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恋の基準値  作者: みゆ
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優しさ

 春休みの学校は静まり返っているんだと、私は思っていた。しかし意外にも、大勢の人の声が聞こえて来る。

 高瀬君が何の迷いもなく声のする方へ足を進め、その後を私が追いかける。向かった先は校庭。そこには大勢の野球部員がいて、みんな懸命に練習に励んでいた。

「春休みなのに、こんな時間も練習してるんだね。」

「…うん。休みが終わったら、結構すぐに試合が始まるから…。」

「そっか。」

 そういえば去年、野球部の試合を見に行った。あれは確か、修学旅行が終わってから割とすぐの出来事だった気がする。

 三年生にとっては最後となる試合。練習に熱が入るのも不思議じゃない。きっと去年の今頃、高瀬君もそうしていた様に――。

 真剣な眼差しで練習を見つめる高瀬君の隣に立って、私も校庭に視線を向けた。

 春の日差しは暖かく、穏やかに私達を包んでいた。でも時間が経つに連れ、まるで夜が近づいている事を知らせるかの様に、風は冷たくなってくる。その冷たい風に身震いし、私は小さくくしゃみをした。それに気が付いて、高瀬君が私を見る。

「寒い?」

「ううん、大丈夫。」

 本当はちょっと寒いなって思っていた。昼間は暖かかったから割りと薄着でも平気だったけど、こんなに風が冷たくなるなら、もう少し暖かい格好をしてくれば良かったな…。

 高瀬君は暫く無言で私を見ていたけれど、ふと校舎の方に目を向け

「中、入ろうか。」

とポツリと呟いた。

「中って…、学校の中?」

 私の質問に、彼がこくりと頷く。

「でも、入っていいの?」

「ちょっと待ってて。」

 そう言うと高瀬君は私をその場に残し、校庭の野球部員がいる方向に走って行った。そして隅にいる顧問の先生と何やら話をして、こちらに戻って来た。

「入ってもいいって。」

 私の目の前に来ると、高瀬君は私を促す様に校舎に視線を向けてそう言った。

「本当に?入っていいの?」

「うん。先生に許可貰ったから。」

 校舎へと向かう彼の横に並んで歩きながら、私はドキドキと胸を高鳴らせた。嬉しくて仕方がなかった。だってもう二度と、高瀬君と一緒に学校に入る事は無いと思っていたから。でも今私達は、一緒に学校の中に入ろうとしている。しかも、二人だけで。

「先生に何て言って許可貰ったの?」

 ふと疑問に思い、私はそう言って高瀬君の顔を見上げた。すると彼はちょっと悪戯っぽく笑って

「忘れ物したって言った。」

と私を見た。

「本当に忘れ物したの?」

「そんなの、嘘に決まってるじゃん。」

「えー、いいの?嘘なんて吐いて。」

 口ではそう言ったけど、心の中では彼の意外な一面を見れた事を嬉しく思っていた。本当は元々そういう悪戯な面を持っていたのかもしれないけれど、それを私の前で見せるのは初めてだ。それに彼が吐いた嘘は、きっと私の事を思って言ってくれた優しい嘘。私が寒そうにしていたから、先生に嘘を吐いて校舎の中に入れるようにしてくれたんだ。

「ありがとう。」

 私は笑顔で高瀬君を見つめて、感謝の言葉を告げた。でも高瀬君は

「何が?」

と、何に対してお礼を言われたのか分からないという表情をした。

「え、だから…、学校の中に入れるように先生に言ってくれて…。」

「ああ、別に…。俺も入りたかったし。」

 本当に、優しい人だな…。彼の優しさはいつだって“誰かの為にやってあげる”というものでは無くて、きっと彼自身がそうしたいと思ってやっている事。


 高瀬君に出会えて良かった。高瀬君と同じ年に生まれて、この学校に来る事が出来て。そして初めて好きになった人が彼で、本当に良かった――。


 そんな思いを抱きながら、私は高瀬君の隣に並んで校舎へと足を踏み入れた。




 学校の中は人の気配が無くて、しん…と静まり返っていた。

 高瀬君と私の、二人だけしかいない校舎。何か悪い事をしている様で、でも凄く嬉しくて、胸がドキドキと大きく鼓動していた。

 毎日の様に歩いた廊下。明日香と瑞穂と笑い合ったり、高瀬君と偶然会って幸せな気持ちになったり、時には悲しい思いもしたそんな場所。ほんの数日前に通ったのに、何だか懐かしく思えるのはどうしてだろう。

 高瀬君は私にスピードを合わせる様にゆっくりと足を進めて、彼が一年間過ごした三年三組の教室へと入った。そして窓際にある机の脇で足を止めると、そこに凭れて教室を見渡した。

「何で入らないの?」

 一通り辺りを見回すと、彼は教室の入り口に立ったままの私に声を掛けた。

「え…だって、他のクラスだし、入りづらくて…。」

「誰もいないんだから、入ってくればいいじゃん。」

「うん…。そうだね。」

 自分が過ごした場所と作りは変わらないのに、何だか違う空気が流れている様な気がして、滅多に入った事が無かった教室。誰もいなくてもその空気は同じに思えて、私は少し緊張しながら教室に足を踏み入れ、高瀬君が立つ場所へと向かった。

「ここ、高瀬君が座ってた席だよね。」

「うん。」

「いいな、窓際の席。私なんて丁度教室の真ん中辺りの席だったから、外の景色なんて全然見れなかったもん。」

「そうなんだ。」

「そうだよ。私の席見せてあげるから、私のクラス行こ。」

 そう言って私は三組の教室から出て、自分が過ごした教室の自分の席に向かった。そして高瀬君が付いて来たのを確認すると

「私の席、ここだったの。ね?外なんて全然見えないでしょ?」

と彼に告げた。

「本当だ。」

「でしょ?でも瑞穂は窓際の席だったんだよ。あそこの、後ろから二番目の。で、明日香の席はあそこ。丁度私と瑞穂の真ん中位…。」

 そこまで言って、私はピタリと話すのを止めた。

 今までずっとここで過ごしてきた筈なのに、誰もいないこの場所は、私が見た事のない知らない空間の様に思えた。教室のあちこちで笑いながら話す女子も、ふざけ合っている男子も、ここにはいない。今まで当たり前の様にあったそんな風景を見る事は、もうないんだ…。そう思ったら、何だか急に寂しくなった。

「ねえ、せっかくだから、学校の中歩かない?」

 そんな私に気付いたのか、高瀬君が笑顔でそう提案する。

「そうだね。そうしよっか。」

 私は笑顔を作って彼の提案に賛成し、二人で学校の中を歩き始めた。

 何処かで先生に会って怒られたら嫌だねと辺りをキョロキョロと伺いながら、学校の中を歩く。滅多に行く事が無くなっていた一年生の教室や二年生の教室。それから外に出てプールとか、体育館に繋がる渡り廊下とか。音楽室や理科室などの教室は鍵が掛かっていて入れなかったけれど、でも窓から中を覗いては、それぞれの場所の思い出を言い合った。

 思っていた以上に広かった学校の中を歩いているうちに、時間はどんどん過ぎていき、日も徐々に陰ってきた。

「そろそろ出ないとやばいかも…。」

 高瀬君にそう言われ、私は

「そうだよね…。」

と答えたけれど、どうしても最後に行きたい場所があって、それを高瀬君に伝えた。そこは、放課後に野球部の練習を見る為に行っていた場所。少しの間だったけど明日香達と一緒に通い、夏休みには高瀬君と偶然会った、思い出がいっぱいある図書室だった。

「鍵掛かってる。」

 図書室のドアに手を掛けて、高瀬君が私に告げる。

「やっぱり、そうだよね…。」

 中に入れない事を残念に思いながら、私はそう言って俯いた。

「…先生に言って、開けてもらう?」

「ううん、それはいいよ。早く学校から出ないと先生も困るだろうし、それに多分駄目って言われると思うし…。」

 高瀬君の言葉に首を振って答えて、私は再び図書室のドアに視線を向けた。

 もう一度入りたかったな。中にある本にはあまり興味がないけど。でも、あの窓際の席から、高瀬君と一緒に校庭を眺めたかったな…。

「何か…寂しいね…。」

 そう呟いた瞬間、私の目に涙が浮かんだ。そしてその量はどんどん増えていき、間もなく溢れ出て床に落ちた。

 泣くつもりなんて全然無かった。でも勝手に涙が流れた。どうしよう…こんな所で泣いてたら、きっと高瀬君を困らせちゃう…。

「ごめんね…。直ぐに泣き止むから…。」

 私は涙を拭いながら、高瀬君に謝った。

 高瀬君は黙って私を見ていた。きっと私が泣き止むのを待っててくれてるんだ。でも一度溢れてしまった涙は、なかなか止まってくれない。どうしたら、いいんだろう…。

「…また、来ればいいじゃん。」

 呟く様な言葉が聞こえて、私は泣きながら顔を上げた。すると高瀬君は

「寂しいって思ったら、また来ればいいんだよ。」

と微笑み、それから私の頭にそっと手を乗せた。

 高瀬君の手は、とても温かかった。その手が私の頭を優しく撫でる。

 その行為は、私が泣いた時にお兄ちゃんがしてくれるのと同じものだった。でもお兄ちゃんのそれとは何かが違った。

 さっきまで寂しさでいっぱいだった私の心に、優しいぬくもりが広がった。そしてだんだんと気持ちが穏やかになってきて、溢れていた涙も不思議と止まった。

「大丈夫?」

 高瀬君がそう言って、私の顔を優しく見つめる。

「うん…。ごめんね、泣いちゃって…。でももう大丈夫。」

「じゃあ、そろそろ行こうか。」

 そう言うと高瀬君は私の頭から手を離し、代わりに私の手にそっと触れた。

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