雨雲
「沙和ご飯よ。起きなさい。」
お母さんの声。
私は重い体をゆっくり起こしてため息をついた。
実は、ずっと前に起きていた。でも今日は休み。学校に行く必要もない。だからずっと布団に潜っていた。
出来たら寝てしまいたかった。寝てしまえば嫌なことを考えずに済むから。でも私の思いと反して頭はどんどん冴えていき、眠ることも出来なくて、ただベッドに横たわっていた。
ドアの外から、朝食の美味しそうな匂いが漂ってくる。昨日はご飯も食べずに帰ってすぐ部屋に閉じこもったから、流石にお腹が空いている。
こんなに胸は重いのに、お腹は空くんだ…。
少し情けなくなりながらも私は立ち上がり、パジャマのまま一階に向かった。
キッチンに行くと、既にみんなが揃っていた。お兄ちゃんは休みだというのに、もう服を着替えてご飯を食べている。私も椅子に座り、ご飯を食べ始めた。
誰も喋らない静かな朝食。きっといつも喋る私が何も言わないから、みんなも何も話さないんだろう。
その静寂を破ったのはお母さんだった。
お母さんは、持っていたお箸を置いて私を見た。
「沙和、ご飯食べた後に話があるから、リビングにいなさい。」
一人になりたかった私は、眉をしかめてお母さんから視線を逸らした。
「大事な話だから。」
と、お母さんが言葉を続ける。
隣でお兄ちゃんが、興味深気に私を見た。お父さんは、お母さんと同じような表情で私を見ている。
そんなみんなの視線を浴びて嫌とは言えなくなって、私は渋々頷いた。
食事が終わると、お母さんは片付けもそこそこにして私をリビングのソファーに座らせ、自分はその隣に座った。お父さんがその近くに立つ。
お兄ちゃんはきっと何処かに出掛ける用事があるはずなのに、何故かキッチンの椅子に座ったまま遠巻きに私達を見ていた。
一体何なんだろう…。
私は居心地が悪くて、俯く様にみんなから視線を逸らした。
「沙和、志望校変えたって本当なの?」
「何で……?!」
何で知ってるの?!
私はびっくりして、顔を上げた。するとお母さんが
「先生が連絡してくれたのよ。いきなり志望校変えたからって心配して下さって。」
と言った。
「どうして急に志望校変えたりしたの?それもよりによって付属だなんて。」
お母さんの言葉に、私は黙って再び俯いた。
理由はただ一つ。高瀬君と同じ高校に行きたいから。
でもそんな事、お母さん達には言えなかった。好きな人がいるって言うのが恥ずかしかった。
「何かやりたい事でもあるの?」
その質問にも黙ったままでいると
「何とか言いなさい!」
と、お母さんが大きな声を出した。
「沙和、付属に行くとなると、家から出る事になるんだぞ。」
それまでじっと私達の話を聞いていたお父さんが、口を開いた。
「やりたい事なら近くの高校でやればいいだろう?何も高校生のうちから家を出る必要はないんじゃないか?」
「そうよ。それに付属って私立校なのよ。学費とか寮費とか、色々お金がかかるの。再来年にはお兄ちゃんだって大学に行くし、沙和だって大学に行くかもしれないでしょ?申し訳ないけど、家はそこまで余裕はないの。だからどうしてもっていうんじゃないなら、近くの高校に行きなさい。それでもやっぱり付属に行きたいなら、ちゃんと理由を話しなさい。」
…駄目だもん、付属じゃなきゃ。付属じゃなきゃ高瀬君の近くに居られないもん。だけどそんな事、お母さん達に話したくない。
「沙和、聞いてるの?!」
お母さんの怒った様な声。
いつもの私ならすぐに謝るところだけれど、今はそんな気分になれなかった。
どうしてみんなで反対するの?私の気持ちは考えてくれないの?
お金の事なんて知らないよ!行きたいって言ってるんだから行かせてくれたっていいじゃん!!
「沙和?!」
「理由なんてどうでもいいじゃん!行きたいから行きたいって言ってるの!!」
お母さんが私の名前を呼ぶのとほぼ同時にそう言い放ち、私は部屋へ向かって全力で走った。
あれからお母さん達は、私の顔を見る度に志望校の話をしてきた。それが嫌で聞きたくなくて、私はなるべくみんなと顔を合わせないようにした。だから今日もギリギリまで部屋に籠もり、無言のまま急いで朝食を食べて、何も言わずに玄関から飛び出すように学校に向かった。
いつもより学校に着くのが遅かった所為か、教室へと続く廊下には大勢の生徒がいた。楽しそうに話しているみんなの中で、私だけが暗い気持ちで歩いている。
全てが嫌に思えた。お母さんもお父さんもお兄ちゃんも高瀬君も周りにいる人達もみんな。誰も私の気持ちを分かってくれない。
でも、明日香達なら分かってくれる筈だ。二人共好きな人と同じ学校に行きたいって考えを抱いているんだから。私の想いを理解してくれる親友なんだから。
そんな二人に心配をかけたくなくて、私は気分を変えようと思いきり顔を上げた。その瞬間前方に高瀬君の姿を見つけて、ぎゅうって胸が苦しくなって足を止めた。
高瀬君の志望校を聞いたあの時から、私は高瀬君と目を合わせることが出来なくなった。悲しくて苦しくて、そんな気持ちが嫌で、ずっと高瀬君を避けていた。
高瀬君は何も悪い事なんてしていない。嘘を吐いた訳でも私をいじめた訳でもない。ただ私が高瀬君の行動に勝手に傷ついてるだけ。そして、思い通りにいかないからと拗ねているだけ。
これではただの八つ当たりだ。
何となく気付いてはいるものの、どうしても高瀬君の顔を見ることが出来なかった。だから私は、また高瀬君から視線を逸らして歩き出した。
「ねえ、」
高瀬君とすれ違ったその瞬間、私はいきなり腕をぐっと掴まれた。
「何で無視するの?」
掴まれた衝撃で反射的に顔を上げると、そこにはいつも私が見ているのと同じ表情をした高瀬君がいた。
「俺、何か悪い事した?」
突然の事でどうしていいか分からなくて、何も言えないまま私は視線を下に落とした。そんな私を、高瀬君がじっと見据る。
言いたいことならいっぱいある。何で志望校のこと話してくれなかったの?とか、他の女の子と仲良くしないで、とか…。でもそれを言う権利は、きっと私には無い。
彼女でもないのに。
友達ですらないかもしれないのに…。
そう思うと何も言えなくて、私は黙ったまま俯いていた。
どれくらいそうしていたのか。
突然高瀬君が手を離した。そして一瞬私を睨む様に見てから、何も言わず背中を向けた。
「あ……。」
待って!
私は心の中でそう叫んで、高瀬君を見た。でもそれを声にすることは出来なかった。
だって、引き止めたとしても何を言ったらいいの?分からないよ…。
悩んでいるうちに、高瀬君は私からどんどん離れて行く。まるで私を突き放すみたいに。
――もしかして、私、嫌われた……?
ずっと黙っていた私が面倒くさくなったのかもしれない。もうどうでもいいと思われてしまったかもしれない。
私は慌てて高瀬君の名前を呼ぼうと口を開いた。けれど何故か声が出なくて、代わりに大粒の涙が溢れ出した。
恋をするって、凄く素敵なことだと思ってた。いつも楽しくて幸せで心が温かくなって。
でも今の私の心は真っ暗で、そしてきっと凄く醜くい。
…悲しいよ。
胸が、苦しいよ。
こんなことなら、恋なんてしなければ良かった……。