レズカップルに追いつめられるのは好きですか? 2
―――そもそも、浅井が放課後の教室に戻った理由は何だったのか。
その時、立川紬の頭の中にあったのは、「ヤバい」と「どうしよう」の二つの言葉だけだった。
尻が冷たい。それが床の冷たさだと分かったことで、ようやく自分が座り込んでいることに気付いた。
男に裸を見られたことを恥じらうことよりも、恋人との逢瀬を見られたことを恐怖していた。
明日には学校中に二人の関係が広まっているのかもしれない。
今日まで仲良く話していた友人たちが、教師が、親が、近所に住む人々が、皆が向けてくる白い眼が、あの女達はレズビアンなんだと後ろ指を指してくるのではないかと思う。
いつの日か、どこか遠くへ逃げ出せるその時まで、ずっと耐え忍ぶ日々を迎えるのではないか。
悪い方に考えれば考えるほど連鎖して、余計に悪いイメージが広がっていって、どうしようと頭でどれだけ考えても、立川は立ち上がることすら出来なかった。
顔を真っ青にして座り込んだ立川に対して、早乙女疾風は冷静だった。上着をつかんで立川に被せ、早乙女本人はシャツを一枚羽織って歩いていく。
今度こそ鍵を閉めた。
乱入者が誰なのかは分かっていた。顔しか覚えていない浅井とは違う。顔が分かれば名前が分かる。名前が分かれば席が分かる。
本来ならだれも教室に残っていないような時間に、友人もいなければ部活動もやっていないし、教師に何か用事を頼まれてもいない浅井がやってきた理由は何なのか。
推理すら必要ない。物証は浅井の机の中にあるはずだ。
「……ビンゴ」
『忘れ物』だ。
ビンゴどころではない。大捕り物だった。住所まで分かった。個人情報保護法という偉い人が何人も集まって作ったであろう個人を守るための鎧は、学生証というチンケな一枚のカードによって砕かれて丸裸にされてしまったのだ。
想像以上の成果だった。どうにかできるかもしれないという希望が、折れかけた立川の心を叱咤激励して立ち直らせる。
今すぐにでも乗り込みたかったが、直後に致命的な問題に気付いた。
「……これを忘れてたってことは、浅井君は家に帰れなくなってると思う」
―――家の前で貼り込んで歩いて帰ってくるのを待つ?
―――それとも街中を当てもなく探す?
すぐに結論は出せなかった。
二人して急いで服を着て、協力して落とし物を拾ったという名目で、誰か浅井と連絡が取れないかと友人たちに聞いて回る。
ラインのグループにメッセージが届いた。
―――学校近くに喫茶店あるじゃん。ほら、駅方向の。あそこにいるかも
有力なタレコミだった。送り主は牧。最近彼氏とのデートばかりで友達付き合いが悪いとか愚痴ってゴメンと、二人して心の中で謝っておく。
本当に浅井がいるかは分からない。それでもとりあえずは行ってみようと立川は思う。仮に浅井がいなくても、これからどうするのかを考えるためには、まずは落ち着いて話せる場所に行きたかった。
少なくとも、セ○クス一歩手前まで進んだ教室に残って話をするよりはマシだった。
件の喫茶店は、店名をMondnachtという。
看板はおしゃれなアルファベットだけで読み方も書かれていない。そのせいで小仙上高校の生徒からは、もっぱら「モンドナッチ」とか「名前の読めない喫茶店」とか「駅方向の喫茶店」とか「美人でおっぱいがデカい店長がいる喫茶店」など他にも多数、一定しない呼ばれ方をしている。それでも誰しもが「ああ、あの店か」と思い至る程度には誰しもに知られていた。
普通の喫茶店くらいの席数だと立川は思う。もっとも、立川は他の喫茶店に入ったことがないので、これは単純に立川が抱く普遍的な喫茶店のイメージとの対比だったが。
ドアを開ければ、取り付けられたベルが鳴り、客の来店を知らせてくれる。店の空気は珈琲の香りがする。
立川は珈琲が好きだ。香りを利いて日常を感じ、今はまだ大丈夫だと思えば、焦る心も落ち着いていった。
そして、近付いてきた店員から「いらっしゃいまッッッせぇー!?」という歓迎の挨拶に途中から奇声が混じった言葉で迎えられた。
毎日髪型が変わり、眼鏡をはじめとした小物も変わるというMondnachtの名物店員。今日はどういう髪型かを予想する遊びも流行っている。本日はオールバックに四角い銀縁眼鏡が正解だった。眼鏡は無いこともあるので、きっと伊達眼鏡なのだろう。
どうして今まで気付かなかったのだろうと立川は思う。
どうして今になって気付けたのだろうと早乙女は思う。
近付いてきた店員は、浅井優大その人であった。
「……浅井だよね?」「……浅井君ですよね?」
「……イイエ、ワタシはヒルナシです」
顔を背けられ裏声で答えられる。確かにこの店員は、他の店員から「ヒルナシ」なる名で呼ばれていたのを立川達も覚えている。しかし、しかしだ。立川達はつい先程まで学生証に貼られた浅井の顔写真を、親の仇でも見るかのように凝視していたのだ。見逃してなるものかと。浅井が学校では両目が隠れるほど前髪を長く伸ばしていて、今と髪型が全く違っていたとしても、浅井が二人の裸を網膜に焼き付けたように、二人の網膜には浅井の顔がしっかり焼き付いているのだ。全く同じ顔をその後に出されて、なんだ他人の空似かと思えるほど耄碌してはいなかった。
今度は逃がしてたまるか。
浅井が誘導したのは、店内で最も奥にある席だった。
他の客からは何を話しているのか聴き取り辛く、バーカウンターにいる他のスタッフからも何を話しているのか聴き取り辛い。
他に空いている席があったとしても、浅井にはこの場所以外の選択肢はなかった。
それはつまり、浅井が客の顔を見て奇声を上げたのにはそれなりの理由があるのだと、他のスタッフに知らしめることに他ならない。
「ご注文お決まりになりましたらお呼びくd「待て」」「……はい」
すぐに他の人に代わってもらおうという浅井の目論見は、立川の「逃げるな」の一声で脆くも崩れ去った。
「ブレンドコーヒー。ミルク無し砂糖無しで」
「私はミルクティーをお願いします」
「……はい。ブレンドをミルク砂糖無しでおひとつ、ミルクティーをおひとつ。ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「あと浅井を一人」
「……申し訳ございません。当店ではそのようなメニューは取り扱ってございませ「そう言うのいいから」」「……はい。少々お待ちください」
裸を見て逃げ出した浅井を、誰が責められようか。
そんなものは決まっている。裸を見られた当人たちだ。
カウンターの店長へ注文を伝えれば、ちょうど戻って来たもう一人に取っ捕まった。安芸だ。小仙上大学の四回生で、店長が大学生の時の後輩らしい。どこの学部かは浅井は知らない。そして本日の浅井コーディネートは彼女の担当だ。眼鏡フェチで、とにかく浅井に眼鏡をかけたがる。日によって浅井に眼鏡があったりなかったりするのは、安芸の趣味嗜好が原因の一つであった。
「ね、ね、ヒルナシちゃん。あの二人なに? 恋人? 二股?」
「違います。クラスメイトです」
「ほんとぉにぃー? あの二人なんて名前?」
口を閉じて首を小さく横に振る。覚えていないという意味だったが、当然のように教えたくないという意味に取られてしまう。いたずらを思いついた笑顔にサムズアップを添えて
「ちょっと行ってくる」
「やめてあげなさい」
安芸のエンジンに火が付く前に、店長の今泉紗雪が止めてくれたのがありがたい。暴走列車と化した安芸を止めることは浅井には出来ない。この一年間のバイトでそのことはよく身に染みていた。
「だって店長も気になりますよねー? 初めてヒルナシちゃんの正体見破った子たちですよー?」
バレない自信があったんだけどなー、という言葉も空気に溶けた。
「それならなおのことよ。そっとしてあげなさい。はい、ヒルナシ君」
渡された丸いお盆の上にはブレンドが2つにミルクティーが1つ。数が合わない。店長を見れば笑顔だった。声を潜めてウィンク一つ。
「浅井君に用があるんでしょ? 今はお客さんも少ないし二人で回せるから。ゆっくりお話してらっしゃい」
店長からのやさしい心遣いに、涙が出そうだった。