視線
朝の廊下は、思っていたよりも静かだった。チョコレートの話が全く聞こえない訳じゃないけれど、それを話題にしている子は明らかに去年よりも少ない。
きっと他の学年の廊下は、バレンタインデー特有の賑わいをみせていると思う。でも私達三年生は受験を目前に控えているから、みんなそれどころではないのだろう。
そんな中、私は心臓を大きく鼓動させながら教室へと向かった。手に持っている紙袋の中には、去年より一つ多いチョコレートのパッケージ。明日香達の分と先生の分、それから自分の分と、高瀬君に渡す分。合計五つ。
去年よりたった一つパッケージが増えただけなのに、その一つ分が妙に重く感じる。
私は胸の苦しさを和らげるように“はあーっ”と大きく息を吐いて、それから教室に入った。
「沙和!チョコレート持って来た?」
挨拶をするより先に、明日香がそう言って私に駆け寄ってきた。教室に入った瞬間に声を掛けてくるなんて、まるで私を待ち構えていたみたいだ。
「おはよう明日香。うん持って来たよ。」
私はそう言って、袋からチョコレートのパッケージを一つ取り出し明日香に渡した。
「はい、これ明日香の分。」
「そうじゃなくて…!」
それを手に取りながら、明日香は少し大きめの声を出した。でもすぐにはっと何かに気が付いたような顔をして、それから今度は私に顔を寄せて小さな声で話し出した。
「そうじゃなくてさ、高瀬君にあげる分、持って来たの?」
「え?う、うん…。持ってきた。」
私は持っていた紙袋を開いて、明日香の前に差し出した。他の物とは一つだけ違う青い包装紙に包まれたそれは、すぐに明日香の目に留まったようだ。
「ちゃんと、この前一緒に選んだケースに入れて来たよ。」
「本当だ。綺麗にラッピング出来てるじゃん。」
「うん。これ包む前にね、違う箱で何回か練習したから。思ったよりも上手く包めた。」
そんな事を二人でこそこそ話していると、後ろから私の名前を呼ぶ瑞穂の声が聞こえた。
瑞穂は私達に歩み寄ると、明日香と同じ様に
「高瀬君にあげるチョコ持ってきた?」
と私に尋ねてきた。私は
「うん。」
と言って、今までしていた様に紙袋を開いて、瑞穂に見せた。
「ちゃんと瑞穂の分も持って来たよ。あ、それから、先生にも渡すから付き合って。」
「それはいいけど…、高瀬君には渡さないの?」
「…えっ?」
私はそう尋ねられて、顔を赤くしながら瑞穂から視線を逸らした。
チョコレートは朝一番に渡す、それが今までの私のポリシーだった。誰よりも早く渡して一番に喜んでほしかったから。私が毎年そうしていた事を、明日香も瑞穂も知ってる。
でも高瀬君には、何故かそれが事が出来なかった。
喜んでほしいという気持ちは勿論ある。他の女の子より先に渡したいという気持ちもある。でも心臓がドキドキしすぎて体が言う事をきかない。告白する訳じゃないんだからもっと気楽にすればいいのに、高瀬君にチョコレートを渡すと考えるだけで緊張して、足がすくんでしまっていた。
「と…とりあえず、先生に渡してからにする。だから二人共、職員室に付き合って。」
私はそう言って、自分用に持ってきたチョコレートを一粒口の中に放り込んだ。口の中でチョコレートが溶ける様に、この甘さで緊張が少しでも解ければいいのに…。そう思った。
チョコレートを渡せないまま時間はどんどん過ぎていき、とうとう放課後になってしまった。
チョコレートは渡したいけれど、教室にいる高瀬君を呼び出すのは恥ずかしかったので、私は自転車置き場の近くで、明日香と二人で高瀬君を待った。
家に帰ろうと校舎から出てくる人達が、私達の方をじろじろ見ながら通り過ぎて行く。
多分みんな、私がチョコレートを渡そうとしているのに気が付いているのだろう。でもその視線に気圧される訳にはいかない。だって、高瀬君にチョコレートを渡して、去年みたいに“美味しい”って言って欲しいから。それと、高瀬君が付属に受かったのかを、高瀬君の口から聞きたいから。…でももし“チョコレートなんていらない”って、拒絶されちゃったらどうしよう…。
そんな事を考えて手を震わせながら唇を噛んでいる私に、明日香が
「沙和、来たよ。」
と言って、私の腕を揺すった。その言葉に心臓を今まで以上に高鳴らせながら、私は恐る恐る明日香の視線を辿った。
その視線の先には、田中君と二人で校舎から出てくる高瀬君の姿があった。
「なんで田中も一緒なの?」
と、明日香が何故か苛立ったような声で呟く。
「沙和、とりあえず行こう。」
そう言って、明日香が私を見る。
「私田中と話してるから、その間に高瀬君にチョコレート渡しなよ。」
「え…、う、うん。」
「早くしないと高瀬君帰っちゃうよ。」
明日香に急かされて、私は苦しい位胸をドキドキさせながら、明日香に付いて高瀬君達の元に向かった。
「田中!」
明日香が大きな声で田中君を呼び止めた。それに気付いて田中君と隣にいる高瀬君が、足を止めてこっちを見る。
そんな二人を見て、私は持っていたチョコレートのパッケージを自分の後ろに隠した。どうせすぐに渡すんだから、隠す必要なんてない。でももし渡す前に拒絶されたらどうしようとか、チョコレートを渡す事がバレバレなのは恥ずかしいとか考えたら、思わずそうしてしまった。
「何?」
田中君が近くに来た明日香に疑問の言葉を投げ掛ける。すると明日香は
「ちゃんと勉強してる?」
と、バレンタインデーとは全然関係ない事を田中君に話し始めた。
「は?してるよ。」
「そんな事言って、本当はゲームばっかりやってるんじゃないの?」
「してねえよ!」
「本当に?」
私は暫くじっと二人の会話を聞いていた。するといつまでも動こうとしない私に気付いて、明日香が“なにやってるの?”と言いたそうな顔をして、ちらっと私を見た。
その表情にびくっとして、私は視線を下に落とした。それから大きく息を吐いて、唇を噛んだ。
…そうだよね。明日香だって協力してくれてるんだ。早く高瀬君にチョコレート渡さなくちゃ。
私は顔を上げて、思い切って高瀬君を見た。高瀬君は何か考えている様な表情をして、視線をあちこちに動かしていた。私が声を掛けなければ、その視線は私の方に向かないかもしれない。
「あ、あの、高瀬君。」
私は勇気を出して高瀬君の名前を呼んだ。その声に気付いて、高瀬君がゆっくりと私に顔を向ける。
早くチョコレート渡さなくちゃ。そう思って後ろからパッケージを出そうとした時、校舎から出てくる大勢の人達がふと目に入った。そのまま明日香の方に視線を向けると、明日香も田中君もじっと私の方を見ている。
こんなみんなの見てる所でチョコレート渡すなんて絶対に無理…!
私は再び高瀬君に視線を戻して
「あ、あのね…、ちょっと…向こうに来てもらってもいい?」
と高瀬君に告げた。そして高瀬君が頷くのを確認すると、私は背中に明日香達の視線を感じながら、高瀬君の前に立って歩き出した。