レズカップルに追いつめられるのは好きですか? 5
そんなんじゃなくてさ、と立川が言った。興奮の残滓で、顔がまだ赤いままだった。
「浅井のさ、連絡先を知ってる人っている? ちなみにうちの生徒限定」
いるわけがない。
去年それを聞いてきた相手は、全員が全員、部活勧誘にしか見えなかった。どれだけ誘われても、浅井は部活に入る気はなかったのだ。
そして昨年の連絡先を交換する絶好の時期は5月の連休によって過去のものとなり、部活勧誘の時期も終わり、この喫茶店でのバイト準備が始まるまで、浅井のスマホに新しい連絡先が追加されることはなかった。
「だと思った。聞いてもだーれも知らないって言うんだもん」
そして2年目の絶好の機会すなわち先月。浅井は誰にも話しかけることもなく、教師以外の誰からも話しかけられることもなく、ひたすら本を読んでいるだけで通りすぎた。
この1ヶ月、浅井から自発的に声を発したのは、図書室での本の貸し出しの時だけだ。
しかして今はもう5月で、しかも浅井は2年生。未だに勧誘してくるような相手は、さすがにもういなかった。
杞憂だったなと浅井は思う。
「例えば部活の助っ人を探してる時にさ、あら不思議、ここに浅井の連絡先がってなったらさ」
それだけで察することができた。
杞憂ではなかったなと浅井は思う。
つまり浅井は残りの2年間、いつ助けを求められるか分からない生活をしなければならなくなるということだった。弱みとしては、二人の秘密に十分見合うものだと浅井は考えた。
しかしながらこの男、妙なところで諦めが悪い。この期に及んでまだ足掻こうとする。
「……ラインのアカウントでいいかな?」
「え、ラインやってるんです!?」
そこまで驚かれるようなことだろうか。
「いえ、だって連絡とるような相手もいないんじゃないかなって」
「バイトとの連絡に使ってるんだよ」
「あ、なるほど。グループですか」
「あ、浅井ー。電話番号も教えて」
するりと避けていた部分を突かれる。『も』ということは両方か。やはりラインだけでは通らなかったかと思うが、それでもわずかばかりの抵抗を試みた。
「……イタ電とかは勘弁してほしいんだけど」
「さすがに電話の方は他人に教えないよ。こっちは保険というか、ラインはアカウント変えやすいけど、電話番号はそう簡単には変えられないでしょ?」
もうだめだと思った。これ以上は逃げられない。さらに追いつめられる前に白旗を上げて被害縮小を図るべきだ。
そしてここに、レズセ○クスの直前に覗き見てしまった男との停戦が合意された。
バイト中なのでスマホは手元にない。アンケートシートの裏に2種類の番号を書き込んだら、さっそく入力されていた。
「ほいほいっと……お、本当にやってた。申請しとくから許可よろしくね」
「もし『ヒルナシ』って出たらどうしようってちょっと思ってました」
弛緩した空気が漂う。浅井はようやく珈琲に口を付けるが、それはもう、すっかり冷たくなっていた。
―――そもそも、浅井が放課後の教室に戻った理由は何だったのか。
気が抜けた頃だし、ちょうどいいタイミングじゃないかなと早乙女は思った。別に忘れていたというわけでもなければ、最後の切り札にと取っておいたわけでもない。
―――誰にも言わないから。
教室での言葉を思い出す。全裸の女二人を見ての第一声。一目で二人の関係を悟ったんだろう。多分あれは、浅井なりの善意だったんだと早乙女は思う。
先に忘れ物を渡すことでイニシアチブを握るのは、その善意に対して失礼だと思ったのだ。そもそもの話、財布を返してほしければ言うことを聞けなんて脅迫するのは、今はよくても後が怖くてとても選べなかった。
だから今だ。もう解散寸前というこの空気。浅井が立ち去る前に「教室にはこれを取りに来たんですよね」と渡してそれでおしまい。
そう思っていた。
「浅井君、あと一つだけ」
「あとはもうラインでいいんじゃないか。ちゃんと対応するよ」
「いや、物理というか物質なのでちょっとそれは無理というか」
今更ながら、後から浅井が教室に取りに戻らなくてよかった。考え足らずな行動に少しの反省と、そもそも教室でセ○クスしようとしたことに対して大いなる反省をしながら、浅井の忘れ物を鞄の中から取り出す。
「教室にはこれを取りに来たんで、すよ……ね……?」
言葉が尻すぼみになる。
浅井は無表情だ。
心臓の音がうるさく感じる。
浅井は無表情だ。
早乙女は今まで、経験したことはなかった。
浅井は、無表情だ。
相手が無表情でも、激しく怒りを抱いているのが分かるというのは。
早乙女には、何がなんだかわからなかった。
まさか中を抜いたとでも思われているのだろうか。そんなことするわけがない。もしそのつもりがあったとしても、中身が減っていることに気付いた浅井が報復に出ることを考えれば、そんな浅慮が実行出来るわけがない。違うんです。盗んだりなんかしていません。最初に渡さなかったのが気に障ったらごめんなさい。そう言おうと思うのに、早乙女の心に触れてくる浅井の激情が、体に言うことを聞かせてくれない。
「……何故、持っている」
「……っぁ」
浅井の声に金縛りを解こうと試みる。でも駄目だ。あの目が。あの顔が。
怖い。
ここにきて、ここまで来て初めて早乙女は浅井に恐怖を覚えた。今までうまくいっていたと思ったのに。何がいけなかったのか。視界がにじむ。表情が歪んでいくのが自分でもわかる。
「―――怖いよ、浅井」
その言葉は、すぐ隣から聞こえた。ごめんという言葉で浅井が視線を外してくれる。眼鏡を外し左手で目元を覆っていた。そしてようやく早乙女の身体に自由が戻る。浅井が長く細く息を吐いているのは、きっと怒りを収めようとしているんだと早乙女は思う。
椅子に座っててよかった。腰が抜けていた。
「疾風、大丈夫?」
手が握られているのに今更気付いた。恋人つなぎ。自分は一人じゃないと安堵できた。愛する人が隣にいれば、女子高生は天下無敵なのだと自分で自分を叱咤する。
「うん。ありがとう、紬ちゃん」
落ち着いたところで浅井に向き直る。ばつの悪い顔だった。手に持っていたままの財布を机の上に置いたが、浅井はそれを見るだけで、手を伸ばそうとはしなかった。
「それで、なぜ持ってるんだ?」
先ほどまで話をしていたころに比べると、再び聞けた声は固い。顔もこわばっている。
怒りの理由は分からない。だけど、ここが分水嶺だというのは分かった。失敗すれば停戦の合意は直後に決裂。浅井が何をやるのかわかったものではない。今の浅井は、わずかばかりの嘘ですら嗅ぎ分けれるのではないかと早乙女は思う。そうなったら、きっと終わりだ。だから、全部正直に答えることにした。
「浅井君が教室に戻ってきたのは、忘れ物を取りに来たと思ったんです」
浅井は無言。まだ天秤は保たれたまま。
「机の中にお財布があるのを見つけて、中に電車のICカードがあるのを見て」
「―――中を見たのか」
一息で差し込まれた。天秤が揺れ動く。でも、これはまだ大丈夫なはずだ。
「開いた、だけです。一番上のICカードと学生証しか見ていません」
浅井の手が動く。机の上の財布を開けば、その左右にICカードと学生証が見える。その状態では、他に何が入っているのかまでは分からない。それで、と促された。
「これを忘れていたとなると、浅井君が電車に乗れないとか、困るんじゃないかと思ったんです。それで、渡しに行こうと。友達に浅井君と連絡がつかないか聞いたら、ここにいるかも、って」
それだけ言われれば、その後のことは浅井にも分かった。
「その、先に言えなくてごめんなさい。私たちにとっては、もっと重要なことがあったので……」
「……ああ、それは俺にも分かっている」
浅井が立ち上がる。
「そろそろ戻る。財布、ありがとう。今日の分は俺が出しておくから」
財布とコーヒーカップを一人分持って去っていく。
「それじゃあ、ごゆっくり」
三人が座る席から一人が立ち去り、二人の少女が残される。
天秤は、果たしてどちらに傾いたのか。
それを確認する勇気は、今の二人にはなかった。