謝罪
あまり人が来なそうな廊下の隅で、高瀬君が立ち止まった。私はそれを見て、高瀬君から二メートル位離れた所で足を止めた。
さっきよりも心臓がうるさかった。足も更に震えていた。それに気を取られて高瀬君の
「何?」
という声を聞き逃しそうになったけど、それでも何とかその声は私の耳に届き、私は俯けていた顔を高瀬君に向けた。
高瀬君が面倒くさそうに私を見ている。私が何か言わなければ、彼はこの前の様に私を置いて去ってしまうかもしれない。早く…早く言わなくちゃ…!
二メートルの距離が、彼の存在を遠くに感じさせる。
…こんなに離れた所にいたら、私の声は届かないんじゃないだろうか。ここからじゃ私の気持ちはきっと届かない――。
震える足をどうにか動かし、私は高瀬君に近付いた。二、三歩進んだ所で足を止め、それから、勢い良く
「ごめんなさい…!」
と頭を下げた。
「この前、あんな態度取っちゃってごめんなさい。嫌な思いさせてごめんなさい。もう絶対にしないから…。」
頭を下げる私を、高瀬君はどんな表情で見ているんだろう。それを見るのが怖かった。でも彼の顔を見て話さなければ、きっと気持ちは届かない。
顔を上げた私の目の前には、じっと私を見つめる高瀬君の姿があった。その視線はさっきまでの面倒くさそうなものではなくて、ただひたすら真っ直ぐに私に向けられていた。
射ぬかれそうなその視線に、私は動揺した。こんなに真っ直ぐに高瀬君に見られるのは初めてだった。どんな顔をすればいいのか分からない。
頭の中が真っ白になる。彼に伝えようと用意していた言葉は、綺麗に消えてしまった。
動揺のあまりまた彼から目を反らしかけたけど、でもここで反らしたら二度と彼の顔を見られなくなるような気がして、必死でそうしようとする気持ちを抑えた。
相変わらず頭の中は真っ白で何を言ったらいいか分からない。でも何か言わなければいけない。準備した言葉が無くなってしまったなら、ただ自分が思っている事を素直に口にするしかない。
「あ、あのね…。」
私は思い切って口を開いた。私の気持ちが高瀬君に伝わるのか凄く不安だけど、でも伝える為には言うしかないんだ。
「…あのね、春休みに高瀬君が東高に行くって言ってて、私凄く嬉しかった。一緒の高校に行けるんだって。でもこの前明日香から、高瀬君が付属に行くって聞いて、凄く悲しかった。何で私には言ってくれないのって。他の女の子には話すのに、何で私には話してくれないのって、凄く悲しかった。」
そこまで聞いて、高瀬君の表情が少し変わったような気がした。でも今の私にはそれに気を止める余裕は無くて、一回大きく息を吸ってから更に言葉を続けた。
「高瀬君と離れたくなかったから、だからみんなに付属に行くって言ったの。そしたらみんなに反対された。他にやりたい事もないし周りに知ってる人もいないんだから、止めたほうがいいよって。それでもどうしても行きたくて悩んでたら、ゆみさんに言われたの。みんなを説得するには、それなりの理由と説得力と根気がないと駄目だって。でも私にはみんなを納得させる位の説得力なんてないし、それに、高瀬君に思うのと同じ位、明日香や瑞穂やみんなと一緒にいたいから、だからやっぱり東高に行くことにしたの…。」
そこまで言って、私はぎゅっと目を瞑った。
本当はまだ付属に行きたいという気持ちを捨てきれてはいなかった。高瀬君と一緒にいたいという気持ちは、まだ私の中で燻っていた。
本当にこれでいいのか、今の私にはまだ分からない。でも私なりに悩んで決心してみんなに言った事なんだから、もうそうしないといけないんだ。
私は瞑っていた目を開けて、再び高瀬君を見た。高瀬君は、なんだか困ったような顔をして私を見ている。
でもどうしても言いたい事がもう一つあった。高瀬君に告げることで自分に言い聞かせたい、そんな言葉が。
「高瀬君は、頑張ってみんなを説得したんだよね。どうしても付属で野球がしたいから、時間を掛けてみんなに話したんだよね。…高校離れちゃうのは寂しいけど、高瀬君が野球好きなの知ってるから、だから私も応援する!頑張って絶対合格してね。」
高瀬君の目が大きく見開かれた。それから左手を耳の後ろに当てて、私から視線を逸らした。
やっぱり困らせちゃったんだ…!
勢いにまかせて言葉を発した所為で、自分が何を言ったのか良く覚えてないけど、でもきっと変な事を言ったんだ。
「ごめんね!」
私は慌てて再び高瀬君に謝った。
「変な事言っちゃってごめんね。えっと…もう絶対言わないから。」
私の言葉を聞いても、高瀬君は目を逸らしたままで黙っている。
「あの…勉強してたんだよね?邪魔しちゃってごめんね。」
私は居たたまれなくなって、そう言って高瀬君に背中を向けようとした。その時
「…気にしてないから。」
という高瀬君の呟くような声が聞こえて、私は再び彼を見た。
高瀬君はまだ私から視線を逸らしていた。けれど、そのままの体勢でもう一度
「気にしてないから。」
と、さっきよりもはっきりした声で私に告げた。
許して…貰えたんだ……。
心臓が、さっきまでとは違った大きな音をたてる。嬉しくて、安心して、泣きそうになる。
その後高瀬君は、困ったような表情をしたまま無言になった。でも暫くしてからふと私に視線を向けて、そしたら何故かはにかんだような笑顔になって、そして
「受験、俺も頑張るから、だから山口さんも頑張って。」
と言った。
高瀬君が……笑ってくれた。しかも、苗字だけど、私の事名前で呼んでくれた…!
それがまるで夢の様で、言葉で言い表わせない位嬉しくて、私は高瀬君が去った後も、そこから離れられなかった。
「沙和!どうだったの?」
図書室の近くで待っていた明日香が、私を見つけて駆け寄ってきた。
「さっき高瀬君図書室に戻ったけど、沙和、ちゃんと話せたの?」
「…明日香。」
私はまださっき起こった事に呆然としていて、虚ろな目をして明日香を見た。でも明日香を見た瞬間、喜びが胸の中から沸々と湧き出してきて、私は
「明日香〜!」
と大きな声を出して、彼女に抱きついた。
「な、何?!」
突然の事に明日香が慌てている。
「何があったのかちゃんと話して!」
「高瀬君が…高瀬君がね、笑ってくれた!」
そのまま暫く明日香に抱きついて少し冷静になった私は、さっきあった事を明日香に話し始めた。自分が何を言ったのかよく覚えていないけど、謝った事や応援すると言った事や、思い出せる限りのすべての事を明日香に伝えた。
「高瀬君が笑ってくれたんだよ!しかも私の名前を呼んでくれたし。凄いよね!」
興奮しながら告げられる私の何度目かのその言葉に、明日香が一緒になって
「良かったね!」
と喜んでくれる。
勇気を出して本当に良かった。もしかしたら高瀬君を困らせちゃう位変な事を言ったのかもしれないけど、でもちゃんと伝えようと頑張れば、気持ちって伝わるんだ。
「でもさ、」
突然明日香が、何かに気付いたような表情をして私を見た。
「何?」
私は明日香が何を思いついたのか全然見当がつかなくて、そしてそんな事よりも嬉しさの方が大きくて、笑顔のまま明日香を見た。
すると明日香は、私が想像もしていなかった事を口にした。
「何か、沙和の言った事って、告白みたいだよね。」
「…え?」
さっきまで笑顔だった私の表情が、一瞬にして固まる。
「…な、何で?」
「だって沙和、高瀬君に“一緒にいたい”って言ったんでしょ?“寂しい”ならまだ分かるけど“一緒にいたい”なんて、男子には普通言わないよ。もしそれを言うとしたら、好きな人に対してだけだよ。」
「……え…、そうなの…?」
私は高瀬君に、自分の気持ちを知って欲しかった。私の気持ちをちゃんと伝えたかった。でも……告白しようなんて、思ってなかった…。
「明日香、どうしよう…!」
さっきまでとは打って変わって、私の心の中は焦りと動揺でいっぱいになった。
「私、告白しようなんて思ってなかったのに…!どうしよう…!どうすればいいの?」
「あ、でも大丈夫だよきっと。高瀬君て鈍感そうだし、そこまで気付いてないよ。」
「本当?」
「うん。本当だって。」
「でも…気付いてたら、どうしよう…!」
どんなになだめても慌てふためく私を見て、明日香が
「大丈夫だってば。」
と言って、それから
「沙和、動揺しすぎだよ。」
と、可笑しそうに笑った。