曇り
なんだか嫌な夢を見て目を覚ました私は、枕元にある時計を手に取った。時間はまだ五時を回ったところ。もう一度寝ようかと目を瞑りかけたけどそんな気にもなれず、布団から出てリビングに向かった。
ここ最近、こんな風に良く眠れない日が続いていた。――高瀬君が付属に行くと聞いた、あの日から。
いつもは仕方なく部屋でボーッと時間を潰して、決まった時間に学校へと向かうのだけれど、今日はいつもより早く登校することにした。
人の疎らな廊下を通り、職員室へと向かう。担任の先生を見つけて
「先生。」
と声をかけると、先生は授業に使う教材らしきものから目を離して
「おう、山口か。おはよう。どうした?」
と、私に笑いかけた。
先生の笑顔に応えるように私も笑いたかったけど、でも、そんな気分にはどうしてもなれなくて、俯いたまま
「おはようございます。」
と挨拶だけ返し、それから
「あの…進路調査の用紙無くしちゃったので、もう一枚下さい。」
と告げた。
本当は無くしたんじゃない。あの用紙は、教室の机の中にくしゃくしゃになって入っている。それは分かっているんだけど、無くしたことにしたかった。だってそんな状態の紙を提出する訳にはいかないし、それに、何でそんなにくしゃくしゃなのか聞かれても、答えることが出来ないから…。
先生は仕方なさそうに引き出しを開けて、一枚の用紙を手渡した。
「今日中に出せよ。」
その言葉に頷いて職員室を後にすると、私は教室ではなく図書室へと向かった。
窓際の席に座り、さっき先生から貰った用紙を机に広げる。『山口沙和』と名前だけ記入したところで手が止まってしまい、私はため息をつきながら顔を上げた。
窓の外では野球部の部員らしき男子が数人、ジャージを着て校庭を走ったり、キャッチボールしたりしている。私は頬杖をついてそれを見つめた。
ここでこうして校庭を見るのは、放課後野球部の練習を見ていた春以来だ。最初は今日みたいに一人でこの席に座っていたけれど、そのうち明日香や瑞穂も一緒になって…。楽しかったな。
ここから見える野球部はちょっと遠いけど、でも、すぐに高瀬君を見つけることが出来た。誰よりも一生懸命で、誰よりも格好いい彼の姿を。
きっと高瀬君も、こんな風に朝も練習してたんだろうな。野球、本当に好きだもんね。
だから、付属を受験することにしたんだ。
あの頃は、高瀬君が付属に行くなんて思いもしなかった。一緒に東高に行って、そしてまた高瀬君が野球をしている姿を、近くで見られるんだって信じてた。
でもそれは、違う高校に行ったら、絶対に叶わないんだ――。
疎らだった生徒が段々増えてきた。静かだった図書室にも、廊下からの楽しそうな声が聞こえて来る。
明日香達、もう来たかな…。
結局書けなかった進路調査の用紙を鞄にしまい、私はゆっくりと立ち上がって教室へ向かった。
休み時間。
トイレに行くという瑞穂に付き合って、私達は廊下に出た。賑わう人達の間を他愛ない話をしながら歩いていると、前方の人混みの中に高瀬君の姿を見つけた。波打つ鼓動を感じながら、私は目を伏せた。
こうして高瀬君と偶然会うことも、前はあんなに嬉しかったのに、今は少し辛い。顔を見ると苦しくて、泣きそうな気持ちになる。だからなるべく会いたくないんだけど、でもそれに反して、顔を見たい話しかけてほしいって衝動も湧いてくる。
伏せていた目を開けて窺うように高瀬君を見たその瞬間、私はそうしてしまったことを凄く後悔した。
高瀬君が、女の子と話していた。私には見せたことのない表情で。
こんな所見たくなかった。高瀬君が他の女の子と仲良くしてる所なんて…!
高瀬君と話してるあの子が、アユミちゃん…?私には言ってくれなかった志望校の話も、あの子にはしてるの?
それはそうだよね、同じ高校に行くんだから…。でも、そんなのずるい。仕方のないことだって分かっているけど、そんなの嫌!
何であの子には言って、私には言ってくれないの?何であの子とは話して、私には話しかけてくれないの?
お願い…。他の女の子と仲良くしないで!
我が儘で醜い気持ちで、心がいっぱいになる。
こんなの嫌だよ。自分のことも高瀬君のことも、嫌いになりそうだよ…。
「沙和、あの二人、別に付き合っている訳じゃないみたいだよ。」
俯く私の顔を覗き込んで、明日香が言った。きっとまた田中君から聞いてくれたんだろう。
少しだけほっとしたけど、でも嫌な気持ちは変わらなかった。そんなのどうでもいいとも思った。付き合っていてもいなくても、私よりも他の子の方が高瀬君と仲がいいっていう事実は変わらないから。
何で、高瀬君と一番仲がいい女の子は、私じゃないの?
どうすれば一番になれるの?
やっぱり、近くにいないとダメなの……?
放課後、明日香達には先に帰ってもらって、私は一人で職員室に向かった。やっと書くことの出来た進路調査の用紙を出す為に。
本当にこれでいいのだろうか。自分でもまだ分からない。
でも、どうしても諦めたくはなかった。ここで終わりになんてしたくなかった。
その気持ちだけで選んだ、全てを未来に委ねただけの考えなしの答え。
今の私は自分の気持ちのままに突っ走ってしまっていて、自分の出した答えがどんなものであるのか気付けないでいた。