第五話 逢
1
記憶が曖昧になっていく。
セカイが僕と出会ってから一か月。
どうやら、セカイの頭は本人も知らない内に、『時限爆弾』とも呼べるようなものが詰っていたらしい。
放っておけば、つまり何もしなければそのまま次第に記憶が――本人にとって大切で無い物から――まるで玉ねぎの皮を一枚一枚ゆっくり剥がしていくように、その記憶の構造は知るよしも無いが、だんだん削り取っていくらしかった。
初めは本当に些細な事から、セカイが気にもしない所から忘れていった。
トイレの水を流すだとか、電気を消すだとか――そういった誰でもうっかりやってしまうような事から、次第に、そう夕闇が次第に迫るのに似るように、セカイは僕達にとっても大切であると思われる事、そんな積み重ねをも忘れていった。
僕と一緒に食べた食事。一緒に見た映画、一緒に泣いた漫画、オチを僕が言って激怒させた昔の時代劇。セカイが僕と作りあげてきた、一ヶ月という、人から見れば物凄まじく短い、一瞬と言っても過言ではないような時間が、僕達にとって濃密過ぎるような時間と記憶が、徐々に、作った砂山に静かに息を吹きかけていくように、削り取られていった。
セカイがいなくなる。僕は、しきりに元気に見せている彼女にどう接していいのか解らず、ただ、手をこまねいてそれを見るしかなかった。
夜中、僕の父の部屋、つまりセカイの部屋で、彼女が声を押し殺し泣いているのを聴いた時、そのドアの前でただ拳を握りしめるしかなかった。
時間だけが過ぎて行く――僕と、セカイの世界が、消えて行く。僕だけの感傷では終わらない、セカイの崩壊と同義の事が、目の前で起こっていく。セカイは笑う。僕も笑う。
笑うくらいしか出来ない事に、僕らはそれぞれ部屋で泣く。何をしているのだろう。僕は一体、どうして生きているんだろう。一人の、たった一人の大切な人の想い出も残せない僕に、生きている意味なんてあるのか、ぐるぐるぐるぐる、考えが煮詰まっては答えは出ない。
セカイは、だんだん笑わなくなった。僕は以前にも増してふざけるようになった。
義理でセカイが笑ってるだけで良かった。僕の勝手なエゴでもいい。僕はセカイに、ただ、笑って欲しかった。彼女が笑うあのソプラノが聴きたい。聴く者をほっとさせるような温かな、彼女の体温のようなあの温く心地良い声が、聴きたかった。
僕は何とかその記憶が留まるような方法を、二人で探した。授業もさぼりがちになり、時々暮木や狭間さんが心配してクラスで話しかけてくれたが、それどころでは無い、と言うのが正直な気持ちだった。
時間が無い。それだけは確かだ。セカイは確実に僕を忘れていく。同じことを何度もするようになり、怒りっぽくなり、僕に当たり散らす事も増えた。僕はその度、泣いて暴れる彼女を抱きしめ、気が静まると打って変わって悲しげに謝り続けるセカイを、僕は笑ってなだめた。
僕達はそれから、セックスをよくするようになった。セカイがしきりにねだってやりたがるのに、僕は心を消して付き合った。彼女は五月蠅いくらい喘いだ。僕は彼女の全てを感じようとただ抱きしめ続けた。何か意味があると信じて、僕は彼女が、少しでも僕の残滓が残ればいいと考えた。少しでも僕が染み付けばいいと。僕の皮膚からセカイの皮膚へと、何かが沁みとおっていけばいいと思った。
セカイは終わった後、しきりに、自分の腹を撫でた。僕がいた所を、しきりに、しつこいくらい、撫でた。僕はそれを見て、「妊娠だけは無いぞ」とからかう。
「いくじなしだからねぇ、ウインドは」
と悪戯っぽく笑う。僕はその手に手を重ね一緒に撫でた。
「ごめんな」
そう言って、一緒に撫でる。僕は、いくじなしでも何でもない、只のカスだ。そう思った。セカイは、優しそうに僕をそのサングラスを揺らし笑う。
僕はカスだ。
誰が何と言おうと、例えセカイがそれを否定しても、僕はそう思い続けた。
僕はカスだ。
セカイは、その透き通るような肌を僕に押し付け、未来を語った。
小さく、くすぐるように、淡々と、降りしきる雨に似た、声で。
雨は次第に強くなっていった。神鎮町では、この不可思議な雨雲が注目され始めていた。
例の、天候を操る事が出来るという少年と、彼を調査するチームが、この空を晴らすように頼まれ、何度も実験と同義の天候操作をしようとした。が、どうも厚い雨雲が晴れる事は無く、セカイは皮肉っぽく「本家に勝っちゃったね」と言った。冗談でも笑えない、と僕は思った。彼が後々のセカイを生む事になるのだから、そう言う風に考える事は間違ってはいないのだろうが。
その後、彼の能力が疑問視され、チームは解散した。一応、未来はこれで変わるのかもしれないが、それは僕にはどうにも言えない。
そんな風に日々を過ごし、セカイがふと僕に漏らした。
自分がやって来た機械を見せるよ、と。どうやって来たのか見せるよと。
意味は解らなかったが、僕はとりあえず頷き、セカイのやってきた機械の所へと行く事にした。何の目的があるかは解らないが、セカイが何かを考えているのだけは解った。それくらいは僕とセカイに、繋がりが出来ていたということなのだと思う。
雨が降り続き、空はまるで泣いているようも思える中、僕とセカイは二人で彼女が来たという場所まで行く事になる。
――三ヶ月前、大きな地震が起きたとされた、あの山に。
2
「私、ここに来るの久しぶりだよー」
「随分とまた深い所に落ちて来たもんだなぁ、おい」
「運転の仕方をちょっと知ってただけだからね、しかもこれ見たのって二、三回だし。自分でもよく起動できたもんだよ。これが作られたのと同じ施設にいたから出来た事でさ、管理者の目を盗んで説明書読み込んだりして。中々デンジャーだったねー」
「さらっと怖いこと言うなお前は」
僕達は今、セカイが乗ってきたという乗り物、そういわゆる『タイムマシン』と僕達が呼んでいる物の前に立っていたのだった。
形状はあの喫茶店『ムーミン』でセカイがじっと見ていたSFの模型に、近いと言えば近い。
卵形の銀色。それを横に置き、ジェット機のように先端の方に透明ガラスのようなコクピットらしきものがある。所々焼けたのか焦げ付いた所があり、衝撃の強さを思い知らせた。タイムマシン、と聴いていたのでもっと機械的な感じがするのかと思ったら、意外と流麗なフォルムで、現代アートの様にも見えなくもない。まあ、僕に芸術を解する所が無いからなんとも言えないが。
「落ちた場所から少し移動させたから、まだ見つかってはいないと思うんだよね。事実、人が入ったような跡は無いしさ」
セカイが何故か楽しそうにそう言った。腕にはこんな時だというのにシャワーがすやすや寝ており、この子は大物になるな、とどうでもいい感想を持った。
「それにしても……間近で見ても信じられないな……本当に未来人なんだなお前……」
僕が感嘆を込めて言うと、
「いやあ、それほどでも」
と何故か照れて返してくるので、更に僕は呆れたのだった。
雨は昨日までの大降りから一転、霧のような小雨になっていた。セカイの内面が落ち着いているという事なので、少し安心する。何故セカイがそんなに落ち着いているのかは、解らないのだが。
僕はその卵形の機械の側面、ハッチのような溝がある所をなぞった。ひんやりとして冷たい。その感触に添って指を添わせていると、セカイが「何か動きがエロティックだよ」と笑って傍に寄ってきた。僕はセカイの何度見ても美しい裸体を思い出し少しは恥ずかしくなる。急に彼女の体温が身近に感じられ、何度体験しても慣れる事の無い欲望が渦巻くのが解る。
「こんなもんが五十年後には存在するなんてなぁ……僕の生きてる内に時間旅行ツアーでも開かれんじゃないか」
少し焦げ付いた所に指を這わせる。ざらりとした感触が指を伝い頭の信号に変わり、僕にその時の衝撃の強さを思い起こさせる。
セカイは、ただ黙って僕の隣にいる。シャワーが時折ぷすーと鼻から息をする音がして、少しおかしい。
彼女は僕の方を見ず、一言、
「ウインドは私の事、好き?」
と唐突に訊いてきた。
僕は即答まではいかない時間であったが、脊髄反射のように、
「からかってるなら怒るぞ」
と言って笑う。セカイはその答えがお気に召したようで、「そうであるか」とどこの貴族だと言わんばかりの作った声で言った。
僕はもう一度笑い、そしてセカイを見た。そのサングラス越しでも解る整った顔立ちが、この小雨降る山の中、湿った匂いと足の下の冷たい感覚で更にはっきり感じる。
セカイが、「もし私がまた忘れちゃったとしてもさ」とまた話を突然飛ばすように僕を見て、
「もう一回思い出させて。ね、ウインド、約束しよう?」
と何処か寂しそうに笑う。僕は数瞬俯きかけたが、すぐ見つめ返し、「当たり前だろ」と言いぎこちなく笑い返す。
「必ずお前に思い出させるよ。どんなことがあっても、絶対に」
セカイはくしゃりと歪んだ顔を僕から逸らし、僕にそのまましがみ付いた。
「記憶が消えてく恐怖も、知らないくせに」
責めるというよりも何処か訴えかけるようなその声に、僕は少し震えた身体を必死に止めようとした。それでも微かに続くその震えに、自分自身でも苛立つほどに情けなくなる。
消えるのが怖いのは、セカイなのに。
僕は努めて明るい口調で、「昨日食ったカレーパンを忘れるくらい僕にもあるよ」と茶化す。茶化すしか出来ないと言っていい。僕はただ僕と同じように震えるそのセカイの身体を両腕で離さないというように、ただ強く引き寄せた。
時間が止まってしまえばいいのに。
そんな、陳腐ともすでに呼べない様な言葉が頭の中で乱舞する。僕の無力さをあざ笑うかのように、確かにその時間は近づいていく。唐突にシューベルトの『魔王』が頭に流れた。クラシックに詳しいわけではないが、あの曲だけは何故か不気味でよく覚えていた。
そのメロディーが僕に流れた理由はともかく、その時に何か得体のしれない恐怖、一気に世界を浸食し、そのまま暗い闇の中に引きずり混んでいくような、そんな感覚が僕を襲う。
頭の中に流れていくその音が途切れると同時、セカイは僕から離れ、そのままゆっくりと地面に近づきシャワーを降ろす。「ちょっと待っててね」と言った後、セカイは地面を見つめ蹲りながら言った。「ねえウインド」そっと囁くように、甘えるように、言った。
「私を、見つけてね」
そのまま、僕に向けてセカイは何かスプレーのようなものをかけた。
意味が解らず、ただそれを受け、ぐらり、と世界をやけに曲がらせる。何だ、何なんだ、これ。「セ、カイ……」雨が、僕の真上で厚い雲から振り、それは渦巻き更に激しく集中的に降りしきる。
これは、まさか――
「お、前」
セカイは笑って、ただ僕を見た。そして、サングラスに手をかけ、ゆっくりと――外す。
「何してんだお前ェエエエッッッ!!!」
――絶叫、する。自分の喉がいきなり酷使された事に驚き、反動でひきつれる。
ただ、身体を動かした。ただ、動かそうとして、今のアイツに向かって飛び込んですぐにはその外したサングラスをかけようと思った。だが、動かない。身体は全く、指先一本すら自分の意志では動かなかった。
僕はその歪みかけた意識を、何度も地面に額を叩きつける事によって振り払う。頭を叩きつける、つける、つける!
額が小石で血にまみれ、しかも目も霞んで行く中、セカイが僕にその透き通った――透き通っているとしか言えない様な茶色い瞳で僕を見つめ、そっと、呟く。
「ねえウインド。私ってさ、今まで生きて来て、何でこんな風に勝手に産み出されて、施設に閉じ込められて、息も出来ない様な暮らしをずっとしなくちゃならないんだって、思ってた。逃げ出したかった。何処か遠く――ずっとずっと遠く――私の事なんか、誰も知らない所に、逃げたいって思ってた」
その間、ゆっくりと、雨が止んでいく。頭の上で厚く遮られていた日光、光が、まるで宗教画のように、僕の前に佇むセカイの真上に、一筋の、一本の線が、光が、差し込む。
幻想的な光景の中、僕達は向かい合っている。一人のひねくれ者と、一人の寂しがり屋が、言葉少なく、ただそこにいる。
僕はもう声を出すこともおっくうになっていたが、それでもまだ、絶対に視線だけは、この馬鹿から逸らすまいと唇を思いきり噛む。叫び出したいほどの痛みが皮膚を通じ神経を巡り、頭の中を痺れさせる。霞んでいく視界、滲んでいく風景、消えて行くセカイ。
セカイは、僕の見間違いでなければ、だんだんとその背を縮ませていくように見えた。逆に、逆にと後退が進んでいる。服がだんだんと余る様になり、表情も次第に幼い物に変わっていく。
心なしか高くなっているように思えるその声で、セカイは続けた。
「でもさ、この世界に来てから、私は君に、ウインドに会った。気難しくて、お節介で、口うるさくて、そして誰より優しい、――あなたに」
そのまま笑顔を作り、縮んだ身体を引きずり、何か僕の解らない言語らしきものを呟くと、先程僕がなぞった溝が光り、全く音を立てず内臓をさらけ出すように手前にして開いた。その中から、溢れんばかりの輝きが一瞬弾け、すぐに消える。
「私は、初めて自分がいなくなる事が怖くなった。誰かのことを忘れる事が、怖くなった。誰かの顔を、自分の、自分自身の目で見たい、そう、思った」
乗り込んで行く。ぶかぶかになった、その身体で。
「耐えられるわけないじゃない」
その僕がずっと見たかった、その美しい瞳で、僕に、言った。
「あなたを、忘れるなんて」
姿が見えなくなる。
声が、聞こえなくなる。
ハッチが、閉まっていく。その隙間に、シャワーが走り飛んで行く。
セカイはそれに気付かず、少し姿が見えないと思ったら、すぐに透明なコクピット部分に顔を出し、今や光で表面を水滴を弾いて眩しく輝く機体から、笑っていた。
そうだ、とでも言うかのように、そのガラスのような所にはあーっと息を吐きかけ、白くなった所に、指で文字を書く。わざわざ僕から見えるように鏡文字を低く、顔立ちも幼くなった身体を懸命に伸ばしながら、書く。
こう書いた。
『宇宙一美味しい食べものは、カレーパンである』
――笑った。セカイは自分の書いた文字に、腹を抱え笑った。大粒の涙を、まるで最後だと言わんばかりにぼろぼろ零して。
僕はもう何も見えない。彼女がどうなっているのか、目が滲んで霞んで、ただ叫ぼうと声を上げた。声にならず僕は泣く。ただ、泣く。
低く、唸り声のように銀色の機体が震え始める。振動で、身体に着いた泥を、邪魔だと言わんばかりに弾き飛ばす。僕の顔に容赦なくぶちまけ、汚す。口の中に泥が入り、苦く、湿った、そして冷たい砂利が舌に乗る。それを吐くようにまた口を開けて叫び、音にならない音を、吐く。
これがどこに行くのか僕は解らない。しかし、永遠にこれで僕とセカイの世界は終わる、という事だけは解る。解っていた。解りきっていた。
振動が激しくなっていく。その巨体を揺さぶる様に、ただ小刻みに、大きく、その身体を揺らしていく。僕の意識も刈り取って行く。
その揺れが光り輝く陽光の中、最後に鼓膜を破らんばかりの高音を発したかと思うと、光に混じり合うように、溶け、爆発するように衝撃を僕に叩きつけながら、消えた。
風圧で身体が浮かび、近くの木に強打し、後頭部を打ち付けた僕はそのまま深い闇の中に沈む。
意識がどんどん暗く、黒く、濃くなり消える。
セカイは消えた。
僕の心を無理矢理引き連れて。
――永遠に。
3
狐の嫁入りだった。
そう思った時にはぱらぱらと雫が落ちて来ていた。
今の僕の心境を如実に表していて、どうも気分が滅入る。
傘はもう癖でいつも持ち歩くようにしているので、心配は無い。それでも何故か傘を差すことが躊躇われた。苦笑とも、自嘲ともつかないような笑いを浮かべると、そのまま歩いていこうと思い、傘を縛り、外へ出る。
こんな時くらい、思い出してもいいだろう。雨と光の中で消えて行った、僕の一番大切な人くらい。ぱらぱらとしつこく振っている雨に微笑み、肩を濡らし歩いて行く。
校門を出ようとして、僕は小走りに駆けてくる少女に目を向ける。
彼女は運動があまり出来ない。いつも体育では足でまといになってしまっている感があるが、そんな所も愛嬌ではないかと今は思える。遅いスピードでやってくる彼女を待っている間、僕はこの一週間、中身が無い空白な、からっぽな自分に辟易していた。何にもする気が起きない。何をしても楽しくない。何を食べても味がしない。まるで砂を噛んでいるようで、不味くて戻したことすらある。
僕は今生きているんだろうか。それすら曖昧な状態で、朝起き、歯を磨き、髪形を整え、学校に行き、ほとんど何も考える事なく黒板にチョークが削れる音を聴く。何かを削り取られていった僕のように、それは白い粉を巻き散らしながら擦り減っていく。僕と同じだ、そう思いながら、ただ、黒板の文字を追う。網膜に映ったからと言って、それを記憶するかどうかは別の問題だ。僕の眼の前で、現国の教師が唾を飛ばしながら文学について熱っぽく語る。
その時、酷使され過ぎたチョークが真っ二つに折れ、それが僕にはスローモーションのように落ちていく欠片を見て、あれは僕だ、と思った。二つに隔たれた彼らは二度と元に戻る事がない。
それは必然であり、いくら半身を見つけようと思っても、もうそれは別の何かとして存在している。何であろうとも、そうなのだ、と僕は思った。
チョークが床に落ちる。声にかき消されたその小さな反抗の音が、何かを暗示するように。
――そこで今日の回想が終わり、僕の所に狭間快さんが来て、息を弾ませながら僕の方を見た。何かが僕の中で弾けたが、その濁流のような感情の波を僕が理解など出来るはずもなく、ただその場に違和感、もしくは既視感に似たそれを持て余した。
「降ってきちゃったねえ、これじゃあ濡れちゃうよ」
「濡れ、る事が目的なん、じゃない、の……?」
「そうだね、……うん、そうだった」
僕は狭間さんに向き直り、その厚い前髪に隠された芯の強さを思い出す。
狭間さんの言葉が、あの暮木夕の心を闇から引き留めたと言うのなら、狭間さんは僕が考えていた彼女よりもずっと高潔で、尊敬に値する人間だという事になる。彼女の唯一喋れる人間として少し優越感を持っていたのが恥ずかしい。彼女に助けなどいらなかったのだ。彼女は彼女のままでいい。そんな事を思う。
僕達の学校の指定である青地の生地の鞄を肩にかけ直すと、狭間さんの肩ひもの所につけられているキーホルダーに目が行った。ぼろぼろで、元々なんだったのかは解らない。だが、妙にそれが気になった。
僕の最近の態度がおかしい事に気付いていたらしい狭間さんは、僕に向かって、「ね、え誠一、くん」と小さな、しかしはっきりとした声で、僕に言ってきた。
「一緒に、帰ら、ない?」
僕は少し考えた後で、特に断る理由もないので従った。
狭間さんは時折スキップしながら僕の横で鼻歌を歌いながら上機嫌だ。
僕は言いようのないもやもやをどう処理すればいいのか悩み、そしてそれは自分自身で解決するしかないんだよな、と思い返した。
狭間さんはその黄色い派手な色の傘をくるくる回しており、僕は何だか堪らなくなって、その場に蹲りたい衝動に襲われた。ぎゅっ、と拳を握りしめ、その速くなった呼吸を何とか整えようと努力する。
そんな僕の内面の葛藤など知る由も無く、狭間さんは僕の方に回り込み、楽しそうに笑った。その顔が、何故か、どうしようもなく、僕の中の何かを刺激していく。
狭間さんが何かする度に、僕の中で何かが声を荒げ飛び出て行こうとする。それは、僕の表面からでは無く、もっと奥の方、もっと僕自身気付きもしない所からの声のような気がした。深く、深く、沈んでいる何か。それが殻を突き破って出て行こうとするかのように。
狭間さんが、僕に向かって言う。
「誠、一君は、奇跡って、信じる方?」
僕は何を言い出すのか少し、いやかなり苛立たしい気持ちでそれに「じてないね」と返す。狭間さんは僕に向き直り、雨が降る中、次第にその雲たちの中から光の筋が一本、二本と落ちて来て、その一本が狭間さんの周りを囲んだ。僕はそれが一週間前のあの出来事を思い出させ、さらに僕の心がささくれ立っていく。何か理由も無いのに逃げ出したい、そんな事すら思う。
「私、は……信じてるんだ……」
ふわり、と狭間さんが前髪を流しながら言う。それはまるで僕のよく知っていた少女のようで――馬鹿馬鹿しい。ある訳ないだろう、そんな事。
「私ってさ、……捨て子なの……」
そのいきなりの発言に僕は思わず立ち止まる。狭間さんも立ち止まり、僕を見た。
「森の中でね、十、五年前に、地震があったの、覚えてる……?」
僕の眼の前で、狭間さんは僕に向かって、柔く、優しい微笑みを、向けた。
「森の中で、爆発、した、クレーターみたい、な所に、『銀色の機械』が、あって、ね……その中にいたのが、赤ん坊の私、だったんだっ、て……たま、たま、そこにいたのが、今の、父さん母さん……で、二人は、子供、いなかった、から、引き取って、育てる事、に、して……で、今の私が、いるんだ……」
頭の中が真っ白になっていく。僕は、ただそれを白昼夢でも見ているんじゃないのか、という程現実感が無く、その場所に縛り付けられた。狭間さんはゆっくりと僕に近づき、僕に、その顔を見せた。
「誠、一君を、見た時、何でか知らないけど、私、ずっと待ってたみたいに、思った。私の、ずっと、心の中に住んで、た誰か、を、見つけたように、思った。変だと、自分でも、思う。でも、事実なの、それしか、私の中には、無かったの」
言葉の一つ一つが、僕の脳に染み込むように、流れ込むように、ぶちまけられるように、僕の中に一人の女性が浮かび上がってくる。それは、一体何なのか、言わなくても解る。彼女は、僕の一番大切だった、少女は、――
僕は知らず知らずの内に、その言葉が口に上ってしまっていた。口から流れ出たと言うのが一番しっくりくるような、そんな言葉が。どこかに行ってしまった迷子の猫を呼ぶときのように、僕の中に住んでいる、一番大切な人のために、僕は、目の前の少女に、語りかける。息を吸い、吐くと同時に、ゆっくりと。
「『宇宙一美味しい食べ物は、――カレーパンである』」
その時、雨が一瞬のうちにぴたりと止み、僕達の頭上では包丁で振り下ろしたかのような晴天が、厚い雲の隙間から一気に流れ込む。
僕達二人がいた所が円形に光が囲い、僕達をまぶしく照らす。
狭間さんは頭を押さえていた。苦しそうに、何かを思い出そうとでもしているように。じっと、その場に蹲り、荒い息を吐き続けている。僕は近くに寄り、背中を擦りながら『大丈夫か!』と連呼する。何も出来ない僕が、彼女のために出来る事と言ったらそれくらいだった。
その痛みに滲む顔を良く見ようと、前髪をかき上げ、僕達は初めて、その顔を見つめ合った。
「…………何だよ…………」
僕はもうどうしようもなく、涙が零れた。何だよ、何なんだよ。僕は、僕は最初から、ずっとずっと最初から、彼女を、見つけていたんじゃないか。
前髪を、その何のために伸ばしていたのかも定かではない前髪を上げたそこにいたのは――
「お前も、もっと解りやすくしろよ」
僕はただ、その顔を両手で包みながら、その瞳を、――透き通る美しい茶色の瞳を――見つめた。彼女の方も、次第に痛みが治まってきたのか、表情も穏やかになり、そして歪んだ状態から顔が元に戻ると、開口一番、こう言ってきた。
「カレーパン食べたい。……買って来てよ、ウインド」
泣いているのか笑っているのか解らない表情をし、僕は彼女に抱きついた。苦しげに呻く彼女の事など気にせず、全力で、壊れるくらい、抱いた。
「好きなだけ今日は、買ってやるよ」
だから。
「もうどこにも行くなよ〝セカイ〟……」
セカイは笑い、僕にこう言った。
「カレーパンくれるなら、考えてもいいかな?」
セカイ、セカイ、セカイ、セカイ―セカイ。
「約束したろ?」
鼻水を啜り、僕はセカイの肩を押し、よくその顔を見えるように、掻き上げた。
「絶対、見つけるって」
セカイは笑って、僕のおでこに軽くデコピンをする。
「遅いんだよ、――風のくせにさ」
「おかえり」と、僕は言った。
「ただいま」と、彼女は言った。
その時、年老いたあの猫が道路の脇から出て来て、セカイへ向かってきた。
僕達は一瞬でそれが彼女である事に気付き、同時に微笑む。
空から糸のような細い光が雲を割り世界を貫き、僕達の周囲を照らす。僕達はただ黙って、三人で固まり合い抱き合っていた。
笑いながら、僕達は空を見る。
セカイも僕も、今日も、ここで、生きている。
捨てたもんじゃない世界で、精一杯足掻き、精一杯に笑い、
そして僕達の世界を動かしている。
その時、セカイが思い出したように「しまった」と呟く。
顔を向けると彼女は困ったように笑った。
「時代劇録画するの、……忘れてた」
サラダが食べたい。――味付けの濃い、サラダが。
「……撮ってあるよ」と言って。
僕は、笑っていたのだった。
……抱きしめていった。