自白遺書
朝、布団に潜っていても尚、足先から頭の先まで氷水に浸されている様な冷たく痛い感覚があった。
細く目を開ける。見えた白い天井は滲んで仕方ない。そうして気づく。頬を伝う途中の涙と、それを幾度と受け止めていた枕が濡れている事。
何に対しての涙なのか、小説を書けないと知った時もペンを捨てた時も涙なんて出なかったのに、どんな感傷が僕をここまでさせているのか。
答えを出す前に駆け出した。身支度もそこそこに靴は踵を潰したまま。夜が明けて影が傾き、登り始めた太陽は夜をかき消すため、いつも以上に強く輝いている。その光を受け、町中新しい夜明けに歓喜しているように見えた。そんな中、焦燥に駆られ緊迫した顔で走っているのなんて僕くらいだろう。夜の間に冷えた空気が嘲笑いながら心に空いた穴を抜けていく。
寝ぼけ頭で走って、これが夢の延長線ならと願った。変な夢を見て得た直感で、最悪な事態を想像する。
きっと病魔の夢にうなされているだけ。しかし万が一を思って先生が居ない部屋を見るまでは頬は叩かない。
心が追いつかないまま、先生の部屋の前に立った。いつもと何一つ変わらない新聞の詰まったドア。僕にはこの先の先生が居ない部屋を想像出来ない。だから大丈夫だ。佐藤優の泣き顔を想像できないのと同じで僕が想像できないものは現実にならないのが常にある。
酷い動悸と荒い呼吸に苛まれながらゆっくりノブを回して部屋に足を入れた瞬間、部屋の奥からキッチンを通って風が流れてくるのを感じて僕の情動は頂点に達した。
靴を脱ぎ捨てて六畳間を見渡した。部屋唯一の窓が開け放されていてカーテンが自由に踊っている。綺麗に片付けられた室内には僕が敬愛して止まない人の姿は無い。僕は膝から崩れ落ちた。窓から入る風が僕の横を撫でて通る。何処かの畑で草でも燃やしているのだろうか、流れる風には煙くささが混じっていた。
まだここに居ないだけ。また煙草でも買いに行っているだけ。一時を誤魔化すための言葉は、机の上に置かれた二つの封筒の片方に遺書と書かれていなければ使い物になっただろう。
膝歩きで机に這い寄った。窓に近づき、さらに濃くなる煙の匂いにむせ返りそうになりながら、震える手で遺書と書かれた茶封筒から折り畳まれた紙を取り出して目の前に広げた。