校庭
誰が言うともなしに、私達の足は自然と鉄棒の方に向かっていた。
まだ明日香が田中君と付き合っていた頃毎日のように来ていた、校庭の隅の鉄棒が設置されている場所。私達はあの頃していた様に鉄棒に凭れ掛かると、何も言わずに、楽しそうに野球をしている彼らに目を向けた。
思えば、高瀬君を初めて知ったのもこの場所だった。私達の方に飛んできたボールを、寸前で受け止めてくれたのが高瀬君だった。あの時は彼の顔も良く見えなくて、名前だって後で明日香に聞くまで知らなかったけど、ぴんと伸びた背筋がとても印象に残った。明日香に彼の名前を聞いて彼が誰なのかを知った後、私は知らないうちに彼の事を目で追うようになっていた。放課後にはこの場所で、それ以外にも廊下ですれ違った時だとか。
二年の時のバレンタイン、春休みに行った遊園地。彼と接する事がだんだん増えて、いつの間にか私は彼を好きだと意識し始めていた。ちゃんと自覚したのは修学旅行の時だったけれど、でもきっとそれよりずっと前から、私は高瀬君の事が好きだったんだ。それに最初に気付かせてくれたのは、明日香だった。
私はちらっと明日香を見た。明日香は私の視線には気付かず、じっと前を見ていた。多分明日香が見ているのは、田中君の姿なんだろう。一年前にもそうやって見ていた様に。
二年生になって付き合い始めた二人は、本当に仲が良かった。私達から見ても羨ましい位だった。でも進路の事で喧嘩してすれ違って…。春休みに涙を見せて以来泣くことはなかったけれど、多分あの時明日香は、物凄く悩んだと思う。そして結局別れる道を選んで、でもその後も友達として田中君と仲良くしてて…。
きっと明日香にも色々と思い出す事があるんだろうな。
瑞穂は塾があるからあまり一緒には来なかったけれど、たまに一緒に来た時には本当に色々な事を話した。
まだ私が恋を知らなくて『お兄ちゃんが好き』と言っていた頃、瑞穂はムキになって明日香と私の気持ちの違いを話したっけ。その事をお兄ちゃんに話した時や私がおかしな事を言った時、瑞穂は怒ったり呆れたりからかったりしていたけれど、でもいつも私達の事を考えてくれた。明日香と田中君の事も、私と高瀬君の事も、瑞穂は色々とアドバイスしてくれた。時には喧嘩もしたけれど、本当に頼れる存在だった。
でもこれからは私も瑞穂の役にたちたい。好きな先輩がいる、私達とは別の高校に行く瑞穂。その瑞穂が何か悩んだ時に、いつでも話を聞いてあげたい。例え高校が離れても、ずっとずっと仲良くしていたい。
色々な気持ちを抱きながら、私達は校庭を眺めていた。楽しかった事とか辛かった事、それから、これからの事とか、本当に色々な気持ちを――。
どれくらいの時間が経ったのか。楽しそうに野球をしていた高瀬君達が、一ヶ所に集まった。そして自分達の足跡が残る地面を綺麗に整備すると、何やら楽しそうに話ながら校庭の外に歩きだした。
「沙和、高瀬君帰っちゃうよ。早く行かないと…!」
隣で明日香が私を急かす。
私はドキドキと高鳴る胸を少しでも落ち着かせようと大きく息を吸って、それから
「…行って来るね。」
と二人に告げた。
「一人で大丈夫?」
心配そうに尋ねる瑞穂の言葉に頷き、高瀬君がいる方向へと向かう。
何て言って呼び止めたらいいんだろう…。他の男子もいるし、嫌がられないかな…。
不安になりながら高瀬君目がけて足を進めると、みんなと一緒に歩いていた高瀬君がふと立ち止まり、今まで楽しそうに野球をしていた校庭を、じっと見つめた。
声を掛けるなら、今しかない…!こんなチャンスは、きっともう来ない。
高瀬君と一緒に歩いていた男子達は話に夢中になっていて、高瀬君が立ち止まった事にまだ気付いていない。彼らが高瀬君を呼ぶ前に、早く…早く声を掛けなくちゃ…!
「高瀬君!」
数メートル離れた場所から、私は高瀬君の名前を呼んだ。それに気付いた高瀬君が、ゆっくりと私の方に顔を向ける。
それと同時に、高瀬君の少し前を歩いていた男子達が振り返った。そして興味深そうに高瀬君と私を交互に見始めた。
思いもしなかった彼らの視線に、私は思わず足を止めた。まさかこんな風にみんなに注目されると思わなかった。こんなにみんなが見ている中で、私の気持ちを高瀬君に伝えるなんて、そんな事、出来ない…!
「高瀬!」
私達に注目している男子の中から、高瀬君の名前を呼ぶ田中君の声が聞こえた。その声に反応して、高瀬君がそちらに目を向ける。
私はびくびくしながら、田中君を見て、それから高瀬君に視線を移した。
もし田中君が『帰ろう』と言ったら、高瀬君は男子達と一緒に帰ってしまうんじゃないだろうか。高瀬君がここから離れてしまったら、私はどうしたらいいんだろう…。
でも、田中君がその後に続けた言葉は、私にとってかなり意外なものだった。
「俺達、先に行ってるわ!」
田中君はそう言うと、周りにいる男子達を先導するかのように、先に立って歩き始めた。それを見た男子達が、慌てた様に田中君の後を追う。まだちらちらと私達を気にしている男子もいたけれど、田中君に何か言われると、仕方なさそうに去って行った。
多分彼らは私が今から高瀬君に何を言うのか、薄々気付いているのだろう。それを考えると恥ずかしいけど、でもここで冷やかされなくて、本当に良かった。
もし田中君が『先に行ってる』って言ってくれなかったら、男子達は今もここにいたかもしれない。田中君のお陰で、私は高瀬君と二人になれた。
ありがとう…!
田中君の後ろ姿を見ながら、私は心の中で彼に感謝をした。
高瀬君はその場所から動く事はなく、男子達が去っていく姿を黙って見ていた。そして彼らの姿が小さくなると、田中君の背中を見ていた私に近寄り、私の目の前で足を止めた。
それに気が付いて、私はドキドキしながら高瀬君に目を向けた。緊張の所為か、高瀬君の顔を見る事は出来なかった。代わりにさっき野球をしている時に付いたのであろう彼の制服の汚れを、ぼんやりと見つめた。
言う言葉は決まっているのに、何故か声が出て来なかった。高瀬君の顔を見たいのに、彼がどんな表情をしているのかと思うと怖くて、中々顔が上げられない。
何も言えずに、私はその場に立ち尽くした。高瀬君も何も言わなかった。
二人の間に、長い沈黙が流れた。