ジレンマ
なんとか涙を止めて教室に入ると、瑞穂が驚いたように私に駆け寄って来た。そして
「どうしたの?!」
と、私に問い掛けた。
いくら涙を止めたとはいえ、この赤い目を見れば泣いていたことはバレバレだろう。
「何でもない…。」
と私は首を振ったけど、その拍子に再び涙が零れてしまった。
「沙和…?」
心配そうに私を見る瑞穂。そんな瑞穂に何か言わなきゃと思った時、廊下から
「沙和!」
と大きな声を出して明日香が飛び込んできた。
明日香は真っ直ぐ私に駆け寄って来て
「大丈夫?!高瀬君に何か言われたの?」
と、凄い勢いで私に尋ねてきた。
「トイレで加奈ちゃんに聞いたの。沙和が三組の野球部の男子に何か言われて泣いてたって。それって高瀬君でしょ?」
明日香の言葉に、私は戸惑いながら頷いた。
私が高瀬君と一緒にいてそして泣いていた事、もう広まってるんだ…。でもそれは、高瀬君に何か言われたからじゃないのに…。私が何も言わなかったからいけないのに。
「…高瀬君は、何も言ってない…。」
私は涙声で、二人に告げた。
「高瀬君が悪いんじゃなくて、私が何も言わないから…、だから高瀬君に嫌われちゃったの…。」
「どういうこと?」
明日香が眉を寄せながら私を見た。でも、私はその理由を言いたくなかった。自分がこんなに醜い気持ちを抱いてるなんて、二人に知られたくなかった。
「…ねえ、沙和。」
暫く黙っていた瑞穂が口を開いた。
「志望校、付属にしたって本当?」
「え?何それ!」
私の隣で、明日香が再び大きな声を上げる。でもそんな明日香には目も向けず、瑞穂は驚いて顔を上げた私をじっと見て告げた。
「それって、高瀬君と一緒にいたいからだよね?…でも、私は止めたほうがいいと思う。だってもしかしたら、また高瀬君の所為で泣いたり傷ついたりするかもしれないんだよ。そんなの嫌でしょ?それに、今は私や明日香が沙和の話を聞けるけど、沙和が付属行ったら、こうやって近くで話を聞いてあげることも出来ないんだよ。」
「そうだよ!こんな風に沙和の事泣かせる人なんて、やめちゃいなよ!付属なんて行かないで、一緒に東高行こうよ!」
やめる…?何を?
二人は、何を言ってるんだろう?
「…何言ってるの?」
涙目でいきなり顔を上げた私を見て、二人は不思議そうな表情をした。
「え、何って…。高瀬君、沙和を泣かせるような事したんでしょ?だからもうやめちゃいなよって…。」
「高瀬君は悪くないよ。悪いのは私だよ…!二人共私の事応援してくれるって言ったのに、何でそんな事言うの?」
確かに私は高瀬君の所為で傷ついた。恋なんてしなければ良かったとも思った。でもだからって高瀬君を忘れようなんて思ってない。
私が欲しいのはそんな言葉じゃない。望むのは、高瀬君に一番近い女の子になることだけ。
きっと私は、自分の力でどうにも出来ないこのもどかしさを、二人に何とかして欲しかったんだ。そして、嫌われてしまったかもしれないというこの現実に、救いの手を差し伸べて欲しかったんだ。
でもそれは叶わなかった。
放課後の教室に、私は一人で残っていた。明日香と瑞穂には“考えたいことがあるから”といって、先に帰ってもらった。でも本当は少し違う。
家に帰りたくなかった。家に帰って、お母さん達に高校の話をされるのが嫌だった。
明日香達にも反対されてしまった今、相談できるのは誰一人としていない。それが重くて暗い雲となって、私の心を覆う。
それに、私は自分の気持ちでさえも良く分からなくなっていた。
高瀬君の近くにいたいと思う気持ちは変わっていない。同じ高校に行けば、高瀬君と今よりずっとずっと仲良くなれるんじゃないか、付属に行く事を決めた理由となったそんな期待も、まだ残っていた。
でも、本当に仲良くなれるんだろうか…。嫌われてしまったかもしれないのに。
こんな状態が続くなら、一緒の高校に行く意味なんてないんじゃないだろうか。瑞穂が言ったみたいに、傷つくかもしれないし泣くかもしれない。…そんなの嫌だ。
でも……。
期待と不安が渦巻いて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。そしてそんな自分に苛々する。
こんな状態の時にお母さん達にまた色々言われたら、キレてしまうかもしれない。でも外はもう夕闇に染まっていて、流石にこんな時間まで帰らなかったら心配されるかもと思い、私は仕方なく鞄を持ち、重い足取りで家に向かった。
「沙和!こんな時間まで何してたの?!」
家に入るなり、お母さんが大きな声を出した。
もう外は暗くなっていた。こんな時間まで帰らなかった私を心配してたんだって、普通だったら理解出来る。
でも今の私には、そんな事考える余裕はなかった。怒鳴られているという事がただ面倒くさくて、私はお母さんの顔を見ずに部屋へと続く階段へ向かった。
「沙和!!」
そんな私を見て、お母さんが更に大きな声を上げる。
「…うるさいな!放っておいてよ!!」
私はそう言い捨てて、階段を駆け上がって部屋に飛び込んだ。
“うるさい”なんてお母さんに言ったのは初めてだった。今まではもしそう思ったとしても、決して口には出さなかった。
…お母さんが悪いんだよ。私の気持ちを考えもせずに怒鳴るから。でもあんな事言っちゃって、もしかしたらお母さん、悲しんでるんじゃないだろうか…。
私は唇を噛んで布団に潜り込み、ぎゅっと目を瞑った。
何も考えたくなかった。考えたら悲しくなって苛々して、暴れてしまいそうだった。でも私の頭の中には気持ちとは裏腹に、色々な思いが浮かんでくる。自分の事なのに、コントロールが効かない。何で?もう嫌だよ!
そんな風に葛藤していると、暫くして、私の部屋のドアが開く気配がした。
「沙和。」
…お兄ちゃんだ。何しに来たんだろう…?
私は耳を澄ませて、お兄ちゃんの様子を窺った。
ガチャンと、テーブルに何か置く音がした。そして
「飯。母さんが食べろって。」
とお兄ちゃんが言った。
布団の隙間からそっとテーブルの方を見ると、そこにはお茶碗とコロッケが乗ったお皿が置かれていた。それを見て、私は自分のお腹が空いていることに気が付いた。
でも、絶対食べたくない。食べてしまったら、きっと負けたような気分になる。だから私は布団を被ったまま、小さな声で
「いらない。」
と、お兄ちゃんに告げた。
「お前、いい加減にしろよ。」
私の言葉を聞いたお兄ちゃんが、呆れたような声を出した。
「いつまで意地張ってんだよ?それじゃあまるで、ただ拗ねてるだけのガキじゃん。」
「ガキじゃないよ!」
私はばっと起き上がって、お兄ちゃんを睨み付けた。
「意地張ってなんかないもん!みんなが私の気持ちを考えてくれないからいけないんじゃん!」
「…やっぱりガキじゃん。」
お兄ちゃんがため息をつく。
「いきなり付属行きたいとか言いだすし、でもその理由は全然言わねえし…。ただ我儘言ってるだけだろ。」
…我儘?
お兄ちゃん、そんな風に思ってたの?私の気持ちは全然考えてくれてなくて、それどころか私の事ガキだって馬鹿にしてたの?
「…ひどいよ。」
私は涙目になってお兄ちゃんを見た。
「我儘なんて言ってないよ!ちゃんと理由あるもん!」
「じゃあ言えよ。」
一瞬戸惑った。でもこのまま子供扱いされるのは嫌だったから
「お母さん達には、言わないで。」
と前置きしてから
「…好きな人が行くから、だから私も付属に行きたいの。」
と告げた。
「…それだけ?何かやりたい事があるとか、そういうのはねえの?」
「……別に、無い。けど、それだけでも充分な理由でしょ?!」
お兄ちゃんが、再びため息をついた。
「…そいつと付き合ってる訳?」
「…付き合ってないよ。…それどころか、もしかしたら、嫌われてるかもしれない……。でも、それでも、近くにいたいって思うんだもん!」
それを聞くと、お兄ちゃんは私に近寄ってしゃがみ、俯く私の顔を覗き込んだ。
「沙和の気持ちも分からなくはねえよ。でもさあ、物理的な距離だけ近くても意味ないんじゃん?それに、同じ高校に行くとか以前に、お前にはやらなきゃいけないことがあると思うけど。」
「とにかくもう一度、良く考えろ。」
お兄ちゃんは、そう言って部屋を出て行った。
お兄ちゃんが何を言ったのか、私にはその意味が良く分からなかった。
それよりも苛々してどうしようもなくて、私は壁に枕を叩きつけて、また布団に潜り込んだ。