さだまらぬぽんぽこ
その日は、随分と毛皮の根っこがざわざわとしておりました。
空模様は晴天で申し分なし、風はやや乾いており、きっと植物たちが喜んでいるであろう素敵な日だったのですが。
しかし、こういう勘はよく当たるのです。
だてに何年も、お山で暮らしてはいないのですから。
鼻を上げて、風の匂いをじっくりと嗅ぎます。
最近すっかり慣れた、例のどんぐりを探す構えです。
最近は精度が上がって、かなり遠くのものでも察知できるようになりました。
見つけるたびに人間たちが奪うので、それもあんまり楽しくはないのですけれど。
とはいえ、蝶が花へ飛ぶように。
狸があのどんぐりへと向かうのは、止められぬ本能で。
あの大狸が執拗にどんぐりを食しているのも、同じような理由でしょう。
さて、今度こそ人間たちの目を盗んでどんぐりを食さなければ。
いつもいつも、良いようにされている狸ではないのです。
むしろ、人を化かすのは本領と言っても差し支えありません。
これでもげんこつ山で長年過ごしてきた、立派な狸ですので。
野山での経歴の長い私に敬意を表してか、人間たちは後ろをひたすらついてきます。
やっと自分たちの鈍くささを理解したようで、なによりです。
ですが、これこそが困りごとの種。
いつでも彼らが見張っているせいで、出し抜くタイミングに恵まれないのです。
これも全て、私の素晴らしさゆえ。
しかし、自分が見つけたどんぐりを毎回奪われるのは、そろそろ我慢なりません。
斯くなる上は、一刻も早く発見して素早く頬張るしかないでしょう。
さかさかと歩く速度を上げながら、油断なく周囲の匂いを嗅ぎます。
ゆるく吹く風の中に、確かにあのどんぐりの匂いを感じました。
走り出すと、背後にいるちくヒゲたちもそれに習います。
疾く疾く。
一生懸命急いでいるとはいえ、紐をつけられた状態です。
残念ながら人間たちを振り切ることはできませんでしたが、繋がっている紐はぴんと伸びています。
今はこれで精一杯……。
匂いを辿って足を動かし続けていると、あの芳しい香りが強くなっていきます。
背の高い草むらに飛び込んで、嗅覚に集中しました。
鼻先で草を分けていくと、柔らかな土の上にあの麗しきどんぐりが鎮座しておりました。
今度の今度こそは、人間どもに遅れをとってなるものか。
「あっ、ちゃーちゃん!」
私の企てに、赤毛がいち早く気が付いたようです。
しかし、もう手遅れ。
私は大きく口を開けて、その素敵が詰まった木の実へと最後の跳躍をしました。
「こらっ」
なぜ私が叱られるのか。
背中から伸びる紐が、びんと張ったあとに私を引き戻しました。
あと、一歩なのに。
悔しさのあまり高く吠えると、周囲の空気が一気に熱されるのを感じます。
「まずいぞ……!」
ちくヒゲが焦ったような声を出しますが、時すでに遅し。
赤い花がちらちらと舞い、私に接していた草たちを焦がしはじめました。
これはまずい。
山火事は、この世で最も忌避すべきものの一つ。
げんこつ山の大婆様だって、あれより恐ろしいものはないと言っていました。
だというのに、まさか私が文字通りその火種になってしまうだなんて。
自分の失態を理解して、ざっと血の気が引きました。
このままでは、火は燃え広がってこの森の生命全てを飲み込むでしょう。
今更炎を納めても、きっと無意味。
それすら、混乱した今の状態では難しい。
全身の被毛が逆立ち、無意味な唸り声が漏れました。
ふと、鼻先に不思議な匂いがかすめます。
私と似て非なる、火の香り。
燃え広がろうとしていた赤が、青い炎に飲み込まれ消えます。
どういう理屈なのか、青い方は木々を燃やすことなくただの消し炭にしてしまいました。
最悪の事態は免れたものの、他の最悪がやって来てしまったようです。
「災厄の獣……!」
周囲の人間たちが、にわかに警戒態勢へ入ります。
耳に障る、金属が擦れ合う音。
苛々としたのは奴も同じなようで、茶黒の毛皮を逆立てて大狸が吠え哮りました。
その叫びは熱波になり、森と人間たちを舐めます。
彼らの毛皮の先が、ちりちりと焼ける匂いがしました。
怯んだ我々の間を縫って、大狸がどんぐりに向かって走り抜けます。
私が先に見つけた、大事な大事などんぐりを!
人間どころか、大狸までもが邪魔をするのですか。
なんたる理不尽、なんたる厄運。
こんな行いを、赦しておけるものか。
攻撃力では、残念ながら大狸に分があります。
しかしながら、どんぐりに近いのは私。
ちくヒゲの手は、すっかりと紐を離していました。
ここぞとばかりに、どんぐりへと向かいます。
先に胃に収めてしまえば、こっちのもの。
地面をひと蹴りして、口を大きく開けました。
あと少し。あと少しで、どんぐりは私のもの。
「ぎゃん!」
半分ぐらいは予感していたことでしたが、普通にダメでした。
大狸に前足で弾き飛ばされ、近くの木の幹に叩きつけられます。
じゅう、と植物が焦げる音。
あまりの勢いに、身体が砕けてしまったような錯覚さえします。
「ちゃーちゃん!」
そこから地面に落ちる前に、赤毛が私を抱きとめました。
いけない、今の私は熱々です。
いかに人間が熱い汁や肉を口にする物好きな生き物でも、火の温度は耐えられない。
しかしそれを忠告してやる前に、私の髭は目の前の気配にざわつきました。
最初の邂逅よりも大きく増した、濃密な死の匂い。
大狸が、どんぐりを食べたのです。
ええい口惜しや。
無意識に、喉奥が低く鳴っておりました。
鈍感な人間たちも、大狸の異様に気づいたようでした。
武器を持つ彼らの表情は、まるで逃げ場を無くした小鼠です。
「……っ、撤退するぞ!」
ちくヒゲの声に、人間たちが一斉に動き出します。
その判断は正解ですが、やや遅い。
大狸は彼らの目的を、恐らくは正確に理解しています。
なぜなら、その定まらぬ黒い目には爛々と敵意の炎が燃えていたのですから。
このまま這々の体で逃げ出したところで、何人かは犠牲になるでしょう。
人間はすぐ増えるから大丈夫だとは思いますが、この大狸に好きにさせるのはどうしても気に入らない。
奴に比べれば雪の中の花のように繊細な私ですが、一矢報いるくらいならば。
私を抱え走り出す赤毛の腕の中で、精神を集中します。
あんな雑で正気のない大狸にはできない技を、見せてあげましょう。
へ、へ、へっくしゅん。
「わぁっ」
飛び散る色々に、赤毛が悲鳴をあげました。
随分余裕があるようですね、ちゃきちゃき走るが良いですよ。
それと同時に、この一帯に白い煙がもくもくと蔓延します。
久々のアレで自信がありませんでしたが、どうやらうまくいったようです。
いわゆる、煙幕。
どうやら先日食べたどんぐりのおかげで、威力が増していますね。
煙の中、大狸が驚いている気配がしました。ざまぁご覧なさい。
古今東西、狸といえば化かすもの。
人間の中では狐の方が有名なようですが、なかなかどうして我々だって。
驚きつつも足を止めぬ赤毛の胸元で、私は久々の狸っぽい行いに密かにテンションが上がるのでした。




