、それを飲み込んだ後にいつもの笑みを見せたから僕は身構える。
「回りくどく話してもつまらないから単刀直入に言うね」
「そうしてくれると助かるよ」
酷く冷静に返した言葉の裏に動悸の速まる僕がいた。しかし彼女は容赦なく、軽く吸った息で重い言葉を放つ。
「私が泣けなくなったきっかけは誰でもないお母さんのせいなんだ」
その時の彼女の顔は、忘れるわけも無い。依然不動の微笑だった。
耳から入った情報と目から得た情報が全く相反するものだったから、僕は返す言葉も掴めず咄嗟にこんなことを聞いた。
「それはさっき僕達の前にお菓子を運んできてくれた人であってる?」
「私のお母さんはさっき青木くんの前に現れたお母さん以外いないよ」
その一見不毛な一問一答の間で僕も少し頭と状況を整理することが出来た。そうなると寧ろ彼女に聞きたいことばかり浮かんでくる。
どうして、なんで、どうやって。在り来たりな質問が溢れる。僕はその中から何を掴もうかと悩んだ。僕は今一番何を知りたいか。
そうして考えてみるとすっと脳内は静まり返って、ひとつの言葉だけが残った。
「……君はお母さんを恨んでるの?」
彼女は今日初めて、微笑を崩し驚いた顔を見せた。僕もそれに釣られて自分は何を言っているんだという気になる。
まるで彼女の事を考えてない、身勝手な質問。聞くにしても明らかに今する質問じゃない。
分かってたはずだ、聞く前の僕も。分かってる、これは自分のための質問でしかない。でもこれは聞いておかないと駄目なんだ。彼女が言った自慢のお母さんだと言う言葉も、彼女のお母さんが見せた優しい微笑も、何一つ信じられなくなるから。
僕の心からはみ出した気迫した感情は、傾く日と一緒に部屋を薄暗くさせていく。彼女はいつになく真面目な様子で口を開いた。
「大丈夫。これっぽっちも恨んでなんかいないよ」
その言葉は彼女の笑顔と釣り合いの取れた優しいものだった。喉の余計な倫理観に推敲された当たり障りの無い言葉ではない、一直線な目と声がそれを物語っている。
「私はお母さんを愛してて、お母さんも私を愛してる。これだけは胸を張って言える」
「それは、何よりだね」
安心した心は自然と伸びた手でマグカップを握って口に運んでいた。その紅茶は僕に冷静さを思い出させてくれる。
そうしてやっと今一番聞くべきことを口に出すことが出来た。
「なら、尚更どうしてお母さんのせいで泣けないんだよ」
彼女は一息飲んで答えた。
「優しいから、泣けないの」
何一つ分からない。そう書かれた顔をする僕に彼女はテーブルに肘を立ててこう言った。
「じゃあ少し昔の話からするね。青木くんが聞いたんだから多少つまらなくてもちゃんと聞きててよ」
そう言って笑った後、彼女は過去の秘密を吐露し始めた。
「私ね、今はこんな風になっちゃったけど昔は泣き虫だったんだよ。小石で躓いただけで大粒の涙を流してさ。そんな時にいつも私を慰めてくれるのがお母さんなの。そうして私が泣き止むと優しく笑いながら決まってこう言うんだ「強い子だね」って」
「その言葉が私はすごく好きでさ。子供って単純でしょ? また同じように笑って褒めて欲しいからって痛くても悲しくても涙を流さないように頑張って、お母さんもそれを見て私を撫でてくれた」
「それが原因で?」
「まぁ概ねそうかな。でもその時はまだ崩れる寸前で抑えてるような状態だったから泣けない訳ではなかったよ。今の私が作られたのは」
突然、さっきまで悠長に話していた彼女が咳き込む寸前と同じように言葉を止めた。
「どうかした?」
彼女の顔を覗き込んで聞いた僕はハッとする。彼女自身もすぐ気づいたらしく、あからさまに作った笑みで「なんでもないよ」なんてつまらない嘘で誤魔化した。
いくら彼女が涙を流さないからって人間はそれだけで悲しみを隠せるわけじゃない。口から頬、目に至るまで僕でも分かるほど彼女は泣き出しそうになっていた。いや、彼女は泣いていた。
涙は頬を伝わない。ただ、言ってしまえばそれだけだ。紛れもなく、彼女は泣いていた。しかし、彼女の泣き顔が、色の足りない絵画のように見えたのも事実だった。一つ違えば、ただぼーっとしている人になりかねない。まるで逆さ絵のようだと思った。
僕はそれを口にはしなかった。今は彼女にそんな顔をさせてまで過去を話させている事に対しての罪悪感が、僕に余計な事を口にさせてくれなかった。彼女がそんな顔をする理由を小説にすれば涙を誘えるかもしれないなんて、浅ましく、矜恃と思いやりを忘れた考えとか。
僕が勝手に自己卑下している中、彼女は彼女で心の整理を着けたらしく、また何事も無かったかのように続きを話し始めた。
「きっかけは、そう、小学六年生の時。この頃は、まぁ、色々大変なことがあってね。家族全員元気が無かったんだ。それも特にお母さんが。ああ見えて落ち込む時はとことん落ちていっちゃう人でね。私はそれを知ってたし、見てもいたから、その当時私もすごく辛かったけどここで私が泣き喚いたらお母さんを更に追い込むことになると思って感情を抑え続けてたら、いつの間にかこうなっちゃった」
笑って話を進める彼女に今の僕がどう写っているか知らない。自分で思うには無表情。ただ、心の中は荒れていた。
「でも本当に私はその事でお母さんを恨んでなんかいないよ。お母さんは私の事を思って褒めてくれていたし、私もお母さんを思って泣かずに笑顔でいようって思ったんだから。そこに愛情こそあっても恨みなんてあるわけないでしょ?」
僕は小さく頷いた。彼女にとってそれは試合のゴングと同じく、出し切ったと言わずとも分かる脱力した顔を見せる。反対に喉まで登った言葉を押さえつける僕が、暗い顔をしていた。
「とは言ってもね、泣けないままでいたら前話した通り、ストレスの擬人化になっちゃうからという訳で私の話はおしまい! どう? 在り来たりだったよね」
「そんなことは無いよ」
寧ろ僕の返答の方が在り来たりだろう。脳がまともに回ってないんだから反射的に定型文になりもする。
何故自分がここまで困惑しているのか。原因は分かる、しかし理屈が分からない。
小説を書く上では彼女が話した事だけで十分だ。これ以上深い心根を暴きたいと思うのはただの好奇心。先生を除く他人の事情なんて知見として聞く程度でいい、それが一番小説にも自分にも深く影響がなく、知識だけが脳に残るから。それなのに彼女が言い淀んだ秘密に対してあれこれ考え出している自分が居て、厚かましいお節介者のように見えた。
まぁいいやでは飲み込めない。本人からの言葉じゃなければ納得のいかない疑問が喉で形を成す。ただ、これ以上彼女を苦しめるような話を振ることも僕の良心が痛む。一通りの事情を聞き終えたし、このまま居て余計な事を口走ってしまう前に僕は早々マグカップの紅茶を仰いで席を立った。
「教えてくれてありがとう、知れてよかったよ」
「え? ああ、うん。いいよ全然」
彼女は先程の真剣な様子とは打って変わって、緩んだ表情でお菓子に手を伸ばそうとしていた。
「もう帰るの? なら、最後に聞きたいこと聞いておいた方がいいよ、私もうこの話はする気がないし」
僕にとってその言葉は願っても無いものだった。自分からじゃ自制心が喉を絞めたが其方から振ってくるなら今は寧ろ聞きたいことしかない。今日、彼女は過去を話すと言ったがその暴露にすら不鮮明なところが多すぎるんだ。しかし、いくら彼女が聞いていいと言ったって心が泣いてしまうような悲しい話なら、わざわざ抉ってまで聞こうとも思わない。
僕が聞きたいことは別にもあった。彼女が原因はお母さんにあると言った時から感じていた違和感。
「じゃあ遠慮なく聞かせてもらうけど」
「うん、遠慮なくどうぞ」
「なんで、この話をわざわざ君の家でする必要があったの?」
「それは、来る前も言った通り話すのに最適だからだよ。私のお母さんと会った方が説明もしやすいと思ったし」
最初はそれにも納得した。でも話の全貌を知った僕にはまるで真逆の意味としか思えない。
「そんなの口頭でもいいはずだろ。「私のお母さんは優しい」って。もし君が言葉じゃ足りないと思っていたって一度僕をお母さんに合わせた後とかいくらでもやりようはあったはずだ」
彼女はここで僕が言いたいことを理解したようだった。咀嚼する口の動きが鈍重になる。
僕はその姿を目から逸らさず、人差し指でこの部屋でひとつのドアを指す。ドアそのものを指さした訳じゃない、その向こうにいるかもしれない人の影に指を向けた。
「教えてよ。なんで君が誰にも話したことのないって言っていた泣けない訳を、その張本人が居る家に移動してまで話した理由を」
この話だって扉ひとつ隔てた廊下で聞かれているかもしれないのに。なんならお菓子を運んできた時既に察せられてるかもしれないのに。
後ろに倒した体を両手で支えながら天井を見つめる彼女は、ただ何も考えず僕をここに連れてきたわけではなさそうだった。
「なんだろうね、訳を上げ出したらキリが無いんだけど。一番は、失望されたかったのかも」
放心状態と言うように天井を見つめてそう言うと彼女はこちらを見て笑った。
「今までの私はお母さんの顔色を窺って笑ってたんだって。笑顔の私を否定して、裏に隠れた私の思惑を知って、お母さんが失望してくれれば、私が私の感情を抑える理由がひとつ無くなる。泣けるかもってね」
そこまで聞いて大体の彼女の思惑を理解する。それと同時に彼女らしくないとも思った。
「まぁそれも直接言わない時点でお察しだよね。そうだよ、私にはそんな勇気がないからこんな中途半端なことしたの。私にとって今日話したのは青木くんに対してじゃなく、扉の向こうにいるかもしれないお母さんの影。暴露してる気になって救われようとしてた」
僕は、彼女が自分の口から勇気がないなんて言うことに新鮮味があった。僕が抱く彼女のイメージは頼まれれば夜の川に飛び込む行動力の持ち主で中途半端なんて辞書にないと思っていたから。お母さんが絡むと変わるのかもしれない。
だから普段こちらが振り回されている分、彼女を困らせたくなった。先程まで彼女の心中を思って思考を絡めていた自分は、もういない。
「なら君は結局どちらの方が大切なの? 自分の哀情とお母さんの愛情」
優柔不断な今日の彼女なら唸ると思った。しかしこの質問だけは既に答えを持っていたらしい。
「私にはどちらも取れないよ、どちらをとっても私が完全な化け物になるだけだから。だから青木くんに頼ってる」
「……随分高く買って貰ってるみたいだけど、ついさっき読ませた僕の小説は、君の琴線にかすりもしなかったよね」
「こういうのは積み重ねだよ。だから今日話した事も使えるならいくらでも小説にして。公園では期待しないでって言ったけど、青木くんが形を変えて新たな物語にしてくれるなら何か違うかもしれないし」
彼女はもう何回目かも分からない同じ笑みを見せた。
「期待してるよ、私を救ってくれるのを」
それは僕を焚き付けて、お姫様を救う責任感に駆られるゲームの主人公にでもさせるつもりだろうか。本当に、高く買われているらしい。当の僕は今、頼ってると言われた時に感じた薄い怒りを通り過ぎ、動揺に似た恐怖を背中で感じ始めているというのに。
「いらないよ、そんな期待」
まるで覇気のない捨て台詞を吐いて、彼女に背を向け逃げるように部屋を出た。薄暗い廊下には僕らが想像していた人の影はなく、複雑な心境で階段を下りていく。最後の階段を降り終えたと同時に右手のドアが開いた。先ほどの会話が抜けていない僕は思わず後ろにたじろいだ。
扉を開けたのは彼女のお母さんだった。僕が挙動不審なのを急に扉を開けたせいだと勘違いしたらしくごめんね。と優しく謝った後に不思議そうな顔をした。その表情の理由を大体察した僕は、先に口を開く。
「すいません、来たばかりなんですけど門限が近くて。お邪魔しました」
「そう、またいつでもおいでね」
優しい微笑と肩あたりで振る手に一礼をして、家を出る。飛び石を踏んで道路に出て、それからやっと僕は大きな息を吐くことが出来た。いつから息を止めていたかも分からない。
最初は軽い気で彼女の心内を覗く気だった。そしてそれを使い彼女の心を抉る小説を書こうと。ただ覚悟もしていたつもりだった。彼女が泣けない理由が病気、イジメ、家庭環境、知人の死、どんなものでも彼女の前では平然で聞こうと。
なのにどうだ。今の僕はまるで化け物にでもあったかのように逃げ出している。彼女が秘めていたのが僕の想定していたものよりも優しいものだったからだ。
ただ互いを思う、そこには愛しかない。しかしその結果、彼女は押さえつけていた哀を忘れた。それだけを聞いていれば涙ひとつ流しはしても、ここまではなっていなかっただろう。しかし僕は見てしまった、彼女の母の微笑を。彼女の頬を伝わない涙を。築き上げた嘘を崩す半端な覚悟を。そしてそれ全てを他人に託してまで哀情を取り戻さんとする彼女の執着心。
僕はそれ全てに、怖気付いた。困窮した盗人が入った家で、そこの住人から金を押し付けられて「私たちの生活を壊してくれ」と懇願されたよう。本物の盗人なら構わないだろうが僕はまだカンニング犯程度だ。彼女の記憶を盗んでその対価に彼女の運命を握ることになるなら、誰がそんな物盗むだろう。他人の記憶は横目で眺めるのが一番なのだから。
結局、彼女の執着心に怖気付いた僕は今日見たものを胸の奥にしまうことにした。もちろん小説に出来ないわけじゃない。ただ僕にはその覚悟がない。他人事では泣けない彼女にとって今日聞いた話はこの世の何より、本人の哀情と近い場所にあるのは確かだ。だからこそ恐ろしい。最大の希望である心の傷を簡単に小説にして、もしそれで彼女が泣けなかったら? 僕は謝ればいい? 同情すればいい? どんな顔をすればいいかも分からない。だから寝かせるんだ。いつか彼女の傷をちゃんと言葉に出来る時が来たら書けばいい。
考え込んでいた顔を上げる。気づけば太陽は空から姿を消して、残った青白い光の空には一等星が顔を出し始めていた。このまま太陽の光が闇に飲まれてしまう前に帰ろうと足早に歩いた。その道中、スマホのメモ帳に今日のことを綴る。彼女の人生を元にしたプロットを書く。僕の心、どこか欠けている気がした。