絆
それから三日おきくらいのペースで、私は図書室に通った。毎日通ったら怪しまれてしまうかもしれないけど、その位だったら、実際は読んでもいない借りてきた本を、読み終わったと言い訳できるから。そして一人で図書室の窓際の席に座り、頬杖をついて校庭を見つめる。
ここに来れば高瀬君が見れて、嬉しい気持ちでいっぱいになった。でもそれと比例するように、胸の中がまるで灰色の雲に覆われるかのような、そんな重い感覚が襲ってきた。
何でそんなことになっているのか、その理由は分かっている。それは、明日香と瑞穂に嘘をついているという罪悪感のせいだ。分かっているのに解決出来ずにいた。だって解決するには、この“想い”を言うしかないから。言ってしまったら忘れなければならなくなるかもしれない“想い”を。
でも私は、忘れたくなかった。
いっそ明日香達のことなんか気にしなければいい。そう考えたこともあったけど、そんなことも出来ない。だって、明日香も瑞穂も大事だから。高瀬君を知るずっと前から仲のいい、本当に本当に大切な友達。そんな友達を気にしないなんてこと、出来るはずがない。
じゃあ、その友達を騙している、今の私は何?それは友達に対してひどい事をしてるって言わないの?
――やっぱり、本当の事を言うべきだ。
でも、言ったらどうなるの?やっぱり反対される?そしたら…私は高瀬君を忘れられる?
怖かった。
怖かったけど、これ以上友達を騙すことはしてはいけないと思った。
もし反対されたら、それはその時考えよう。
だから今は、もしかしたらもう見られなくなってしまうかもしれない高瀬君の姿を見ていよう。
心に切ない想いを抱えながら、私はひたすら高瀬君の姿を目で追った。
夢中になって高瀬君を見た。周りの声も聞こえない程に。だから私は、私に近付いて来る人影に気付けなかった。
「野球部、見てるの?」
突然声を掛けられ、私はビクッと肩を震わせた。
その声を、私は知っている。いや、知っているというより、むしろ聞き慣れた声だった。
恐る恐る振り向くと、私に声を掛けたその彼女は、私ではなく窓の外をじっと見ていた。
私は何も言えず、ただ彼女の姿を見つめた。あまりに突然のことに動揺していた。でもそのままずっと黙っている訳にもいかないと、やっとの思いで彼女の名前を口にした。
「…明日香。」
擦れた声で私が名前を呼ぶのを聞いて、彼女はゆっくりと顔を私に向けた。そして無言のまま私を見下ろし、暫くしてから口を開いた。
「高瀬君のこと、見てたんだよね。…さっき千穂ちゃんが言ってたよ。沙和が、三組の人が好きだって言ってたって。」
どうしよう…!
私が言うより先に、私の気持ちが明日香に伝わってしまった。
「ちょっと来て。」
明日香は私を立ち上がらせると、私の手を引っ張って廊下に連れ出した。そして人目につかないような場所で立ち止まると
「何で他の子には言って、私達には言ってくれないの?」
と、私を問い質し始めた。
「…ごめん。」
そうとしか言えなかった。だって、明日香の怒りはもっともだから。私だって同じ立場だったら、絶対嫌だと思う。
「ごめんとかじゃなくて、どうして言わなかったか聞いているの。」
明日香が再び疑問を投げ掛ける。私はぎゅっと唇を噛んで俯いた。
「沙和?何か言いなよ。」
明日香の怒った声に、私は足を震わせながら言い訳を始めた。
「…千穂ちゃんには、修学旅行の時に聞かれて…。でもそれまでは自分でも良く分かってなくて…、で、話してるうちに、そうなのかもって思って、それで、みんなに“絶対好きなんだよ”って言われて、それで…。」
「それで?何で私と瑞穂には言わなかったの?」
「それは…。」
何て言ったらいいか分からず黙り込んだ私を、明日香がじっと睨む。
私はもう一度唇を噛んで、意を決して明日香を見た。
「言えなかったんだもん!明日香に嫌がられたらどうしようって思って、怖くて…。」
「は?何で私が嫌がるの?」
私の言葉を聞いて、明日香が不思議そうな顔をした。それを見た私は
「…嫌じゃないの?」
と、逆に明日香に聞き返していた。
「何で嫌なんて思わなきゃならないの?そんな訳ないじゃん。」
「だって高瀬君、田中君の友達だよ?」
あ…っ!
私は自分が発してしまった言葉に気付き、はっと息を飲んだ。でも、今更後悔しても遅かった。
「…それって、私のせいって事?」
明日香が低い声を出した。
「私が、田中と別れるって言ったから、その田中の友達の高瀬君を好きだって言えなかったの?」
「違う!そうじゃない!」
私は慌てて大きな声を上げた。でも
「私が田中と別れたら、田中の友達なんかと付き合うなって、私が言うと思ったの?」
と、明日香は怒っているんだけど悲しそうな顔をして言葉を続けた。
明日香の言う通りの事を、確かに私は考えていた。でも言えなかった理由はそれだけじゃなかった。
――明日香を悲しませたくない。そう思ったから言えなかった。なのに今、私は明日香を傷つけた。明日香の表情が、それを物語っていた。
「ごめん、明日香…。」
謝ることしか思いつかなくて、私はそれを口にした。そしてそれと同時に、何故か涙が溢れてきた。
何で泣いてるの…!?
私は自分のこの状態を、理解することが出来なかった。
今私は、明日香を傷つけた。その私が泣くなんて…そんなのずるいよ…!
私は涙を止めようと、手の甲で目を押さえた。でも涙は中々止まらなかった。
「明日香、ごめんね…!」
私は、自分のずるさを責めながら、明日香に対する謝罪の言葉を何度も繰り返した。
「もういいよ…。」
泣きながら謝っていた私を黙って見ていた明日香が、ため息混じりに言葉を発した。私はその声に反応し、ピクッと体を震わせた。
“もういい”とは、どんな意味合いなんだろう。拒絶の言葉なのか…それとも許しなのか…。それが判断出来なくて、私は謝罪の言葉も泣くのも抑えて、緊張しながら明日香の次の言葉を待った。でも次の言葉が中々来なかったので、顔を上げ恐る恐る明日香を見た。
そこにはさっきまでの怖い目をした明日香はいなかった。彼女は、ただ呆れたように私を見て、そして
「何か、もうどうでも良くなっちゃった。…だって沙和、しなくてもいい心配してるんだもん。」
と、言った。
明日香の言葉の真意が分からなくて、私は明日香を見つめた。すると明日香は真面目な顔になり、私を真っすぐに見据えた。
「ねえ沙和、田中と私がどうなったって、沙和の…高瀬君に対する気持ちは変わらないでしょ?そんなの私にだって分かるよ。私達のことなんて、関係ないじゃん。私達がどうなったって、私は沙和の気持ちを否定なんてしないよ。むしろ応援するよ。」
それを聞いて、止まっていた涙がまた溢れ出した。でもその涙は、明らかにさっきまでのものとは違っていた。
明日香の言葉が嬉しくて、そして自分のしたことが申し訳なくて…。
「でもさ、ちゃんと聞かせてよ。」
と、明日香は言葉を続けた。
「高瀬君のこと、どう思ってるの?」
「…好き、だと思う。」
私は涙を拭いながら明日香にそう言った。
「“思う”じゃないでしょ?」
明日香が再び私に言葉を求めた。
私は自分の気持ちを、初めてはっきりと人に告げることに気恥ずかしさを感じたけど、明日香にはちゃんと言わなければいけないと思い素直に頷いた。そして
「私、高瀬君のことが好き。」
と、真っすぐに明日香を見て、告げた。
「うん、わかった。」
それを聞いて、明日香が嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり私の言った通りだったでしょ。ちゃんと瑞穂にも言うんだよ。」
そう言って明日香が笑う。その隣に、穏やかな気持ちで歩いている私がいた。まだ少し罪悪感はあるものの、やっと本当の事が言えたお陰で、さっきまで心を覆っていた重い雲はなくなっていた。
「そうだ沙和、明日から私も図書室付き合うから。」
思いがけない彼女の言葉。私は大きく目を見開いた。
「…いいの?」
私が図書室に通っているのは、高瀬君を見る為。その高瀬君がいる野球部には、田中君もいるのに…。
「うん。今まで沙和に付き合ってもらってたんだし、今度は私が付き合うよ。…ただ私は沙和と違って、図書室に本を読みに行くんだからね。」
多分明日香の心にも、晴れない雲が少なからずあると思う。それなのに、私の為に一緒に図書室に行ってくれるなんて…。
私はまた明日香に“ごめんね”と言いそうになったけど、それをぐっと飲み込んで、代わりに
「ありがとう。」
と、心からの感謝の言葉を告げた。