感化
八月中旬、午後一時。開け放した窓からは自己主張の激しい蝉たちの合唱が止まずに、僕の僅かな勉学への意欲をかき消していく。
今年最高気温を叩き出した今日、僕はクーラーの無い自室で汗を滲ませながら夏休みの宿題を消化していた。
ぬるい扇風機の風にあたりながら僕は、夏という勉学に最も適していない季節に宿題を出すやつに対しての怒りをシャーペンを握る力に変換して何とか正気を保つ。
蝉がうるさいのは当然。さらに隣で扇風機をつければノートがめくれて仕方ないし、暑さで流れた汗が書いた文字に落ちると滲んで読み取れなくなる。文字が滲んでいくのを見ていると脳に押し込んだ英単語も不鮮明になった。
ついに僕は握ったシャーペンを空に放る。こんな調子じゃ一向に進む気配がない。かと言ってクーラーの付いている居間でやれば、集中力のない僕はテレビやらお菓子などの誘惑に負けて時間を浪費するだけになってしまう。実際それが何度かあり、今の状況になっている。自室にクーラーを付けてくれれば問題もないのだけれど、そんなことを中学生の僕が言ったところで親が聞く耳を持たないことくらい分かってる。
手を止めてから数分、太陽がまだ頭上に居座っている様を窓から見て溜め息を零しながら、僕は机の上のラムネを掴んで数粒口に入れて噛み砕いた。
ブドウ糖九十パーセントを謳っているだけはあり、咀嚼し喉に通した傍から頭が軽くなったような感覚がある。そんな頭でどうしようかと考えた。実は少し前からとある場所が脳裏に浮かんできていた。それは言わずもがな、図書館しかない。勉強に適した環境で言えば、ここよりも格段にいいだろう。ただ僕が渋っているのはこの時期、もれなく僕みたいな考えの学生で図書館が埋まっているのが容易に想像できるからだ。それに、もし誰一人いなくたって数多の本が押し詰められたあの建物には僕の居場所なんて無いように思う。胸を張るように並んだ背表紙を後目に「へへ、ご機嫌いかがですか」と顔に描いた微笑を地面に落として猫背が通り過ぎる。すると横の本棚から耳元に嘲笑と冷罵が聞こえ、消化できない不純物として体に溜まる。想像しただけで惨めな僕は膝を抱え丸くなりたくなった。
夢を抱き空に手を伸ばしていた二年間はいつしか僕に沢山の後遺症を残した。過剰な劣等感もその一つ。
そうした非才は生きてるだけで身の程知らずのツケが回る。唯一後遺症と引き替えに分かった事と言えば空には手やつま先を伸ばした程度じゃ届かないし、ましてや空の方から落ちてきてくれもしない。そんな当たり前の事実だけだった。
しかし、もう僕も半年程小説から離れた生活をしてきたし、図書館で勉強するだけなら今更過剰に恐れることも無いかもしれない。それに今こうしてシャーペンを放り、何か考えているようで何もしようとしない時間が一番無駄だ。
そう結論を出して部屋の隅まで飛んだシャーペンを拾った。次に教科書、ノート、筆箱、そして積まれた本の隙間から一冊の手帳を手提げカバンに入れてから、居間の母に一言添えて、僕は図書館への道を自転車で走った。
ここ数日、滞っていた宿題消化の為、自室に籠もっていた僕は言うなれば大海を忘れた蛙。太陽に蒸された部屋の熱気と天気予報の数値をイコールにしていた。偶に開け放した窓からいい風が入ってきた日には外の方が涼しいのではとすら思う。だから玄関で踵を揃える時まで肌を焼く日光やその日光で熱されたアスファルトも頭に無く、外に飛び出してやっと僕の足腰が重く部屋にへばりついていた理由を思い出した。
遮るもののない夏の陽光は重く背中にのしかかり、自然と体が前のめりになる。道の先で揺らぐ陽炎は、まるで僕が砂漠で幻覚を見る旅人のような気分にさせた。焦りかペダルを踏む力が強くなる。
並んで植えられた街路樹のポプラは現在空室がないらしく走っても止まない蝉の音が脳を揺さぶった。そんな夏の世界で自転車を漕いでいた僕は図書館到達を待たず濡れ雑巾へと姿を変える。足以外体の力が抜けて夏の熱気が忙しく出入りする口から舌が垂れた。額から流れる汗が目に落ちて滲んだ景色の奥、ペダルを強く踏んだところで一向に近づいている気配がない陽炎を追いかけているとまるで空に手を伸ばしているかのような気がして、遂にこれ以上足を回すのが馬鹿らしくなった。
ふと、これが図書館なんて凡庸な目的地じゃなく、殺されかけている友人の元だったら。と空想するだけの僕はもはや空に手を翳すことすら億劫。空が眩しすぎるのがいけない、だから自分の影の黒さが顕わになってしまう。
夏が脳の雑念を焼いて消す。浮かんだ傍から汗と共に肌から垂れるような思考回路は全てのあくたもくたをかき流した。だからこれは必然だ。気づけば僕の思考は二年かけて濁った腹の底で小説のプロットを書いている。
「……こんな凡庸な人生体験でもいつか小説に昇華出来るかもしれない」
吐いた息と同じくらい軽い言葉が遂に口から漏れた。僕は少し悩んだ後に自転車を路肩に止めて、カバンの中の手帳に腹の底で固めたプロットを大雑把に書き綴ることにする。小説を書けなくなってから未だに残っている、僕の癖というか、呪い。
いつかきっとなんて思いながら書き溜めた、プロットや心情は、もう手帳の半分を過ぎようとしていた。
どうせ無駄だろうけど減るものでもないし、僕はその習慣を放っておいて、また自転車のペダルを強く踏んで進み出す。
片道十分足らずの道程を、体感二十分かけて市立図書館まで辿り着いた。僕の眉間にシワを作らせる程の隙間のない駐輪場に何とか自分の自転車を押し込んで、やっと中に入ることが出来る。多少心構えを持って中に入った僕だったが館内の冷えた空気が体の熱を奪うとまた雑多な思考が頭を覆って身に余る感情は腹の底に落ちてくれた。
図書館の冷気は自然な涼しさとは違う、本達から溢れたインクの匂いや人々の動きで掻き回された独特の冷気。嫌な気はしない。むしろ天井のクーラーで多少埃が舞っているくらいが勉学には丁度いい。
僕は入り口側で深い息をして汗を引かせてから館内を見渡して座れそうな場所を探した。
駐輪場の混み具合から予測はしていたが、なかなか人が多い。それでも空いている席はちらほらあって、僕はそのひとつに腰掛けて勉強に勤しむことにした。
紙を捲る音、靴底を擦る足音、憚って潜めた話し声。館内の至る所から湧いた雑音は静寂を掻く。それが常に余計な感情を浮かんでくる前に沈めてくれるから良くペンが進んだ。
周りの本や勉強に勤しむ流れに一回、自分が身を混ぜたら後は簡単。廻る歯車の隣に置かれたかのように目まぐるしく腕が回る。人に環境に感化されやすい僕は流されている事に違和感すら感じず、黙々四時間ほど真面目に手を動かし続けた。
窓の外が綺麗なオレンジを纏いだした頃、集中力よりも疲労感が僕の手を止めた。周りを見渡せば、先程まで僕と同じく学問に精を出していた人らは姿を消していて、ガラス越しから蝉の声が物憂げに館内を響き回っている。
周りの同調圧力が消えて、夕暮れの空気が僕を包んだ今、あともう少しキリのいい所まで勉強しようなんて意識の高いことを思える僕ではない。寧ろ、ノートをパラパラとめくって今日の戦果を誇らしげに眺めている。それが僕だ。
いそいそと勉強道具をカバンに詰め込んで、帰る為に席を立とうとした僕だったが、腰を少し浮かせた所でまた、椅子に体を預けた。
ただそれはまだ勉強し足りないと突然思ったとかではなく、夕飯まで時間もあるし、せっかくならもう少しここで外の空気が冷めるのを待ってからでも遅くないと思ったから。と言っても本棚にきちんと収まった小説達に手をつけることは無い。ならばと浮かんだスマホは、勉強中どうせすぐ触ってしまうだろうと思って置いてきたんだっけ。
他に何か暇を潰せるようなものがないかとカバンを漁ると直ぐに、あの手帳が目に入った。少し考えて周りに人がいないことを確認してから手帳を開く。中には色々な小説のアイディア、書きかけのプロットなどが数十ページにわたって書き連ねてある。
これはまだ僕が小説家になれると信じていた頃のものだ。始まりはとある青春小説を読んだことから。そこから小説家に憧れて勉学の建前を使って親にワープロソフトを買ってもらった中学一年の春、僕は小説を書き始めた。
最初は楽しくて仕方なかった。自分の心象を文字に写すのも、物語を考えるのも、自分の書いた登場人物に思いを馳せるのも、全部が全部。手帳もこの時に買った。目に映るもの全て、文字にして書き留めたり、友人との会話をネタになるかもとメモしたり。この時、僕は自分の人生全部を言葉にしたかった。物語を語るにおいて、全てが妄想だったら説得力が無いと思ったんだ。実際はただ無から話を紡ぐ才能がないからなんて、当時の僕は知るよしも無い。より写実的に、より重い言葉を。まだ少ない人生観をフル活用して小説を書く作業は僕にとって、自己を確立する手段にもなりつつあった。故に壁にぶつかるのも一瞬だった。十二年で蓄えた価値観はあっという間に底をつき、それからはなにを書いても物足りない。自分を表現する手段だった執筆作業がまるで味のしないガムを噛み続けているような虚無感に変わり、創作意欲だけだが僕の人生の空白を主張するみたいに肥大化していく。
行き詰まった僕は勉強と称して小説を読み漁るようになる。名前だけ知っているような純文学作品を、有名文学賞を取り、帯で賞賛されている小説を、とにかく買い漁って四六時中、読み耽った。
純愛、厭世、人間関係。美しい話を血眼で読み肉にした。悲しい話を同情しながら血潮にした。知識を筋肉とでも思っていたんだ僕は。ただ知っただけの美しさや世界観は贅肉よりも動きを鈍重にさせるとは思ってもいなかった。唯一自分だと言い張れる骨は依然細く脆く、厚い肉の下に埋もれて存在を確認できるのは自重により軋む音だけ。
中学二年になる頃、それに気づかないまま、小説を読んで成長した気になっていた僕は久しぶりに書いた自分の小説で絶望することになる。
幼い頃、七色の虹を作ろうとして沢山の絵の具を混ぜた記憶が今の自分と重なった。パレットの上に出来上がったのは「黒」だ。沢山の美しい色たちが僕の中に入ってきた時、僕の中でそれらが混ざりあって濁った黒が出来上がった。
一つ文字を書けば、これはあの小説にあった言い回しだと脳裏に浮かび、一つネタを思いつけば、それはあの小説の模倣だと思い出して。まるで自分の言葉なんて何処にも無いように思えてくる。
有名な小説を読んで何かを得た気になっていた僕に残った物は、不完全な自分だった。
「藍から出でて藍より青し」努力次第で弟子は師を超える。そんな意味のことわざがある。
僕が師として読んだ愛や哀はあまりに美しすぎた。見てる世界が違った。目が肥えたら自分の青さばかりに目がいった。補う為に世界観と言葉を借りて、濁らせた。僕の青は未成熟の青だ。
そうして思い出す。初めの、ただ自分の情動ままに書いた小説を。きっとその中には、拙いながらも自分の言葉で紡ぐ心があった。今の僕にはそんな小説は書けない、拙い物を書く意味が見いだせない。情動だけで快楽だけで小説を書いたって、箸にも棒にもかからないものが出来上がるだけと悟った。それが中二の春。思い返せばただの黒歴史でしかないこの手帳。とっとと捨てればいいものを未だに持っているのは、まだ僕が小説にしがみついているからに他ならない。
僕の心は、僕の目は、もう小説を書く快楽を知ってしまった時から変わってしまったんだ。小説を書かない日々は、ただの惰性に思えて。見るもの全てをネタにしようとする目も治らないで。だからこうして書けなくなっても、いつかまた自分の言葉で小説を書けるようになると信じてネタやプロットを書き留めている。滑稽と言われても仕方ない。僕の人生はもう小説に支配されているのだから。今僕と小説を繋げているこの手帳すら手放したら人生の全ての意味がなくなってしまう気がする。
そんな大袈裟なことを考えながらペラペラとページをめくり、未完成のプロットのページまでたどり着いた僕は再びペンを取った。
数行書いては消して、書いては消して。その繰り返しは変わることなく、挙げ句は元々書いてあった前のページのプロットまで気に入らなくなり、書いてあるページを手帳から破って丸めてカバンの底に押し込んだ。そんな行動ももちろん初めてじゃない。
この手帳はもう何ヶ所もそういった傷があり、見るも無惨な姿になっている。僕はそうやって紙を破るたび、人生の意味を見失っていく。僕を満たすものはもう小説しかないのに、それに縋っては、また己の傷を増やすプロットを書く。
馬鹿らしいな。そう思って、今日はもうプロットを書くのは辞めることにした。とはいえ、せっかくこうして手帳を開いたのにページを破って帰るのも甲斐が無い。僕は人生の存在意義を残すような意味を込めて、今の状況と心情を破った次のページに書き始めた。これなら誰の模倣でもない。今の僕を書いているだけだから。
しばらく作業に没頭して、数ページ書いたところで僕はトイレに行くために少し席を立った。もう見渡す限り、僕以外の人はいないようだった。気づけば、ガラスに図書館の内装が映るほど外は暗くなっている。途中、追い討ちのように図書館の職員から閉館時間が迫っていることを聞いた僕は流石にトイレを済ませたら帰ろうと、歩速を早めて席に戻ろうとした。ただ、そんな僕の足を一瞬止めてしまう景色が、そこにあった。さっきまで周りに人の気配なんてなかったはずなのに、目の先に人がいる。それも僕の席に。
そしてその人物は何を思ってのことなのか、僕が開いたままにしていたあの手帳を、あたかも自分の物のように両手に持って堂々と読んでいる。それだけなら、まだ良かった。ただその人物が僕の見覚えのある人物と重なったから、物憂げな空気で満たされていた館内は一瞬で硬直し、鼓動が全身を狂わせてしまうほど揺れてしまう。
しかし、すぐ我を取り戻した僕は駆け足で自分の席に戻って、その人物から手帳を奪い返した。
「なに、してんだよ」
動揺を隠しきれないような声を出す僕の目には、当人がキョトンとした顔で今の状況を理解出来ていない様を見せていた。でもすぐその顔に微笑を浮かべ「この手帳、青木くんのだったんだ」と言った。
肩にかからないほどのセミロングの髪は薄茶色を溶かした色をしている。夏らしい白いシャツと青いスカート。私服だったからまだ曖昧だったのが、その声を聞いて確信する。この女子は僕のクラスメイトの『佐藤 優』だった。
手帳をしまわず、机に置いたままの僕も僕だが、なんて運が悪いんだろう。閉館間際まで残っている人がよりにもよってクラスメイトで、さらにそのクラスメイトが知らない人の持ち物を勝手に覗く毛の生えた心臓の持ち主だったことも。
僕は恐怖した。彼女は決して女子グループの中心にいるような人物ではない。しかしクラスの端っこで黙々本を読んでいるような人物でもない。関わりの少ない僕の印象ではただの世話焼きが好きな女子。
そんな彼女でも僕の手帳のことを周りの興味を集めたいがために話のネタとして使ったのなら、そこそこに広まっていくだろう。夏休み明け僕に向けられる視線がどんなものになっているかは考えたくもない。
極端に自分に自信の無い僕だが、他人の言葉でそれを認めたくない大層な自尊心も持ち合わせている。興味本位で小説を見せろとか将来は小説家かと揶揄されるだけでも苦笑が歪むのに、もし見せた小説に苦言でも呈されたら胸ぐらくらい掴んでしまうと思う。他者からの視点でこれ以上自分の非才を明白にされたくない。彼女は一見大人しそうでそういうことをする人間だと何となく思っていた僕は、それが怖くて仕方なかった。
「青木くんって、小説を書いてるの?」
そう彼女に聞かれ、僕は答えられず黙りこくった。しかし手帳は僕が書いたとしか思えない内容で誤魔化せそうもなく、ゆっくり頷く。
「そっかぁー」と彼女は気の抜けそうな声を発するが、その目はずっと僕の手の中の手帳を捉えたまま。
僕は斬首を待つ罪人のような心持ちで彼女を見た。彼女は拳を口の前に当て、何か考えているような素振りで余計に僕の不安を煽る。
永遠と間違える程の静かな空気が流れていく中、彼女の口角が少し上がるのが見えた。僕は彼女に首を差し出す覚悟をして言葉を待った。
執行人の口が開くのが見えて、そこから出た言葉に僕の思考は動きを止めた。
「ねぇ、青木くんさ。私を泣かせる小説を書いてよ」
全く予測していなかった言葉は、首を差し出していた僕に対して、刀ではなくタライが落ちてきたようだった。しかし、笑いながら言う彼女は至って真面目のように見えるのだから余計に分からなくなる。
「それって、どういう意味」
「ん? どうもこうも、そのままの意味。小説を書いている青木くんに、私を泣かせる小説を書いてって頼んでるんだけど」
「僕が聞いてるのはそこじゃない。そんなの書かせてどうするんだって聞いてるんだよ」
質問を明瞭にしても彼女の表情は言葉の要領を得なていないようだった。言えないのも当然か。どうせ彼女が僕に小説を書かせる理由なんて今日の事を言いふらす時に物的証拠もあった方がいいとかそんな思惑だろうから。
「私はただ、泣きたいから青木くんに泣ける小説を書いて欲しいってだけだよ? 別に勝手にコンクールに出そうとかなんて考えてないから!」
彼女は根本的に話がズレている。こんな話、上辺だけの意味をそのまま飲み込めるはずがない。だって。
「じゃあ、なんで僕に頼むんだよ。泣きたいなら僕の小説なんかよりも他にもっといい作品が沢山あるだろ」
結局の所、僕の疑問はこれ一つだ。そもそも彼女が僕にそれを頼む理由が分からない。泣きたいなら今の作品飽和社会、小説、映画、音楽。僕が書くお粗末な物語なんてすぐ霞むような話が沢山あるんだ。そんなこと、この手帳を少し見れば僕の技量なんて自明のはずなのに、それでも僕に書いてと頼む訳が理解できない。
勝手に手帳を見られた怒りがあるのか、少し高圧的に言ってしまった僕の発言を受けて、彼女は目線を下に落とす。やはりさっき僕が考えた、物的証拠のためだったんだろう。これ以上刺激して逆上されたら面倒だし適当にあしらって興味を失ってもらうことにしよう。
「泣きたいんだったらさ、僕が書くのなんかじゃなくてもっとオススメなのを教えてあげるよ。ほら、例えばこれとか」
本棚に視線を向け、見つけた有名な大衆小説を掴んで引っ張ろうとした時。背後からそれを遮る声があった。
「泣けないんだ、私」
沈んだ声が聞こえて脳裏には潤んだ瞳が浮かんだ。僕が振り返って見ると彼女は乾いた目を細め、笑みを見せている。
「誰にも言ったことないんだけど、青木くんの手帳勝手に見ちゃったし、これでお愛顧ね」
「いやいや、なんにも分かんないよ。泣けないって、ただ佐藤さんの感受性が低いだけでしょ」
「そうかな。私はもう病気だと思ってるけど」
こちらに向かって笑いながら病気だと言う彼女に、この時僕は少し恐怖を感じた。そんな僕を他所に彼女は自分語りを続ける。
「私ね、青木くんが言うように世の中に溢れる色んな小説とか映画とかを見てきたんだけど、泣けないんだ。悲しいとかは思うんだけどね、涙なんて微塵も出なくて。でもそれじゃあストレスが溜まって色々大変でしょ? だから青木くんに頼みたいの」
前半の話を僕はそんな人もいるんだなと、まさに他人事だと思いながら聞いていたが、最後の一言でまた彼女の思考回路が読めなくなる。
「いや、佐藤さんが涙を流せない人間だってことは分かったけど、じゃあ尚更なんで僕なんだよ」
「そうだね、可能性? って言ったら偉そうだし、なんだろう。やっぱり手帳がボロボロなのが信用出来るのかな」
おかしなことをいう人だと思った。
「いや、信用なんてとんでもない。僕の小説は、きっと佐藤さんが今まで見てきた作品のどれよりも粗末で拙いものだから、君を泣かせる様な大役を背負わせられないな」
「まぁ、私もそう思うんだけどね。でも根本的に青木くんは私に無いものを持ってる人間だと思ったから、君なら私を泣かせることが出来るんじゃないかなって」
屈託のないその笑顔には悪意も忖度もなさそうな無邪気さがある。きっと彼女は前世の呪いか何かで「泣く事」を奪われ、さらに「建前でも肯定ができない人間」にされてしまったんだろう。あぁ、なんて可哀想に。
そう頭で処理をして墓穴を掘った自分を落ち着かせた。だからその後の「無いものを持ってる」なんて言葉は頭に残るはずもない。
ここまで律儀に聞いていた僕だったが、今更になって思った。こんな意味の分からない話に付き合う義理がない。彼女のために小説を書くなんて論外。僕が変に彼女に突っかからず、興味無さそうにしていれば、いつか諦めたり飽きたりして自ら離れていってくれるだろう。
「あのさ、話の途中で悪いけど閉館時間もうすぐらしいから僕は帰らせてもらうよ。佐藤さんは?」
「ああ! ほんとだ! もう帰らないとね」
僕が指さした壁掛け時計を見ながらあからさまに驚いた様子で彼女は本棚の隙間に消えて行った。
僕はその隙に机の荷物をカバンに押し込んで早歩きで出口に向かったが、出入り口前まで来たところで僕の逃亡作戦は館内を走って向かってくる彼女に捕まって終わった。彼女には一般常識もないらしい。
「ちょっと待ってよ! まだ青木くんには答えを聞いてないんだから」
そう言われて、僕はまだ彼女の提案への否応をしっかりと言葉にして伝えていないことに気づいた。ただ、ここで安直にやらないと言えば理由を問いただしてきて、その理由によっては押せばいけると勘違いされて面倒くさくなる。しかし、こんな時の対処法を僕は今までの人間関係で培っていた。
「ごめん。本当は佐藤さんのために小説を描きたい気持ちは山々なんだけど、今の僕は小説を書けないんだ」
「書けないって、どうして?」
「アイディアがないんだよ。小説を書くためのね。だからああいう風に手帳にネタを貯めてるんだけど、いざ本文を書こうとすると全部物足りなくてさ」
「ああー、なるほどね」
約束や頼み事を断る時の僕の定型文がこれだ。あくまで僕がその時の気分で断っているのではないのだということ。さらにその理由が相手にはどうしようも出来ないこと。これ二つを活用すれば大抵の人は仕方ないと納得してくれる。その効果は彼女にも効いているようだった。
「だから佐藤さんのために小説を書くことは出来ないんだ。ごめんね」
追い打ちに謝罪の言葉も添えれば完璧。彼女はもう、暗い夜空に「そっか」と吐くことしか出来ない。その途端、徒歩の彼女に合わせて乗らずに引いている自転車が軽くなったように感じた。心もそれと同様、思わず息を吐いてしまうような安心感で包まれた。
これで彼女の為だけに小説を書くなんて僕の信念に反した行動をしなくて済む。変な妙案が彼女の頭に降ってくる前に話を終わらせよう。
「じゃあ、また夏休み明けに」
「ちょっとまって」
自転車のサドルに跨がりかけていた僕は彼女の神妙な横顔から、吸った息がやけに冷たく肺に溜まるような感覚に襲われた。
「え、まだ何か?」
「青木くんはさ、アイディアが思いつかないから小説を書けないんだよね?」
ゆっくりと頷いた。嫌な汗が全身から滲んでいるのが分かる。
「じゃあ、こうしよう! 私がアイディアをあげるから、青木くんはそれを元に小説を書いてよ!」
僕は彼女のその発言により、作り笑いが固まって戻せなくなる。今僕の目に映るのは街灯に照らされた彼女の満面の笑み。
「うん、それがいい! 勢いで言ってみたけど考えたらそれしかない気がしてきた」
「ちょっと勝手に纏めないでよ。アイディアをあげるなんて要するに後は丸投げってことだろ」
「大丈夫! 大丈夫! 青木くんがいきずまったらいつでも私が手伝うから」
「手伝うって言ったって、いや、そもそも僕は」
「大丈夫だって! なんだって結局直感を信じた人が得をするんだよ。それに泣けないお姫様を助けるなら一人より二人でしょ?」
彼女は自分の持論を両手剣のように握って縦横と振り捌いて見せた。勇者のつもりだろうか。
「……自分を助ける勇者なんて聞いた事ないね」
「確かにそうだけど一人くらい自分を助けるために戦う勇者兼お姫様が居ても面白いんじゃない? 塔の最上階には魔王がいるけど私達ならきっと倒せるから!」
冗談か本気か、陰影の深くなった彼女の笑みから読み取るには余りにも心が動揺しすぎている。
一体どこから出てくるんだ。彼女の自信満々な言葉の数々は。今までどんな作品を見ても泣けなかったと自ら言っているのにも関わらずそんな提案をするのは、もしかして自分のアイディアがそんな有名作品にも劣らないほど素晴らしいものだと思っていたりするのだろうか。その傲慢さも恐ろしいし、僕がその提案に乗ると思っているのも恐ろしい。
他人のアイディアで小説を書くなんて僕の理想から正反対の行為じゃないか。そんなことをするくらいならこの手帳ごと燃やして、僕が物書きだった残滓を全て消してしまった方がいい。まぁ、その事を彼女は知らないから仕方ないし、提案却下のためにこの思想を明かす気もない僕は思考を巡らせ、それっぽい言い訳を作り出す。
「いや、魔王とか以前に僕はあくまで自分が見たり感じたりしたことでしか小説を書きたくないんだよ。ほら、人から聞いた話をそのまま文章にするとリアリティが無くなるだろ?」
「それなら、私が青木くんの前でアイディアになるような物を見せれば大丈夫でしょ?」
「……いや、それは」
いよいよ僕は言葉に詰まった。これは僕が墓穴を掘ったのか、彼女がしつこすぎるだけなのか。……絶対後者だ。
普通、僕がこれだけのことを言って断ったら自ら引いていくのが道理ってものじゃないのか? そもそも彼女に対して「普通」って言葉を用いる僕がズレている気さえしてしまうから恐ろしい。
ただ、どれだけ彼女がしつこくたって結局僕次第なのは変わらない。たとえ彼女が僕の前でどんな凄い技を見せようが、道化を演じようが、それで小説を書くことは僕が決めること。
「なら…例えば佐藤さんはどんな景色を僕にみせてくれるのさ」
僕の考えが変わらないことを確信しながらも興味本位でそれを聞いてみた。
彼女は腕を組みながら唸る。
「うーん、なんだろう? 肝心な所はまだなーんにも決めてないんだよねぇ」
そう言って笑いかけてくる彼女に僕はつい鼻で笑いそうになるのを堪えた。余計な心配だったらしい。
さっきの彼女は思ったことを口にしただけで、実際に何か考えがあったわけじゃなかったのだ。中身が無い言葉に踊らされていた自分が急に馬鹿らしく思えた。
「ならこの話はおしまいだね。あんまり遅くなると親がうるさいから、もう行くよ」
「あー!! 待って待って。今思いつきそうだから!」
またサドルに跨ぎかけた僕を彼女は大袈裟に引き留めようとする。
「……言っておくけど、いくらアイディアを出しても僕が気に入らなければ、小説なんて書かないから」
そんな僕の警告も、彼女は「分かってるって」の一言で蹴り飛ばして夜空を眺めながら考え始めた。その様子を見て、もう僕の言葉は彼女の思考に全く影響を与えないことを痛感したので、黙って彼女の案を待つことにした。そして尽くその案を蹴ってやろう。その方が楽でいい。
隣で唸る人を忘れて、夜道を歩くことに集中した。図書館がある人通りの多い道から横道に逸れて、僕らは闇に同化したアスファルトを歩いている。光といえば左右の家から漏れる室内光と天の海、一際輝く満月だけ。その光で僕らの影が地面に薄く現れていた。時折、小さな十字路に設置された街灯は遠目から見ると舞台のスポットライトのよう。僕がその中に足を入れると見計らったかのように草むらからカエルやキリギリスの大合唱が始まる。闇に落ちた夜道、人なんて僕ら以外いないのに僕は肩身が狭い思いでその街灯の下を通る。
ふと、彼女が気になり隣を向くと、さっき見た時と変わらず、アイディアについて考え込んでいる様子。もうすぐ僕の家に着くというという所まで来たのに、どこまで付いてくる気なんだろうか。それとも彼女の家もこちらの方角なのか。そのどちらでも彼女がこのまま唸り声を上げて考え込んでくれたらいい。
またしばらく歩くと、道の先に見慣れた橋が見えてくる。住宅街の中ではなかなか大きな川にかかっているこの橋は僕の通学にもよくお世話になっている。鉄の欄干と粗いアスファルトで造られた橋は昼間通る分には何ともないが、それが夜になると途端に流れる水の音や人気の無さが相まって心霊スポットのような不穏さが現れる。
橋の上まで来た僕はその不安感を煽る水の音に誘われて、下を覗いてみた。そこには墨汁のように黒く染まった水が大きな波も立てず行儀よく流れていた。その水面の上には頭上の満月が揺れ映っている。
夜の川は黒く底が見えないせいか、まるで宇宙のように川の底が広がっているように思えてしまう。もしここに飛び込んだら自分はもう這い上がって来られないんじゃないか。そのまま沈んで地球の底まで落ちてしまうんじゃないか。
ありえないと思いつつ、僕は夜に染まる川を見てそう思わざるを得なかった。彼女にバレないように唾を飲む。
すると丁度、彼女が唸り声を止めて大きなため息を吐いた。
「あー駄目だ。全然思いつかない」
「そういうものだよ。そんな簡単に思いついたら誰だって苦労しない」
心に笑みを浮かべ橋を歩く。その心内を彼女に悟られてしまったのか少し怒ったような語気で僕にこういった。
「じゃあ逆に聞くけど、青木くんはどんなものを見せれば私に小説を書いてくれるのさ」
「……それを僕に聞いたら意味が無いだろ。アイディアがないから小説を書けないって言ってるのに」
「別に具体的じゃなくてもいいからさ。例えば、こんなものを見ればアイディアが浮かびそうってこととか! 私に出来ることならなんでもして見せてあげるから」
正直、この時の僕はしつこく付きまとってくるクラスメイトにかなり辟易していた。彼女は他人のパーソナルスペースなるものを理解していない。そもそも学校でも一切の接点がなかった様な人間に土足で心の中に入り込まれたら誰だっていい気はしない。僕なら尚更。
もう彼女が僕の物書きとしての一面を言いふらすかもしれないとかなんてどうでもよく思えた。彼女をあまり刺激しないように断ろうとしてストレスを溜めていたら元もこうもない。そう思い始めていた僕には彼女が言った「何でもする」なんて言葉はちょうど良かった。どうせそれも口任せの中身のない言葉だろうから利用してやらない手はない。下を流れる川を見て思いついたそれを彼女にぶつけることにした。
「ああ、そういえばあったよ。僕が見たいもの。それを見ればきっと小説が捗るようなとっておきが」
橋の鉄柵に両手を預けながらもったいぶった様に言う僕。彼女は案の定、食いついてくる。
「え! なになに、言ってみてよ。出来ることならなんでもやってあげるからさ!」
二回同じ事を言うことで中身の無い言葉をさらに軽くした彼女の発言で僕の残った良心も夜空に浮かんで消えた。
彼女の正面を向き、目を据える。そして彼女の笑みを真似て笑った。
「じゃあ、今、この川に飛び込んでみせてよ」
馬鹿みたいに目を丸くした顔が、僕の目の前で月明かりに照らされていた。
「それって、今この橋の上から川に飛び込むってことかな?」
彼女は橋の柵から顔を乗り出し下を覗いて言った。
「もちろん」
彼女にも見えたはずだ。炭のように黒ずんだ、底の見えない液体が。
月光で僅かに乱反射する水面、さらにその水面で不安定に揺らぐ月。まさに頭上の夜空が水に溶けたよう。
彼女の顔を見た。月明かりを背に向けているから目元はよく見えなかったが、半開きの口が彼女の心をよく表している。それはそうだ。
夜の水中はまさに宇宙と同じ。暗く、息もできなくて、何も手に掴めない。次第に口から気泡が漏れ、そこから闇が入ってくる。
想像しただけで身震いしてしまいそうなことを僕は彼女に言った。苛立っていたのもあるし、このくらいのことを言って身を引いてくれるのを期待していたから。
中身のない彼女のことだ。これ以上、事が大きくなるなんて想像もしていなかった。
「どうしたの? なんでもやるって……」
彼女の心を煽るつもりで発したそれは、目の前に起きた光景によって、僕は続きの言葉を忘れてしまう。柵に足を乗せて今にも飛び出しそうな彼女がいたからだ。
「ちょ、何して」
僕がそう言いながら彼女に向かって一歩踏み出す時にはもう遅い。飛び出した体は地球を離れ、空を飛んでいた。彼女に手を伸ばすも、届くはずもなく。僕はただ呆然と空を舞う彼女を目で追うことしか出来ない。
僕は目を疑った。躊躇なく飛び出したのもそうだが、空を舞う彼女の顔が満面の笑みだったことが。何よりも。
時間が止まったような空間が続いた。風に靡く彼女の髪、揺れるスカート。よく見れば、律儀に靴も脱いでいる。
瞬き一瞬の時が僕の目の前で起こり、それはまた泡沫の夢のように過ぎて、もう次の瞬間には大きな音とともに水面に落ちた彼女の水しぶきが、放射状に舞い上がった。闇が空を舞った、彼女によって、夜を溶かした水が、月明かりに照らされながら。
今度は僕が口を馬鹿みたいに開けて川を覗いた。舞った水はこれまた一瞬に川に戻って、しばらく水面に波紋を作ってからいつもの表情になった。
それはマジックのように、波紋が消えたのを皮切りに川はさっきの姿を取り戻す。そう、彼女がどこにもいない。
速まる動悸を感じて水面に目を凝らす。橋の反対も確認する。どこにもいない。夜の川にはあってはならない人の姿が。どこにも。
僕は真っ白になった頭で叫んだ。
「佐藤さーん!!」
息を全て吐き終えた時、また水面から音がする、闇と同化した水面からはよく見える。水に浮かぶ彼女の姿が。
「どーおー! しっかり見てたー? 私が夜の川に飛び込む姿!」
僕は安堵すると共に彼女に恐怖した。飛び込めといったのは僕だ。しかし、有り得るか。こんな底の見えない夜の川に飛び込むなんて…いや、常人ならありえない。
それに僕を恐怖させたのは、顔に笑みを浮かべ飛び込んだ彼女の心理。そして今、水面から顔を出して笑いながら話しかけてくる彼女の感情。
ありえない、こんなことを笑ってするなんて。考えられない。異質すぎる。
そう思って彼女に目線を向けていた。まるで自分とは違う生き物を見ているような、そんな。
僕の人生、今までもこれからも、見ることの無いような景色を、彼女はこうも簡単に。
その後、彼女から聞いた話によると、その時、僕は、笑っていたらしい。