かいしするぽんぽこ
「それでは、お気をつけて」
「おせわになりましたー」
耳長の言葉に、赤毛の人間が軽くお返事をします。
どうやら他人の巣に逗留するにも限度があるようで、ちくヒゲたちの群は再びどこかへ行くようです。
たくさんの荷物を持って、出発します。
私はここらで解散と洒落込みたかったのですが、ちくヒゲがそれを許すはずもなく。
モテる狸は辛いですな。
先日までいた森とはまた別の方角の、少し匂いの違う森へと一行は進みます。
植生が徐々に変化していくのを、興味深い気分で眺めました。
「お、機嫌治ったか」
なおってない。
なにやら色とりどりの虫がいたのでかじりながら、ふんと鼻を鳴らします。
相変わらず胴体にはかっこわるい紐がまとわりつき、ちくヒゲのごっつい手に握られているのです。
「ここの深部は、まだ誰も探索していない。用心しろよ、何が出るかはわからん」
なにやら深刻な面持ちでちくヒゲがそう言い放ち、周囲の人間も深刻な顔で頷きました。
おそらく、森の素人である奴らにはちょっとこの森は怖いのかもしれません。
徐々に日差しが木々に遮られ、薄暗い雰囲気になってきましたから。
しかし私は山生まれ山育ち、臭そうなやつは大体顔見知り。
ネイチャー素人どもとは違い、本当に危ないかどうかはちゃんと自分で判断できるのです。
ふふ、野生の勘がないやつらは哀れですね。
そしてその私のセンシティブなお鼻が、なんだかいい匂いを察知しました。
まるで桃のように芳醇な、間違いなく美味しいものの匂いです。
「あっ茶色」
赤毛が何やら声を出しますが、反応してやるわけもなく。
背の低い草地の中を分け入って、鼻をひくひくと動かしました。
ちくヒゲは私を邪魔するつもりはないらしく、後ろから静かについてきます。
いつの間にやら他の人間たちもそうする気になったようで、私の後方にはぞろぞろと人間が付いてきておりました。
これも、私のもふやかな毛並みが素晴らしすぎるせいでしょう。
若干の煩わしさを感じつつも、心が広やかな私は奴らの存在を認めてやることにしました。
ほてほてと歩き進めて、匂いの元へと足を進めます。
やがて草地が終わり、茶色く栄養に満ちた土が広がる場所へと出ました。
その中心に、ぽつりと一本。
茎の細い植物が生えておりました。
薄緑のその先端部は天に向かい、そしてすこしだけ横に頭を傾げています。
そう、頭。
そこにはぷりぷりと艶やかな、熟した黄色の何かが。
私の鋭敏な鼻によれば、間違いなく甘くてジューシーな何かの実です。
数は、残念なことにひとつだけ。
このあいだのどんぐりのように、奴らに奪われては堪りません。
「あっこら!」
ゆったり歩きからの、突如全力疾走。
これにはチクひげも驚いたようで、紐を引き戻すのに遅れが生じました。
鼻先がその素敵な果実に届いた瞬間、体が宙に浮く感覚。
少し遅れて、土の崩れる轟音が。
そしてそのまた後に、自分が浮いているのではなく落ちていることを認識しました。
地面が、崩れ落ちていく。
眼下には、狼の何十倍も大きな口が開いていました。
「射て!」
背後から、鋭い声がきこえます。
びょうと風を切る音とともに、真下の大口に矢が飲み込まれていく。
ばくんと口を閉じたそれの内側から、何かが爆ぜる音。
私といえば、体に巻き付いていた紐のおかげで、落下せずに引き戻されておりました。
ちくヒゲの太い腕の中が、今回ばかりは頼もしい。
そこから先は、あっという間で。
あんなにお間抜けな感じだった人間たちの空気が、突如剣呑なものに変わりました。
それぞれが腰や背中につけていた、銀の棒を持ち地上に出た«それ»へ向かっていきます。
身の丈、およそ大熊二頭分。
横幅はさらに大きく、ぬめぬめとした表皮は土塊の色。
小さな手足は不恰好で大きくは動けない事を示していましたが、みっしりと牙の生えた大口を見れば、その危険さも理解ろうと言うもの。
口の中から伸縮性のある紫の舌が、でろりと覗いておりました。
面積の広い頭頂部から、まるで麦のようにしなる茎が出ています。
その先端には、先ほど私が食べようとした実。
「ツチナカアンコウだ‼︎」
赤毛が頭の後ろのふさを振りながら、そう叫びます。
その声を追いかけるかのように、生き物は鈍重な体をぐりんと回しました。
小さく退化した目が、赤毛の方向へ定まったようです。
ばかりと開けられた口に、もう一度人間たちが矢を放ちます。
今度はたくさん放り込まれたからか、口を閉じたそれの中で今度は大きな音が響きました。
唇の隙間から、黒い煙が漏れます。
その生き物は何度か苦しげにもがいてから、重い音を立てて地面に身を横たえました。
命が抜け落ちる気配がして、生き物が動かなくなります。
それを確認してから、人間たちも殺気をおさめました。
鉈によく似た刃物をしまい、弓を背負い直します。
何人かが死体に寄っていき、私はちくヒゲにやっと地面へ降ろされました。
「しっかし、あんな見え見えの疑似餌にひっかかるとは……」
「本当に、この動物あてにしてて大丈夫なんですか?」
周囲から、次々と疑問の声があがります。
人間たちはこの生き物を知っていたようで、対処が速やかでした。
なぜ、私には教えてくれなかったのでしょうか。
次からは気をつけるようにと、ちくヒゲの足の甲を踏んでおきました。
「おぉ、おぉ、かわいそうに。怖かったなぁ」
「甘やかしちゃダメですよ、隊長」
顎をくすぐられたので、さっさと撤退します。
誇り高い狸は、やすやすと人間などに体を預けないのだ。
「こんなに……無防備な動物がいるから、ツチナカアンコウが絶滅しないんですね」
「素直に間抜けと言っても、良いんじゃないか?」
ヒョロ人間にと大人間が、こそこそと喋っています。
おそらくは、私に対する仕打ちを反省しているのでしょう。
生き物も死んだことですし、気を取り直して。
「わ、まだ近づく気力があるの」
「案外、根性あるな」
《ツチナカアンコウ》に向かう私を、ちくヒゲたちは今度こそ止めませんでした。
さっきの今なので多少は警戒もしてみましたが、問題はなさそうです。
横倒しになったそれの頭頂部をたどり、生えている実に再び近寄りました。
芳醇な香りは薄れてしまいましたが、未だ十分に美味しそうな佇まいです。
鋭敏な嗅覚で毒の有無をなんとなく確かめて、かぷりとかじってみました。
「あ、食べた」
すまんな、赤毛。
お前の分はない。
舌の上に果汁が染み出して、美味しい匂いが鼻腔をつきます。
そして、次の瞬間。
生魚を腐らせてそこに泥と虫の苦いとこばかりを混ぜ込んだような、名状しがたいえぐみと臭みと不快な味が爆発しました。
思わず成狸にあるまじき甲高い声で鳴き、じたじたと地面を転げまわります。
臭い!苦い!まずい!
「あーあー、あー……」
「その辺の犬だって、アンコウの実は食わねえってのに」
「野生ってなんなんでしょうねぇ」
なんということでしょう、一度ならず二度までも。
人間たちの酷薄な放置により、私は苦難にさらされてしまいました。
彼らは、案外ひどいやつなのかもしれません。
今後、もっと用心して接していく必要がありそうです。
口直しにと渡されたぱさぱさを口に頬張りながら、私は心の戸締りをしっかりとしたのでした。