二
物書きを捨てた僕は無地通りの抜け殻になった。全てがどうでもよく思えてくるのだ。明日の天気だとか、勉強だとか、人間関係だとか。
それらに精を尽くして何になる。死んだら全て無くなってしまう様なものにどんな顔をして取り組めばいい。
やはり言葉に起こさなければ人生全てのものに僕は意味を見いだせない。辞めると言っても小説至上主義の目や心はそう簡単に治るものではなかった。
パソコンに残る小説のデータも消せていない。傷だらけの手帳も探せばすぐ見つかる。佐藤優にも辞めたことを伝えていない。
未練だらけじゃないか、情けない。なんて身も蓋もない言葉は大間違いだ。僕の心は依然、川に沈んだ時と変わらない。ただ僕が生み出した作品には罪がないのだ。
消えて償わなくちゃいけないような業も罪もないのに、書いた本人の手で無かった存在にしてしまうのは余りにも不憫でならない。僕だけは彼らを愛してやれないまでも、守らなければいけない。
彼女に言っていないのだって今は受験やらで忙しいだろうから余計な雑念を増やしてやらないようにとの思いやりから。
だから未だに学校などで目が合うと彼女お得意の微笑を向けてくる。その度に僕は罪悪感から臆面して目を逸らしたりする。
一日が長いような短いような、そんな事もどうでもいいような、中身のない日々を過ごした。
言葉にしないとなると世界はこうも単純でつまらない。余りにも退屈だから最近、下らないと遠ざけていた友人らの元に向かったりした。
彼女に出会ってから尽く誘いを蹴っていたからか、笑って近づく僕に彼らの視線は冷たく軽蔑すら含まれているような目であった。
「今更、なんだよ」
山崎が先行して口を開いた。その周りには江藤や数人の男子がいて皆、訝しんで僕を見る。
「いや、最近は悪かったよ。受験勉強しないと本当に危なくてさ」
「何言ってんだよ。聞いたんだぞ、この前青木と佐藤さんが駅前に居たって」
見られていたのかと一瞬動揺が体を揺らすが彼女と会っていた理由に丁度成り得るものがあった。
「勉強を教えて貰ってたんだよ。教えて貰ってんのは何も俺だけじゃないだろ」
彼らは顔を見合わせた。その時には裏切り者を裁いてやろうなんて雰囲気も無くなって、寧ろ喜んでいるようにさえ見えた。きっと彼らも強い声で話し始めた手前、許す言葉を躊躇ってしまうのだろう。
彼等は優しいのだ。今回、僕にこうした態度を取るのも全てが理由も言わずに誘いを断っていた僕のせいで、決して彼らは人の事を容姿や性別で差別しイジメたりするような人間じゃない。
今も僕が素直に頭を下げたら許してしまうような心の広い奴らなのだ。
「ごめん」
深く頭を下げて、また顔を上げる頃には彼らの笑顔が咲いていた。僕も笑った。
きっと僕の人生に小説が無ければ何よりの親友になれていただろうなと今は確信している。
無事に仲直りした僕らはその日の放課後から遊びに呆けた。
小説もプロットも佐藤優も捨てて、友人の家でゲームやらをした。
カラオケで最近流行りのJーPOPを歌った。
ゲームセンターでレーンにメダルを落とし続けた。
夕日が彩るグラウンドで駆けて、西日が傾く教室でたわいない事で笑いあって、青春と形容されるような時間を過ごした。数十年後、居酒屋でグラスを打ち合いながら懐かしむような、かけがえなく、尊い時間。
芸術なんて無くて、美しさを求める必要もなくて、馬鹿みたいに笑って、難しいことを考える必要もない。
僕は間違いなく、それを美しいと思う。
しかし駄目だった。苦しいんだ。僕の目が悪い、心が悪い。誤魔化そう誤魔化そうと馬鹿な振りをして道化をして、笑っても余計に彼女が浮かぶだけ、純粋に笑えない。はっきり言って、つまらない。
どんなに尊く美しい思い出を作っても僕は常にそれでどんな小説を書こうか、泣かせるものを書こうかと考え出している。そうするとこんな在り来たりな青春より、泣けないと笑う人間の方が僕は美しく見えてしまう。
数日後、僕は彼らに「縁を切りたい」と冷めた顔で口を動かしていた。その時の彼らの理解が出来ないと言うような歪んだ顔を僕は忘れることが出来ないだろう。
冷静に思えば僕がどれだけ自分勝手な事をしているかと実感するのだが、更に一周回って考えてみるとそれしか無いように思えてくる。
きっとあれ以上一緒にいたら僕は貯めた毒を見境なく彼らに吐き出しかねない。彼らにとってもこれ以上、愛想笑いで遊びを断っているのも悪い。思わせぶりな態度をせず、はっきり縁を切ってしまうのが誠意だと思った。
社会不適合者。小説に毒されてしまっただけで僕はこうも落ちたのだと、その言葉が今の自分にぴったりはまる事を悲観し嘆いた。
そこは自室の一角、パソコンの前に座る自分の隣、捨てたはずのプライドや自尊心が転がっているのに気づいた。
いつの間にパソコンの前に座っていたのかも分からない。掌に物書きと書かれたプレートが乗っていた。この時ほど自身の醜悪さに嫌悪したことは無い。
人を教唆し、搾取し、絶望させたって何があっても僕という人間はこれを手放さないらしい。
その日は幽霊にでもあったかのような怯えに苛まれ布団に潜って眠った。だが分かるのだ。翌日には僕はまた、筆を握っていという確信がある。
背中から全身を覆いだす化け物に怯えながら、いつしか眠りに落ちて、現実か夢かも分からない微睡んだ意識の中、真っ白な六畳間で僕は厚さや大きさ構わず様々な本を大きな口を開けて食っていた。また僕はその様子を俯瞰して見ている。
僕が僕だと意識して見ている人物はまるで人の容姿を呈していなかった。鮫のような大きい口とのこぎりの如く鋭い歯。体は三メートルほどあり、さながらその全身は黒い虫が集まり蠢いているかと見紛うほど醜く、肌はざわめいていた。
その化け物は天井まで伸びる本棚から片っ端に本を手に取っては齧り付いて、咀嚼して、飲み込む。その様子を誰かが遠くで見ている。はっとして涙が伝う。
心臓を刺すような罪悪感と、額を伝う焦りで目を覚ました。何故か今すぐにでも涙が溢れてしまいそうな感情があった。
先生が亡くなったことを知ったのはそれから間もなくだった。