バレンタインデー
冬休みが終わるとすぐ、私立高校の受験があった。高瀬君もきっと受けただろう。
応援しているはずなのに、複雑な気持ちになる。落ちてほしいとは思わないけれど、受かってしまったらやっぱり寂しい。だって高瀬君が受けたのは、私とは別の、しかも遠くにある高校。高瀬君がそこに受かるいう事は、中々会えなくなるということが決まるのと一緒だから。
私立受験の事を、明日香と瑞穂は一切口にしなかった。そしてただひたすら勉強に励んでいた。
それもその筈、数日後には公立高校の前期試験が迫っていて、その後一ヶ月程で私達が受ける後期試験があるのだから。
私達が勉強するのと同じ位、他の子達も勉強している。少し気を抜いただけで、蹴落とされてしまうかもしれない。毎日がそんな状態の中で、人の事なんて気にしている暇はない。
その日のお昼休み、私達は瑞穂の席に集まり、分からない所を瑞穂に教わっていた。
数日後に控えた受験と結果待ちの生徒の所為で、教室中がピリピリしている。
そんな空気を余所に、廊下で歓喜の悲鳴が上がった。『おめでとう』とか『よかったね』という数人の声も聞こえて来た。
「もう結果が出た子もいるんだね。」
その声を聞いて、瑞穂がため息混じりに言葉を発した。
「私達も早くあんな風に話したいよね。」
よく見ると、教室の中に安心したような顔がちらほら見受けられた。その表情をしているのは皆私立を受けた人ばかり。…そうか、私立受験の結果、もう出てるんだ…。
「…高瀬君も、受かったのかな…。」
私立受験が始まってから三人の内の誰もが口にしなかった話題。周りの安心した顔を見ているうちに、私は思わずそれを口にしていた。
すぐ傍で明日香と瑞穂がはっとした表情をしている。二人の勉強の邪魔をしてはいけないと、私は
「続きやろう。」
と言ってノートに目を移した。
「…あのさ、沙和。」
そんな私に明日香が声を掛ける。
「田中に聞いてみようか。高瀬君が付属受かったのかどうか…。」
「え、いいよ!」
明日香の言葉を聞いて、私は慌てて首を振った。
「田中君だって勉強忙しいのに、そんな手間取らせるの悪いよ。それに…もし聞くなら、高瀬君から直接聞きたいから…。」
「…そっか。」
私は明日香に向かってえへへと笑い
「勉強の続きやろうよ。」
と、再びノートに視線を移した。でも明日香は私をじっと見たままで、そして
「沙和、高瀬君に告白しないの?」
と聞いて来た。
「え…!」
明日香のいきなりの問いかけに驚いて、私は持っていたシャープペンシルを床に落とし、慌ててそれを拾った。
「だって、もうすぐバレンタインデーじゃん。」
そんな私を見ながら、明日香が言葉を続ける。
…そっか、もうすぐバレンタインデーなんだ。受験の事で頭がいっぱいで、そんな事忘れてた。
去年のバレンタインデーは、田中君にチョコをあげる明日香に付き合って、一緒に野球部の練習を見に行った。その後田中君と帰るという明日香と別れて、偶然会った高瀬君と一緒に帰ったっけ…。
あの時の私はまだ恋を知らなくて、でも高瀬君が一緒に帰ってくれた事が嬉しくて、凄くドキドキした。今思えば、高瀬君を意識しだしたのは、あの日からだったのかもしれない。
「止めた方がいいよ。」
私達の話を黙って聞いていた瑞穂が、突然顔を上げて私達を見た。
「バレンタインデーって試験直前だよ?そんな時に勉強以外の事に気を取られるなんて良くないって。」
「でも中学最後のバレンタインデーだよ?高校が離れちゃったら、チョコ渡す機会も無くなっちゃうかもしれないじゃん。」
「それは、そうだけど。でも、もし告白して駄目だったらどうするの?そしたら本当に受験どころじゃなくなっちゃうよ?」
「…駄目かな…?」
言い争っている明日香と瑞穂の声を遠くに聞きながら、私はぽつりと呟いた。
「チョコ…渡しちゃ駄目かな…?」
「え!」
その呟きを聞いて、明日香と瑞穂が一斉に私の顔を見る。
「沙和、告白するの?!」
自分で言っておきながら驚いたような明日香の声を聞いて、私は赤くなって首を横に振った。
「告白なんてしないよ!そんなの怖くて出来ない。ただ、去年高瀬君が、私が作ったチョコ食べて『美味しかった』って言ってくれたの思い出して…。またそう言ってもらえるなら、チョコあげたいなって…。」
「私はいいと思う!」
明日香が笑顔で私を見た。
「沙和の作ったチョコ美味しかったもん!だから今年も高瀬君にチョコあげなよ。」
明日香の言葉を聞いて嬉しくなって、それから今度は少し不安になりながら瑞穂の顔を見た。瑞穂は私の視線に気付くと、少し考えてから
「まあ、受験に影響しなきゃいいんじゃない?」
と言った。
「本当?じゃあ私、高瀬君にチョコあげる。それで、その時に付属受かったのか聞いてみる。」
「頑張ってね!」
「うん!」
明日香の応援の言葉に、私はドキドキしながら頷いた。
「でも今はとにかく勉強だよ。バレンタインデーに気を取られて高校に落ちる訳にはいかないでしょ?」
確かに、そうだ。
瑞穂に促され、私達は勉強を再開した。
そしてバレンタインデーの朝。
私は自分の部屋で、前日お母さんと一緒に作ったチョコを、そおっと紙袋の中に入れた。
去年と同じクリアパックの中に、一つだけ青い包装紙に包まれた箱。
気合いを入れてる訳じゃないんだけど、何となく特別な物にしたくて、この前明日香に付き合ってもらって選んできた。
高瀬君、美味しいって思ってくれるかな…。考えただけでドキドキする。
「沙和、そろそろご飯食べなさい。」
一階から聞こえるお母さんの声。私は
「今行くー。」
と言って、慌てて階段を駆け降りた。
キッチンにはすでにみんなが集まっていた。私はそれを見ながら
「おはよう。」
と挨拶をし、自分の椅子に座った。そんな私をお父さんとお母さんが、何故か不思議そうな顔で見つめる。
「沙和、お父さんとお兄ちゃんにチョコ渡さないの?」
「あ!そうだった!」
お母さんの言葉に、私は急いで椅子から立ち上がり、昨夜のうちに用意しておいたチョコレートに向かった。
毎年朝一番にチョコレートを渡していたのに、それを忘れているなんて心配になったのか、お母さんが
「具合でも悪いの?」
と私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。」
お父さんとお兄ちゃんにチョコレートを渡し終えて、私はそう言って椅子に座った。そして朝食を食べ始めると、隣でお兄ちゃんがニヤニヤしながら私を見た。
「…何?」
目玉焼きをつつく手を止めてお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんは
「別にー。」
と言って、ニヤニヤしたまま私から目を逸らした。
もしかしたらお兄ちゃんは気付いてるのかもしれない。以前言ったことのある私の“好きな人”に、私が今日チョコレートをあげようとしているのを。
恥ずかしくなってお兄ちゃんから目を逸らした私の耳元に、お兄ちゃんが顔を近付けた。そしてお母さん達には聞こえない位の声で
「まあ、頑張れ。」
と言って、私の頭にぽんっと手を乗せた。