一
「いやーあんなに笑顔になってくれるなんて飛び込んだ甲斐があったなぁ」
川から上がったばかり、ずぶ濡れの彼女はシャツの裾を握り雑巾を絞るみたいに水を落として、何やら満足気。
「笑顔なんてとんでもない。僕は引いてたんだよ。あんな突拍子も無い言葉に簡単に乗って飛び込むような、行動力の高い佐藤さんに対してね」
「だって青木くんはこうしないと小説を書けないんでしょ? なら私は飛び込むよ。それに私も楽しかったしね!」
彼女の言葉を聞いて、じわじわと自分の矛盾している感情に気づいた。僕の飛び込めと言う頼みを聞いて飛び込んだ彼女に対して僕が「何をしているんだ」と言う理由がないはずなのに。
そうか、何でもすると言った彼女に対してどうせ中身の無い言葉だと決めつけていた僕の方が、覚悟がなかっただけだったのか。
「どう、書けそう?」
「……え?」
下を向いて歩いていた僕は不意の言葉に返事を見失った。彼女がなんの事を言っているのか一瞬、分からなかった。
「ちょっと、とぼけないでよ。私が飛び飲む姿を見たら小説を書けるかもって言ってたでしょ」
「ああ」
目の前が真っ白になる。なんと僕はいまさっき起きた突飛な状況のせいで根本的な事を忘れていた。
今から改めて断る? 彼女に川にまで飛び込ませてそんなことできるはずがない。それに今、小説を書くアイディアがないと言ったら、嘘になる。
同級生が夜の川に笑って飛び込む。それは僕にとって一つの小説を書くには十分すぎる材料だった。
未だにセミロングの髪からは水が滴っている。濡れて重そうな服を着て、今度は彼女が僕に体を向けて、目を据えて、いつもの笑顔を浮かべて、一つ咳払いをして。
「じゃあ青木くん、私が泣いてしまうような小説を書いて見せてよ」
彼女はさっき僕が言った言葉に寄せて言うことで、僕を試しにきたんだと思った。
お前が飛び込めと言った時、私はそれを飲んだ。ならお前はどうする? 私よりも覚悟がなかったお前はどうする? と。
そんな浅い煽りに乗るのはいくら約束したとて屈辱でもある。そのはずなのに僕は彼女の飛び込む姿を見て少し変わってしまったらしい。
「……分かった。書いてあげるよ。佐藤さんが顔をぐしゃぐしゃにして泣くような物語を」
心に根を張ったプライド、信念、そんなものが今だけ意味をなくした。それほどの創作意欲が、あの景色を文字に起こしたいという感情が僕の口を滑らせた。
「うん、楽しみにしてる!」
ずぶ濡れのまま、彼女は笑った。僕が自分の言葉で小説を書けるようになる日がまた遠くなった。それだけならまだいい。この濁った思想にまた新たな色を入れないようにだけ気をつければ。
「あー楽しみだな、青木くんの小説!」
あからさまに上機嫌な彼女は、僕にプレッシャーを掛ける言葉を吐く。僕はその様子を渋い顔で見ながら自転車に跨がる。
「それより、まず、後ろ乗って」
「え、どうして?」
「送ってくよ。家まで」
僕らしくも無い言葉に彼女も少し驚いたようだった。しかし、その後すぐ意地悪い笑みを向けてくる。
「えーどうしたの。急に優しくなっちゃって! そんなに私の飛び込みがお気に召したの?」
「何言ってんの。そんなずぶ濡れで歩いてたら不審者扱いされて、一緒にいる僕まで被害を被るから、とっとと家に帰してやろうっていう僕の良心だよ」
まぁ、こんな言葉に中身が無いことくらい自分でも理解している。少なからず、飛び込めと言った僕にも罪の意識がない訳では無い。だからと言って、天邪鬼な僕はそれを言葉に出すなんてことはしない。
彼女もそれ以上、何も言わず荷台に体を乗せた。それを確認してから重くなったペダルを相応の力の乗せて漕ぎ始める。彼女の道案内を聞きながら夜道を走り、僕の家を過ぎようとする所まで来た時、彼女が笑いながらこういった。
「ねぇ、もし今、二人乗りしているところを知り合いに見られたらどうしようか?」
「別にどうもしないよ。図書館で偶然出会ったずぶ濡れの同級生を家に送ってるって真実をいえばいいだけ」
僕は適当な言葉を返す。すると不服そうな声が後ろから聞こえる。
「えーつまんないよそれ。せっかく面白い嘘がつけるチャンスなんだから本当の事言ったら勿体ないじゃん」
「……その思考は危険だからすぐ治した方がいいよ。でも、その嘘ってのがどんなのかは気になるかな」
怖いもの見たさで聞いた僕に彼女はわざと大きな声で「駆け落ちしてきました! とかいいんじゃない?」なんて言ってわざとらしく笑った。確かに冗談なら笑えるが、彼女なら本当に言いそうだから僕は眉間に皺を寄せた。
「今から自転車降りたい?」
「いや、うそうそ! 私なりのジョークだって!」
「彼女」もしくは「行動力おばけ」が言うジョークはどこまでがジョークなのか分からないから困る。今日一日で起きたことが僕をここまで疑心暗鬼にさせているんだ、いつも彼女と行動を共にしている女子たちは彼女の事をどう思っているのだろう。もう彼女のそういう所も慣れてしまっているのか、彼女の友人は行動力の高い人間が集まっているのか。今まで視界の端に映るクラスメイトとしか認識してきなかった僕はそれも分からない。
僕がそんな思考に耽っている時「着いたよ」と後ろの彼女が言った声で我に返る。自転車を止めると左前の表札に佐藤という文字が見えた。その表札のかかる家は、緑色の棟違い屋根が特徴的なくらいで他はとてもシンプルな一軒家だった。
自転車の荷台から降りた彼女は、軽い足取りで玄関に向かっていく。当たり前だが全身濡れたまま。僕はそれを見て単純に気になったことを聞いた。
「佐藤さん、その格好で帰ったら親に怒られたりしない?」
玄関に向かっていた彼女は僕の声で振り返り、すぐ自分が濡れていることに対してだと気づいたらしい。鮮やかだった青いスカートは水を吸って黒ずみ、振り返ると大袈裟に裾が膨らんだ。
「あぁ、まぁそうだね。凄い驚かれるか、凄い怒られるかくらいはあるだろうね。もしかしたら、その両方かもしれないよ」
彼女はそれを笑って言う。先の話から彼女の事だ、親になぜ濡れたのかと聞かれたら何かつまらない嘘をついて話をややこしくするかもしれない。
そうなったとしても彼女が理由を誤魔化して弁解しないせいだとか、元々冗談で言った僕の発言を真に受けて飛び込んだ彼女の責任だとか、思うところが無いわけじゃないけど、少なくともあと一回はまともに顔を合わせる仲だ。それをそのままにしていたら、僕は次、彼女と会う時、どんな顔をすればいいんだろうと無性に思った。だからこれは言わないといけない。
「……ごめん」
絞り出したその謝罪の言葉は僕の予想よりも小さく口から出た。でも彼女には届いたらしい。
「え、なんの事?」
「僕が佐藤さんに川に飛び込めって言ったことだよ。それのせいで怒られることになってごめん」
彼女に向かって頭を下げた。彼女からの言葉は無い。少し、鼓動が早くなった。ただ、直ぐに彼女の声が静寂を裂く。
「それは違うよ」
僕は恐る恐る頭を上げる。優しく笑った顔がそこにあった。
「いくら青木くんが飛び込めって言ったからって最終的に自ら飛び込んだのは私なんだし、謝る必要なんてないよ。なんなら私は青木くんに感謝してるくらいなんだから」
僕は許された喜びを噛み締めるより先に最後の言葉が気にかかった。
「感謝って?」
僕の質問を待ってたかのように彼女は笑みを深める。それはもう、心の底からこみ上げてきたような笑顔で。
「親に怒られる理由を提案してくれた青木くんに対してかな」
なんと言えばいいかわからず僕は彼女を見ていた。一見、嫌味としか捉えられないその言葉だが僕の心には怒りの感情は一切湧いてこない。彼女の笑顔の中に、濁ったものを一切感じなかったから。それ故、分からなかった。僕の謝罪を否定する、その言葉の意味が。
「それはなんで」
聞き返そうとした僕。だが。
「じゃあ、また学校でね! 小説、楽しみにしてるから!」
あからさまに遮るように、大きな声と手を振りながら颯爽と玄関のドアを開けて彼女は姿を消した。
少しの間、彼女が入っていった家を見ながら放心状態になった僕だったが、直ぐに自分を取り戻して帰路を進み出した。あの言葉の意味が分かった、訳ではなく、考えるのをやめた。気にならないと言ったら嘘になるが、答えを知ってるのは彼女で、いくら自分がここで考えたってそれは結局仮説でしかない。
彼女のいない夜道は、本来の姿を取り戻したかのように静かで、彼女の降りた自転車は僕の体と心を軽くした。
彼女のせいでぐちゃぐちゃに掻き回された僕の心には単純な夜道だけでも精神安定剤のような安らぎをくれる。やっぱりだめだ。彼女みたいな人間といると嫌でも焦点が彼女に当たってしまって周りが見えなくなってしまう。せっかく今日は夏の月が夜空を彩っているのに、その事さえも忘れさせてしまうのだから。
思い出した月を視界の端に置いて、夜風を切った。夜道を点々と照らすスポットライトの下を一つ、また一つと過ぎて、誘蛾灯に集まる羽虫を、何となしに眺め、左右の家々から聞こえる談笑が耳に入って、それで。
視界に入ったもの、一つ一つに情景や想像を巡らせながら自転車を漕ぐ時間は僕にとって、とても充実しているはずだった。いや、実際そうだった。ただ何故か、来る時は気にならなかった道のりが異様に長く遠く感じて、僕は月を見てそれを誤魔化した。
それでも進んでいれば、自分の家の近くまでたどり着く。何度か細い道を曲がって見慣れた一本道に出る。あとは直進、この先にあの橋があってその手前に僕の家がある。
道を進み家に近づいていく中、僕は道の先に架かる橋の方ばかり見ていた。やはりどうしても、あの光景はそう易々と脳裏から消えてくれるようなものじゃない。
僕は引かれるように道を進んで、家の前さえも通り過ぎて、あの橋の上まで来ていた。何となくもう一度、彼女が飛び込んだ川を見たくなった。
端に自転車を止めて、川を覗き込んだ。そこには夜を溶かした水が留まることなく、流れ進んでいる。そんな川の上、ずっとその場で揺らいでいる水月は地球の底に続く穴の入り口にも見えてくる。
彼女はここに飛び込んだ。思い出そうとしなくても僕の頭にはあの風景がずっとそこにある。
彼女が笑って飛んで夜を舞って、川に沈んで水を降らせて月を揺らす。今でさえ本来の姿を取り戻したこの川も、あの時ばかりは彼女の色に染まったように見えた。彼女が飛んだ瞬間、この川は舞台上になり、月も舞台照明になるんだ。
なんて恐ろしいんだろう。人間の奇行というものは自然の美しささえ霞ませ、脇役にさせてしまうらしい。さらにあの時は僕も夜の美しさを忘れ、その舞台で踊る彼女を見ていた。ならばさしずめ僕も、彼女の舞台を見ていた観客だったのだろう。あの風景を見せられたらそれも仕方ないと思う。僕は彼女のように舞台上には上がれそうもない。
川を覗きながら考える。観客になって彼女の舞を見ていた時のことを。そうした時に、ある一人の人物の事が脳裏を過った。あの人がもしあの光景を見ていたならなんと思うのだろうと無性に気になったのだ。
そうしたらもう、いてもたってもいられなくなっている僕がいた。
幸か不幸か、僕は今日スマホを家に置いてきていた。親に遅いと怒られそうになったら時間がわからなかったとでも言って誤魔化そう。そうと決めたら早い、橋の隅に停めていた自転車に勢いよく跨がり地面を蹴って『先生』の家へと向かった。
ギアを六速に変えて重くなったペダルを立って漕ぐ。先生の家はこの川を上っていけば直ぐだ。
川の隣を寄り添うように進んでいると、視界の奥に色褪せ茶色くなった壁と夜より暗い雨だれが目立つ一軒のアパートが現れる。僕はそのアパートの駐輪場に自転車を止めてから外階段、廊下を通ってひとつの部屋の前に立った。ポストから新聞がはみ出ているドアの前からは中の音は一切聞こえてこない。でも恐らく先生はいるだろう。逆に僕が尋ねる時、先生がいなかったためしがない。
少し強めにドアをノックしてから「入りますね」と言う声と同時にドアを開けた。すると部屋の中は真っ暗だった。一瞬、先生はもう寝てしまったかとも思ったがどうやら違うらしい。
玄関で靴を脱いだ後、律儀に揃えて、こぢんまりとしたキッチンを抜けた先、畳の六畳間がある。そこに先生はいた。部屋の奥にある窓を全開にして、その風景を体の後ろに手を突きながら座って眺めている。闇と同色の髪、細身な体を包む白いワイシャツはアイロンなどをかけない先生の性格上、シワがいたるところについている。そんな一見、浪人生に見えなくも無いこの人こそ僕が先生と呼んで親しんでいる人だ。
僕が先生を名前ではなく先生と呼んでいるのは、彼が僕の教師だからという訳ではなく、その方が自然という訳でもなく、ただ先生が小説家であるからに他ならない。
先生に出会ったのは半年前、丁度僕が色んな小説を読み漁り出した頃。その姿を見た父が旧友に小説を書いてる奴がいるから会ってみるか? と持ちかけられたのが始まりだ。小説家を目指していた僕にとって小説家という人物にはとても興味があるのもあり、二つ返事でその提案に乗った。
後日、父に連れられこのマンションに来て、初めて先生に会った。先生は父と少し談笑した後、笑いながら僕に向かってこう言った。
「蒼汰くんだっけ? 君、私の小説読んだことないだろ? 読んでいたらそんな目をして私と顔を合わせられない」
この時の僕は的確に言い当てられた反動か頷くことしか出来なかった。そもそも僕が先生に会いたいと思った理由が読者としての好奇心じゃなく、物書きとしての好奇心だった。だから先生がどんな小説を書いているかなんて二の次で、父にも先生の作家名を聞かなかった。ただその後、あの言葉が気になり先生や父にその事を聞いてみても何も教えてはくれなかった。だから今も知らない。でも僕はそれでもいいと思っている。僕が先生を先生と呼んで親しんでいるのは先生が書く小説によるものではなく、先生の言葉遣い、行動、思想、全ての所作に僕の求めている小説家像があるからだ。
先生は大学生の時、コンクールで賞をとってから今に至るまで、この狭い六畳間で小説を書かいてきたらしい。きっと先生の頭には小説しかないんだろう。だから狭く何も無い部屋で、最小限の交流関係で、小説を書き続けられる。人生を小説に費やしている姿が僕にはとても美しく映った。
僕が先生の元に通いつめるようになったのはその後、沢山の小説を読んだ僕が自分の言葉で小説を書けなくなり絶望していた頃。ふと、先生の事が頭をよぎった。
物書きを名乗るのもおこがましいような僕と違って先生は何も無い六畳間の中、自分の言葉だけで小説を書いている。簡単そうに思えて僕にはもう出来ないことを先生はもう何十年もやっている。
僕が求めている人生の在り方、命の使い方、全てを先生は兼ね揃えていたのだ。酔生夢死も現実的になってきた僕の人生を、小説を変えるなら、先生に縋るしかない。あの人の生き方を盗むしかない。
思い立った僕は今まで書いた小説を持って先生の元に行き、あの時先生に会いに行った意味や今の僕の悩みを全て打ち明けた後、先生に僕の書いた小説を見せた。罵詈雑言もやむなしと思っていた僕に先生が言ったことは一つだった。
「この小説には美しさと心がない」
無論、僕は何も言い返せるわけが無い。僕が先生に見せた小説に僕の言葉なんて隠し味程度にしか入ってなく、大部分を占めるのは僕が感化された誰かの思想と言葉だ。
そんなこと見せる前から分かってた。でもこうして他人の口からハッキリと言われると都合のいい自尊心により無性に悔しくてたまらなくなる。しかも、それが僕が憧れてしまった人となれば否定なんて出来よう筈がない。
突きつけられた事実から抗うように僕はプロットなどを書いては先生に見せるため、この部屋に通い始めた。先生は僕の中で唯一、僕の小説の客観的な感想をくれる人で唯一、人間として憧れている人だ。
僕が書いたプロットを先生が肯定してくれれば、その時こそ僕が自分の言葉で小説を書ける。それを信じて足繁く先生の元に通っているが、未だに先生は首を縦に振ったことは無い。
今日僕が先生の元に突然来たのも、その事と関係する。僕が彼女、曰く佐藤さんのために小説を書くことに先生はどんなことを言うのか、それと夜の川に笑って飛び込む人間がいたと言ったら先生はどんな顔をするのか。
暗い部屋の中、立ち尽くしている僕の気配に気づいたのか、先生はこちらに顔を向けて笑った。
「ああ、やっぱり蒼汰か」
その優しいながらもどこか暗い顔に僕は安心感を抱きながら、笑い返して答える。
「はい、どうしても話したいことがあって。でもその前に先生、電気も付けないで何してたんですか?」
「ん、別に特別なことはしてないよ。ただ、今日は月が綺麗だからね、眺めてたんだ。電気をつけたままじゃあ、月が霞む」
まるでそれは先程見た景色を指しているようだった。なら丁度いいと早速僕はさっきあった出来事を話すことにした。
「先生、丁度僕はついさっき、月を霞ませる太陽みたいな人を見ましたよ」
「面白そうだね。話して見せてよ」
僕の発言に興味を持ったのか、体をこちらに向けてあぐらをかいた。僕は拙い語彙でなるべくあの時の経緯と風景を鮮明に先生に伝えた。でも、あの景色全てを言葉で表せてなんていなかったと思う。ただ先生が無言で僕の言葉を待っているので何とか言葉を選び選び、最後まで話しきった。
先生は顔に微笑を浮かべている。この話は僕が思っていたよりも先生の好みだったみたいで話に来た甲斐を噛み締めた。
「凄いなそれは。まるで小説の一部分を聞いてるみたいだ」
「まぁ、確かにそうなんですけど」
「言い淀んでるね。話を聞く限り、蒼汰の意志は固まってるものかと思った」
「書きたいとは、思います。でもそれはあくまで彼女が僕に無理やり押し付けてきたようなもので、本意じゃないというか。そんなもので小説を書いたって美しさも心も出せる気がしません」
僕は未だに先生の言った美しさと心に囚われている。美しさとは世界観で心とは言葉の重み、僕はそう思っている。
彼女のために小説を書いて、それらを出せるなんて僕には到底思えない。
「蒼汰、確かに私は以前、君の小説には美しさと心がないと言った。だが一番大切なのはそこじゃない」
さっきまで笑いながら僕の話を聞いていた先生が急に声を落ち着かせてそう言うので、少し鼓動が早くなる。
「単純に書きたいか、書きたくないか。だ。書きたくない話を無理やり書いてたって美しくなりようがない。自分が書きたい話を書いてこそ、文字に心が宿って美しさとなるんだ」
僕は先生のその言葉に核心を突かれた気がして視線を下に落とした。
「なぁ蒼汰。君はその子が見せた景色で小説を書きたくないのかい?」
言われ改めて気づいた。答えは考えなくてもそこにあった。
「書きたいです。彼女を見て思った事を全部」
「なんだ、もう答えが出てるじゃないか。なら書けばいい」
「でも、僕は」
言葉に詰まる。確かに先生の言うことは最もだ。ただ。
「先生、僕は自分の言葉で小説を書きたいんです。彼女の行動を文字にしてるだけじゃ、僕が書いた小説と言えないと思うんです」
「蒼汰は少し勘違いをしているよ。君は書記じゃない、物書きだ。目の前で起こったことをそのまま文字にするんじゃなくて君の言葉で表現すれば、それは君の小説だ。違うかい?」
「違わ、ないです」
「確かに色んな小説を読んで自分の言葉がわからなくなったって言う君の悩みも分かるが、燻ってるままでそれが治るとも思えない。寧ろ沢山書いていったほうが自分の言葉を思い出すかもしれないよ。だったらいいきっかけとしてその子に小説を書いてやってもいいんじゃないか?」
僕はその場に座って静かに先生の言葉を聞いた。僕の言葉であの風景を表現する。自分の言葉を思い出すきっかけとして彼女に小説を書く。先生の言ったことは僕がさっきまで渋っていた理由を忘れさせて、無駄に育った青臭いプライドのせいで自分でも気づけなかった本心を思い出させた。
彼女の行動を書き写すんじゃない、彼女の行動を僕の目で感じた言葉で書けば、きっとそれは僕の小説だ。
さっきまで自信が無く下を向いていた僕はいつの間にか先生の顔を見られるようになっていた。
「分かりました、書いてみます。彼女を泣かせる小説を」
僕の晴れた顔を見て外の薄明かりに照らされた先生の横顔も笑っている。ようだった。確信を持てなかった。いつもは目を合わせて話してくれる先生がその時ばかりは視線を左下に滑らせていたから。月明かりしか入らない六畳間では明暗がはっきりする。陰影の深くなった先生の顔、月明かりを遮る前髪が目の奥を闇に落とした。心なしかその闇の奥に僕は上がった広角とは真逆の感情を見た。しかしそれは一瞬。直ぐにいつも通りの明るさで先生は僕を見据えた。
「うん、それがいい。出来たら是非私にも見せてくれよ、楽しみにしてるから」
僕はその暗さの理由が分からなかった。僕に道を指し示してくれた先生が何故そんな顔をしなければならないのか。理由が無い。だから勘違いだと割り切っても心に蟠りなんて残ることは無かった。
「はい!」
そう元気よく答えた時、先生の後ろの壁に掛けてある時計が目に入った。時刻は、もう八時手前。
しばらく思考が止まり、冷や汗が頬を伝うのが分かった。僕の家は基本門限が六時に決まっている。ただ、暗黙の了解で夕飯時の七時までは口頭で少し注意されるくらいで何とか親の雷を避けることが出来る。八時なんて、論外だ。
僕は直ぐにその場から立ち上がり、もう帰らないと行けない事を伝えると先生は「来るも帰るも忙しいね蒼汰は」と笑った。僕は恥ずかしさを隠すように笑い返して、今度は時間を持って会いに来ることと別れの挨拶を添えて玄関に駆けていった。
踵を靴にしまいながら頭の中はどんな言い訳という名の避雷針を親に提示すれば雷を避けられるかということばかり考えていた。
まぁとりあえず先生の家にいたと言えば最悪の事態は避けられるだろうと思いながらドアノブに手をかけた所で部屋の奥から先生が僕を呼び止める声が聞こえた。
「蒼汰、忘れちゃいけないよ。小説を書くってのは毒を飲み込む作業だ。その逆は決してあってはならない。私達は美しい世界を書くために毒を貯め続けるんだ」
振り返ると先生は僕が来た時と同様、窓から空を見上げていた。僕はその言葉に二文字の返事をして先生の部屋を去った。
今の先生の言葉、実は初めて聞く話じゃない。先生はことある事に小説は毒を飲み込む作業だ。だが小説に毒を吐き出しちゃいけない。そう僕にまるで呪文のように唱える。その意味を僕はなんとなく理解しているつもりだ。
芸術家は心を病みやすい。それにも様々な理由があるとは思うが先生はその一つとして執筆作業の辛さをその言葉に込めているんだと思う。多方面からのプレッシャー、いいものが書けない時の苛立ち、情けなさ。それを飲みこみ、溜め込まなければ美しい小説は書けないと先生は僕に諭しているのだろう。
だから僕はいつもその言葉を信じ、毒を飲み込んで小説やプロットを書いているつもりなのに美しさとやらは一向に現れる気配はない。僕は先生の言葉を疑うつもりは無い。きっと僕の毒がまだ足りないだけ。世界の全てが歪んで見えるほど自分を追い込まないとダメなんだ。
なんて言ったが明確な追い込み方も分からないまま家の近くまで漕ぎ着いた時、目の前の鬱を思い出す。
そんなことよりも今は早急に申し訳なさそうな顔を作って謝罪文を考えなきゃいけない。
玄関の前に立って深いため息をひとつ。全身の力を抜いたあとで目線を下に落としながら玄関の扉をゆっくりと開けた。
その音で母がすぐに駆けてきて質問と説教の嵐。僕はその言葉たちを肯定し反省の色を顔に塗って雷雲が通り過ぎるのを待っている中、ふと彼女はどうだっただろうかと気になった。
僕のように怒られてしまっただろうか、それとも心配されただけだろうか。彼女曰くその両方もあるらしいが。その言葉を思い出していく内に僕に感謝していると言った彼女の笑顔を嫌でも思い出す。あれは本当にただの嫌味だったのだろうか? あの真っ直ぐな笑顔にそれ以上の感情を読み取れなかったのは僕がただ鈍感だっただけなんだろうか。それとも本当に親に怒られることに感謝していたのか。
彼女の言動全ては僕の思考を迷路のように入り組ませる。わざと要点を掴ませないように話すくらいなら元より口に出さないで欲しい。単純に言いたい事だけをそのまま口にすればいいのに。
もしかしたら彼女は神様に「お前は話す時に必ず何か含ませたような言葉と語気にしろ」とでも命じられているんじゃないか。そんな天命を受けてなきゃ僕がこうして彼女の言葉に振り回されている状況が情けなくて仕方なくなってしまう。
母親から怒られながら僕は彼女の言葉に思考を巡らせていた。そんな僕は母親への相槌を疎かにしてしまい、消えかかった火に薪をくべることになる。
僕が開放されたのは帰宅から一時間後、半ば母も呆れか諦めか、どちらかの感情で僕を中に入れてくれた。
母には悪いがこうなればしめたもの。冷めた夕飯を口にかきこんでから、急いで自室に戻り机の上のノートパソコンの前に座った。やることはひとつだ、まだあの風景が鮮明に脳裏に残っているうちに文字に起こしておきたい。
埃の被ったノートパソコンを起動してワープロソフトを開く。すると真っ白の画面が映し出される。
僕はさっそくキーボードに指を添え、書き出そうと思った、が。喉の奥、心に根を張った自尊心がここぞで指を止めた。頭に彼女の姿を思い浮かべながら小説を書くという少し前までは考えたくもないような苦行を自らしようとしているのだから。
ただ、先生が諭してくれた「あの風景を僕の言葉で表現する」という言葉で僕はなんとかパソコンの前に座っている。確かにそれなら、彼女を僕の言葉で飲み込んで小説にすれば、それは僕の小説だ。
それは分かっている。なのにいざ書こうとした時に指が動かないのは、気づいてしまったから。今の僕の技量では、僕の言葉が彼女に飲み込まれてしまうんじゃないかと。
僕の言葉ではあの風景を完全に表現出来るわけが無いことは、実際に目で見た僕が痛いほど分かっている。ならそんな状態で小説を書いた時、僕の拙い文字が彼女の奇行に飲み込まれてしまうことなんて自明じゃないか。
ただ、彼女の行動をなぞっているだけ。まさに書記。それは僕にとって耐え難い苦痛だ。
……辞めてやろう、こんな小説を書くのは。自分の自尊心を殺してまで書く理由がない。約束を破ることは何か他のことで償って、小説は今までと同じく濁った頭でプロットを考え続ければいい。
なんて思いながらパソコンの前に座り天井を眺め、早一時間がたっただろう。もう自分で自分を笑ってしまう。また、それと同じくらい悲しくて仕方ない。
川の流れに逆らって泳ごうとすれば停滞する、しばらくしたら手足が疲弊して流される。僕の人生、常にそんな調子だった。長いものに巻かれなきゃ物が書けない。
自ら足を踏み入れた川だ。しかし僕にはその川を下っていける技量も上っていける才能も無く、大いなる流れに溺れて苦しむだけ。
ずっと信じたくなくて、認めたくなくて考えないようにしていた。まともに会話したのは今日が初めてだと言うのに、いつしか膝下まで浸かった川の中。
僕はもう、少し、彼女に感化されてしまっている。
根を張った自尊心でも青臭いプライドでも隠しきれないほどの衝動があるんだ。書き出してしまえばブレーキの壊れた自転車を漕ぐみたいに止まらない。だからこそ書いてはいけない気がしていた。彼女という川に身を任せていたら僕は自分で泳ぐことを忘れる、言葉を忘れてしまう。
そのはずなのに、駄目だ。自分の衝動に抗うために色んな否定的な言葉を考えてみたものの、結局心に残るのは無駄に肥大した創作意欲だけなのだから。
「書きたい話を書いてこそ、美しさが宿る」
先生の言ったことが口から漏れた。きっと今の僕を自ら正当化しようとして出た言葉だろう。
彼女の事を、書きたい事を書いて美しくなるなら、それはそれでいいんじゃないか?
自己欺瞞が始まる。そのあとはよく覚えてないが適当に自分を教唆の言葉で包み込んで、小説を書いていたと思う。
冷静になったのは午前三時、彼女への小説があらかた書き上がった頃。もちろん自己嫌悪が心の底からこみあがってきたのだが、それ以上に久しぶりに味わった小説を書いた後の軽い頭が、僕の脳に難しいことを考えさせないようにさせている。
そんな頭だから誤字脱字もロクに確認せず、書き上げた小説を紙に印刷した。短編なので数十枚の紙で収まり、それを丸めて輪ゴムで留めた後、通学カバンに押し込んだ。
夏休みの終わりも近いし、わざわざ彼女の家に届ける苦労も馬鹿らしい。見せるのは学校が始まってからでいいだろう。
溜め込んだものを書き出した頭は空っぽだ。その後は睡魔に身を委ね、一直線で布団に潜って寝た。
彼女からのミッションをこなした僕。それからの夏休みはもれなく、宿題の消費と友人との遊びに費やされた。彼女の色なんて、そこにはどこにも残っちゃいない。あの夜を忘れたように日々を過ごした。一日一日が長く感じるのも既視感があったりしたけど気のせい。友人と馬鹿なことをしている時、友人も自分も酷く滑稽に見えるのも、あの夜から手帳に書くことが何一つもないことも。
呆気なく残った実りのない夏休みが終わった。九月一日の朝、立秋を通り越して夏の匂いも薄れ始める。すると眼前にはもう秋の風が迫っているのが分かる。
僕はここで初めて、あの夜書いて以来触っていない、彼女への小説を手に取った。
タイトルは「春霞、立春を待たず」
この小説は呪われた痣を背中に持つ主人公が川に飛び込むまでの話。家族愛を題材にし、愛の甘さと影を書いた。いい感じの救いの無いバットエンドが書けたと思う。彼女の飛び込む姿を見た僕からすれば、あの風景はハッピーエンドを描くには向いてない。彼女の顔に僕は本物の笑顔を見たのだ。それがどれだけおかしなことか。
飛び降りる際、強ばった笑みを浮かべるのならまだいい。彼女が作ったのは本物の笑顔だった。それも今まで僕が見た彼女の笑顔で一番の。
もちろん、たまに教室の端で友人らと談笑をしている彼女しか見てない僕の主観だが、その時よりも遥かに濁りのない笑顔がそこにあった。もしそれが僕の憶測ではなく本当に彼女の百の笑みだったなら、彼女は夜の川に飛び込む時だけが満点の笑顔になれる瞬間ということになる。そんな彼女の背景を想像した時、僕にはバットエンドしか思いつかなかった。
まぁ、彼女を泣かせる上でハッピーエンドよりもバットエンドの方が涙を誘えそうではあるし、結果的には良かったと思っている。
登校前、その小説を流し読みしながら目に入った誤字脱字をペンで治したりしていると数十分なんてすぐに経つ。改めて筒状に丸め直した小説をバックに入れて家を出た。
今日は生憎の曇り空、通学路を歩く学生たちの顔も心なしか浮かないように見える。恐らく、この曇り空のせいだけではないだろう。今日は夏休み明け、初の登校日。故に気分が乗らないのも仕方ない。僕とて、心持ちは同じ。僕の場合はそのどちらでもなく、彼女にこの小説を見せることに対しての不安が体の動きを重くさせている。
何せ、僕が他人に小説を見せたのは今までで先生だけ。それだって見せていると言うより書きかけの小説やプロットに対してアドバイスを貰っているだけで、今回のように完成された小説を読み物として見せるのは彼女が初めてだ。
彼女は僕が書いた小説にどんな感想を述べるのだろう。第一目標として彼女は涙を流してくれるだろうか?
僕はそんな疑問を頭上にうかべて歩く通学路の道中、頭にこびりついた彼女の微笑のせいか、緊張か気だるさのせいか、前触れもなく、こんなことを思った。
もし彼女が僕の目の前で涙を流したら、僕は、どうするんだろう。
……どうするんだろう?
自分で考えたくせに、その疑問に対して答えを出す理由を僕は即刻、見失った。
どうするも何も、彼女が泣いて、僕は彼女の願いを叶える。僕らは、また前の様な関係に戻る。それで終わり。彼女が泣いたら僕がどうするか? その場で小躍りでもしてるんじゃないか? もとより彼女を泣かせるって目標は僕の願望によるものではなく、彼女の願いなんだからそれぐらい他人事に思うのも当然。
疑問をうかべる理由が分からないほど簡潔に、彼女が泣いた後の事なんてどうでもよかった。きっと寝起き頭で思考がよく回ってないだけなんだろう。そんな時ほど下らない事の意味を求めたがるものだから。月曜日の朝の憂鬱は本当に恐ろしい。
そんな思考はさっさと道端に捨て置いて、落とした視線を前に向けた時、道の先、十字路の標識の下に知った顔があった。なんて回りくどく言ったが、その人物はさっきまで僕の思考を掻き乱していた張本人に他ならない。
一瞬、道を変えることも頭をよぎったりはしたが、見るからに僕を待っているようだったし、今彼女を避けたっていつかはこの小説を渡すんだから変わらない。
ただ、そうなると。僕は回りに目を向ける。通学時間真っ只中の今、知り合い問わず多数の学生がこの道を通っている。
小説を書いていることを隠している僕からしてみればここで彼女に小説を渡している所を知り合いに見られたりすれば、後々の弁解が大変になることが容易に想像出来る。待ってもらっていたところ悪いがこれを渡すのは放課後にでもしてもらおう。
そう決めて進行方向を変えず数歩進んだ僕を、スマホの画面に目を落としていた彼女が気づいたらしく、笑いながら手を振ってきた。そうなれば僕も急がないわけにはいかない。小走りで駆け寄って簡易的な挨拶を交わした。
彼女は一目見るだけでも月曜日の朝の憂鬱に侵されていない様子が感じられる。
「良かったーたしか青木くんの家の方角こっちだったと思って待ってたんだけど、正解だったよ」
「それは良いんだけど、見せるのは放課後にしてくれない?」
僕は手提げバックに入っている紙の筒を見せて、察させるように言った。すると彼女は「もちろん」と、この前あれだけ僕に小説を書けとせがんできた人とは思えない潔さを見せた。
「え、どうしたの? 随分と素直だね。佐藤さんそのために待ってたんじゃないの?」
僕はあまりにもの潔の良さに肩透かしを食らった心地で、ついこんな事を聞き返してしまった。
「違うよ。だって今渡されたって立ったままじゃ読みづらいし、時間もないでしょ? だから渡すのは学校が終わってからでいいよ」
「なら、良いんだけど。じゃあなんで僕を待ってたんだよ」
僕の真っ当な質問に何故か彼女は要領を得ないような顔をする。あの夜知った、僕らは噛み合わないらしい。
「なんでって、一緒に登校するため?」
「はぁ、そんな約束してたっけ」
「そんなのしてないけどさぁー、ちょっとくらい付き合ってよ。学校までの深呼吸としてさ!」
僕には彼女のいう深呼吸の意味がよく掴めなかったがどうせ目的地は同じ。僕は素直にその言葉を飲んで歩き始める。
今にも泣き出しそうな雲が流れていくように、僕らも学生達の流れに沿って進むが、数分もしない内に違和感を抱き始める。刺すような視線が背中を襲っていたからだ。
それは考える必要もなく、理由は単純だろう。僕ら男女がこうして並んで登校している。それに尽きる。
周りを見たって、同性同士で登校している集団はいても今の僕達を見た周りの人間が想像するような恋愛関係を築いていそうな人達は皆無だ。もっと言うと僕が知る限り、学校内でその様な浮ついた話と言えば「あいつとあいつが付き合ってるらしい」くらいの憶測程度でしか聞かない。それ程、中学生ってのは恋愛関係を無闇矢鱈にひけらかそうとしない。故に僕らの存在が余計に人目を引く。
まぁ、それだけなら我慢していればいいだけだがしばらくして、あからさまに声のボリュームを下げた密談が聞こえてくるから、どうしても落ち着かない。
「ねぇ、私達なんか見られてるね」
進行方向を見つめたままで彼女が言う。僕は勝手に彼女は一々周りの目線を気にしないタイプだと思っていたから、意外だった。
「そりゃ見られるよ。男女で登校ってだけで、恋人だって勘違いする色ボケばかりだから」
「じゃあ、せっかくだし、恋人らくしない話でもひとつしようか」
あまりに白々しい彼女の声、僕はそれを聞いただけで今彼女が不敵な笑みを浮かべているのが容易に想像できた。
「……例えばそれは?」
「なぜ人は涙を流すのか。とかね」
泣けない彼女は、笑いながらそれを問う。
その問いは、僕の動き始めてままならない脳に多大な負担をかけてくる。それは、人が泣く理由を心では分かっていそうなのに上手く言葉に出来ないからだ。
「そんなの、感情の整理とかストレスの発散とか、そこら辺だろ」
僕は知識として何となく覚えていることを口にした。そこに中身がないことは自分がよく分かっている。
「確かにそれは私も間違いはないと思うよ? でも、本当にそうだとしたら私みたいな『例外』はどうなると思う?」
「そうだね。僕が言ったことが本当なら、君はストレスの擬人化か感情のハリケーンだ」
「そうでしょうそうでしょう。ではそれを含めて、君が抱く私へのイメージは?」
「能天気、の狂人」
まるで誘導尋問されているかの様で、このまま流されるのも癪だった僕は返事に毒を混ぜた。こんなことを言われていい気分になる人なんていないだろう。ただし、能天気の狂人はその限りではないらしい。
顔に表れた笑みが、それを物語っている。
「おお! よく当を得てるね! 流石は小説か」
僕は耳に入った言葉を瞬時に危険物と判断して、彼女の口を手で塞いだ。
「ちょっと、さっき僕があれを渡さなかった理由をもう忘れたのかよ」
「ごめんごめん! そんなつもりじゃなくてさ、つい反射的にね」
僕が言ったそばから能天気の狂人たる所以を出してくる彼女に些か恐怖を禁じ得ない。それともただ単純に仕返しのつもりだろうか、無理やり言わせたのはそっちなのに。
はぁ。そんな呆れを表すために吐いた息。隣の能天気さんには届いておらず、また歩き出した。
彼女は飽きずに、またさっきの話を続ける。
「それでさ、青木くんはひとつ、私に聞きたいことが出来たんじゃない?」
もうそれは誘導尋問というにはあからさますぎている。ただ、僕も少なからず気になる所もあるから、彼女が求めているであろう質問を投げてやることにした。
「そうだね。なぜ佐藤さんは未だにストレスの擬人化にも感情のハリケーンにもなってないって事は気になるかな」
「まぁ気になるよね。でもそれは違うよ。私はストレスの擬人化だったし」
「それは?」
「言葉通りだよ。でも今は少なくとも違うね。あの夜で私は一年分のストレスを吐き出したから!」
「じゃあ佐藤さんは夜の川に飛び込む事でストレスが発散されるんだ」
「きっと私だけじゃないよ。泣く事の次に飛び込みはストレス発散に最適なんだから! 青木くんだって飛び込んでみたら分かるんじゃないかな」
目の前で青に変わった信号に顔を向けたまま横目で僕を見てきた。それに不服な表情を返してやると彼女は小さく笑い、軽やかなステップで白線を飛び越える。
「いや嬉々として夜の川に飛び込むなんて夏に浮かれた子供もしないから。佐藤さんは他にもっとマシなストレスの吐き出し方を探しなよ」
「ないない! 趣味だって何ひとつも無いし。映画や小説だって『これ』が出なきゃ寧ろストレスになるだけだよ」
彼女は目尻から頬、顎までを指でなぞって涙が流れる様を表した。
「青木くんはどうなの? 青木くんなりのストレスの発散方法とかあるの?」
「それは、まぁ小説……」
突如として言葉が喉をつっかえた、心がそれ以上を出すのを拒んだ。
それは決して、さっき彼女の口を塞いだことと同じ理由じゃない。
彼女と何気ない会話のキャッチボールをしているつもりだった。ただ今は、散歩道から一匹の毒蛇が現れたかのような驚きと恐怖が渦を巻く。
何気なく出そうとした言葉だった。だからこそ、僕はその言葉に僕の本心があるんだと思った。
知らなかった。僕の中では、いつの間にか小説を書くことは、ストレスの発散道具と同じ引き出しに入っていたことを。
先生の言葉を理解しているつもりで、僕もその通りにしているつもりだったんだ。毒を飲み込んで小説を書く、決してそこには毒を吐いてはいけないと。それなのに、寧ろ僕は小説だけに毒を吐き出していた。これなら、先生に小説を見せて美しくないと言われたって仕方ない。出しかけた本心をまた飲み込んだ。
「……そういえば僕も無かったよ。ストレスを発散させる手段なんて」
言い直した僕。彼女は嬉しそうに口角を上げる。
「なぁーんだ。それなら青木くんも私と大差ないね!」
彼女の見せる無駄に元気な顔が、嘘をついた僕の背中に日焼け後のような痛みを浴びせた。それでも僕にとって執筆作業をストレス発散道具と認めることの方が耐え難い苦痛だった。
「でも青木くんは人並みに涙を流せるんだから、泣ける時に泣いて、ちゃんとストレス発散しなきゃダメだよ」
この時、僕には彼女の言葉が、悲劇のヒロインが主人公に処世術を教えている時のような偽善じみた感情が透けて見えたから、無駄に衝突してやりたくなった。
多分それだけ、余裕がなかった。
「そんなの、泣かなくたってどうにでもなるよ。寧ろ僕には涙を流すなんて行為自体、生きていくために必要かって言われたら、いらないって即答できる自信があるね」
僕が確かな悪意を持って投げた、鋭利な言葉。困窮している人の前で札束を燃やしてやった心地。
それなのに、彼女は笑みを消すことは無かった。
「確かにそれは分かるなぁ。私も生きるだけだったら泣けなくたってどうにかなると思うよ。だけどね、人間でいるためには泣けなきゃいけないらしいから」
「人間でいるためって」
僕がさらに追い打ちを構えたところで彼女が言葉を被せる。
「考えてもみてよ。よく泣く人とよく笑う人、どっちが怖いか。暗い子供部屋の玩具箱に入っている人形が、ずっと変わらない笑顔をしていたら。青木くんはどんな感情を抱く?」
そう言われて想像した。子供達が寝静まった後の玩具箱、様々な玩具が乱雑に入ったその中にプラスチックの人形が変わらぬ笑みを天井の闇に向けているところを。そこにはややこしい感情は無く、単純な「恐怖」があった。
泣いている人形もそれは確かに怖い。だがそう感じる理由の全ては既に表情に出て尽くしている。底が見えれば此方も相応の心構えを持って挑むことが出来るが笑顔の人形はどうだ。笑顔の下に隠れた闇の濃さ、底さえ想像もできない。
それは思い出すまもなく浮かんだ情景、夜の川に彼女が笑って飛び込む姿を見た時、微かに感じた恐怖と同じ。
畏怖とも嫌悪ともつかない。ふとした瞬間に大きな闇の一角を覗いてしまうのではないかという恐怖。僕だって彼女との間に小説がなければ、川に飛び込んだ彼女を見て服の袖を払いたくなるような感情を抱いていただろうと思う。
だからこそ、彼女がどんな意図でこんな話をしたのか。彼女にとって涙とはストレス発散以外にどれ程人生に欠かせない価値を持っているのか。気になってしまった僕は彼女に問い返した。怒りを忘れた、少し小さい声で。
「佐藤さんはストレス発散じゃなくて、人間でいるために泣きたいの?」
「あーいや……」
先程、言葉に言葉を被せてくるほど前のめりに話していた彼女はいきなり歯切れを悪くさせた。
「ちょっと話が大きくなっちゃったね。私が言いたいのは泣けないとまぁ、大変だよねって話。ストレス貯めながら生きるのは辛いでしょ? そういうことだよ」
なんて強引に話を纏め笑う彼女には僕が考えたような底の見えない感情は微塵もないように見えた。ただ今の話が偶然口から飛び出たとも思えない。それだけの説得力が彼女の話にはあった。
その訳をこのままの勢いで聞いてしまおうとしていた僕だったが、もう既に周りには学生達が列を為して、目の前の校門に流れ込んでいく。
さらに彼女は先の会話に立つ鳥跡を濁さず、「じゃあまたね!」と一言発してから数メートル先にいた友人の元へ駆けて行ってしまった。
取り残された僕は一向に釈然としない。きっと彼女の意味ありげな言葉に一々反応したら負けなのだと思う。泣きたい理由とか、泣いた後の事とか関係の無いところまで足を踏み入れようとするからいけない。泣かせたら終わりなんだ。
その一言だけを眼前に据え、迷わないように歩き出す。ただそれは目を逸らしたものが次々と踝に繋がれていくようで足取りが重く、背後から肩を叩いて話しかけてきた友人に珍しく体調を心配されるほどに滲んで現れていた。
「よう、蒼汰! どうしたよ、そんな辛気臭そうに歩いてさ」
声を聞いて振り返る前に一度、不自然に見られないほどの深呼吸で今顔に表れているだろう皺を伸ばす。そして目を向けた先にいたのは山崎という明るさだけが取り柄というような男。下の名前は忘れた。皆苗字で彼のことを呼び、僕もそれに倣っていたからだ。
「休み明けだぞ。みんなお前みたく宿題忘れても元気でいれるほどメンタル強くないんだよ」
「忘れてねーわ! なんなら昨日は十時に寝てっから! 快眠なめんな」
小突く程度の冷罵を挨拶代わりに、教室に向かう途中は取り留めのない話で場を繋ぐ。話題は彼の感性に倣った話を振る。
「そういえばお前が好きなアーティストの新曲すごく良かったよ」
「だろ? あの曲は特に間奏のギターソロがめっちゃかっこよくてさ」
雑踏の廊下を同調と肯定で歩いていれば教室なんてすぐだ。
教室内で駆け寄ってくる友人らに愛想を撒いて、目が合った知り合いに手を振ったりしてやっと僕は自分の席に腰を下ろすことを許された。
たったそれだけの動作たちは、先の事もあってか席に着いたばかりの僕に小さなため息を零させる。僕の場合、大型連休の後はよくある事だ。夏休み中、外界に極力触れず、自己の世界に浸っていた僕はまだ、その世界に片足をつけたまま。そんな僕だから、ただ笑うだけでも普段の二倍の労力を要してしまう。まぁ、それも三日間程で慣れてくる。こういう所は自分の感化されやすさに救われていると認めざるをえない。
しかし結局、三日間は辛いことに変わりはないので、なるべく疲れないように肯定と同調でバラエティの録音笑いと同じような役割をしていれば大抵、どうにかなる。それを心に言い聞かせる。だがそれだけで、まだ始まったばかりの今日という日が憂鬱に染まっていく。ただ、おもて顔は何も考えてないような表情で一時限目の教科書やノートを机に並べ出す。
支度を終えて、無意識に黒板の横にかけてある時計を確認した。その時の僕の目線には、丸い壁掛け時計と、ちょうど前のドアから友人らと一緒に入ってきた佐藤優の姿が映った。
夏休み前の僕なら視界に写った風景のひとつとしか思わなかったんだろうが、彼女の秘密を知ってしまった後では、彼女が友人とどんなことを話すのかとか、友人は彼女の事をどう思っているのか、なんて際限ない興味と疑問が浮かんでくる。かと言って、なにか行動を起こそうとするわけでもない。僕は頬杖をついて、彼女が口を開けて笑っている姿を見ながら、勝手にその笑顔の奥にぎこちなさを感じていた。
そんな僕には後ろから近づいてくる人の気配なんて気づくわけが無い。
「おっはよう、青木! さっきからどこ見てんだよ」
跳ねた挨拶と共に後ろから肩を掴まれた僕は、うたた寝から叩き起こされた時と同じような反応をしていたと思う。
咄嗟に後ろを振り向くと僕がクラス随一のひょうきん者だと思っている江藤が意地悪な笑みでこちらを見ていた。
「あっ! さてはクールなフリしてあの女子たちを見てたんだろ」
江藤が指さしたのは正しく僕が見ていた佐藤優、含む女子グループだった。
「お前なぁ、俺はただ、その上にある時計を見ていただけだよ」
「いやいや、違うね! あの人恋しそうな視線はどう見たって片思いの男子しか出せねーやつだ!」
色恋沙汰には異様な食い付きを見せる江藤に僕も、その時ばかりは露骨に不機嫌な顔をする。彼にそういう態度をとっても、僕を攻める人はいないことを知っているから。その空気に倣う。
みんな、江藤の無神経な所に辟易している。ただそれと同じくらい彼の無神経な道化はクラスの花の一つでもあるから、彼はクラス八分されずにいる。
「なんだよ人恋しそうな目線って。そうやって何でもかんでも色恋沙汰にすんのやめろって」
「だってよぉ、青木が女子の方見てるなんてめずらし……」
江藤との会話が続いていた中、僕の視界の隅で人影が動いた。それだけならなんでもない事だが、それが先程まで女子グループの中で笑っていた佐藤優が何か焦った様子で廊下を駆けていくところだったから無意識下の内に目で追ってしまっていた。
自分自身その行動に気づいていない。それに気づくのは目の前のひょうきん者から茶々を入れられてから。
「青木まさかお前、さっき見たのって佐藤さんだったかよ!」
「ちょ、なんでそうなるんだよ」
「なんでって、今佐藤さんが廊下走ってくの見てたじゃんか! はーそうかそうか、青木が佐藤さんをねぇ」
江藤は勝手に脳内で妄想話を作り上げた挙げ句、さらに腕を組んだ姿で何やら悦に浸っている。出来ることならそのまま浸って現実に戻ってこないで欲しい。
「別に、急いでたから何事かって少し見てただけだろ。それより、なんでお前は満足そうな顔してんだ」
「ん? いやぁ、お似合いだと思ってさ。佐藤さんの面倒見のいいとことか、気が利くとことか。青木いつも気だるそうにしてるからちょうどいいじゃん」
何を持って丁度いいのか知らないが、それよりも僕は江藤の言った彼女のイメージが少し気になった。
「お前も佐藤さんの事、面倒見の良い人って思ってる?」
僕の質問に江藤は首を傾げた。
「そりゃな。思ってるのは俺だけじゃないだろ」
江藤の言うことは恐らく間違ってない。僕だって彼女と接点のない時までは江藤と同じようなイメージを持っていた。
別に、それがどうしたという訳じゃない。僕以外のクラスメイトも彼女に対して良い人ってイメージを持ってる事を再確認した上でそのイメージを作る彼女に対して「疲れないのかな」と勝手に思っただけだ。
まだ彼女は戻ってこない。次第に教師がクラスに入ってきて教卓の前に立つと至る所で波立っていた話し声や雑音は一つ一つと姿を消した。後はもうチャイムが鳴るのを待つまで。
着々と針は刻を進める。開始一分を切った、ひょっとして戻ってこないんじゃとも思った僕を他所に、彼女は教室の後ろのドアから申し訳なさそうに入ってきて、それと同時にチャイムも鳴って、教師の号令で朝の会が始まった。
彼女がこんなギリギリまで何をしていたのか気になりはするが、そんな事で授業を疎かにするなんて滑稽な真似はしない。どうせ放課後会うんだ、その時聞けばいい。
頭の雑念を払うように首を振ってから、黒板に書かれた文字を無心でノートに書き写す作業に精を出した。
授業中は誰かと話す必要も無いから僕としては気楽でいい。黒板を書き写していれば時間なんてすぐ経つ。気づけば時計の長針が半回転して、次に時が進んでいるのを実感するのは授業の終わりを告げるチャイム。
漫然と学校生活を過ごしていれば珍しい話じゃない。気づけば給食の時間になり、ふと眺めた窓の外から、暮れかけた太陽に気付いたり。いつの間にか空が晴れていたのも今、気がついた。
中身の無い一日はあっという間に過ぎて、放課後を迎えた。僕は一緒に帰ろうと誘ってくる声を、それらしい嘘で断った後、一直線である場所に向かった。
それは二時間目が終わり、次の授業のため教室移動をしようと教科書を持って廊下を歩いている時だ。後ろから追い駆けてきた佐藤優がノートの切れ端を僕に渡してきた。
内容はシンプル。放課後理科室に来て。それだけの文字が、女子らしい丸文字で書かれていた。
僕は今その文字に従って理科室に向かっている。理科室があるのはここ、中校舎の向かいにある北校舎だ。左手にグラウンドが見える外廊下を経て扉の前で、少し周りを見渡してから北校舎に入った。授業や掃除などの時間以外、北校舎は人の出入りがない。それは単に何度も足を運ぶような教室が北校舎に入っていないのも理由ではあるが、なにより生徒が勝手に北校舎に入ると教師がいい顔をしない。理科室、図工室などがあるからだろう。まぁ中に入るだけなら見つかっても言い訳は出来る。
外の喧騒から遮断された薄暗い校舎一階、入り口からすぐ右の階段を上がって二階の廊下を突き当たりまで進めば理科室がある、んだけど。
僕は理科室前に彼女がいるものだと思っていたから、人影のない直進の廊下を見て動揺する。まだ来ていないという線もあるが、それよりも可能性の高く、僕が危惧しているのは、彼女が理科室の中にいる事。そもそも、彼女が渡してきた紙には「理科室に来て」と書いてあるので一見中で待っているものだと思わなくもないが、それは無理だ。
理科室は授業で使う時のみ、教師が鍵を持ってきて入ることを許される。それ以外は鍵が掛かっており、その鍵は職員室の奥の壁に掛けてあって、無断で持っていこうなんて到底無理な話。
それでも彼女が理科室の中にいると思ってしまうのは、僕が考える無理な事が彼女には出来てしまうことをこの目で見ているから。
理科室前まで歩いてきて、ドアの取っ手に手を付ける。普段どおりの力を込めて左にスライドさせた扉は、何にも閊える事無く開いた。そして当たり前かのように、彼女は窓際の席で座っていた。彼女がやったのか、理科室内の窓は全て全開にしてあり、そこから入ってくる風がカーテンを大きく膨らませている。
悔しいことにその風がやけに心地よく感じてしまった僕は無理に顰めっ面を作って彼女に近づく。
「佐藤さん、一体なんで理科室のカギが開いてんのさ」
「ん? あーやっと来たんだね」
外の景色から視線をはずしてこちらを見た。窓から入ってくる風が彼女の髪を揺らしている。
「鍵が開いてるのはね、これを使ったからなんだなぁ」
彼女はスカートのポケットから細い鉄の棒と針金を出して見せた。僕の嫌な予感は一番嫌な結果として当たることになる。
僕が想定していたのは、彼女がどこか開いている窓から侵入して鍵を開けたか、上手いこと騙して先生から鍵を借りたか、その程度。ピッキングなんて想像もしてないし出来るなんて思いもしなかった。
「それ、ピッキングだろ。佐藤さん出来るの?」
「案外簡単だよ。あの鍵古いやつだし、ネットで調べたら直ぐにね」
「それが本当なら佐藤さんは今から留置所の鍵の開け方を調べないとだね。僕、職員室に急用ができたから」
「おっと良いのかな、そうなったら青木くんだって無事じゃ済まないかもよ? ここには私たちしかいないんだから。どっちが目撃者なんだろうねぇ?」
目をこちらに据えて不敵に薄笑う。共犯者を受け入れる小悪党のような笑みに負けて渋々彼女の向かいの席に腰を下ろした。それと同時に「今のセリフ小説に使えるかな?」なんて嬉々として聞いてくるから言葉に行動が追いついてないと一喝してやる。
「それはそうかもしれないけど実績はあるから! ちなみに屋上の鍵は鍵穴を軽く殴っただけで開くんだよ、甲斐がないよね」
こんどは屈託なく笑う。なんの甲斐だ。
「言っとくけど、もしバレても僕の名前は出さないでよ」
その時の彼女の悪戯な笑顔と言ったら。僕は今さっきの発言を後悔すると共にコロコロと笑顔の種類を変える彼女に職人芸を感じた。
「えー青木くんも一緒に怒られよーよ。きっと小説のネタにもなるからさ!」
彼女は僕をなんだと思っているんだろう。小説のネタのためなら無実の共犯者さえ名乗ると思っているのだろうか。
彼女のせいで、不意に湧いた怒りを燃やしてはみたが、少し冷静になって思った。物書きとしてはネタのため無実の共犯者を名乗る方が小説に対して誠実なのではないか。
だからその場は「考えておくよ」とお茶を濁しておいた。
「それにしても、こんなに窓を開けてたら本当に先生にバレるよ。この時間、北校舎の窓が開いてる事なんて無いんだから」
「まぁ、その時はその時で。まずは青木くん、私のための小説を早く見せてよ」
突然、本来の目的を持ち出してきたから僕は少し釈然としない気持ちでバックから小説を取り出す。
「はいどうぞ。佐藤さんの勇姿を見て書いた小説ですよ」
「えーなんか照れるなぁ。タイトルは、春、かすみ?」
「春霞、立春を待たず。人生に疲れた主人公の話」
「その、主人公って私をイメージしてるんだよね? 私って、そんな人生に疲れているように見えるかな」
首を傾げ、あからさまに戯け笑っている様子を顔に出した。揺れる瞳は僕の顔色を窺っているようで、それが僕にはイタズラがバレた子供の知らん顔に見えた。
「周りからはそう見えてないと思うよ。僕もあくまで佐藤さんを元に書いてるだけだから」
「そっか。まぁ、さっそく読ませてもらうね」
僕のイメージの真偽を彼女は口にせず、話の流れを断ち切るかのように一枚目から目を通し始めた。
僕にとってもそこが真実かどうかなんて今更どうでもよく、今は目の前で自分の小説が彼女に審査されていることに精神も肉体も支離滅裂になってしまうほどの緊張で何も考えられない。
そういえば先生に初めて僕の短編を見せた時も意識しなきゃ呼吸さえ忘れてしまうくらい緊張していた。あの時は先生に酷評を言い渡されて、悔しさのあまり次からは緊張なんて微塵もなかったけど彼女の場合、最初から謎の期待が僕に対して寄せられているから、その分のハードルもあって肥大したプレッシャーが先生の時とは比にならないほどに僕の心拍数を跳ね上げている。
彼女が紙を一枚めくるごとに、目線が右から左に流れていくごとに、断頭台に立つ自分が鮮明に脳裏に浮かんでくる。
自信はあるはずなんだ。経緯はともかくとして、この小説は僕が今まで書いた中で一番の出来だと自負している。酷く不本意ではあるけど。
それでもやっぱり、緊張により思考は目まぐるしく回転している。
僕の文は彼女の好みに合うか。まず先生に見てもらった方が良かっただろうか。今はどこを読んでいるんだろう。あの言い回しは彼女に伝わるだろうか。
彼女の目尻を見る。泣いてくれるだろうか。沢山の雑念が過ぎさっては消えたが、結局はそこに行き着く。
しばらくは揺れる心臓と共に彼女の読む姿を見ていたが、いよいよ体の限界を感じて、視界から彼女を外した。次に僕の視界は、夕焼け空を切り取った窓を眺めていた。
流れていく雲を見ていると、いつの間にか頭が軽くなる。するとさっきまでは気づかなかったグラウンドから聞こえる陸上部の掛け声とか、遠くのヒグラシの鳴き声とかが、すっと心に溜まっていく。でも一番は、夏の匂いを残した風がカーテンを揺らして教室を満たすこの空間。人はこれを青春と称したり、いつかの情景と言って、大人になったら思い出したりするんだろうか?
今の自分が昔読んだ青春小説の一場面と重なったからか、他人事のように俯瞰して考えてみた。けれども今自分が青春をしているなんて実感無いし、大人になった時なんか余計に想像が出来ない。
今思うのは、満たされた心が言葉にならない感傷を生み出し続けている事に、ただ、切なさを思う。多分それが情景とか青春の類なんだろうけど、僕にはどうもしっくり来ない。今の気持ちは、そんな言葉で表現していい程の美しい感情なんだろうか。
そんな事を考え出したら、せっかく冷えた頭がまた沸騰し出す音が聞こえたから直ぐに振り払った。
窓から入ってくる風を何も考えないで感じているだけでいいのに、すぐ言葉にしようとしたりするのは物書きの弊害だ。でもいい暇つぶしにはなったらしい。彼女の方を見ると、もう残り数枚まで読み終わっていた。この時から少し嫌な予感がしていたが、残りの時間は彼女の姿を見つめたまま、読み終えるのを待った。
ついに最後の一枚まで目を通し終わった彼女は軽いため息をこぼした。それが落胆なのか、満足感によるものなのか。想像することさえ恐ろしく感じる。
読み終えた小説を丁寧に机で叩き合わせて遂に彼女は口を開く。
「面白かったよ。最初から最後までとことん鬱って感じで。ここまで救いの無い話もたまにはいいね」
開き直って作る乾いた笑顔がそこにあった。
なんだろう。彼女は僕を慰めようとでもしているんだろうか。
面白かった。そんな言葉、僕や彼女にとって意味なんてないのに。
微笑のままこちらを見てくる彼女に悟られぬよう、僕は奥歯を強く噛んだ。悔しくて堪らなかった。
「いいよ、忖度とかそういうのはさ。はっきり言ってよ、悲しくなかったって、涙なんて出ないって」
微笑が崩れた。だが彼女の顔にはしっかりと笑顔の残滓がある。
「えっと、確かにそうだね。私は青木くんが書いた小説じゃ涙は出なかったよ。だけど、これを読んで胸が締め付けられるくらい悲しい気持ちになったし、面白いって思ったのも嘘じゃない」
「違うだろ。佐藤さんが言ったんじゃないか、泣かせる小説を書けって。結果として君が泣いてないならそんな感想、意味なんてない。慰めなんていいから、それよりも何がダメだったのか教えてくれよ」
彼女は僕の言葉から一拍置いてこう言った。
「この小説は、まるで文字が浮いてるようだった。言葉に説得力がないって言うのかな」
僕はその一言だけで、彼女が言いたいことが分かった。
主体性のない、感化された脳みそで書いた文字に説得力なんて、ある訳が無い。
いくら自信があったって、パッチワークのように繋ぎ合わせた文字達は所詮はその程度。全部、分かってたことだろ。
濁った言葉で、借りた思想と世界観で、誰が泣くってんだよ。
「まったくその通りだね。僕の小説に説得力なんて無いよ。これで分かっただろ、僕の小説じゃ佐藤さんを泣かせることなんて出来ないんだよ」
「ちょっとちょっと、これで終わりみたいな雰囲気出さないでよ。青木くんには私を泣かせるまで小説を書いてもらわないと」
自分勝手なその言葉に苛立ちが込み上げる。彼女は僕をどうしたいんだ。非才をいくら僕に自覚させたら満足する? なんて本心は何も言えない僕は情けない言葉しか出ない。
「もう、いいよ。佐藤さんが泣ける小説とか映画とか僕も探すからさ。もう、いいだろ」
「無理だよ、私は青木くんの言葉じゃなきゃ泣けない」
「なんだよそれ、たった今僕の小説を読んで泣けなかったばっかだろ。子どものわがままみたいな言葉はいいからさ、他に佐藤さんが泣ける小説を探そうよ」
言ってから恥ずかしくなるような言葉を、情けない語気で口から零す。
「ないよ、そんな小説」
惨めな僕に彼女は幼稚な駄々をこねる。
「言いきれないだろ、そんなのは。この世には佐藤さんが百年生きたって読み切れないほどの小説があるんだから、それまで読み続けていればいつかは」
「それが間違ってるんだよ」
いつになく、暗く重い声だった。僅かに上がった口角では最早、笑顔の体裁を保ててはいない。
「いくら世の中に小説があったって結局はさ、知らない誰かが書いた他人事でしょ。私は知ってる青木くんと一緒に見た世界じゃなきゃ感情移入出来ない」
彼女はまるでそれが世界の真理かと言うように自信ありげな声の太さで僕ら以外の世界を否定した。あまりの暴論に言葉を失う僕をきっと誰も責めはしない。
だって彼女が言ったことは屁理屈にほかならない。彼女の言葉を鵜呑みにすれば、この世の全ての作品を否定するような斜に構えた思想の出来上がり。
だから、彼女の教唆に耳を貸しちゃいけない。何故か無駄に説得力があったって、これ以上の反論の言葉が出なくたって、今は彼女の主観に染められているだけ。目を覚ませば鼻で笑える。僕の価値観に於いて間違っていることは変わらない。
身内ネタ盛りだくさんの小説で君が泣いたって僕になんの得があるんだ。
「佐藤さんはひねくれてるね」
「青木くんには及ばないんじゃないかな」
一向に前に進む気配がない、両者譲らぬ偏屈戦争は、時計の長身を半回転させるまで続いた。けれど、一時的に膨張した怒りはそう長く続くものじゃない。先に折れたのは僕だ。こんな低レベルな言い争いをしていたら、さっきまで心を騒がせていた悔しさとか怒りが自然消滅していた。馬鹿らしくなったからだと思う。
彼女の言葉は小学生程度の屁理屈で、それを真面目に受け止めて反論している僕が、何だかとても滑稽に見えてしまった。もうこれ以上、反論とか怒りとか表に出すのも億劫で仕方ない。
「はぁ、僕達何してるんだっけ」
「青春してるんだよ、きっと」
何らや満足気な笑みを見せた彼女に僕も釣られた笑顔で「そうかもね」と答えた。言葉にすれば難儀な青春定義も直感だけなら飲み込めた。
開け放した窓からは、もう肌寒い風が入ってくる。放心状態の僕にはその風も、青春を演出するエフェクトのように思えた。
理科室の机に突っ伏して風を感じる僕に、向かいに座る彼女が急に身を乗り出してくる。
「それでさ、青木くん。次はどんな小説を書く?」
虚脱した心でも顔に顰めっ面を写すことまでは出来た。顔を逸らして、だが。
「まだ言うのかよ」
「当たり前! 青木くんの小説は私にとって死活問題なんだから」
大袈裟だな、泣けないくらいで死ぬか生きるかなんて。そんなことを思ったりした。でも口に出さない。未だに今朝の会話が小骨になって喉に小さな痛みを残していた。
先の言い争いで無駄に体力を使ったのも相まって僕はその場しのぎの言葉に手を伸ばす。
「まぁ、考えとくよ」
その時、僕の視界の隅にいる彼女がほくそ笑んだのが見えて、いつかと同じ悪寒が走る。
「じゃあ、今から青木くんが書きたくなるような小説の題材を探しに行こう!」
「あのさ、今僕が言ったこと覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ。でも書くか書かないかを考えるのは題材を決めてからでも遅くないでしょ?」
僕は返す言葉を見失った。それは決して彼女の意見に同意した訳ではなく、僕の言ったことを彼女が履き違えているからだ。今の「考えとく」は前向きに検討ではなく一回休み。
「遅いとかそういう問題じゃ」
「いいからいいから! こんな湿気た教室にいても題材なんて思いつかないよ。外に出なきゃ! 外!」
沸騰したやかんのように突然騒ぎだした彼女に腕を捕まれ、教室を飛び出した。
「ちょっと、待てって! その前に窓とか閉じないと」
「そんなのいーよ! どうせ先生か警備員の人とかが閉めてくれるでしょ」
「いや、それがダメなんだろ!!」
僕の全力ツッコミも虚しく、彼女はさらに加速して廊下を駆けて北校舎を抜けた。慌ただしい足音は放課後の校舎によく響く。
結局、僕も彼女の手を振り払わずに引かれて走ってるんだから、心では本気で嫌がってないんだろうなって第三者のように思った。僕の小説をこれ程までに欲する彼女に対して悪い気持ちがしないからなんだろう。それに彼女が川に飛び込んだ時もそうだが、彼女の細かいことを考えない大胆な行動に身を任せていると、その一瞬だけ物語の主人公にでもなったかのような満たされた心があった。
忘れられる、そうして身を任せてると小説によって生まれたどうしようもない苦悩とか、全部。残るのは創作の楽しさだけだ。何も考えないで彼女を文字に落として、衝動だけで小説を書くことがこんなに楽しいのは、初めて小説を書いた時以来。もちろん、それだけじゃダメだってことは分かってる。いくら忘れられるって言ってもそれは消えた訳じゃない。僕の根本は自分の言葉で小説を書くことで、そこに誰の思想もあってはならない。もちろん彼女も。
誰の言葉もいらない、僕の心と言葉だけで小説を書かなきゃ、説得力も美しさも哀情も、宿るわけない。
それでも一時的な満足感によって、根の張った思想が薄れてしまうことを恐れる僕は、言葉だけでも彼女に反発する。まぁ所詮それも言い訳みたいなものだから、彼女が無視して走り続けるのを僕が責めれる理由はない。
途中、教師に廊下を走るなと怒鳴られたり、通行人とぶつかったりしても止まらず走り抜けて、ついに僕らは中校舎の下駄箱まで辿り着く。ここまで来た所で彼女も疲れたのか脚を止めて、切れた息を落ち着かせ始めた。
「ふぅ、さて、どこに行こうか?」
「決めてから走り出せよ……」
両膝に手を突いて、当たり前の事を言い返す。言ったところで彼女が変わらないことは承知の上。
「そんなの効率悪いよ。時間は有限なんだからさ!」
靴を履いて外に出ると後ろの校舎から漏れ出す吹奏楽の演奏が聞こえてくる。さっきまで北校舎に居たせいで全く気づかなかったそれは、拙いながらも音に奏者たちの心があるのを感じた。僕らはその音を背に歩く。
「ねぇ、青木くんは今度どんな小説を書きたいと思ってる?」
僕が書く前提で話を進めようとする彼女。諦めて答えることにした。
「強いて言うなら幽霊、かな」
「おーいいね! 幽霊なら感動でも恐怖でも涙でそうな気がするよ」
手を合わせ、綻んだ笑顔で賛同する。いつぞやの夜見た笑みが幽霊のそれと重なった事が理由だとは聞かれても言うつもりは無い。
「もちろん書くのは佐藤さんが僕を満足させてくれるような幽霊の題材を見せてくれたらの話だけどね」
その時、彼女は待ってましたと言わんばかりに声を弾ませる。
「いやぁ、幽霊ならちょうどいい場所があるんだよ! 私がよく行くところなんだけどね」
「それって所謂心霊スポットとか?」
「うーん、そんな感じなのかなぁ。でも別に有名ってわけじゃないんだよね。ただ私が好きでよく行く場所ってだけ」
僕は彼女の話を聞いて、よく幽霊と関連づけられるお墓やトンネルなどの類では無さそうだと想定した。なら何処かと言われても見当もつかないのだけれど。
そもそも幽霊の噂なんて大小含めればいくらでもある。夜、学校の図書館の窓から白い影が見えるだとか。四丁目の交差点でひとりの少女がなんとかかんとか。
今までそう言った話に興味がなかった僕でさえ、真偽の定かではない話を無数に知っている。彼女がよく行く場所もそういった数ある中の一つだろう。
まぁ、僕としても心霊話の大小とか真偽とかは重大視してない。ネタになりそうな噂なら火の無い所に煙が立っていたって関係ない。ただ、いつになく軽やかな足取りで目的地に向かう彼女の背中を見て、これから向かう場所へ一抹の不安を募らせる。
火の無い所でも煙が立っていればいい。でも彼女がやけにテンションが高いのを見ていると、煙さえ立っていることを疑ってしまう。そんな僕でも今から行く場所を聞くような無粋な真似はしない。彼女もそれを思い敢えて詳しい説明を省いているんだろう。
揺れる背中を信じて付いて行く。僕らが歩く住宅街は夕日のベールを纏い、心霊スポットに行くには良さげな雰囲気が漂ってきた。
適当な会話を続けながら歩いて十五分。彼女に任せて歩いて来た道はどんどん狭くなっていく。もうすぐで着くと知らされる頃には、僕らは人一人が歩くと両肩触れるかどうかくらいの狭いブロック塀に挟まれた道を歩いていた。塀の向こうには家の壁があり、室外機やら換気口から、温い風とカレーの匂いが立ち込める。
自然に食欲を湧かせる匂いに空きっ腹を刺激されながら歩いていると、彼女が突然足を止めた。
「さぁ着いたよ」
そう言われて彼女が指さす方を見ると、目の前には不格好に枝が伸びた生け垣しか見えない。生け垣の上からは僅かに瓦屋根が顔を出しているのが分かる。
「この家?」
「そうだよ。凄く不気味で素敵な家でしょ?」
「まだ屋根しか見えてないんだけど」
「大丈夫! すぐに全身見えるようになるよ」
彼女は手招きしながらその場にしゃがんだ。
「あそこから入れるんだ」
また指さした方を見ると並んだ生け垣の途中に猫一匹がちょうど通れそうな穴が空いていた。正しく野良猫が普段出入りに使っている穴だとは思うが、彼女も同様その穴をいつも利用しているらしい。
「じゃあ先に行ってるから青木くんも後からついてきてね!」
既に四つん這いになっている彼女は僕に小さく手を振ってから生け垣の穴にスルッと体を通して、ものの数秒で向こう側に抜けてしまった。
その時僕は「不法侵入」と「常習犯」二つの単語が頭をよぎる。一瞬、躊躇う僕だが生け垣の向こう側から急かす声に押されて、同じく四つん這いになり頭から穴に体を突っ込んだ。
それは想像していたよりずっと簡単に通り抜けて、たどり着いた向こう側は黒い下見板の壁と、目の前に勝手口が一つ。周りは雑草やら雑誌、割れた食器、そんなものが散乱していて、まともに地面の土が見えているのは、この穴から勝手口への一直線上だけ。
「この家ね、壊れてるか分からないんだけど外からも中からも玄関のドアが開かないんだよね。だからこうやって勝手口から入るの」
「それもう、ちゃんと名前のある犯罪なんだけど」
「なに言ってるの。心霊探索と不法侵入はセットって相場が決まってるんだよ?」
そんな事を天然水みたいな笑顔で言う。これは早急にフィクションの中に彼女を閉じ込めた方がいいと思う。ついでにアドレナリンで心拍数が上がる僕も。
呼吸の間隔が短くなっていく僕を他所に彼女は合図もなしに勝手口を開けた。そして「お邪魔しまーす!」と友人宅に遊びに来た時のような声で中に入って行く。
彼女の図太い神経に恐怖しながらも、彼女に倣い「お邪魔します」と消極的な声で家に足を踏み入れた。そこは勝手口なだけあってキッチンと繋がっていた。長方形の机と食器棚、ステンレスのシンク、油がこびりついているガスコンロ。
見渡して見た僕は想像していた風景と違ったことに驚いた。室内がとても綺麗に掃除されていたからだ。ただ食器もキッチン用品も椅子も、生活の匂いがするものは全てなく、正しく空き家そのもの。それもそうか。
「何だか不気味な感じはしないけど」
「そう? 私はこの小綺麗さがなんとも言えない恐怖を、ってちょっとストップ!」
僕は驚いて言われた通りに体を止めた。ちょうど勝手口で片方の靴を脱いだ所。
「この家の床、見た目と違ってすごい埃が溜まってるから靴脱いで入ると靴下真っ黒になるよ」
僕は片足立ちのまま床を見ると、全体の片付き具合で気づかなかったが確かに埃が溜まっている。彼女の警告に従い微小の罪悪感と共に土足で埃の上を歩いた。
「それじゃあ話の続きね、私はこのくらい綺麗な方が恐怖を感じるんだけど、どう?」
「まぁ、言いたいことが分からなくもないね」
夕日がガラス窓から入ってくると空気中の埃が身分不相応に光り出す。それが人間の不在をさらに色濃く表している気がした。だからこそ、この家には人ならざるものがいるんじゃないかって思い恐怖を感じてしまうのだろう。
まだ九月だと言うのに肌寒くなってきた室内を、小説のネタになるかもしれないとじっくり観察した。出来ればスマホで写真でも撮れたらよかったんだけど生憎今は持ち合わせていない。
なら仕方ないとカバンからノートを引っ張り出して今の景色を忘れないためだけに文字通りの写生文を殴り書いた。ただパソコンと違い、実際に書くとなると時間がかかる。僕があくせくペンを動かしている中、彼女は僕を待たずにキッチンから続く廊下を、まるで自分の家のように進んでいってしまう。
彼女はなんのためにここに来たのか忘れているんじゃないだろうか。こうして僕だけが真面目にネタ集めをしていると、僕が好き好んで彼女のために小説を書こうとしてるみたいに見えてしまう。それに気づいた僕は、ノートの半分まで書いたそれを本体から破りとり、丸めて投げ捨てようとして、辞めた。
小綺麗な室内は、小綺麗だからこそ、ゴミを捨てる罪悪感を増幅させている。
行き場の失くした紙くずはカバンに押し込んで、先に行った彼女を追った。キッチンから続く廊下は僕が片足を出す事に軋んで悲鳴をあげる。僕がなるべく体重を均等に移動させながら進むと直ぐ、左手に大きく開いた引き戸が見えた。恐らく彼女だろうと中を覗くと、そこは八畳ほどの和室で、机、タンスなどの類は無く、これまた綺麗に片付いていた。
ただそれでも人がいなければ廃れるのだろう。障子は所々穴が空いて、畳は部屋の奥にある縁側からの陽の光で随分と日焼けしてしまっている。しかし、さっきのキッチンと比べたら畳の上も床の間の埃もそこまでだ。理由は考えるまでもない。さっきから目の前に居たが敢えて自分の中で話題に出さなかった彼女が箒でもかけたんだろう。よく来ると言っていたし。
彼女は縁側にあぐらをかいてガラス戸の向こう側にある庭を眺めているようだった。
僕を置いて勝手に黄昏ている彼女に文句の一つでも言ってやろうと一歩踏み出した時に「靴は脱いでね」と彼女は振り返らずに言った。変な所で律儀だなと思いつつ、言われた通りに靴を脱いでから畳に上がる。
中に入ると薄暗いキッチンや廊下を歩いてきた僕にとって縁側から入ってくる夕日がやけに眩しく感じた。何だか突然、別の世界に来たような、そんな錯覚があった。
目が眩む夕日を避けて、縁側に座る彼女より斜め後ろに僕は腰を下ろした。すると見計らったかのように彼女は口を開く。
「いいでしょ、この部屋。特に学校が終わった後、暮れ方の今が最高に心地いいんだよね」
「確かに、いい所だね。不法侵入さえしていなければ感動して顔も上げられなかったかも」
「ダメだなぁ。不法侵入してこそ今の状況に意味があるんじゃない。日常じゃ味わえないこの空気感がさ!」
あぐらをかいたまま後ろに手をついてそんな事をいう彼女に僕はなんの前触れも無く、一瞬、先生の影を見た気がした。ここが和室だからというのもあるのかもしれないが盲目にも程があるなと数回強く瞬きをする。
それでも彼女の言ったことに共感している自分は幻ではなく、ここに居る。流れ作業みたいな人生を送っていれば誰だって非日常感に憧れを持っているだろう。僕だって小説を書く理由にそんな気持ちが僅かながらある事も否めない。
「それもそうだね、分かるよ。例えば全部投げ出してどこか違う場所に行きたいとか、誰だって思うだろうし」
「まぁ、それも学生じゃ限界があるからね。だから私は身近にこういう場所を見つけて息抜きしてるわけですよ」
息抜き。僕はそれを聞いて朝教室で笑いながら会話をする彼女の姿を思い出した。あの時の笑顔に僕は僅かながらぎこちなさを感じていたが泣けない彼女にとって他人との交流もストレスを溜める対象なんだろうか。
「あ……」
ちょうど今朝のことに思いを巡らせている時、僕はずっと気になっていたことを思い出した拍子に間抜けな声を漏らす。
彼女もその声に気づいたらしく、こちらに顔を向けた。ちょうどいいから聞いてみることにした。
「そういえば、佐藤さん。話は変わるけど今日朝の会が始まるギリギリまでどこ行ってたの?」
「あーあれね」
その声と共に彼女の視線はゆっくりと縁側に戻っていく。
「あれはね、探しに行ってただけだよ」
「探す?」
「そう。友達がさ、下駄箱に家の鍵を落としたかもっていうから時間いっぱい探してたの」
「それは……どうして?」
僕の素朴な疑問に彼女は少し悩む。
「えっと、頼まれたから?」
僕は数秒、彼女のお人好しな行動理由に言葉を失った。そうだ、彼女はそういう人間だった。
誰かの頼みなら遅刻のリスクを背負うのも厭わない。なんて素晴らしい人間性の持ち主なんだ、僕には到底出来ない行為。……と、それまでに留めておけばいいものを、つい僕は聞きたいことを躊躇わず口にしてしまった。
「それってさ、疲れないの?」
「うん、疲れるよ。とてつもなくね」
その返答の速いこと。多分彼女にも色々理由があっての事なんだろう。友人間の関係を壊さないためとか、慈善活動をしないと死ぬ呪いがあるとか。
ここまで聞くと更に深い理由が知りたくなる。普段、乱りに人の心に深入りしようとしない僕だが今回は言葉を抑えられなかった。
「じゃあ何でいつも断らないで頷いてるんだよ。断れない事情があるとか?」
「ううん。特になんか理由があるわけじゃないんだよね。強いて言うなら、そう言う人間だってことだけ」
答えが知りたくて聞いたのに僕の中の疑問は増しただけだった。
「つまり佐藤さんは、やりたくもない友人の頼みを笑顔で頷いてしまう人間だと」
「我ながら言葉にすると可笑しいね!」
無邪気に笑う彼女にやるせない気持ちが募る。そういう人間だからと言われたら僕は何も言えないが、彼女が辛く思っていて、かつ断るデメリットも無いなら断ればいいのにと、単純にそう思った。だから言葉にした。
「そうだよ、おかしいよ。佐藤さんが好きでやってるならまだしも、辛いなら逃げ出せばいい。逃げ出す人間になればいいじゃないか」
「無理だよ、私はそういう人間だから」
頑なに、彼女は自分を変えようとしなかった。諦めに近い無機質な声がそれを物語る。変われる可能性だって無い訳では無いだろうに。
けれど僕はこれ以上のことを言うつもりは無い。僕は彼女以上に彼女のことを知らない。彼女が変わらないと決めているんだったら、僕の価値観で変われって言ったって説得力も無い。勝手に頑張ってくれ。
苦虫を咀嚼している時と同じ顔と心で、突き放すような言葉を思った。そこに怒りとか同情はなく、あるなら嫉妬。他人に論されても簡単に曲げない自分を持ってる彼女に対しての。
しばらく僕らの間に沈黙が流れ、それを破ったのは彼女だった。大きく伸びをした彼女がそのまま後ろに倒れて大の字になる。もはや自宅も同然。
「もうね、私のお人好しな所は壊したくても壊せないんだよ。それが土台になって今の私を作ってるからさ、壊したいなら私ごと壊さないと消えないんじゃないかな」
「生きづらそうだね」
「ほんとだよーおまけに泣けないってさぁ。私にとってこの家にいる時だけが唯一重荷を下ろせる瞬間」
「そんな大袈裟な」
「青木くんも寝転がってみなよ。私が言ってること少し分かると思うよ」
彼女は畳を叩いて僕に寝るように促す。少し抵抗はあったが彼女と同様、仰向きになって畳に身を預けた。木目が目立つ天井、照明はなく、それ用のコンセントだけが真っ平らの天井に凹凸を産んでいる。畳はお世辞にも横になるには柔らかいとは言えないが、悪い気はしない。
僕がしばらくその空間に体を預けていると、自然と呼吸が深く静かになって体が軽くなっていく感覚があった。どこかで覚えのなる感覚が深くなり、ついに意識までぼやけてくる。そうして気づいた。まるで夢を見てるようだと。
見慣れない天井、匂い。そのどれもが僕には馴染みのないもので実感が湧かないから夢と現実の境界線が薄れて、自分が今どちら側に足を置いているのか曖昧になる。
まず、夢を見ているのかと疑う。次に映画を見てるのかと錯覚する。そんな事を一通り考えた後、僕に残ったのは空っぽの頭だけだった。
今、目を閉じたら眠ってしまいそうな程、心は穏やかで彼女が言ったことが少し、分かった気がした。確かにここは日常を忘れる。
「何だか、白昼夢でも見てるみたいだ」
「そうでしょー? きっと私たちは本当に夢を見てるんだよ」
「それならついでに、幽霊の一人でも現れて欲しいけどね」
「いやいや、それは無いよ」
僕が軽いジョークで言ったことを、彼女は急に真面目な顔で打ち返してきた。
白昼夢に浸かっていた僕は耳元で目覚まし時計を鳴らされた心地。
「佐藤さんがそれ言っちゃうんだ。誰が提案して幽霊のネタ探しにここを選んだんだか忘れたの?」
「それはもちろん私だよ。だって幽霊の小説を書くならここ以外ないと思ったし」
「ならなんで幽霊の存在を否定するのさ。現実至高主義じゃフィクションなんて書けないだろ」
「私、幽霊の存在を否定なんてしてないよ。現れないって言っただけ。だってもうここに幽霊がいるんだから」
隣から堪えるような薄笑いが聞こえてきて、天井を見つめて寝転ぶ僕には彼女思惑が見え透いて分かった。なんて典型的な怖がらせ方だ。
今僕が彼女の方を見たら、大きな声で驚かせてくるか、何もないところを指さして「そこに居るよ」とでも言うんだろう。
それでも僕は彼女の敷いたレールに乗ってやって、彼女の方に顔を向けた。下らない話も暇つぶしには丁度いい。
「なら、その幽霊様は何処に居るんでしょうか?」
横目で僕を見ながら微笑を浮かべ、彼女は自分を指さす。
「ここに居るよ」
僕は驚きも落胆も含まない「はぁ」の二言を漏らした。その発言に喜怒哀楽で反応する前に、そもそも意味が分からないから、溜め息に似た言葉が出てしまった。
すると舌の根も乾かぬうち、畳み掛けるように今度は僕を指さしてこんなことを言う。
「そして青木くん、君も幽霊だよ」
笑って僕を幽霊だという彼女。僕は呆れと混乱で溜め息も出ない。
「あのさぁ、まず意味を説明してくれない?」
「意味も何も、今の私たちって第三者から見たら幽霊そのものだと思うんだよね」
「……もう少し詳しく」
「一回想像してみてよ。本来人の居ないはずの廃屋に私たちがこうして寝そべってたら、それはもう地縛霊じゃない?」
少し、考えてみた。もし今ここに家主とか肝試しに来た小学生などが来て、この部屋を見た時、そこには脳を空にして寝そべっている人間ふたりがいる。おまけにこの薄暗さだ。最悪、尻餅のひとつでもついてしまうかもしれない。
お化け屋敷など自ら脅かされに入った人間が幽霊に扮した人間に驚く恐怖とは違う。それは正に幽霊が人間に与える恐怖そのもの。生きていながら幽霊になれる方法があるなんて思いもしなかった。
そう考えた途端、見えていた景色が一瞬で色を変えてしまった気がした。
「確かに。そんな考え方もあるんだね」
「そんな考え方しかないよ! 青木くんだって実体験しか書きたくないって言ってたじゃん」
「だからって自分が幽霊になろうなんて、常人じゃ考え付かないと思うけど」
「常人じゃないよ、今は幽霊だから」
何やら自信たっぷりな笑顔でそんなことを言う。僕は冷めた目を向ける。
「何も上手くないからね」
彼女は頬をふくらませて抗議するが僕はそれを半ば無視に近い形で受け流し、カバンからノートを出してさっき殴り書きした次のページにプロットを書き始める。
もちろん彼女はすぐに食いついてくる。
「お、なんだかんだ言って青木くんも乗り気なんじゃん」
僕はその言葉に対して返事もせず、動作にも出さず、ただ手先だけを動かした。それはただ悔しさだけの理由だ。
彼女は言った「私達は幽霊」だと。僕はそれによって今までの固定概念が崩壊した。
幽霊を小説にする。それは決して人間目線だけで描かれる小説じゃなくてもいいんだ。
幽霊が小説を書く。不可解なものに怯えるのは何も生きている人間だけとは限らないだろう。
崩れた瓦礫を漁るように思考を巡らせていたら、プロットが出来上がっていた。廃屋を舞台にした地縛霊の話。それは決して幽霊に脅える僕達を書くんじゃない。幽霊が、孤独に怯える心情を書くんだ。
彼女から知った考え方で、自分がもしここに居座る地縛霊だったらどんな生活をしているだろうと、幽霊が怖いものとはなんだろうと、考え出したら溢れて出てくるそれを僕はそのままプロットにした。
書いている最中、幾度、己を嘲笑うような感情が顔を出す。
「いつまでお前はそんなことをしてんだ」「他人からもらったアイディアで書いてて恥ずかしくないのか」「お前の信念ってやつは都合のいいように形を変えるんだな」
頭の中では常にそんな事が海岸の波のように打ち寄せてくる。それでもどうしようもなく、この衝動は止められないから、思考と反して、僕はペンを走らせ続けた。
情けなくて仕方ない。今の僕は物書きとしてのプライドを捨て、ただの快楽のために物語を書いている。楽しいから書いている。書きたいから書いている。そんなもの、ただ時間と紙とインクを無駄に浪費しているだけに過ぎない。
形に残るものを、大衆の心を抉るものを、いつか金になるものを、書かなきゃさ、意味無いだろ。僕にはこれしかないんだから、小説を書くことでしか人生に意味を見いだせないんだから。
そんな僕がこれから先、生きていくには小説を金に変えるしか無い。早く自分の言葉を取り戻さないといけないのに。今僕がしていることはその真逆、金にならない小説を、たった一人の女子のために書いている。本当に先生がいなかったら今の僕はどうなってしまっていたんだろうと恐ろしくなる。
でもだからこそ、この時、先生の言った言葉で僕は言い訳のような決心をする。
彼女を小説にする、決心だ。
当の本人はその間、黙って僕の指が止まるのを待っていた。彼女としてもここで無意味に僕をいじって気分を損ねてしまうことは避けたいはずだから、らしくもなく黙っていられるんだろう。
僕がプロットを書き終える頃には部屋の半分は闇に飲まれかけていた。そろそろ帰らないとと思いながらノートを閉じたと同時に彼女の声がした。
「おかえり」
僕は下に落としていた目線を上げると微笑を浮かべる彼女がいた。その後ろの硝子戸からは斜陽が落ちていくのが見える。
「僕はどこにも行ってないけど?」
「行ってたよ。少なくとも『青木くん』はここにはいなかった」
僕は彼女の斜め横のジョークを理解して同じく微笑をした後「ただいま」と言ってやった。
そんな下らない会話も程々にして僕らは廃屋を後にした。また勝手口から外に出て生け垣の穴を通り抜ける頃にはもう西日は消え、左右の住宅から漏れる明かりが街頭のない細道を照らしてくれていた。それを頼りに帰路を進む。その間、とくに僕らの間に会話は無かった。正確には何か話していた気もするが、それらはわざわざ文字に起こすほどのものでもないから、無かったことにしても何ら支障はない。
ただ最後、僕が彼女の家まで送って行き、彼女が玄関に入る前に一言「楽しみにしてるね」とだけ言って、僕に返事をする間を与えず消えていった。
その行動により僕の自尊心とプライドが鍋の中で一緒に沸騰し出す。まだプロットを書き上げただけ、いつだって小説を書く決定権は僕にあって彼女のものでは無いのに。彼女は毎回、性懲りも無く、僕が小説を書くことを決めつけたような言葉を言う。
彼女は決してそんなつもりは無いんだろうけど、僕は彼女のその言葉が、今の僕を煽っているようにしか聞こえない。
自分の言葉で小説を書けない僕に「せいぜい頑張ってくれよ」と嘲笑を含んだ意味にしか。
だったら辞めてやればいいのに、距離を取ればいいのに。いや違う、突き放せばいいのに。僕は未だに彼女の隣を歩いている。それは事実として、僕の中では彼女の姿を見て書いた「春霞、立春を待たず」が最高傑作だったから。それが何を意味するか。
僕が僕の言葉で書こうとして失敗した濁った小説よりも、彼女に僅かながら感化された思考で彼女の姿を文字にした時の方がいいものが書けるということ。それは言うまでもなく、今までの僕を全否定する事実だ。きっとそれだけだったら僕は悔しさと情けなさで今頃、首を吊っていたかもしれないけど僕には先生から貰った言葉が首をつなぎ止める希望になっている。
彼女の全てを僕の言葉で表現する。先生から諭された言葉。
僕はそれを信じて小説を書いた。彼女の行動と思考を飲み込んで、自分の言葉で表現しようとした。でもそれは叶わなかった、僕の言葉で彼女の行動を表現しようとした時、僕の言葉は彼女に飲まれたのだ。まぁ、薄々わかっていたことでもあるけど、大切なのはそこじゃない。
言うなればこれはリハビリに近い。いくら自分の言葉で小説を書きたいと思っても、思ってるだけじゃ僕は濁った僕のまま。先生の言った通り、苦しくても小説を書いて自分の言葉を思い出していかないと駄目なんだ。それに丁度彼女がいた。
リハビリついでに彼女を飲み込んだ小説を書けるようになれば、それ以上の一石二鳥は無い。
そんな考えをあの廃屋で纏めた。プロットを書き始めた時にはもう、この先の自分を定めていた。
彼女の見せる景色を自分のものにして自分の言葉で小説にしよう。そのためのリハビリをしよう。
僕は彼女を飲み込む決意を固めた。
今は彼女を頭に浮かべて、自分の言葉を忘れて書かなければいけないけど、いつかは僕の言葉で彼女を飲み込んで小説を書く。形になるものを、その小説で腹を満たせるものを書けるようになる。それを信じて、自己欺瞞では無いと信じて、帰路を歩く。今日はどこも寄り道をすることは無かった。本当は今日彼女に小説を見せた後、先生にも見てもらおうかと思っていたが、結果としてクラスメイト一人泣かせられないような小説を先生に見せる気は、僕には起きなかった。
家に帰ったのは七時手前、そこからご飯を食べて空になった食器を洗った後、母から風呂洗いの命を受けたので自室に戻る頃には時計は九時を回っていた。
いつもならもう明日の支度を調えて寝支度をする頃だが、僕はノートパソコンの前に座って今日書いたノートを隣に開いた。
別に急いで書く必要も無いから今日でなくてもいいんだけど、どうせなら廃屋の景色が鮮明な内に小説を書き始めたい。そう思ってワープロソフトを起動したが、一抹の不安があった。それは僕の集中力について。
プロットを書いている時点で今回の小説は前回の三倍ほどの長さになると感じていた。実際に書くと更にだろう。とてもじゃないが今日中に書き上げられる量じゃない。でも僕が彼女のアイディアを小説にすると周りが見えなくなるほど集中してしまう、明日は平日だし、前回のように夜更かしも出来ない。
僕はその予防線として書き始める前にアラームを十一時にセットした。これで無意識の内に午前三時になっていたなんてことは起こらないだろう。
心持ち軽く、キーボードに指を乗せて執筆作業に取り掛かった僕だったがこれはもう流石としか言えない。アラームはいつの間にか無意識下で処理されて気づけば時刻は午前五時過ぎ、頂点まで上がった短針が朝に向かって下っていくラストスパート。
朦朧とした意識で考えたのはアラームの事や経った時間の事ではなく、学校まであと二時間は寝られる。それだけだった。こうなったら自己嫌悪なんてするだけ無駄。
普段より重力を強く感じながら立ち上がり部屋の電気を消した。その筈が、部屋は完全に暗転しない。その光の在り処を辿ると閉じたカーテンの隙間から淡い光が漏れていた。
その正体を晒すため勢いよくカーテンを開ける。僕は直ぐにその正体が分かった、考えてみれば当然だ。
もう既に日が昇り始めているようで隣の家の屋根から見える空が薄青くなっていた。僕はそれを見てから、ベットに向かっていた足が止まる。僕の中での優先順位が睡眠から突如現れた衝動に切り替わった。
室内と外を隔てるガラス窓と網戸を開きあけて身を乗り出した。まだ夜明けと言うには薄暗いが、空気は既に朝の澄んだ匂いがする。僕はそれを胸いっぱいに吸い込んで今の状況に少しの高揚を感じていた。
頭上の夜空は東から来る光に押され、夜の色が剥がれていく途中。澄んだ水に、絵の具が付いた筆を浸けた時のように青白い光が空に広がっていく。光に押され、夜が剥離していく。
闇は堪らず光から逃げて、建物の裏や僕の後ろに隠れる。目の前に広がる建物たちの陰影が深くなる。僕の影が伸びる。
もうきっと太陽は舞台裏から出番を待っている頃だろう。眼前に広がる凹凸の建物達が赤く染まり出して、心臓が騒ぎだす。実の所、出不精かつ面倒くさがりの僕は中学生にもなって日の出を映像以外で見た事がなかった。初日の出を見てみようと思ったことはあっても、徹夜か早起きをしなければいけないことを考えて憂鬱になり、毎年、昇りきった太陽を見る。そんな僕がまだ昇っていない太陽を待っている。心臓の鼓動が早まらないはずもない。
固唾を飲んで太陽の登場を待っている時間はそう長くなかった。毛状雲が一斉に燃え出す、それと同時に東雲の空が超新星爆発でも起こったかのように白み出して、街を覆った。僕は思わず目を細める。
一瞬の出来事に圧倒された。ふてぶてしく昇ってきた太陽は空を赤く染め上げ、あっという間に夜の残滓を飲み込む。徹夜明け、寝ぼけ眼の僕にはそれが朝日なのか、夕日なのか分からなくなる瞬間があった。
そんな夢見心地の僕を他所に太陽は陽炎のように揺れて昇っていく。その様は疑う必要がなく美しかった。誰かのための小説で睡眠時間を削ったことなんて忘れてしまうほどの幸福感が心を満たした。
美しい小説が書けない僕は、美しいものを見たい。見た後でそれを言葉にしたい。けど、ろ過装置と真逆の性質を持っている僕は、綺麗なものを模倣した言葉でさえ、霞ませ、毒にする。今だって、僕は右手で持ったスマホでメモ帳を開いて朝焼け空を言葉にしようとした。それを自制心が止めた。
折角、こんなに綺麗な景色なのに、わざわざ僕の言葉で汚してやる必要も無いだろ。スマホは電源を切って、ベットの上に放った。
まだ、遥か遠くで朝日が昇り続ける。僕には到底手の届かないその光を見ていたら、月を霞ませる彼女を思い出して虚しくなり、興が冷めた。早々窓とカーテンを閉めてベッドに入った。
手の届かない物を届かないものとして割り切れない僕はどうせ今日の朝日もいつか言葉にする。世界中の綺麗なものを全て汚さない限り、僕は止まらない。それは一種のモンスターのようだと思った。
もうこの際、学校なんで放り出して死んだ様に寝よう。そう思って死んだ様に眠った僕は一時間半後、母親の声によって無理やり現世に引き戻された。
無視して眠っていても良かったんだけど先程の僅かな睡眠の中、何かから逃げる夢を見ていた僕はこれ以上寝るのも疲れてしまって、逃げるように学校に向かった。外に出ると先程まで世界を覆っていた夜は、木の陰に蹲っていた。