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哀より青い僕達に、  作者: 天野蒼穹
12/21

「最初に、これは青木蒼汰に宛てて書いた遺書だから、もしこれを見つけた者が本人以外ならこれを封筒に戻して本人に渡して欲しい。今や私の部屋に尋ねてくる人なんて蒼汰だけだから杞憂だとは思うが。


 蒼汰へ。最後に別れの言葉ひとつ面と向かって交わせなかったことを申し訳なく思う。しかし恨まないで欲しい、私はその資格がないのだ。

 封筒の表には遺書などと書いたが今から書くことは所謂、遺書ではない。自白書と書く方が正しいだろう。

 何に対しての自白なのか蒼汰には見当もつかないかもしれないが、私が自白したいのは私が蒼汰に教唆した罪の数々。

 文字にする事さえ臆してしまいたくなる程の浅ましく醜い私利私欲。蒼汰が常に感じていたであろう、私が隠している感情の概ねはその罪が滲み出たものだ。

 君が先生と慕っていた人物は決して師として崇めていい者じゃない。尖った言葉を良しとして、心を刺した痛みでしか人を泣かせられない厭世家。これが私の本性。蒼汰はその被害者でしかない。

 私が蒼汰に関わらなければ、君は自分の力でスランプから立ち直れたはずだった。君にはその力があったのだ。しかし私が蒼汰の立ち上がる力を歪めてしまった。

 言葉に毒を吐き出すなと綺麗事を吹かして、美しい小説を書けと言う癖に言葉には限界があるなどと醒めた発言をする。


 蒼汰には随分と私の心で惑わせてきた。謝ったって到底戻るものではないから冗長に謝罪はしない。私が今から自白するのは許しを乞うためではなく、これを見た蒼汰が少しでも私の言葉から覚めて欲しいとの願いの元だ。

 しかし、その為には私の昔話を挟まなければいけない。少し長くなるが是非蒼汰には飛ばさず読んで欲しい。今の私を語るにあたって『彼女』の存在はどうしても外せないから。


 彼女と出会ったのは初春、私が大学一年生になって間もない頃。その日、私は朝寝坊をかまし一限の講義に遅れる間際であった。

郊外の実家からでは距離があるため一人暮らしを始めた途端これだ。両親の不在と分刻みのバスが私をおかしくさせた。

 責任を他に置いて、なんとか前を向く私は、これみよがしに行く手を阻む赤信号にすら奥歯を噛む。身から出た錆だと言うのに、あたかも赤と青の時間配分がおかしい信号が悪だと睨んでいた。

 実はその時、私の隣に一人の女性が立っていた。身長は私と同じか少し下くらいで太陽が降らせた白光を受け光沢を纏う翡翠の髪は二の腕ほどまである。横目で見るなり、その女性は目が不自由だということが分かった。白い杖で地面を探るように動かしていたからだ。しかし、それだけ。もしその人が困っているのなら手を貸すくらいの良心がある私だが、その人はしっかり横断歩道前の点字ブロックを確認して赤信号で足を止めているのだから親切を押し付ける必要もない。だから私は目の前の信号だけを意識して眺めていた。


 この時、私は勝手な思い違いをしていた。目が不自由な人がどうやって信号が赤だと認識できるのかと疑問にすら思わなかったのだ。

 その女性は、横断歩道の前で足を止め、耳ひとつで周りの状況を把握しようとしていた。信号機の音、車の走行音、通行人の足音など。だがここの信号機はピヨピヨと親切に鳴るような代物でなく、その時はちょうど車の通りも止んでいた。通行人は私だけ。


 視界の隅で隣に立っていた女性が横断歩道内に身を乗り出そうとしているのに気づいた時、奥から迫る一台の車があるのを、その女性は気づいていない様子であった。

 迫る車の方も歩道に沿って植えられたポプラや低木のせいで女性の姿を視界に捉えていないのだろう。まるで止まる様子なく走ってくる。

 その両方を捉えた私は肝を冷やした。ニュースや新聞などで知る事故が今目の前で起ころうとしているのだ。


「危ない!」なんて言葉よりも先に体が動いた。そこには使命感も正義感もなく、人間の根底にある感情で動かされたように思う。

 無我夢中で飛び出して女性の両肩を掴んで思いっきり後ろに引っ張った。女性の体が歩道側に倒れ始めたと同時に鉄の塊が私達の目の前を高速で通過して行った。

 次の瞬間、私は何せ無我夢中だったものだからその女性を引っ張った後のことなんて考えておらず二人して地面に倒れ込んだ。

 アスファルトと背中を合わせていると自分がどれだけ大きく心臓を駆動させているのかと実感した。肋を突き破って飛び出てしまいそうな勢いであった。

 暫くは瞳孔を広げ、深呼吸しながら赤く光る信号を見ていた。今思えば私は命を助けようとして自らの命も危機に晒された事に怯え慄いていたのだろうと思う。

 そんな私に隣の女性が服の裾を引っ張って存在を思い出させた。私はハッとして「大、丈夫、ですか?」と途切れ途切れで気遣った。

 その女性は両手で私の腕や肩の位置を確かめて、遂に手が私の頬に当たったと分かると顔をこちらに向けて言った。


「ありがとう」

 顔を合わせて言ったその女性はついさっき命の危機に見舞われたと思えない程の優しい笑みを見せた。


 私はその女性が何故こうも自然に笑えるのかと不思議に思う反面、私は目が見えるにもかかわらずここまで動揺しているなんてと赤面し、返しの言葉も見失った。

 彼女との出会いはそんな命の危機からであった。

 後日、助けてくれたお礼をしたいと私は都内の喫茶店に呼び出された。日当たりのいい窓際の席に見覚えのある姿が見えて、あの日の事と自分の名前を言うと彼女は「来てくれてありがとう」とまた優しく笑いかけた。

 彼女のご馳走でショートケーキと珈琲を頂きながら世間話をする中、私はつい気になり彼女の身の上話を聞いてしまった。

 知り合ったばかりの他人に言いたくないことも沢山あるだろうに彼女は嫌な顔一つせず、話してくれた。


 名前は杏佳(きょうか)といい、年齢は当時の私と同じく十八歳で、目は生まれながらに全盲だったと言う。ここから数キロ離れた盲学校に通っているなど。

 私は今まで自分と関わりのある世界しか知ろうとしてこなかった。君は笑うだろうか、盲学校という言葉さえ、その時初めて知った始末である。


 自身の知の浅さと世間知らずな所に辟易しながら、恐らく私はその時既に彼女に惹かれていた。

 暗闇の中、懐中電灯を足元にしか当てない馬鹿な自分がここにいると、目が見えずとも懸命に生きている杏佳の方が私より遥かに人間として優れていると確信する。尊敬する。


 杏佳は目が見えなかった。しかし露骨にそれを思わせない所作があった。

 とりわけ、目の前でケーキや珈琲を頂く彼女の姿は私に衝撃を与えた。ケーキをフォークで切り分け口に運ぶ動作やカップを取って珈琲を口に流す動作、その全てがまるで渡りにいる人と遜色ない。寧ろ美しいとすら思わせる。

 後に聞いた話で杏佳はまず食事が運ばれてきた時に店員が置いた皿の位置や机の振動などで何処に何があるのかを把握し記憶するのだそうだ。そしていざ食べる時に皿の縁やカップに左手を添え、正確な位置や造形を捉えてから食べる。

 試しに私がそれをやってみれば、振動などで皿の位置を把握しようとしても左右どちらかにあると分かるぐらい。いざ食べるとなると動かす手はぎこちなく、いつ皿を割ってしまうものかと冷や汗も止まらない。対して杏佳はそれを涼しい顔でこなして見せるのである。


 昔の剣豪が目を瞑ったまま落ちる葉を切り伏せる姿を彼女と重ねた。

 横に倒したフォークで迷いなくケーキの角を切り落とす。流れる様にそのケーキをフォークの上に載せ、相応に開けた口に運ぶ。

 珈琲にはミルクと砂糖を少し流し入れ、銀の匙でカップの外側を撫でるようにかき混ぜる。凪いだまま回り回る珈琲が少し落ち着くのを待ってから、ゆっくり口に滑らせる。


 杏佳が見せる動作は決して教科書通りの食事マナーではない。一々書くのを省いたが、全ての動作の前に一度皿やカップに手を触れて場所を確かめなければならないのだ。しかし私は杏佳の食べ方こそが本来私達が取るべき所作のように思う。

 杏佳が一口事に皿やカップに手を添え向き合ってから食べる様子は頂きますやご馳走様ともつかない、食べ物への感謝の表れのように見えるのだ。

 そうすると私を含め、他の人々が目で見て食べ物を口に運んでいるのにも関わらず、何も見えていない様に思えた。まるで上の空。二度、言葉と手を合わせた程度で満足するのだから。

 また今までの自分を卑下した。反対に杏佳に対する尊敬の念が深まっていく。

 しかし、そんな彼女でもやはり危うさは残っていた。頭上の障害物に当たりそうになったり、一度ものを地面に落としたりすれば人の力を借りないと探し出すのは一苦労。

 出会った時の事件以来、私は杏佳がちょっとした事で割れてしまうガラス細工のように思ってしまった。あの時だって私がいなければ杏佳はどうなっていたか分からない。それに杏佳を助けた時、私に見せた笑みがどうしても脳裏から離れないのだ。

 彼女の隣に立ち、障害物の有無や落とした物を拾ってやるのが何より嬉しく、私が目の前の情景や人々の様子を説明すると杏佳は興味深そうに次の言葉を急かす。私も杏佳と話す時間が至福だった。

 この時の私を動かす感情は人助けによる幸福感だけだと思っていた。しかし違う、庇護欲に紛れた恋情が確かにあった。

 杏佳と過ごす時間が長くなるにつれて、その恋情も深くなる。深くなった恋情は私の人生を大きく変えていった。私が小説を書き始めたのも杏佳のためからだった。


 それからも杏佳との交流は依然途絶えず、寧ろほぼ毎日顔を合わせていた。誘われていた訳ではなく、私の一方的な親切の押し売りであった。

 杏佳は毎日、数十分の距離をバスに揺られ学校に通っていた。学校には寄宿舎が併設されているらしいのだがバス登校は彼女たっての希望らしい。

 その仔細は一度も聞いたことがないが理由は何となくわかる気がした。

 だから私は毎朝、杏佳に付き添いバスに乗って学校まで送った後、自身の大学に向かうという生活を選んだ。


 私にとって杏佳はアスファルトのヒビから咲くたんぽぽだった。力強くも少し目を離せば更に大きな力によって散らされてしまう存在だった。

 庇護欲に託けて杏佳の傍に身を置いた。杏佳もそれに内心嬉しそうであったから私の押し売りもブレーキを忘れた。

 中でも私の親切心がピークを迎えるのが休日、二人で出かける時。行く場所はまちまちだったが決まって何処も景色が綺麗な場所に足を運んだ。

 場所を決めるのはいつも杏佳であった。私は最初、景色が綺麗な所に行くのは杏佳にとって心苦しいのではと勝手に思っていたが、彼女の考えは私の様にマイナス思考ではなかった。

 私が上記の事をそれとなく聞いた時、杏佳は私から聞いた言葉で目の前の景色がどれだけ美しいものなのか想像するのが楽しいのと言って笑った。

 私は元来無口な人間だったが、その時ばかりは饒舌にならざるを得ない。しかし、私が慣れない言葉遣いで景色を言い表す度に杏佳が楽しそうに笑うから喋るのも苦ではなかった。

 私は彼女の目になれているのだと実感した。それが何より嬉しかったのだ。当時の私はその喜びが恋から来るものとは疑いもしなかった。だから善意で一緒に居てくれていると思っている杏佳に対して罪悪感なんて感じもしない。


 私が杏佳に景色を言葉で伝えるようになってから暫くして、薫風が若葉を撫で始める頃、その行為は特別な物ではなく、常に行われるものへと変わっていった。

 身近な街並みや近くのスーパーの間取りに至るまで。大まかな位置だけでも覚えていけば役に立つだろうと軽い気持ちで話していたのだが、暫くしてから気づいた。杏佳は恐ろしく記憶力が良かったのだ。

 私が一回言っただけで店の場所や交差点の位置はおろか、その正確な内装や構造も覚えており、私と行った様々な場所の景色も彼女の脳内では一枚の絵画になっているのだという。

 それを聞いて私は杏佳に絵を描くことを勧めた。自分のイメージを紙に起こすことでより鮮明に記憶に残るのではと思ったのだ。

 まず手始めに近所の公園に行き、全体を見渡せる位置にあるベンチでスケッチをした。描き始める前に私がベンチから見える景色を細かに伝え、杏佳はそれを元に筆を執った。


 当時私は杏佳の絵に、絵としての価値を求めてはいなかった。それは決して期待していなかった訳ではなく、そもそも求める必要が無いのだ。彼女にとって今から描く絵は備忘録のようなもので人に見せる為に描いているのでは無いのだから。

 しかし、僅かながらに杏佳の常日頃からイメージしている景色に興味があった私は杏佳が描きあげた絵を見て、これは備忘録だと思いつつ、ひとつの絵に対する感情を抱いてしまった。


 杏佳の絵には色が無い。遠近法もままならない。その全てがマイナスに作用していない絵を私は彼女の絵しか知らない。

 言葉に出来なかった。この絵が持つ美しさを形容する為には芸術だとしか言えない私が、絵画の前で茫然たる顔を下げながらも分かった風に唸る人間の様だった。私は一目で彼女の絵に見惚れてしまったのである。

 蒼汰にも以前見せたことがあっただろう、勿忘草が描かれた栞。あれも杏佳が私に描いてくれたものだ。あの絵は私にとって何よりも大切なものだったから君に綺麗だと言って貰えて描いた本人でもないのに嬉しかったのを覚えているよ。


 話を戻そうか。杏佳の絵が美しいと知ってしまった私はそれから彼女の描いた絵を備忘録として見ることは出来なくなってしまった。それまでか、私が絵を見たいが為にそれとなく絵を描いて欲しいとさえ頼むようになった。

 杏佳の描く絵は他の絵と一線を画す、ルールや基本に則らない特有の美しさがあった。だからまたその絵を見たいとなると彼女に頼む他なかったのだ。

 ただ、根本を忘れてはいない。杏佳の為にもなるように彼女の手を取りながら絵を描いて景色の細部を教えたりもした。するとどうだろう。日を追う事に杏佳の腕は上達して、私にとっては美術館に飾っても差し支えがないと思えるほど美しい絵を描くようになっていた。現に休日の公園などで彼女が絵を描くとその後ろを通りすがる人達が足を止めて眺める事がしばしばあった。一度、私達の前で右手の指を五本立てて(恐らく金額を表していたのであろう)「売って欲しい」と頼み込む人が現れた時は、私の見る目と杏佳の才能を確信した。


 売るために描いているのではないので。と彼女は丁重にお断りしていたが実際、彼女の才を持ってすれば画家になり生きていくことも難しくはないだろう。私はそれを望んでいた。それが杏佳の幸せだと思い込んでいたから。

 いつからそんな独り善がりな将来を押し付けていたのか知らない。だが根拠がなかった訳ではない。杏佳が絵を描く時、普段は見せない生き生きとした笑顔がそこにあった。その理由は紙を通して世界を見ることが出来ているからだと私は思っていた。ならばその絵で金を稼いで生活出来るのならこれ以上ない事だろう。当時はこの考えだけが杏佳を幸せに出来る唯一の方法などと信じていたが、今一人になってから考えてみると、あの時の私は杏佳の為などと言っておきながら杏佳の意思を一切含んでいなかった事に気づく。

 売ってくれと頼まれて何故、杏佳は絵を売らなかったのか。ずっとその訳が分からなかったが最近になって思うのだ。


 杏佳にはきっとプライドがあった。


 彼女は自分で描いた絵を脳内で形作れても見ることは出来ない。それに実際の景色と比較することも、他の人が描いた絵と見比べることも出来ない。いくら私や世間が杏佳の絵を褒め称えたって杏佳には見えないのだ。自分で自分を肯定するための材料が無い事がどれだけ心細いことか、私には計り知れない。

 動物園の像が描いた絵に値段が付くように、子供が書いた家族の絵が表彰されるように。彼女は自分の絵が「目が見えない人が描いた」という肩書きにより褒められていると思っていたのかもしれない。

 私は杏佳の絵をそういった目で見て、元の評価を上げた事は一度もない。一つの絵として、その出来栄えは明瞭だった。

 しかし一度、画家になって世間に知られていけばその絵の美しさの手前に「目が見えない人が描いた」なんて言葉がくっ付くことは想像するまでもない。耳が聞こえない人が曲を作れたら凄い。手がない人がピアノを演奏できたら凄い。いつも世間はその手前の言葉を重要視する。まるで上から目線。後はどうであれ、最初は他の人と同じ土俵で評価をして貰えない。何より重要なのはそんな前書きを付けず、ただその人が作った表現した物を賞賛し努力を讃えることだというのに。それを理解している人間は少ない。熱く語ったが私だって昔はその中の一人であったし、何なら上記で彼女を語る際、そういった節があった事も認める。

 今でさえこうなのだ。昔の私は到底、杏佳の意志を汲み取れなかった。本当に画家になることが幸いだと思っていた。

 杏佳の絵を見る度にその思いは肥大化していくばかりで、遂に今日か明日にでも言ってしまおうかどうしようかと渦を巻き出した頃、やはりひとつの壁が私の言葉を重くさせる。


 杏佳の絵は美しい。それは紛れもない事実だが、だからこそ目立ってしまう。白い紙に黒単色で描かれた絵は物寂しさがあった。

 本格的に画家を目指すなら色を知らなければならない。勝手な緊迫感を持ち出して、いや使命感だ。杏佳は画家にならねばならない、そうでなければ生きてはいけないのだ。私だけが杏佳を導ける。生き方を教えてやらなければならない。

 全く以て滑稽以外なんと言えようか。まぁ、自己卑下に行を費やしても仕方ないからここまでにするが、とにかく私は杏佳に画家の道を提案するより先に色を教えることが先決だと考えた。


 数日後、二人の都合を合わせて駅からバスで二十分ほど、山中にある公園に足を運んだ。八月上旬だった、その日は夏らしい快晴の空で滲む汗も轟く蝉時雨も心地よい。思わず駆けだしたくなる高揚感に包まれた。杏佳も私と同様、寧ろ私より浮かれていたようだった。早く行こうなどと言いながら私が手を引かれていたぐらい。

 話を切り出すならこれ以上無いタイミングだと思った。見上げれば眩む青い快晴、振り向けば風で揺れる緑葉の森、言葉にするには余りある綺麗な色とりどりの景色。後は私が杏佳にその美しさを教えてあげればいいだけ。

 それだけなのに私は最初の言葉を迷った。色を伝えるという難題が、夏の熱が、私をおかしくしたのだと思う。


「杏佳は世界がどんな色をしているか知りたい?」

 愚問に等しいと言ってから思った。未だに、死ぬ間際の澄んだ思考でさえ、この時私がこんなことを言った理由が分からない。

 ただ、彼女の事を思って言った事だということだけは確信を持ってここに書いておく。

 杏佳は突然足を止めた。そして振り返ると微笑を浮かべながらこういうのだ。


「知りたくないよ、あなたの言葉以外からならね」


 聞いた私は途端に蝉の合唱が耳から途絶えた。世界が二人だけになったようだった。私も杏佳以外に世界の色なんて言葉にする気がない。私が真面目にそう返すと彼女は笑った。

「でもいつもみたいに直接聞くだけじゃ足りないからさ、小説を書いてみるのはどうかな。私の絵を見て、あなたがそれに言葉で色を付けるの。それってすごく素敵じゃない?」

 我が小説家の濫觴はこの一言から。私は迷いなく頷いた。小説なんて授業で目を通した程度。書いたことなど無論無い。

 それでも頷いたのは条件反射でも自信過剰でもなく、彼女の絵を小説にするなら美しい言葉なんていくらでも出てくる気がしたのだ。


 蒼汰にもし、これが惚気話のように聞こえたなら、甚だ勘違いである。私と杏佳は未だに友人のまま、それも聞いて確かめたことは無いから知り合いのままですらあるかもしれない。私自身、恋なんて感情を内包していることを知らずにいたのだから当然だろう。もしその時の私が恋というものを自分の中に感じていたとしても、それは杏佳に対してでは無く杏佳の描いた絵に恋をしているのだと思うに違いない。私という男は当人への恋心を知りながら知らん顔で恩を売れるような浅ましい男ではないのだ。愛の両端、高い端が神聖、低い端が劣情。私は前者だけが愛でその他は愛ではないと信じている。傷心に付け入って中を深めよう等と言う行為も私にとっては劣情と違いない。

 極端な思想だと思われるだろうが杏佳の為に色を伝える小説を書く上ではこれ以上なかった。恋も劣情も、正義も悪も、表も裏もいらない。美しさだけを求めて書けばいいのだから。


 私は言われたその日から逸る思いで小説を書き出した。当初の私はスマホのメモ帳に小説を認めていた。紙でも万年筆でもパソコンでも結局出来るものは同じなのだから関係ない。場や道具にここまで依存しない芸術も小説くらいだろう。

 最初に書いたのは森を舞台にした童話だと覚えている。三万文字で四時間程、氷上を滑るように止まることなく書いた。今は断片的にしか内容を思い出せないが、まぁ、美しさが真上を見上げないと目に映らない位遠い空の果てにある小説だったのは確かだった。

 最も、問題なのはそこではなく、自分で自分の小説が美しくないと気づけない事だ。馬鹿は書くものも馬鹿ならそれを見る目も馬鹿である。

 だから蒼汰、執筆作業に於いて先が思い浮かばず天井を眺める時間は決して情けない時間ではないよ。自分の限界を超えようとしている時間なのだから。危険なのは暴走列車のように書き続けること、もしそうなった時は小一時間ほど散歩をしてから書いたものを見直すといい。それを続ければきっといい作品ができる。だが見る目が鮮明になるにつれ、その裏では心が摩耗していく。小さな綻びも自分の非才も実感しなければならなくなるからだ。私の場合、よりそれを実感させられる人物が隣にいた。


 短編ではあるが三つほど小説を書き、苦手な読書も、やはり小説を書くなら習慣にしなければと有名作品から手を付け始め、多少は見える世界も変わり始めた頃から、私も遂に壁にぶつかった。

 ある日を堺に、杏佳の絵と自分の言葉が釣り合っていない。まるで表現しきれていない。なんて見るに堪えない小説を書いていたんだろうと目が覚めたように気づき始める。

 杏佳は私の小説に表情を変えて優しい感想を述べてくれるが、そこに忖度があるのは書いた本人が一番分かる。


 様々な感情や比喩を用いて世界の美しさを教えようとした。しかしどうやったって駄目なのだ。どんなに言葉を尽くそうと言葉で伝えることが出来るのは所詮情報でしかない。青色とは爽やかな気持ちになる色、赤色とは怒った時胸に湧く色、緑とは安らぐ色。

 蒼汰にも散々言ったね。言葉には限界がある。言葉で世界を表現できるのは、読み手の経験や知識があってこそ。空といえば青色や白い雲を勝手に思い浮かべるし、葉と言えば森や草原を思い浮かべる。そういった連想や補填知識によってやっと脳内で情景が作られ、人は心動かされる。

 暗闇で生きてきた人にそれが通用するか、抱く世界の色は暗澹たる表情を浮かべたまま、僅かな光どころか手も差し伸べてやれない。


 以前、私は自分の小説を杏佳の前で朗読した後、咽び泣き出したことがある。

 いつもは杏佳の絵を私が見て小説にしていたのだがその日は私の小説を聞いて杏佳が絵を描くという寸法になっていた。

 逆にした理由としては、この時既に杏佳は私の小説で色を知識としては知っていて、素人ながら色の付け方や濃い薄いも教えていたから、今日初めて私の手助け無しに色鉛筆を使って一枚の絵を描いてみようという話になったからだ。


 前座として私が大した自信もない小説を読み聞かせる。杏佳は真剣に聞き入って、読み終えた私に一頻り感想を述べた後、筆を動かし始めた。

 私はその横で赤と言われたらその色鉛筆を渡すという看護師のような仕事をして絵の完成を待った。

 流石の彼女も小説の一場面を絵にすることは今までの経験や応用で何とかなっても、そこに色を付けるとなると暫く筆が進まなくなる時間があった。いつもより二倍ほどの時間を掛けて杏佳は絵を描き上げた。その時の表情はいつもとは違う浮かばれない笑顔だった。


「せっかく小説書いてくれたのに、綺麗に描けてるかな」

 まるで言ってもいない謝罪が聞こえてくるような言葉につられて私もまだ見てもいないのに大丈夫と口から零して絵を受け取った。どんな絵でも受け止めるといった意味の言葉だった。不安そうな杏佳を横目に絵を広げる。そうして私は泣いた。


 杏佳の絵は私の想像以上に美しかった。色のタッチも私が少し教えただけなのに完璧に近かった。私は絵が綺麗だったから泣いた。

 だがその涙は決して感動で流れた綺麗なものでは無い。

 杏佳が見せた悲しそうな顔が私の目を覚まさせた。その時ばかりは彼女を画家にさせようなんて考えは煙に消えて、ここまで美しい絵を描いてもこんなに暗い顔をしなければならない杏佳の心中を思って悲嘆を心に叫んだ。


 こんな美しい絵と決して釣り合わない私の小説のお粗末さ。

 足りない。こんな言葉では。杏佳は何故こんなに美しい絵を描いているのに笑えないのだろうか。私が教えていたのは所詮情報だからだ。

 何故私は世界を捉える目があるのにそれを言葉に出来ないのか。杏佳は暗闇に立ち尽くしながらも私よりはるかに価値のある絵を描いているというのに。

 私の涙はそれら全てが一度に押し寄せたものだった。


 やっと気づいたのだ。杏佳にとって絵を描くという行為がどれだけ恐ろしいものなのか。闇をなぞって絵を描くことがどれだけ不安か。

 言葉とはどれだけ紡げば事足りるのか、事足りることなんてないんじゃないんだろうか。

 それから私は無闇に絵を描くことを進めなくなった。だが根底では杏佳は画家になるべき等という独善的な考えを捨ててはいない。今は確かに絵を描くことが辛いかもしれない。だが色を知ることが出来れば、世界の美しさをもっと感じることが出来れば、自分が描いた絵に自信を持って笑えるようになれば、そうすれば画家になることが何よりの幸いになるはずだ。だからそのために私は更にいい小説を書かねばならない。

 杏佳の持つプライドなんて考える余裕もなかった。


 使命感に駆られ寝る間も惜しんで小説を書いた。人の小説だって食い漁るように読んだ。得るものがあるならいくらでも自分のものにした。

 私は杏佳の目だ。杏佳の才能を知り導いてやれる唯一の人間だ。私が伝えた世界が丸々杏佳の世界になるのだ、美しい世界を書かなければ、妥協は許されない。

 その当時は一週間に一度の間隔で小説を書き上げて杏佳に見せていた。彼女からも私の緊迫した様子は簡単に見て取れただろう。

 恐らく杏佳は私の思惑を見透かしていた。だからとある申の刻下り、杏佳を家に送る道すがら、こんなことを言われたのだと思う。


「私の世界はね、例えるなら六畳間なんだよ。どんなに広くて見通しのいいところに立ってたって同じ。空には雲が浮かんでいるって言われても実際に手に届く距離にあるものしか信じられないんだから」

 私はハッとして隣を振り向いた。杏佳は澄んだ瞳で曇り空を見ていた。


「でも、貴方の言葉なら信じてもいいって思ってる。雲には手が届かないし私の六畳間はそれを映さないけど、確かに貴方の言葉は私の六畳間を照らしているよ。……それだけじゃダメですか?」


 彼女が差し出した最初で最後の救いの手だった。私がその手を取れるくらいに頭が良くて、聡明で、ねじ曲がったプライドも無ければ、杏佳の言葉に込められた意味を汲み取ることが出来たら。

 私は私の物差しでしか人の幸せを測れない。扉の先に広がる景色よりも六畳間の壁に飾った風景画の方が良いと思う杏佳の思考は私には元より存在していなかった。

「ここらで妥協しませんか?」杏佳の言葉全て聞いても尚、私にはそれだけの意味に聞こえた。真意を汲めず妥協なんて言葉が出てくる自分は、もはや救いようもない。


「私は何としても君に世界を教えたい」

 杏佳から目を外し曇り空を見た。ここで分厚い雲が割れて薄明光線でも差してくれれば絵になるのになんて上の空で考えていた私にはその時杏佳がどんな顔をしていたか知らない。


「ありがとう」


 感謝の体だけ成す希薄な声が前だけ見る私を酩酊させた。上機嫌に次のプロットを考え出した。

 何故、何故、そればかり。杏佳の幸せはきっと直ぐにでも手を伸ばせば手に入ったのだ。たとえ出ることの出来ない六畳間でも慎ましく暮らして、たわいない話で笑い合えれば、本当は絵だとか色だとか世界なんて、どう在ったって関係ない。

 言葉が世界をそのまま表せなくたって、たった一つの愛を表せればそれ以上要らないのに。


 美しさを求める中、私は小説に取り憑かれた。もはや周りが見えないほどに。言葉とは恐ろしいもので、どれだけ書いても足りないからもっともっとと言った具合に冗長に小説を書き続けてしまう。

 それでも私の言葉は常に杏佳を中心に置いていた。こんな価値観の私でもいつかは気づけた筈だった、彼女の幸せを。そして小説を捨てる道を躊躇わず選んだ。言葉の限界に拳を叩くことを諦め、数歩下がった所にいる杏佳を見れた。

 私にとって一番言いたくない言葉ではあるが、あと少し時間があったなら私は目を覚ませたのだ。


 はっきり覚えている。夏を背中に見る立秋、木々には枝先に僅か朽ち葉が残るばかりになった頃。私は午前の講義の最中だった。いくら小説に取り憑かれた私でも学業を疎かにはしていない。授業に耳は貸さず小説の事ばかり考えていたのは事実ではあるが。

 講義も終わりに差し掛かってきた時、足元に置いてあったカバンからスマホの振動に気づいた。マナーモードにしていたから音こそならなかったが、その振動は三分程続いていた。気になりはしたが今取らなければならないほど火急の連絡でもあるまいし、もうすぐ講義も終わるから少し待って、こちらから掛け直せばいいだろう。

 暫くしたらスマホの震えが止まる。私は教室の窓から朽ち葉が舞いながら落ちていくのを見ていた。秋の乾いた空に似合う寂寥感をその葉は纏っていた。


 いよいよ講義が終わってノートなどをカバンにしまうついでにスマホを取り出して画面をつけた。先程電話を掛けてきた相手は杏佳だった。

 実は一昨日から彼女は、微熱ではあるが風邪を引いてしまって自宅で養生していた。彼女の両親はとても多忙な仕事をしており風邪で休めるような身ではなく、彼女宅には病人一人。

 それを聞いて私は、いくら微熱であれ流石に心配になって見舞いに行こうかと聞くと、熱はほとんど無いし親がご飯を作りおいてくれているから、一日安静にしていればすぐ治る! と返ってきた。一昨日の朝、電話口での会話だ。

 それから今の今まで杏佳からの連絡が途絶えていた。大方風邪が思いの外長引き寝込んでいるのだろうと気にしていなかったが、いくら何でもここまで連絡が無いのも珍しかったから今日、大学の帰りに見舞品でも持って彼女の家に寄ろうとちょうど考えていた時だった。


 外に出て、呼び出し音をスマホから聞きながら杏佳の声を待った。一度目は相手側が通話中らしく切れた。少し時間を空けてまた掛けた。依然通話中だった。

 最初から僅かにあった違和感が胸の中に広がっていく。一応彼女の家には向かっておこうとバス停から目の前に止まったバスに乗り込もうとした時に左ポケットにしまい込んだスマホが鳴った。直ぐに画面を確認する、杏佳からの折り返しだった。恐らくさっきはお互い入れ違いに電話をかけてしまっていたのだろう。バスに乗り込む流れから外れて、電話に出た。


 杏佳の声が聞こえると思っていた私はスマホから聞こえた低い男性の声を杏佳本人ではないと理解するのに数分の時間を要した。その男性は自分を杏佳の父だと言った。私は理解が追いつかず「はぁ、どうも」と初対面に有るまじき不逞な言葉を漏らしたがその父を名乗る人も私の心持ちを察して言及せず話を進めた。


「杏佳から君の話は聞いていたよ。優しい人だって。だから、まず君に、言わなきゃならないと思って」

 電話越しからでも感じた。その人はこめかみに銃口でも向けられているのではないと思う程、怯え押さえつけた声をしていたのだ。私はまた分からず「はぁ」と言った。きっとそれしか言えなかった。


 次の瞬間、思考が遅くなる。その言葉が持つ意味を理解するのにまた数分使った。杏佳の父は重い喋り口で何か話している。脳内で辞書を引いた「息を引き取った」とはどんな意味を持っていたんだっけ。気づかないように辞書を反対に持ってめくった。電話口に聞こえる声は雑音になる。言葉を忘れて、空を見上げた。浮かぶ雲は手を伸ばせば届くように思えた。気づけば世界が狭い。三歩進めば壁にぶつかる、世界と自分の存在価値を見失ったから見るもの全てが白単色に映った。

 耳元から私を呼ぶ声がして無意識に答えた。


「今更こんなことを聞くのは不躾だと分かってるんだが、杏佳は家で君のことを優しい人としか言わないから、一応聞かせて欲しい。杏佳と君はどんな関係だったんだ?」

 反射で口を動かした。


「僕は杏佳さんの」

 言いたい言葉があった。だが喉元で詰まる。事実とはまるで違う言葉だった。


「友人です」

 そうしてやっと、私は彼女に抱いていた感情の名前を知った。

 

 数日後、私はお通夜に呼ばれ覚束無い足取りで向かった。彼女の家に向かう道中、未だに私は誰のお通夜に向かっているのか曖昧であった。悲しみを悲しみだと気づけないほどの深い哀情に沈んでいた。

 こんなにいきなり、突然、前触れもなく、悲しみが追いつくより早く、受け止められない現状が私を惑わせ、涙ひとつ流させてはくれなかった。

 現実は小説と違う。死ぬ間際の最後の一言だとか、涙を誘うための回想だとか、ありはしない。蒼汰にとっての私の死だって、いつか死ぬとは言ってはいたが突然ではあったはずだ。この遺書がなければ更に呆気なかっただろう。

 私の場合、杏佳からの遺書は疎か最後の言葉も聞いていない。現実とはそういうものだといえばそれまでだが、逆に私はこう考えた。遺書も言葉も無いなら杏佳はまだ生きていると。まぁ要はこじつけの現実逃避に縋っていた。


 彼女の家は最寄りのバス停から五分もしない。家の前でチャイムを長く押すと、一人の男性が出迎えてくれた。

 白髪が目立つ黒髪と夜通し泣いたのだと思わせるくまと腫れた目があった。恐らく杏佳の父親と思われる人の泣き疲れた姿を見て、何故この人は泣いているのだろうと思う私は平然とは言えない歪んだ顔で居た。

 暗く重い空気が溜まる家の中に通されてまず私が言ったのは「はじめまして」でも「こんにちは」でも無く「何故」の一言。彼女の父親は一瞬言い淀んで、何かを飲み込む動作をしてから詳しく話し出した。


 その日杏佳は風邪をひいて寝込んでいた。それに対して両親は安静にしていなさいと言っていたのに彼女は一人で外に出たという。

 私は以前目の前で起こりかけた事故を連想して蒼白した。杏佳の父親はここから嗚咽し途切れ途切れで呂律も回らなくなった。それでも決して口を止めはしなかった。

 ちょうどここから三十メートル先の見通しの悪い交差点、一時不停止の車、轢き逃げ。搬送先の病院で、息を引き取った。彼女は画用紙と色鉛筆を持っていた。そこまで話して遂に声を押さえつけて泣き出してしまった。

 私は真っ白な頭を抱えたまま、背中をさする。小さな声で何度も「こんなことなら」と零していた。「自分を責めないで下さい」私は冷静にそう返したが、先程まで呑気に窓の外を眺めていた自分を殴り飛ばしたい気持ちは同じだったと思う。


「杏佳はそんなに絵を描くことが好きだったのか」泣きながら聞かれた。今度は私が言い淀んだ。少なくとも最初の頃は楽しさだけで絵を描いていた。それが顔に出ていた。でも私の小説を絵にした杏佳の自信のなさそうな笑顔はどうだろうか。


「分かりません」本当に分からなかった。まだ杏佳に聞いたことが無い。聞かなければならない。


 君が絵を描いていたのは楽しかったからか、自分のためか。まさか私の為なんてそんなことは無いだろうけど。……そんなことは無いだろ?

 いや、もしも、万が一そうだとしたら、何のために。私が小説を書く理由を、杏佳と重ねた。


 君も……私に何かを教えたかったのか。言葉だけでは到底足りない事を自分の絵で気づかせたかった。導いてやりたかった。違うのか。自惚れか。


 自分で灯した線香の火に問いかけた。耳には僧侶の声しか聞こえず、やはり言葉はどれだけ尽くそうと足りないんだと確信し見限った。

 私が彼女の家を出る頃には日は大きく傾いていて、重い足取りで帰路についた。三十メートル程歩いて交差点を過ぎて、俯き歩いていた私は突然違和感に気づき顔を上げた。私はいつの間にか公園の真ん中に立っていた。住宅街の片隅、遊具といえばシーソーとブランコ程度しかない簡素な公園。私が向かっていたバス停とは真逆の場所に位置していた。

 未だ悲しみが追いついていない私は腕時計と腑抜けた顔を見合わせ、次のバスに間に合わないことを知ると潔く近くのベンチで暇を潰すことにした。

 朽ちかけた木製のベンチに体を預ける。眼前に聳える紅葉樹の紅色が見事だった。更にその奥には立派なイチョウの大木から葉が散って、地面を覆い隠す黄色の絨毯がこれまた美しかった。一度、大きな風が吹くとまるで波立つように落ち葉の絨毯が舞い上がる。それもまた綺麗だった。目に映る景色全てが喉の奥に詰まる感情を刺すくらい美しくて美しくて、目を見張った。


 ふと、思い立ち。いや、使命感か焦燥感に駆られ私はスマホのメモ帳を開いた。この景色を言葉にしなければいけない気がした。今私達の眼前には涙腺を綻ばせる景色があるんだよって教えたかった。私が見た景色を私の言葉で君に伝えて、笑って欲しかった。


「誰に?」「杏佳に」答えを出した。そして美しさを言葉にしようとした。一文字も浮かばない頭は、もはやその必要が無いことを知っているようだった。

 私が一番世界を教えたかった、見せたかった人はもう居ない。もう居ない。もう居ないなら、世界なんてどう在ったって関係がなかった。言葉もハイとイイエだけでいい。夜が明けないで、花も蕾のままで、地球も六畳一間になればいい。


 人生の意味が崩れ剥離していく音が聞こえた。背中を何がとてつもなく大きい感情が覆い始める。徐々に言葉よりも世界よりも、足りないのは何も成せていない自分だと気づいた。

 大見得を張って書いた小説は杏佳に色を教えてやれなかった。いや、何もかも根本から間違っていた。杏佳が生きていくために必要なのは色でも絵でもない、たった一つの光があれば良かったのだ。


 私は彼女の欠けた穴をどうにか埋めようとして彼女自身を停滞させていた。回り道しても良かった、その場に座って「それでもいい」と話し合えれば良かった。


 六畳間を照らす光さえ、あれば良かったのに。


 行秋の空を見上げた、居座り雲が夕日に染まって赤らんだ。そんな景色を私は一人で見ている。

 追いついた悲しみが私を覆って、やっとこの世界にもう杏佳がいないことを認めさせた。声にならない嗚咽が喉から溢れて、哀情が頬を伝った。後悔が懺悔の言葉と共に零れる。

 その時、美しさを書く物書きは共に深い眠りについた。


 私の過去はこれで全てだ。長くなって申し訳ない。やはり彼女の事を書くとなると感情が溢れてしまうのだ、これでも短く書いたほうさ。これで蒼汰も大体分かっただろうと思う。

 私一人になって自分と言葉と世界を憎んだ。杏佳が居ないなら美しさを言葉にする必要が無い。世界の暗闇に焦点を当て、毒を吐き出して、尖った言葉を重ね、世界を恨む小説を書き出した。とにかく全てが憎かった。

 劣情を愛だと美化する小説も、善人を理不尽な理由で殺し涙を誘うだけの小説を書いていながら平然な顔をしている小説家も、それら全てを勝手な八つ当たりで憎み嫉む私も。

 しばらくして、こればかりは運が良かったと言わざるを得ないが何故か私の厭世的な小説がとある出版社の目に留まり、まぁ、最低限の暮らしができるくらいには売れ出した。


 数年はその調子で他を嘲笑い、達観した口調で人間が世界がどれだけ白痴かを書き続けた。だが怒りも恨みも常に熱を保ったままではいられない。時が経てば吐き出した分だけ熱が冷めて、その代わりに杏佳の顔が脳裏に浮かぶ。

 蒼汰と会った時の私はもう既に小説を捨てていた。全部が馬鹿らしくなって、いつ死のうかとばかり考えていたよ。しかし当時の私は杏佳の元にいくには些か汚れすぎた。合わせる顔もない、まだ金がある内は生きていようかと惰性の日々を過ごしていた。蒼汰が初めてプロットを持ってきたのは丁度その頃だ。


 私は蒼汰のプロットを読んで「この小説には美しさと心が無い」なんてまぁ偉そうに言ったが少なくとも私の小説なんかよりは穢れなく美しかったよ。じゃあ何故と蒼汰は思うだろうか。決して嫉妬だとか下らない自尊心の為に意地悪をした訳では無い。

 これもまた私の悪い癖が出たのだ。蒼汰のまだ言葉の限界を知らない、希望の満ち溢れた目を見て、私は危ういと思ってしまった。一歩間違えたら蒼汰は私のように落ちる所まで落ちてしまう可能性があった。久しく眠っていた庇護欲が顔を出した。


 簡潔に言おう。私は蒼汰に自分の理想を押し付けていた。


 私は過去の後悔から何も学んでいなかった。私がこれが至高だと思ったらそれを強要してしまう。だから自分を棚に上げて、毒を吐き出すな、飲み込んで小説を描けと教唆して自分を救おうとしていたのだ。


 蒼汰、君は昔の私と似ている所がある。自分の言葉で一人の人間を救いたいと言う思いだ。

 蒼汰には泣くことが出来ない友人がいると聞いた。君はその人の為に美しい小説を書きたいんだろう? 私はそれを聞いた時、もう過去の私と君の姿を切り離すことが出来なくなった。


 誰かを救おうとする蒼汰を自分と重ね救われたかった。もし蒼汰が言葉で誰かを救えたなら、同時に私も救われる。本当にそう信じていた。

 蒼汰に言った事全て、私は蒼汰の為に言っていない。私の為だけの特効薬として美しさを植え付け、育てていた。君が私を救ってくれればその後はどうでもよかった。


 どうだい? 最低だろう? どんな罵詈雑言でも間違いではないから心に抱いてくれて構わない。

 でもね、言い訳じゃないが聞いて欲しい。本当にただ蒼汰に美しい小説を書かせたいだけなら要らない言葉があった。


「言葉には限界がある」この言葉だけは蒼汰の事を思って言った。もし、蒼汰がこのまま走り続けていくら小説を書いても、誰一人救えなかったら、溜め続けた毒は出口を求めて暴れ出す。きっと君は尖った言葉に手をつけ始めるだろう。

 そうしたらもう手遅れだ。言葉は美しさを描くには足りないくせに、こと誰かを傷つける能力については限りを知らない。尖らせた言葉は簡単にその人の手首に傷をつける。首を縄に通させる。果ては自分自身の精神すら食い潰す。

 私はそうして世界を表すための言葉を忘れた。風景描写は常に誰かからの借り物だった。それで良かった、目が見えるならいくらだって補填し想像できるんだから。空いた穴に人を傷つける為だけにあるような言葉を詰め込んだ。

 しかし蒼汰にはそうなって欲しくなかった。闇雲に理想を追い求めて何か大切な物を忘れてしまうくらいなら言葉で出来ることはここまでだと割り切って生きた方が私は、幸せになれただろうから。


「言葉には限界がある」もしあの時、この言葉で蒼汰が目を覚ましていたなら私は後悔などない。その場で今までの醜い心内を明かし、謝罪していただろう。でも君は首を横に振った。それでは彼女を泣かせることが出来ないと。私は更に君が私と似ていると確信したよ。

 その時から私は蒼汰をどうしたいのか分からなくなってしまった。救って欲しかった、でも君も救いたかった。


 本当に私の言葉で蒼汰には随分迷惑をかけたと思う。これまで話した私の欺瞞を知り、蒼汰が目を覚ましてくれたのなら本望だ。


 いや、そうじゃない。今私は君に救われた。そして私は君を救えなかった。

 この遺書は蒼汰が私に絵を届けに来てくれた翌日に書いている。壁に貼った絵、単線が延びる田舎の無人駅、両側に彼岸花と勿忘草。私が何故小説を書き始めたのか。金が名誉か賞賛か、復讐か八つ当たりか、それら全部が違うことを蒼汰の絵を見てやっと思い出せた。


 眠っていたのは私だった。目を覚まさなくちゃいけないのは何より自分だった。蒼汰の描いた無人駅を題材にした絵は私に根本的な美しさを思い出させてくれた。

 私がもし蒼汰がこの絵に立っているならどんな目的を持っていると聞いた時、こう言ったね「大切な人を待っている」と。


 そうだ、私も待っていたのだ。どんなに言葉を忘れて世界を恨んでも、毒を吐き出し続ければいつかまたあの優しい声で、六畳間を照らすだけの光でいいと言って貰えるのを。世界を表せなくても、色が無くても、言葉に限界があっても、それでもいいと言って笑えるのを。


 小説とは本来、大衆のために書くものじゃない。

 金でも名誉でも無い、六畳間さえ照らせればいい。


 こんな突飛なことを言って、蒼汰は首を傾げるているだろうと思う。現に今の世は小説が大衆の為、日々書き綴られて、金に変わる世の中なのだ。

 でもいつか蒼汰も気づくだろう。気づかねばならない。私のように、大切な人を失ってから気づくのでは遅いのだから。


 私は君を救えなかった。散々惑わせた挙げ句、逃げるように死ぬ。だからせめて私の後悔を、君の人生に役立てて欲しい。

 これも本来は面と向かって話すべきだということは重々分かっている。だが私には無理だ。申し訳なさと後悔から、きっと思う様に喋れなくなる。

 結果的にこうして遺書にしても尚、伝えたい事を簡潔に出来ず、書き足りないと思っているのだ。しかしこれ以上長く書いても冗長でしかない、自分自身の結末は自分で結ばなければならない。


 最後に蒼汰の絵を見て、一つの小説を書いた。「立夏(りっか)待ち人来(きた)らず」私が書きたかった言葉と心を無人駅で人を待つ地縛霊に例えた短編だ。

 未だ杏佳に合わせる顔もないし、そもそも死んでから行く場所が違うかもしれないが、この小説だけ彼女に届けばいい。


 蒼汰の絵は確かに私を救った。もしかしたら蒼汰はそれで気に病むことがあるかもしれない。だがそれは違う、人生いつかは結末が来る。蒼汰の絵がなければ私はその結末がどれだけ惨めになっていたか分からない。人生の価値は終わり方だと誰かが歌った。それで言えば私はこれ以上ない。


 今、私の唯一の心残りは蒼汰、君を救えなかったことだ。蒼汰からしてみれば、ふざけるなと憤りを感じても仕方がない。それ程私は身勝手なことをしている。その自覚がある。今更になって私の言葉は全て忘れて、小説書いてくれなんて道理が通らない。

 でも蒼汰、これから言うのは屁理屈でも責任転換でも無い。

 言葉には限界がある。私がこれから君にどんな言葉を掛けても、君を惑わした時間は戻らない。それに私が蒼汰に教えてやれることは全てここに書いてしまった。もう生きていても蒼汰に価値のある事は言えない。今までだって私の自己満足で小説とは美しさとは、と知った様な口で話していただけなのだ。


 蒼汰にはそんな奴の言葉よりも耳を傾け、時間を掛けなければならない人がいる。

 月を霞ませるほどの光を君は見たんだろ? 育ててきたプライドを放り捨てても書きたい人がいるんだろ?

 蒼汰を救えるのはその大切な人の言葉だけだ。そしてその子を救えるのも蒼汰の言葉だけ。

 君たち二人の関係は殆ど知らない第三者の言葉だが、きっと世界はそんな運命で出来ている。

 私の言葉、経験よりも、蒼汰がその子の為に選んだ言葉が真実で、吐き出した感情だけが本物だ。


 人が切なく散っていく小説が評価される世の中で、誰にひけらかすでもなく、互いに向かい合うような小説で想いを伝え合う。私はそれが何よりも美麗で尊いものだと思う。


 もう、夜が更けてきた。長くなったが筆を置こうと思う。今から私は生涯を断つ。不思議と恐怖は無い、晴れた思考と軽い体がある。

 それと私は最後の最後まで蒼汰に名を明かさないまま、死ぬ。意に染まないだろうけど、どうか汲んで欲しい。これこそ見栄を張っているだけなのだが、蒼汰の中で私という存在はいつまでも先生と呼ぶに値する存在でありたいと思ってしまっている。ままごとにでも付き合っている気持ちで許して欲しい。

 今日はやけに月明かりが眩しい。この室内もその月光だけで、闇が溶けて飽和する。人生も小説もたったそれだけでいい。たった一人の六畳間を、刺すのではなく照らして救える言葉を。

 蒼汰ならきっと見つけられるはずだ。哀情を哀情としてだけではなく、笑って泣けるような、そんな小説を。私は願っている」

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