哀情
徹夜明けの僕には昇り始めた時とは比べ物にならないほど光を取り戻した太陽が眩しすぎて、登校中、何度その場に倒れ込んで寝そうになったか分からない。それでもお構い無しに日常は僕に降りかかる。第一の難関は友人らとの会話。
素直に睡眠不足だと言った方が楽なんだろうけど、それによっていいようにいじられるのも癪だから、僕は落ちてくる上瞼を気合いで引き上げ続け、同調と肯定で会話を切り抜ける。それでも朦朧とした意識の中、会話が噛み合わないことや不眠が目のクマとなって現れていたことを多々指摘され笑われたりしたから、どの道変わらなかったなと自分の席に着いた頃に気づいた。
もう朝の会が始まる直前、教師の到着に備え皆各自の席に着き始める。今日は佐藤優も例外なく席に座っていたが今日の僕は例外的に彼女の事を横目で見るほど暇ではない。僕は腕を枕にして机に突っ伏す。周りの雑音やらでとても寝られはしないが目を閉じて頭を休ませるだけなら問題無い。
暫くはクラスの雑踏をバックミュージックに微睡んでいたが担任教師が来て「起立、礼」から朝の会が始まると堂々と寝てもいられない。だから前の席の奴の背中に隠れるようにして居眠りを続行する。
出席確認や健康観察が淡々と終わって、そろそろ一時間目が始まるかと思いきや、その間に教師からの連絡が入った。それ自体は珍しいことでもない、内容は大抵授業が入れ替わるだとか次は自習になるとか。
どうせなら後者ならいいな。と突っ伏しながらも律義に周りの声に耳を傾けていた僕は次に教師が話した報告により、片足つけていた微睡みから引き戻される。
「理科室に不法侵入した人間がいるかもしれない」
緩んでいたクラスの空気がその言葉により一瞬で強ばるのが分かった。一番強ばっていたのが僕だからということもある。
聞いた瞬間、思わず顔を上げそうになるの堪えた。今ここであからさまな反応をする訳には行かない。
心地は裁判中の被告人。もしかしたら裁判長、もとい教師はもう犯人が分かっているのではないか。それでもって犯人である僕らに自白する猶予を持たせているのではないか。そんな事を一瞬の内に考えてしまう。すると勝手に心臓が暴れだす。ただその後、教師が話す限りでは本当に犯人は分かっていないらしかった。
本来使われていないはずの放課後に理科室の窓とドアが開いていたこと。それが鍵で開けられたわけではないこと。しかもその場所が理科室という事が何よりも問題だったらしく、そこから毒物や劇物が盗まれでもしていたら悪戯じゃ済まない。と。
今は盗まれた薬品がないか調べたり、不審者などの目撃情報を集めている所らしい。
あらかたの捜査状況を聞いた僕は謎の安堵に包まれた。まだ安心出来る状況ではない、今僕が居るのはせいぜい台風の目と言ったところだろうに、ひとまずの難を逃れた僕は気の張った心を緩める。
最後に教師がクラス全員に不審者など見ていたら直ぐに教えて欲しい事と、そうでなくても何か『心当たり』がある人は教えてくれと付け加えて朝の会が終わった。
心当たり。それはきっと暗にクラス全員の中のいるかもしれない犯人に対して自白した方がいいと言う意味だろう。また、冷や汗が頬を伝う。しかし、それは犯人がまだ分からないという意味でもある。今更僕にできることは無いし、あの日僕らが理科室から出ていく所を見た人間が出ない事を祈るしかない。
僕の心穏やかでないまま、一時間目が始まろうとしていた。ただクラス内は先程の話でざわめいている、非日常な事件が起こったとなれば当然のことだろう。
探偵気取りで犯人を探し出そうとするやつ、友人にお前がやったんだろと小突くやつ、その騒ぎに紛れて談笑するやつ、恐らく佐藤優がそれに当てはまる。
僕はずっと突っ伏したまま腕に顎を乗せ、隣の席の女子と楽しそうに話す彼女を見ていた。まるで私は今回の事件に無関係ですよと言わんばかりの態度と表情。それに対して僕の哀れなほど動揺しきった心。ふつふつと沸くような怒りが現れて、次第にそれは熱湯に変わる。上る湯気が視界を歪んでみせて、誰かさんの笑みは悪魔の嘲笑に形を変えた。
あの時、彼女が理科室を待ち合わせ場所にしなければ。ピッキングなんて馬鹿なことをしなければ。無闇に窓を開け放したりしなければ。それでも帰る時に全てを元に戻せばどうにかなったかもしれない。なら僕は共犯者なんてレッテルを貼られることは無かった。
全部、彼女のせいだ。全部、彼女と自分を比べて出た情けなさから来る怒りだと気づいた上で、それを思った。彼女のせいだって事は変わらない。僕が被害者なのも事実だ。怒りの出処が自分の情けなさを隠すためだとしても。当時は僕も、あの状況を楽しんでいたとしても。
今日の放課後でも機会があれば彼女にその件について問いただそう。教室の前から教師が教科書の百十ページを開けと言う声がする、もう一時間目が始まっているらしい。
突っ伏して頭を休める僕にはその声を聞いても白昼夢か何かだと自分を納得させて、その夢の中で彼女への怒りに薪を焚べる。
ただ、結局その日は彼女と話すどころか、まともに挨拶をしないまま学校が終わった。でも僕はそんな事をこれっぽっちも気にしていない。と言うより怒りそのものを忘れていた。一睡して炎も弱まったのだろう。その後も結局、今回の件は彼女に話すことなく終わることとなる。己の感情を騙すための怒りなんてそんなものだ。不審者騒動も目撃者が現れず、盗まれたものもなかったとの事で大事にならずに終わったのも理由の一つだろう。めでたしめでたし。
どうだろう? この時点で僕の物書きにあるまじき鈍感さに溜め息のひとつでも吐いているのではないか。でもこれは君が悪い。下手な伏線で察しろなんて都合がいい願いが伝わるのはプロットを知る君だけだ。
一件落着と片付ける僕には当時、君がまだ戦火の最中に立っているだなんて想像も出来ない。変わらない微笑の奥には、今にも気が触れてナイフを振り回しそうになる君がいるなんて。
君の戦い方は余りにも消極的だった。目を瞑って並べたドミノを押して、後は上手いこと最後まで倒れてくれと願うような他力本願。
あの時も過ぎ去った台風に胸を撫で下ろした僕と違って、君はきっと途中で止まったドミノ倒しを睨んでいた。周りからの愛情が崩れて自らの哀情になるのを、望んでたんだろ。
今更気づいたって遅いから、僕はもう手に残った最後の哀情に手を付けている。
……冗長に要らないことを書きすぎたね。当時のことを思い出しながら書いていると君に対して言いたい文句が多くて困る。まぁこの小説は僕らの人生を書き写しているだけだからネタバレを気にしなくていいのは楽でいいよ。ただ最後だけは君だって真似出来ないようなミュージカル映画を用意してるから安心していい。
僕らの人生を貶された怒りか君の世界観のせいか。たった三日間でこの小説は五万文字をゆうに超えた。しかし、吐き出すには早い。まだ僕らの人生は味がする。全部噛み終えた時、君はその頬に涙が流れていても、きっと最低だと僕を罵るだろう。でも冷静になって欲しい。
だって君は、他人事じゃ泣けないんだろ。
これが僕が出した、上っ面の君を殺す答え。
冷えきった珈琲を口に含んで胃に落とす。まだ慣れない苦味で頭が冴えた。何ともなしに通知の溜まったスマホを開いて僕のスマホに通知を溜めさせた張本人にメッセージを送る。
先に送られてきた彼女からの文脈とは全く関係のない一言。
人生の終点に向かいながら哀情を模索する今の僕が出した答えは君の目にどう映るだろう。
すぐに既読がついて返信が来る。
「それって?」
瞬き一回の間、返信を眺めてからスマホの電源を落として、またパソコンの画面で人生をなぞった。
僕から君へ、最後の哀情を。