地獄坂光は今泉陽葵の幻影を見る
教師を辞めよう。
地獄坂光はそう思った。
母校で教師になって2年目。初めての担任だった。
だからきっと、地獄坂は彼女のことを忘れることは出来ないだろう。
2年3組 出席番号1番 クラス委員長 今泉陽葵。
よく笑う子だった。多くの友人に囲まれていた。
よく気が利く子だった。初めて担任を経験する新人教師をよく手伝ってくれた。
ある日、彼氏が出来たと喜んでいた。年下の男の子。かわいくて仕方がないと言っていた。
だから、彼女の訃報は、あまりにも突然だった。
今泉の死は、地獄坂にはあまりに衝撃的で、教師を続ける自信も覚悟も纏めて一緒に失ってしまったのだ。
それでも、と。せめて彼女と共にいた生徒たちが卒業するまでは続けよう。そう思って、折れそうな心を薬とカウンセリングで奮い立たせ、あともう1年間だけ続けることにした。
彼らが今泉のことを思い出せるように、卒業アルバムに今泉の写真を載せるように手配したのも地獄坂だ。今泉の初めての生徒だったのだ。彼女を一人残したくはなかった。
そうして最後の1年間を過ごしていると、デブで眼鏡の先輩教師にこういわれたのだ。「地獄坂先生。受験生の面接を頼めませんか」と。
何で私が、と今泉はそう思う。もしかして、教職を辞する前に貴重な体験でもさせてやろうという気遣いのつもりだろうか。今泉が在学生の頃からいる教師だが、彼の行動は昔から何かずれている。今泉は学生の頃からそう思っていたし、友人たちともそう陰口を叩いていた。
単なる思い違いだった。流れ作業のようなものなのだ。面接を受ける生徒は数百人といる。単純に、人数が足りなさすぎるから駆り出されただけだ。
だから、今泉の元に彼が来たのは運命とも言えるし、強烈な皮肉とも言えた。その方がマシだと思えた。だってそうじゃなかったら、これは死者からのメッセージだ。「私のことを忘れないで」という。
彼との面接ではっきりと覚えているのは、最初のわずかな部分だけだ。
ありきたりな質問。当校を志望する理由は何でしょうか。
やれ自由な校風だ高い進学率だ等と、生徒のおべっかを聞くところだ。
彼は違った。
「今泉陽葵という生徒を、ご存知ですか?」
その言葉を聞いて、ようやく彼を見た。地獄坂の記憶にある姿からは驚くほど背が伸び、印象が全く違う。だから気付けなかった。
彼を見たことがあった。
今泉の葬式でだ。
遺族側にいた少年。当時は右腕を三角巾で釣っていて、頭部に包帯を巻いて車椅子に座っていた。
そこから先、地獄坂は彼とどんな面接をしたかをあまり覚えていない。
だが、面接結果を報告する場での彼の評価は覚えている。
「あの子はやめますか。試験結果も内申点も十分だし、面接も他の部分は問題なかったんですが……」
「そうですねぇ。さすがに、死んだ恋人の代わりに卒業したいなどという志望動機は……」
気が付けば、泣いていた。
ひどく取り乱していた。彼は地獄坂と同じなのだ。たった一人の死に、その未来を拘束されてしまっている。
ここに入学できることで、ここから卒業できることで、その呪いから解き放たれるかもしれない。教師の都合で彼の将来を閉ざさないでほしい。
多分、そんなことを言ったんだと思う。
気付けば、地獄坂は教師を辞めることもなかった。
件の彼も、無事合格していた。
そして翌年度、その生徒がいるクラスの担任教諭に選ばれていた。
地獄坂が主張したからこうなったのか、そこまでは地獄坂には分からなった。
その年の6月、彼からアルバイトの許可を求められた。保護者が喫茶店を始めるので、それを手伝いたいのだと。
もちろん許可した。中間試験の結果も問題はなく、素行も悪くない。人付き合いが悪すぎるのが難点だが、それもアルバイトを通して改善出来るのではないかと思えば否定する理由もない。
地獄坂がその喫茶店に、仕事帰りに毎日訪れるようになったのは、それからすぐのことだ。
気付けば1年が経ち、地獄坂は、再び彼のいるクラスの担任教諭に選ばれていた。
結局、この1年で彼の人付き合いの悪さは改善されていない。
そんな矢先、二人の生徒がアルバイトの許可を求めてきた。勤務先は、彼の働く喫茶店。
いい機会だと地獄坂は思う。一人は中間試験の結果が余りにもひどく、アルバイトの許可が下りる基準以下なので本来ならば認められない。だが、彼の成績は学年内でもトップクラスだ。この二人の間に交流が出来て、彼の人付き合いが改善し、彼女の成績が改善する可能性もあった。
許可した。ハゲで眼鏡の学年主任にネチネチと嫌味を言われたが、地獄坂の心には全く響かなかった。こんな男に時間と精神を消費出来るような余裕は、既に地獄坂には残っていないのだ。
一学期の間、様子を見ていたが、教室内で彼の人付き合いは変わらなかった。アルバイトでは普通に会話をしているので、時間が必要なのかもしれない。
彼女の成績は劇的に改善した。ハゲで眼鏡の学年主任は掌を返したように褒め称えてきたが、やはり地獄坂の心には全く響かなかった。
二学期を迎えた。
夏休みの間、地獄坂が喫茶店を訪ねる時間と、例の生徒達の働く時間がかみ合わず、結局一度たりとも三人には会えなかった。
だから二学期の初日、彼の状態を知らなかった地獄坂は、その姿を見た時に昔の光景がフラッシュバックした。
今泉の葬式。
車椅子に座る少年。
三角巾で右腕を釣った姿。
気付けば涙が溢れていて、その場を逃げ出すことしか出来なかった。
彼と地獄坂の間に妙な噂が流れているとすぐに気付き、泣いている場合じゃないと大急ぎで戻った。
クラスの席替えをして、すぐに気付いた。彼が、同じ所でアルバイトをしている生徒と普通に話している。偶然にも前後の席だ。
新しく近くになった生徒と話すことは、別に珍しいことではない。だが、一学期の間、誰とも話している様子が無かった彼が誰かと話すのは、とても珍しく思えた。
アルバイトの許可を出したのは、どうやら正解だったようだ。
文化祭の翌日、教師の中で、地獄坂が一番最初にその騒ぎに気付いたのは、単なる幸運だった。時折聞こえる「ヒルナシ」という言葉。彼の喫茶店でのあだ名。それがそこかしこで囁かれている。
その瞬間、地獄坂は確信した。このままでは確実に大騒ぎになる、と。
全力で己の担当する教室へ走った。廊下を走ってはいけません。ただし教師に限り緊急時は除く。
無事に例の三人を確保し、地獄坂の居城である国語準備室に叩き込んだ。それまではよかったが、この事態をどうやって解決させればいいのか。地獄坂には手段がない。
頭を抱えそうになった時、地獄に仏がやってきた。
「センセ、ウチが手伝いまっせ」
似非な方言で話しかけてきたのは、自分の受け持つクラスの女生徒だ。
彼女のおかげで騒ぎは鎮静化したが、余りに大変すぎたので何をしたのかは思い出したくもない。地獄坂はその時の記憶を封印することにした。
今泉の死から3年が経った今、地獄坂の目には京都の街並みが映っている。
今泉が見ることが出来なかった光景だ。
今泉と来ることが出来なかった場所だ。
そして今、その視線の先に、この3年間を思い出させた原因の青少年が歩いている。
両腕をクラスメイトの女子二人に、抱きかかえるように掴まれ、歩きにくそうにしながらも先へと進んでいた。
あの班は確か五人組で申請されていたはずだが、残りの二人はどこに行ったのか。確か、残りの二人には、それぞれ別のクラスに恋人がいたはずだ。おそらく二人組が二つあるのだろう。
そちらを探そう。地獄坂はそう思う。別に、彼ら三人を優遇してお目こぼしをするわけではない。どうせ「ちょっとはぐれてしまったんで今合流しようとしたところなんです」なんて誤魔化されるのは分かっているからだ。自分たちが修学旅行に行った時もそうしたのだから。
―――命短し恋せよ乙女ってやつですよ、先生。
彼女の生前の言葉。恋人が出来たと教えてくれた時の言葉を思い出した。
今泉陽葵さん。
私は、まだまだ貴女のことを忘れられそうにはありません。
それでも、もう教師を辞めようとは思わなくなりました。
ですからどうか、私のことも見守っていてください。
あかい唇が色あせる、その日が来るまで。
地獄坂先生がいなければ
・浅井優大は入学できなかった可能性が高い
・立川紬はバイトが認められなかった
辺りがあるので地味に超キーキャラです。
取り敢えずはこれで完結です。
駄文でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。
結構駆け足で書いてしまった部分も多いので、いずれ機を見てもっと描写とやり取りと伏線配置を丁寧にしたリメイク版を書きたいなとは思います。




