理由
教室に戻ると、瑞穂はまだ自分の席に座っていた。私達が教室から出てもそうしていたなんて、まるで顔を合わせないようにしているみたいだ。
明日香はまだ渋っていたけど、私はその手を無理矢理引っ張り、躊躇いながらも、席に座ったままの瑞穂に声を掛けた。
私の声を聞いて、瑞穂は一瞬肩を震わせた。けれどその後私の声など気付かなかったように帰り仕度を始めた。
私達の事、無視するつもりかもしれない。私は瑞穂の席の前まで行って、もう一度
「瑞穂。」
と声を掛けた。
「…何。」
瑞穂が私達を見ないまま、低い声で答える。嫌そうな返事。私は戸惑ったけれど、それに負けないように大きく息を吸ってから
「一緒に帰ろう。」
と言った。
瑞穂が驚いた様に顔を上げる。でもすぐに視線を逸らした。
「…一人で帰るから。」
「だから言ったじゃん。瑞穂なんか放っておけばいいよ。」
背後から明日香の声。私は明日香に顔を向け、それから再び瑞穂を見た。瑞穂は相変わらず私達を見ようとはしていなくて、もう済んでいるはずの帰り仕度をする振りをしている。明日香もまた瑞穂を見ようとはせず、早くその場から離れたそうにしていた。
何でこんな事になってしまったんだろう…。私達いつもあんなに仲がいいのに。瑞穂があんな事言ったのには何か理由があるはずだと瑞穂に話を聞こうと思ったけど、瑞穂は話すどころか私達を避けようとしている。明日香もそんな瑞穂を無視して、帰りたそうにしてる。…もしこの状態のまま夏休みに入ってしまったら。そしてそのまま仲直りするきっかけを失ってしまったら、そしたらどうなるの?
「明日香待ってよ。」
私は明日香に声をかけて、それから瑞穂に視線を移した。そして
「瑞穂も一緒に帰ろうよ。」
と言ったけど、瑞穂はやはり返事をしなかった。
「沙和、もういいじゃん!帰ろう。」
明日香がさっき以上に強く私を引っ張ったので、私はよろける様に瑞穂から数歩離れた。
「自分が悪いのに無視するなんて、凄い嫌な感じ。」
続けて言った明日香の声は、きっと瑞穂にも聞こえただろう。なのに瑞穂は何も言わず、視線を向けることもしない。そんな二人の様子が悲しくて私は
「ちょっと待ってよ!」
と、大きな声を上げた。
私の声に驚いたかのように、明日香が私から手を離し、瑞穂も一瞬だったけど私を見た。
私はそんな二人に
「ねえ、こんな…喧嘩したままでいいの?」
と尋ねた。その問いに二人は答えない。黙ったまま私から視線を逸らしている。私は言葉を続けた。
「私達いつも三人でいたのに…喧嘩なんてしたくないよ!もしこのまま仲直りしなかったらどうするの?そんなの嫌だよ。…さっき瑞穂が言ったみたいに、受験まで後半年位しかなくて、それが終わったら、私達嫌でも学校離れちゃうのに…!今だって…それに学校離れたって、ずっと友達でいたいよ…!」
話しているうちに、私の目から涙が溢れてきた。明日香がそれに気付いて慌てた様な顔をして、そして不貞腐れたような声で
「…瑞穂が悪いんだよ。」
と言った。
「瑞穂が私達を馬鹿にするからいけないんだよ。沙和が…何か理由があるからだって言うから戻って来たけど、瑞穂何も言わないじゃん。私達の事無視したままで。凄いムカつく。」
私は泣き顔のまま明日香を見つめた。明日香は不機嫌そうな顔をしていて、でも私の顔をチラッと見ると、仕方なさそうに
「でも…」
と言葉を続けた。
「瑞穂がちゃんと謝って、それで、何であんな事言ったのか話してくれるなら、許してあげてもいいよ…。」
明日香の言葉を聞いて、私は涙目のまま瑞穂を見た。瑞穂は何もせず、俯いたまま席に座っている。
「瑞穂。」
瑞穂は何も言わない。
「瑞穂…!」
さっきより大きな声で、もう一度瑞穂の名前を呼ぶ。それでも瑞穂は俯いたまま黙っていた。でもしばらくしてから
「…ごめん。」
と、呟くように言った。
それを聞いて私はひとまず安心して、涙を拭った。
「それで、何であんな事言った訳?」
明日香が苛ついた声のままで瑞穂に尋ねた。その問いかけに瑞穂はまた無言になったけど
「理由話さないなら許せない。」
と明日香が言うと
「…テストの点悪くて…イライラして…八つ当たりした。」
と、言いずらそうに告げた。
「そんなこと?」
明日香が呆れたような声を上げる。
「悪いって言っても、どうせ私達よりはいいんでしょ?」
「それは…そうだけど。」
こんな時でもそれを否定しないなんて瑞穂らしい。明日香と私は顔を見合せて苦笑した。
「そんなに焦らなくてもまだ受験まで半年もあるんだし、瑞穂の成績なら一高受かるって。」
「…約束したの。」
「いい点取るって?まあでもさ、今回悪くても次のテスト頑張れば、先生も親も何も言わないでしょ。」
明日香の言葉を聞いて、瑞穂が首を横に振った。
「違うの。」
「?違うって、何が?」
不思議に思いながら瑞穂を見ると、瑞穂は何故かほんのりと顔を赤くした。
「ねえ瑞穂?何が違うの?」
明日香が返事を急かす様に再び瑞穂に尋ねると、瑞穂は言いずらそうに更に顔を俯けて、それからボソッと話し始めた。
「先輩と…約束したの。」
「誰?先輩って?」
私の問いかけに瑞穂が答えないので、代わりに明日香を見ると、明日香も分からないというように首を振った。仕方なく二人で瑞穂の答えを待つと、しばらくしてから瑞穂が言った。
「塾の先輩で、今年一高に受かった人。その人と約束したの…。私も絶対一高合格するって。」
「それって、男?女?」
私の後ろにいた明日香が瑞穂に近づいて、そして興味津々というように机に手を置いて身を乗り出した。瑞穂は顔を赤くしている。
「男の…先輩。」
「…付き合ってるの?」
「付き合ってる訳じゃないよ。…たまに電話したり、会ったりするけど…。」
慌てて首を振る瑞穂に、
「でも瑞穂は、その先輩が好きなんでしょ。」
と明日香が言った。
「そうなんでしょ?」
明日香の二度目の問いかけに、瑞穂は俯いたまま、うん、と頷いた。
「それにしてもずるいよね。私達の事は聞くくせに、自分の事は言わないんだから。」
ちょっと膨れたように話す明日香の隣を、瑞穂が顔を赤くしながら歩く。その瑞穂の横を、私は嬉しい気持ちで歩いた。
「ねえ、その先輩ってどんな人なの?」
私の言葉に、
「やっぱり高校生って大人?」
と、明日香が便乗した。
「大人…かは分からないけど、クラスの男子とはちょっと違うかも。」
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに話す瑞穂を見て、明日香が
「いいなあ。」
とため息をついた。
「いいな、年上の人。何か色々教えてくれそうじゃん?」
「色々って?」
その意味が分からなくて、私は明日香の顔を覗き込んだ。瑞穂も同じ様に思っているらしく、不思議そうに明日香を見る。すると明日香は私達に顔を近付けて
「だから、」
と言って、こそこそっと“色々”の意味を囁いた。
「何言ってるの?!」
その意味を聞いた瑞穂が真っ赤になって大声を出す。
「でも瑞穂だって、考えたことあるでしょ?相手は高校生なんだから。」
いたずらっぽく笑う明日香を見て、瑞穂はもごもごと口籠もった。
「二人で会ったりしてるんでしょ?…もしかして、もう教わってたり…する?」
「する訳ないでしょ!まだ付き合ってないんだから!」
照れながら大きな声を出す瑞穂を見て、明日香が笑う。二人のやり取りを聞いていた私も同じ様に笑ったけど、ふと気になる事を思い出して考え込んだ。そういえばこの話、前にも何処かでしたような…。
「あ…!」
それがいつだったかを思い出して、私は思わず大きな声を上げた。明日香と瑞穂が驚いた様に私を見る。そんな二人の様子はお構い無しに、私は瑞穂を見た。
「だから瑞穂、あの時、お兄ちゃんの事聞いたんだ!」
「何?お兄ちゃんのことって?」
不思議そうに明日香が尋ねる。
「前にね、瑞穂が聞いたの。お兄ちゃんて高一だったよねって。それでその…そういう経験ってもうしてるのって。あれって先輩の事気にして、だったんだあ。」
「やっぱり考えたことあるんじゃん。」
からかう様な目付きで明日香が瑞穂を見た。すると瑞穂は、真っ赤な顔のまま怒ったように背を向け、足早に歩き始めた。
「瑞穂?怒ったの?」
慌ててそれを追いかけると
「早くしないと塾に遅れるでしょ!」
と、私達を見ずに瑞穂が言った。
「照れてるんだよ。」
隣で明日香が笑いながら、私に耳打ちする。確かに後ろから見ても、瑞穂の耳が赤くなっているのが分かった。顔なんてもっと真っ赤なんだろうな。
そんな瑞穂が可愛くて、私達は笑いながら瑞穂を追いかけた。