お守り
校舎の陰のあまり人の目に付かない場所に着くと、私は立ち止まって高瀬君の方に振り返った。それに気付いて、高瀬君も足を止める。
こんな所まで来てもらったんだから、早くチョコレート渡さなくちゃ。そう思って、私はドキドキしながら高瀬君の前にパッケージを差し出した。
「あ、あのね…、これチョコレートなの。良かったら食べて…!」
差し出されたパッケージを、高瀬君は暫く黙って見つめていた。それからふと視線を上げて、ちょっと擦れた声で私に尋ねた。
「…何で?」
え…!
何でって……。
まさかそんな風に聞かれるなんて思っていなくて、私は動揺して視線を泳がせた。
何て答えればいいんだろう…。まさか好きだからなんて言えないし…。
散々悩んだ末に、私は明日香達にも言った、多分一番無難な答えを高瀬君に告げる事にした。
「去年…高瀬君、私があげたチョコ、“美味しかった”って言ってくれたから。だから今年も食べてほしくて…。」
その言葉を聞くと、高瀬君は顔をしかめて、私から視線を逸らした。
もしかして…迷惑だった…?
彼のその表情を見て、私は泣きそうになって俯いた。
去年高瀬君が言ってくれた“美味しかった”という言葉。今年もその言葉を聞きたくて、私はチョコレートを渡そうと決心した。でももしかしたら、本当は凄く迷惑だったのかもしれない。去年の高瀬君の言葉は、ただ私に気を遣って言ってくれただけのものだったのかもしれない。その証拠に今高瀬君は、不機嫌そうな顔をしている…。
「あの…ごめんね…。」
泣きそうな気持ちを必死で抑えながら、私は口を開いた。
「迷惑…だったよね…。その…、無理に受け取らなくていいから…。」
それ以上何か言ったら泣いてしまいそうで、私はきゅっと唇を噛んでその場から離れようとした。
その時
「ちょっと待って…!」
と私を呼び止める高瀬君の声が聞こえて、私は泣きそうな表情をしたまま高瀬君の顔を見た。すると高瀬君は
「違うから。…迷惑じゃないから。」
と、慌てた様な目で私を見た。
多分高瀬君は、私に気を使ってくれているんだ。私が傷つかないように、必死に考えてくれているんだ…。
「…いいよ。無理しなくて。」
視線を落としてそう告げると、高瀬君は
「本当に迷惑じゃないから。」
と言って、私の前に右手を差し出した。
その手に驚いて顔を上げると、高瀬君は左手を耳の後ろに当てて、困った様な表情をしていた。その後暫く何も言わず俯いていたけれど、ふと私を見て
「…くれるんでしょ?チョコ…。」
と、呟くように言った。
本当に…渡していいの?無理してないの…?
高瀬君の本当の気持ちが知りたくて、私は彼の目をじっと見つめながら確認の意味を込めて
「…無理しなくても、いいよ?」
と再び告げた。すると
「無理なんて、してない。」
という、はっきりとした声が返って来た。
「…本当?」
それでもまだ不安でそう尋ねる私の目を見て、高瀬君がこくんと頷いた。
おずおずと差し出したパッケージを、高瀬君が無言で手にする。
本当に、受け取ってくれた…!
それがどうしようもなく嬉しくて、私は思わず
「ありがとう。」
と高瀬君に伝えた。すると高瀬君は一瞬驚いた様な表情になって、それから視線を下に向けて、何故か可笑しそうに笑い出した。
「な、何で笑うの?」
笑われた事に動揺して私がそう尋ねると、高瀬君は顔を上げて
「だってチョコを貰ったのは俺なのに、くれた山口さんが“ありがとう”って、可笑しいじゃん。」
と言った。
「それは、確かにそうかもしれないけど…、でも言いたかったんだもん!」
高瀬君に笑われて恥ずかしくて、私はちょっとムキになってそう言った。それでもまだ高瀬君は笑っている。そんな彼を見ていたら私も何だか可笑しくなって来て、高瀬君に釣られる様に笑い始めた。
暫く二人で笑って一息つくと、高瀬君がはにかんで
「俺、付属受かったよ。」と私を見た。
「え…?」
それを聞いた私の心に、ちくんっと痛みが走った。
受験の結果がどうだったのか、私は本人の口から聞きたいと思っていた。そしてそれが叶った。それなのに、さっき痛んだ心から、悲しみが溢れて来る。離れてしまう事が、これで本当に決まっちゃったんだ…。
でもここで寂しい顔なんてしちゃいけない。だって私は高瀬君に、応援すると言ったんだから。それに、受験の合格はとても喜ばしい事なんだから…。
「おめでとう!良かったね。」
無理矢理笑顔を作って高瀬君に祝福の言葉を伝えると、高瀬君は
「ありがとう。」
と言ってほっとしたように微笑んだ。
彼が笑ってくれるのは凄く嬉しい。そしてその顔が見られる事も。でも私は、これ以上笑顔を作っている事は出来ない…。
笑顔が消える前に高瀬君から離れたくて“戻るね”と言おうと口を開きかけた時、高瀬君が制服のポケットから何かを取り出して、私に差し出した。
「これ、山口さんにあげる。」
それは“学業成就”と書かれたお守りだった。きっと高瀬君が試験の時に持っていた物なんだろう。
そんな大事な物を、私に…?
「…何で?」
私は思わず高瀬君にそう聞いた。まさか高瀬君からお守りを貰うなんて、予想もしていなかったから。
高瀬君は私の疑問の言葉を聞くと、私から視線を離し目を泳がせ始めた。もしかして、返事に困ってる…?
私はふと、さっき高瀬君に“何で?”と聞かれた時の事を思い出した。
あの時の私は、まさかそんな事を聞かれるなんて思わなくて、なんて返事をすればいいのか凄く悩んだ。それを経験して、その質問が凄く困るものだと知っているのに、私はそれを高瀬君に投げ掛けちゃったんだ…!
「あ、あの、高瀬君…。」
私は慌てて高瀬君の名前を呼んだ。
もう理由なんてどうでも良かった。それよりも、高瀬君を困らせてしまった事の方が気になった。だから“変な事聞いてごめんね”と言おうとしたんだけど、それよりも前に高瀬君が口を開いた。
「…俺の受験、応援してもらったから。だから今度は、俺が山口さんを応援しようと思って…。」
心臓がどくんっと鳴った。そして、何か温かいものが全身に広がった。
高瀬君が私を応援してくれるなんて…。そんなの、嬉しすぎる…!
お守りも勿論嬉しいけれど、高瀬君のその言葉が、なによりも私の力になる。
「これ、俺が受験の時に持ってたやつだから、効き目は絶対あると思う。」
高瀬君はそう言うと、視線をお守りから私に移した。そして
「受験、頑張って。」
と微笑んだ。
「沙和、そろそろ時間よ。」
一階から、お母さんの声が聞こえる。私は
「はあい。」
と返事して、自分の部屋を見渡した。
忘れ物は無い。必要な物は全部持った。あとは、今まで一生懸命勉強してきた成果を、試験で出すだけだ。
「大丈夫?落ち着いて、頑張るのよ。」
一階に降りた私に、お母さんが声を掛ける。でもそう言ったお母さんの方が何だか落ち着かないように見えて、私は笑いながら
「大丈夫だよ。」
と言った。
「あ、沙和行くんだ。」
玄関に向かう私に気付いて、お兄ちゃんがリビングから顔を出した。
「精々滑らないように気を付けろよ。」
「な、何でそういう事言うの?!絶対に大丈夫…あ!」
よそ見をしながら歩いていた所為か、私は玄関マットに足を捕られて転びそうになった。それを見ていたお兄ちゃんが、慌てて腕を掴んで私を支える。
「だから言っただろ。…お前、本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ!!」
心配そうな目をするお兄ちゃんに、私は体制を整えながら赤くなって言い放った。
絶対に、大丈夫。今まで一生懸命勉強してきたんだから。やれる事はやった筈。
それに…。
私はコートのポケットに手を入れて、薄い長方形の感触を確かめた。それは高瀬君から貰った、高瀬君が受験の時に持っていたお守り。
このお守りを持っていて、高瀬君は受験に合格した。それに今の私には、“応援する”と言ってくれた高瀬君の言葉がある――。
「じゃあ、行ってくるね。」
お母さんとお兄ちゃんに笑顔で手を振って、私は大きく息を吸い込み玄関のドアを開けた。