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第四話  哀

 


 1



 セカイの力の範囲外にあるのか、僕達が電車を降りた頃は空はからりと晴れ渡り、僕達の事を祝福してくれているかのように日が輝いていた。僕は伸びをし目を閉じる。やっと着いた。やれやれ疲れたな。

 後ろで僕と一緒に降りて来ていた二人に声をかける。

「やっと着いたねぇ、二人とも疲れてない? 大丈夫?」

 そう訊くと、ショルダーバックをかけた暮木夕は「意外と長かったからなぁ。でも、これも休日の醍醐味(だいごみ)ってやつじゃねえ?」とその人懐っこい顔で笑った。そのまた後ろにいるのがベージュのシャツとズボンを着た狭間さんがいて、「私、は、特に、長く感じな、かったかなぁ」と言ってぎこちなく笑った。意外な事に、服装はボーイッシュな感じの狭間さんである。まあ、その長い前髪のせいで微妙な感じになっているのだが。

()()へ行こ、う?」

 狭間さんが少し興奮した顔で言って来る。僕は何だかんだで嬉しそうな彼女を見て嬉しさが込み上げるのが解った。いい日になるといいな。出来るならこの二人が一緒になり、仲良くなってくれたら。そう思う僕自身、自分自身が変わったと認めざるを得ない。僕の中にセカイという異物が入った事により、僕に何らかの変化があった事は間違いない。その変化に戸惑う自分と、心地良く感じている両方があり、それは決して悪い事ではないのだということも同時に感じていた。

 僕達が電車から降りたここは遊園地だ。といっても、そんな大きな規模は無く、大きさは中くらいの施設であり、しかし、その割にアトラクションは豊富で、様々な企画も頻繁に立ち上げられており、中々楽しめる所と評判だった。

 正直、遊園地という所は僕にとって気分のいい所では無いのだが、二人を近づけさせるためにはこういう正攻法が効くだろうと思い、疲れを微塵も感じさせないような明るさで「じゃあさっそく行こうか、この風車(かざぐるま)ランドにさ」僕の一声で三人は並んで一緒に歩いて行く。いい日になるといい。そんな事を思いながら僕達は風車ランドの門へと向かうのだった。



 2



 天使役、というのは中々気苦労が多いものだ。

 何とか二人を一緒にすべく、あらん限りの手段と誠意を持って作戦を実行した。

 まず、二人が僕を挟んで歩こうとするので、さりげない感じで隣同士にしたり、ジェットコースターではもちろん二人が同じ座席になるように仕組む。中々成果はあった様で、ぎこちなかった二人も自然と話すようになっており、僕はその内一人行動でもいいかな、と思い始めたので自然に離れ、一人でぶらぶらすることにした。

 もちろん連絡は入れてあるが、二人にとって好都合だろう。上手くいくといいな、とは思ったが、後は天のみぞ知る、というやつなので上手くいってほしいものである。

 それなのに、僕は急に胸のあたりがムカムカしてきた。何だろう、この感情。僕にとって二人は大事な友人だ。そしてこうやって彼らの応援を積極的に行っている。だが、僕の中で納得がいっていない部分がある。謎だ。本当に謎である。

 ちらり、とセカイの顔が浮かぶ。あの、綺麗な、綺麗としか言いようのない裸体を思い浮かべ、自分を酷く責める。何か、あの純粋な彼女を裏切ってしまったような感情を抱いたことによる、自分の醜さを感じた。

 空を見上げて、少し立ち止まる。周りは騒がしく今日という日を精一杯楽しもうとしており、叫び声や笑い声、渦を巻いて空で拡散しているかのような空気だった。それら全てが僕にとって苛立ちを助長する。

 サングラスかけた女性が通り過ぎる。

 一瞬目を奪われ、そして人違いであることがわかると、また視線を戻す。

 セカイは、今どんな気持ちでここで生きているのだろう。

 セカイの声、顔、身体、全てが僕を浸食していく。一片の濁りもない、透明な液体で、僕を満たしている。彼女の笑い声や泣き顔が、脳裏にクローズアップされては消えて行く。

 狭間さんと暮木。二人の間に糸は出来るだろうか。強く結びつけるような、赤い糸が。

 僕は、セカイにお土産を買っていくことにした。

 めぼしい物があまり無かったが、売店に行くと一つ、ディフォルメされた猫がサングラスをかけているキーホルダーが置いてあった。それを見た時、セカイにプレゼントするならこれしかない、と思った。ちょっと小憎たらしい表情に、真っ白い身体。手には銃を持っている事から何かのアニメのキャラクターなのだという事は解る。何のアニメかは知らないが。

 レジに行ってその人形を持っていき、払う。意外と高かったが、これは僕の物では無いのだから気にしない。とにかく、それを払い終わると僕の財布がもっと札を食べさせろ! と言ってきたが、無視。僕だって辛いんだから我慢しろ。

 そうして買った後、僕は二人に合流するかどうか考えた。

 もう夕日が地平線に沈もうとしている所で、僕は頃合いかな、と思い二人にメールで連絡し、ゲートの所で落ち合う事にした。

 歩いていると皆そろそろ帰る時刻なのか家族連れが仲良く手を繋ぎながら歩いていくのを見た。それを見てぎゅっと胸が痛くなり、思い出さなくてもいい思い出が頭をよぎる。少し頭を振り、それを追い出した。僕は、もう一人じゃない。そう言い聞かせ、不思議と心の毒みたいなものがすっと消えていくのが解る。

 プレゼントの中身が僕に何かを伝える。

 家に帰ろう。そう思い、足早にゲートの方へと向かったのだった。



 3



 おかしい。

 それが、僕が二人、――狭間さんと暮木を見た印象だった。

 僕が今いるのは風車ランドの出口ゲート。その右端。

 夕暮れが迫り、もう太陽が疲れたと言って休みに入る前。彼らを見た僕は一瞬で何かあったのだと悟った。

 二人は夕日をバックにして、僕の方へと笑っていた。あの狭間さんでさえ少しだけ口角を上げ僕を見ていた。そしてそれは暮木も同じで、何処か疲れたような顔でありながら、笑顔を作り僕を見ていた。

 だが、それはなんというか酷く不器用に作られた彫刻の様で、全く僕に対し喜びの感情を連れてはこなかった。

 確信はしたものの、僕はそれ以上追及する事など出来ずに、ただ笑顔で「じゃあ帰ろっか」と言って彼らに背を向ける。後ろから「おう」「う、ん」と返事が返ってきたので、少し安心する。安心するのも僕の勝手な都合だよな、と心で反省しながら。

 そのまま駅へと向かい、少し待った後、僕達は電車に揺られた。

 幸い三人座れるスペースがあったので、そこで全員で夕日を眺めた。

 暮れなずむ街をぼんやり見ながら、僕達は誰も、何も、一言も喋らなかった。ただ、その夕陽に照らされ僕の右隣にいる狭間さんの顔が、はっきりと浮かび上がる。僕は、目を細めてそれを見た。その顔は酷く落ち込んでいて、何があったのか訊きたかったが、同じく左隣にいる暮木が何も話そうとしない事もあり、僕は今日の失敗を完全に悟った。

 しかし、僕に出来る事など何も無く、ただぼんやりと夕陽に目を戻した。何があったのか、訊くに訊けず、僕らはがたごとと揺れながらただ電車の中で黙っていた。

 神鎮駅に着いた時、もう日は沈み、闇が包んでいた。ここからはセカイの空間なのか、雨がぱらぱらと降っており、折り畳み傘を三人で差すとそれぞれ無言で歩き始める。

 暮木は時々僕の方に目線を送ってくるが、それが何を意味しているのかまでは解らない。ただ、暮木が僕に対して伝えたい事、何か言いたいことがあるのは解った。

 そう思っていた所で狭間さんの家の方向に近くなり、僕達はそこで別れる事になった。ちらりと、狭間さんが僕の方を見て、

「誠一くん、って、どうしようも、なく、駄目、だね」

 と言って、寂しそうでいて、それでとても愛しい物を見るように僕を見た。

 それがどんな意味を持つのかは解っていたが、僕は何も言い返せなかった。ただ、そのまま固まり、狭間さんの厚い前髪が風に揺れるのを見た。風が強くなってきたのと同時に、雨足も強くなってきて、セカイの家――僕の家にも近づいたからだろうか。何となく落ち着かない気持ちに襲われながら、僕達はその場に少し留まる。

 沈黙を破ったのは狭間さんで、僕と暮木に向かい、「今日、は、楽しかっ、た、どうもあり、がとう。二人、とも」と言って、そのまま背を向ける。僕はその背中をぼんやりと眺めていたが、隣で暮木が突然、「狭間!!」と叫んだので驚いて振り返った。

 暮木は何かをじっと我慢するようにそのまま少し俯き黙っていたが、絞り出すように、「ありがとう」、と呟き、

「――ありがとう、狭間!!」

 と叫んだ。

 僕ただ驚きで呆然とし二人を、いや少し距離の開いた二人の中間あたりに目を飛ばしていたのだが、狭間さんはゆっくり笑みを作り、「うう、ん、違うよ」と柔らかく微笑みながら、

「みん、な、暮木君の、努、力の、結果、だよ」

 そう言って、今度こそ彼女は背を向け歩いて行く。掠れたような鼻歌を歌いながら。

 僕はそのまま拳を握りしめている暮木を見て、何があったのか訊こうと思った。 

 だが、暮木がそれをしてくれるかは解らない。僕は言った。「暮木」ゆっくりと彼がこちらを向く。その顔は、悲しげで、儚げで、そして、ふっと何かを追い払った、拭き去ったような印象だった。暮木は僕に笑い、「やべえな」と言ってから、「ふられちまったよ」と言って袖で顔を拭った。僕はそれを見て言った。「訊かせてくれるか」

 暮木は顔を上げ、涙でまだ濡れた瞳で僕を見た。

「ふられて落ち込んでる友人にする仕打ちかよ」

「友人だと思ってるから、しようとしてんじゃないか」

 僕は真剣に暮木を見て言った。嘘も誇張も無く、暮木の言葉を聞くため、ただ待っていた。

「教えてくれ暮木」

 すうっと、息を吸い、吐くと同時に、言う。


「何があった?」


 暮木は何故か驚いたような顔をし、僕を見つめる。まるで、誰かを僕に重ね合せているかのように。

 彼はぼんやりとした表情で空を見た。

「晴れれば、いいのにな」

 すっと傘をどけ、手を上へ突き出す。


「晴れればいいのに」


 暮木はまたそう呟き、僕に視線を戻した。「こんな日だったよ」

 雨がさあっと粉雪のように拭く。僕達の間を、風が抜ける。


「初めて狭間に会ったのは」


 空をもう一度見上げた。僕も釣られて一緒に見る。

 ただ黒い雨雲が、僕達の視界を覆っていた。

 光が見える事もなく、ただ、黒々と。



 4



「まあー、濡れちゃってるわねぇ、ちょっと待っててねぇ、今タオル持ってくるから~」

 そう言い、マスターは奥へと消えた。店内には僕と暮木が残される。暮木はきょろきょろと周りを見渡し、僕に「すっげえなぁ~」と驚きの声を上げた。僕は少しおかしくなり彼を見ると「だろ?」と言った。

 あの後、僕達は僕の誘いにより二人で『ムーミン』に寄る事になった。

 こういう話は、いやまだどういう話になるのかまでは解らなかったが、彼が話したくなるような場所が他に思いつかず、急遽ここを今日の顛末を訊く場所にしたのだ。ここのマスターは少し、いやかなり変わっているが信用のおける人物だし、誰かに吹聴する事もないと思った。

 事実、マスターは僕達にタオルを持ってきてくれた後、「やっだ~イケメン君今度は違うタイプのイケメン君を連れてくるなんてなんて罪な子なの~、紹介して~!」と喜んではいたが、そっと僕達の態度に固い物を見てとると、「ゆっくりしていってねぇ~」と素早くカウンターに戻ってくれた。

 暮木もそんなマスターの事が気に入ったらしく、タオルで身体を拭きながら、

「いいとこ知ってんじゃねえか日雲」

 と上機嫌に言ってきた。

「だろ?」

 と僕も笑顔で返す。少し場が温まった、ように感じた。

 注文したコーヒーを待つ間、僕は暮木に話を切り出そうと思い、口を開きかけた。

 しかし、暮木はその前に僕に、「悪かったな」と言う。

 僕が「何がだよ」、と訊き返すと、彼は「当たり前だろ」と言って背もたれに寄りかかるようにして笑い、

「今日、せっかくセッティングしてくれたってのによ」

 と自嘲するように呟く。僕は何も言えずただ置かれ汗をかいたグラスに口を付け、ゆっくり飲む。それを言われたら、僕としては何も返すことが出来ない。余計なお節介でしかない事は僕自身が一番良く解っていたからだ。 

 それを暮木は肯定と見たのか、僕に「悪かった」と再度謝ると、僕と同じようにコップから水を飲んだ。沈黙が、場を支配する。やりきれない気持ちのまま、僕はまたコップから水を飲み、唇を湿らせる。そんな時マスターがやってきて、僕の方へコーヒーを持って静かにテーブルに置いた。「ゆっくりしていってねぇ~」と間延びした声でウインクし告げられ、(しばら)く黙っていたものの、僕達はぷっと吹き出し、二人で笑い始める。

 あははははは、という声が店内に響く。僕達はひとしきり笑った後、

「はあ~あ……何か調子崩れちまったなぁ。せっかく青春ぽくなってたのによお」

 暮木がまだおかしいと言うように僕に笑いかけると、僕も、

「それがこの店の最大の長所だよ」

 と言って笑った。

「お前って、狭間に似てるよな」

 唐突に、突然に、暮木はそんな事を言ってきた。

 いきなりのことに不意を突かれ、僕はコーヒーの匂いが漂う店内でしばし固まる。不審げな目付きを作り、

「僕と狭間さんが似てるってのは、ちょっと自分では考え付かないんだけど」

 とカップに注がれているコーヒーにゆっくり口を付けると、唇と舌が熱さに驚く。それを無視して飲み続けていると、暮木は、

「何かさ、お前と話してると、狭間と話した時を思い出すんだよな。あの、いつもひとりぼっちなのに凄く強い、俺なんかよりもずっと大きい、あいつとよ」

 理由は解らないが、僕と狭間さんに共通するものを彼は見つけているらしい。僕はさっぱり解らないが。

 ふう、と息を吐き、暮木は天井を見た。何を考えているのか解らないが、僕に出来る事は待つことだけ。彼が話したくなった時、それに耳を傾ける事だけである。それしかいらない必要ないと言えるかもしれない。

 ゆっくりと暮木の顔がこちらに向き始める。僕はそれを見、彼が昔何があったのか話す決意を固めた事を知る。姿勢を正し、真っ直ぐに暮木の目を見る。見つめた後で、それでは相手も喋りづらいか、と思い少し目線を下げた。

 暮木は、「なあ、日雲」と呼びかけてから、


「お前は、死んだ方がいいって思った事、あるか?」


 その顔を見て、僕は戸惑った。真剣に、とは思ったものの、そんな話題とは思っていなかったからだ。ただ、そういう事を言われようとも僕に出来る事は、返すだけ。

「――ある」  

 そう言うと、無言で暮木は自分の前に置かれたコーヒーを口に持っていき、ずず、と飲んだ。

「美味え」

 と一言漏らすと、そのまま二、三度口を付けて、満足そうな顔をする。ゆっくりとソーサーにカップを置くと、

「……中学の時にな、付き合った彼女がいたんだよ」

 カップの縁を撫でながら、過去を思い出しているのか少し笑いながら、

「その子っていうのがさ、もうバリバリのヤンキーだった訳。タバコふかして暴力事件おかして教師の車ぼっこぼこにしてた。もちろん万引きもやってたし、ヤク以外何でもやってたんじゃねぇかな」

 虚空を見つめる暮木。まるで彼女がそこにいるかのように。

「でも、同じクラスだった俺とは妙に気が合ってさ。一緒に飯食ったり、遊んだり、……まあ、その流れでやっちまった時もあったし、自然に付き合ってたんだ、気付いたらな」

 虚空にいるらしい彼女に微笑みながら暮木はただ、昔を呼び覚ましているようだった。もう帰ってこない日々を、懐かしむように。

「誕生日の日、俺はプレゼント持ってアイツの家に行こうとした。あいつは両親と不仲だったから、少し腰が引けたんだけど、それでも一緒に誕生日を過ごそうと思ったんだ。家に向かう途中で、パトカーが数台、道路に停まってたから、何だと思った」

 じわり、と涙が出て来たらしい暮木に、そっとズボンのポケットからティシュを取り出し、渡す。暮木は照れくさそうにしながら、「サンキュ」と言って涙を拭く。それから少し間があり、また続ける。

「家族と喧嘩して、原チャリで暴走して事故ったらしい。電柱にどかん!! ……ってな。俺を家に呼ぶことを反対されてたらしいから、その事で口論になったんだと。俺が、――俺が行くって言ったから……」

 暮木はコーヒーを持ち、口に近づけた。取っ手から伝わる震えが、僕にそこだけ焦点がはっきりしたように鮮明に映る。そのまま黙った暮木は、僕の方を見、今にも泣き出しそうな顔をする。

「俺が、行くって言わなきゃよぉ……」

 そう言い、目元に滲んだ涙をもう一度ティッシュで拭いた。鼻をかむと、僕の方を見て、今度はゆっくりと柔い笑みを浮かべる。僕が(いぶか)しげな表情を作ると、

「死のうと思った」

 そう言ってから、くい、とコーヒーをあおり、静かに置く。それは、身体の中に渦巻いている叫び声を必死に押し殺しているようだった。

「俺のせいで、っていう感傷ももちろんあったのかも知れねぇ。それは否定しねえ、でも、浮かんでくるのが皆あいつの色んな表情なんだよ、怒った所も、笑った所も、タバコやめろっていた言った時の悲しそうな顔も、皆頭の中に一斉にスパークしてくるんだ。気が付いたら、デパートの屋上に上がってた。人がいなくて、気が付いたら柵の外に出てたんだ。雨降っててなぁ、ちょうどいいや、血も流れるだろ、とか訳わかんねぇ事考えたりとかさ、そう思った時、後ろから物凄い大声で呼び止められたんだ、それが――」

 僕をじっと見た。

「狭間だったんだ」

 そのまま僕を睨みつけるかのようにじっと目に固定していたが、すっと外すと、暮木はコーヒーを飲み、少し息を吐き出す。

「驚いたよ」

 カップの中がもう無くなったのか、暮木は底をじっと見ている。口を開いた。

「いきなり、その雨雲が割れて光が差してきてな、その光に狭間が浮かび上がって来たんだ、まるで、この世のものとは思えないくらいに」

「その後狭間は何て言ったと思う?」尋ねてこられてどうしたらいいか迷ったが、

「僕に似てるんなら――もったいないから止めろ、……とか?」

 僕自身ならそう言うだろう事を言ってみる。すると暮木は驚いたような顔を作った後、にまりと笑った後、「その通り」、ピンポーンと口で言い、ぱちぱち拍手をした。全く嬉しくない。

「俺は狭間とその晴れた屋上で話した。ベンチは濡れてたけど、気にもしなかった。俺は、何もかも全部、初対面なはずのあいつにぶちまけていた。恥もなんもなく、ただ、今までの事を全部。狭間は静かに聴いてくれてたけど、終わった後、一言だけ、俺にこう言ったんだ」

 一呼吸おいて、静かに、穏やかな(なぎ)のように。暮木は言った。

「『あな、たが彼女を忘れなけれ、ば、彼女が、ここに居、た意味も、ある、はず。だから、生き、て。その子の分も、一生懸、命、生き、て。その、子が、いた証、を、残し、て』…ってな。似てたか?」

 僕は無理矢理笑顔を作り、「中々ね」と返した。

 苦しくなってきて、僕は狭間さんに言われた言葉を反芻(はんすう)した。『どうしようも無く、駄目。』

 そうだね、狭間さん。僕は駄目だね。そんなに強い君を、僕はずっと誤解していたんだから。

「それから、すぐに狭間は俺の所から歩き去った。俺は、狐にでも化かされたのかと思ったよ。天気雨になってたしさ」

 くすりと笑い、残った水を飲む。暮木は、満足したとでもいうように、それをテーブルに置く。

「同じクラスになってから、何度も話そうとしたんだ、でも、彼女はもう何も話してくれなかった。唯一、お前以外には」

 仕方ないだろ、と僕は言った。僕が積極的に喋ったわけではない。

 暮木は、「お前がどんな奴なのか、知ろうと思った。それで一つ話しかけてみたんだよ」

 そうか、と僕の方でも合点がいった。やはり、暮木が僕なんかに話しかけて来たのは、理由があったらしい。それに(いきどお)るどころか、僕はなんだか()に落ちすぎて笑えてきたほどだった。

 僕と暮木との接点はやはり狭間さんにあったのだ。

「でもな」

 暮木は真面目な顔をして、僕の方を見た。

「お前と話してると、何だか狭間を思い出すんだよ、俺は」

 意味が解らない事を言ってくる友人に、僕はどう返すか迷った。どうしようもないので、続きを待つ。

「周りと上手く合わせている所は違うけど、何て言うか、お前らって、人と何処か違う所を見てる気がすんだよな。何て言うかよく解んねえけど、人の見えてない部分をしっかりと見つめてるみたいな……人の本当の形を見てるって言うか……ごめん、やっぱよく解んねえ。……でも、話していて、ふっと気が楽になるんだよ。他のクラスの連中といる時みたいな楽しさとは違う、生きてる事を再認識するみたいなさ」

 そんな事を言われたのは初めてで、ほとんど実感が湧かず、僕はすっかり温くなったコーヒーを(すす)った。時間を取ろうと思ったのもある。恥ずかしくて中々暮木が見れない。こういうストレートな所も、彼の長所だとは思うが。

「今日、狭間に告白した」

 そのストレートさが全面に出た行動が、それか。僕はコーヒーを飲みながら、続きを待つ。

「『好き、な人が、いる、から、ごめん、ね……』だってよ……俺はお前をぶん殴りたくて仕方なかったよなマジで」

「それは困るな、顔は僕の商売道具なのに」

「いつお前はホストになったんだよ」

 なれそうだけどな、と言ってそこでまた二人で笑う。

 ひとしきり笑った後、暮木が、「難しいな、人生って」と息とも声ともつかない呟きを漏らした。

「簡単よりましさ」

 僕は本気で言った。言った理由までは解らなかったが。

「今の彼女、大事にしろよな」

 暮木は笑った。

「お前を、好きな奴のためにも」

 僕は一言だけ言って、席を立った。

善処(ぜんしょ)する」

 同じく席を立った暮木は、

「幸せ者だよお前は」と言う。

 レジに向かう。僕の後ろで、暮木が言う。


「幸せ者だよ、お前は」


 会計は七百円だった。



 5



 家に帰ってくると、そこにセカイが難しい顔をし腕を組んでいた。僕は不思議に思い、その部屋の中央で仁王立ちし僕を睨みつけている彼女に対し、恐る恐る声をかけてみる。

「どうした……セカイ」

 セカイは僕の所までつかつか歩いていくと、「浮気者」と酷く冷たい声で言ってきた。

 僕が訳が解らず「何だそりゃ」と聞き返すと、「ごまかしても無駄だよ」と言って僕の前に服に顔を近づけた。

「うん、やっぱり女の匂いがする」

「お前は警察犬か」

 と苦笑した。僕にそんなに密着したのは狭間さんしかいない。残念ながら僕の恋人はもう目の前にいる。勘違いだったなセカイ。と、一人で笑った。セカイは(いぶか)しそうに僕を見つめ、

「どうしたの? なんか寂しそうだよ?」

 と言って、僕に抱きついてきた。僕は何も言わず、そのままセカイを床に押し倒していた。サングラス越しに、セカイが僕を覗き込む。一言も喋らず、僕はそのままセカイを奪っていった。

 セカイが短く(あえ)ぐ声が鼓膜に張り付き何度も何度も再現される。その度に僕の根は膨張し、充血する。

 セカイが僕の頭を引き寄せ、撫でる。暴力的な程にセカイ抱きつき、その首元に噛みつく。軽く、そして甘く。驚いたように小さな悲鳴が一つ聞こえるが、気にしない。

 セカイは何も言わなかった。僕も何も言わない。ただ、時折僕のすすり泣く声だけが、部屋に染みとおり、沈んでいく。

 僕は泣いていたらしい。気付くのが遅く、泣いて(しばら)くたってからその事に気付き、気付いた事でまた泣いた。泣くことによって、更に涙が吸い寄せられるように。

「母さん……」

 一言呟いた声は、僕自身全く意識せずに発せられた声だった。自分の口からその単語が出て来たことが、自分自身どれだけの衝撃を僕に与えたか、想像する事も出来ない。

 ただ、セカイは僕の頭を胸に引き寄せ、だいじょうぶ、とだけ言った。そこで、僕達の戯れのような情事は終わった。

 セカイは、「話したかったら、話してもいいよ」と言い、僕の頭を胸に抱いたままころりと横になる。セカイの心臓の音が、どくり、どくりと聴こえ、更に僕を戸惑わせ、そして、落ち着かせる。

 僕はそのまま起き上がり、セカイの背中に腕を回したまま、そっと口づけした。

 ……少ししょっぱい。こいつ煎餅(せんべい)食ってたな。笑いがこぼれる。セカイが恥ずかしそうに「何笑ってんのよ」と唇を尖らせた。


「母親って、何だろうな」


 そのまままた抱きつき、ピンクの乳首を吸う。小さくセカイがむずがる。

「……どういう、意味……?」

 と(かす)れた声で訊いてくるセカイに、軽く歯を立てる。必死に耐えようとするセカイが愛しく、軽く乳房を撫でた。

「僕の母さんは、……僕を捨てた」

 その声に、セカイは僕の頭を離し、少しの間を作った。その真剣な表情に、僕は恐れと嬉しさが半々になった心を必死で制御しながら、言葉を続ける。

「父さんが死んでから……母さんはそれまで付き合っていた男と一緒になった。でも、僕は、その男には邪魔だったみたいでさ。……遊園地に遊びに行かされた時の事だよ、母さんは僕を置いて、『すぐに戻ってくるからね』って言って、……そのままいなくなった。僕が散々探し回っても、僕が迷子の放送をされても、僕を見つけには来なかった。……来たよ。ちゃんとね。その男と会った後に」

 もう一度距離がゼロになり、僕の頭が胸に包まれる。僕は、最後にこう言って、もう話さないことにした。僕自身が、どうなってしまうか、解らなかったから。

「人が、怖いんだよ」

 セカイは震えていた。その温かい身体に反比例するように、小さく、小刻みに。

「信じさせてくれ、セカイ」

 とくん、とくん、と音が僕を包んでいく。


「僕から、いなくならないでくれ」


 鼓動が速くなった気がしていた。

 ただの、気のせいなのかもしれなかった。



 6



 何をしているんだと行為が終わった後、思いきり頭を振っていた。

 先程までの事があまりにも生々しく思い起こされ、僕は暫くセカイの顔がまともに見れない。

 そんな僕とは対照的に、恥ずかしがってはいたものの、セカイは僕と身体を重ねることは初めてのことでは無いのもあるのかすぐ着替え、自分の部屋に行くと貸してあった漫画本を持ってきて、ソファへと寝そべり、すぐに読み始める。

 裸の僕が呆然自失としている事など全く構わず真剣に読み始め、そして笑う。そんな彼女を見、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなり、服を着始める。何だか男女の立場が逆である。いや、世の中の男女は皆こうなのだろうか、ただ単に僕がヘタレなだけなのだろうか。それは解らないが、とにかく茶の間で床に裸でいるのも考え物なので急いで着替えた。

 セカイに顔を向けると、「意外と激しいのがお好みなのですな、殿」と笑ってきて、急激に熱くなった頬をごまかすため、思い切り頭を叩く……もちろんサングラスが落ちないように。

「夕食は、何がいいんだ?」

「……カレーパン!!」

「そんな偏りのあるもの食べるか」

 残念そうに顔を曇らせる彼女に、僕は薄く笑い、エプロンをつける。何だかいい気分だ。何か満たされたような、身体の、いや心の淀んでいたものが一気に抜け出たような、そんな気分。

 鼻歌を歌いながら、僕は料理を作り始める。この歌はいつもセカイが歌ってるもので、僕もいつの間にか覚えてしまっていた。…最近どこかで聞いた事があるような気がしたが、直ぐに忘れる。覚えやすいメロディーなので、誰かも歌っていたのだろう。多分。

 セカイがあくびをしながら寄ってきて、「何作るの~?」と間延びた声で言ってくる。「お前が所望したカレーだよ」と言ったら、「パンじゃないじゃん」と言い返してきた。「食パンにでも挟め」と切り捨てる。お前の我儘(わがまま)になんて付き合ってられるか。

「お前、どうせする事無いんだったら、この前みたいにサラダでも作れよ。作り方は流石に覚えてるだろ?」

 と皮肉たっぷりに言うと、セカイは不思議そうな顔をし、「何言ってんのウインド」と僕をサングラス越しに見つめ――


()()()()()()()()()()()()()()()


 と、言った。


 僕は自分の耳を疑うと同時に、嫌な、暗闇からそっと何か得体のしれないものがゆっくりと近づき、僕の肩に手を置いたように感じた。


 景色は歪み、僕の心拍が異様に速くなっていく。僕の身体から、冷たい、べとついた、不快でしかない汗が、どんどん出てくる。

 セカイも、僕を見つめる顔がどんどん苦しそうに変わっていき、瞳から何か零れ落ちるのではないかとさえ思った。

 速く、速く、速くなっていく。浅く、短く、呼吸が乱れ、鼓動がおかしい位に鳴り、僕の身体から溢れてくる言葉は、今を叩き壊すには十分な力を備えていた。

 まさか、まさかまさかまさかまさかまさかまさか――

 信じたくない僕の頭が、その最悪な結果しか導かない事に、僕はただただ戦慄しか起きない。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 真っ暗になっていく風景が、セカイの所だけ妙にはっきりと映り、その事が更に僕を焦らせる。さっきまでの熱くなりすぎた身体が一瞬で冷やされ、セカイの体温を感じていた僕は瞬間移動したようにいなくなる。

 居るのは違う僕違う人間、日雲誠一。誰かすらはっきりしない名前さえ霞んでいく。

 セカイの顔はどんどん歪み、どんどん崩れていく。足元に来た子猫を抱き上げると、そのままサングラスごとその白い体毛に顔を押しつけ、臨界点を超えた所で、爆発したように、泣く。わんわんわん、と、嵐のように響く声で、文字通り家を揺さぶるような声で、絶叫する。

「嫌だよ嫌だよ嫌だよ嫌だよ嫌だよ嫌だよ嫌だよォッ、やだ、嫌だ、嫌だ、嫌だぁあッ!!」 

 駄々っ子のように、その場で崩れ丸まり、声を荒げ叫ぶ。僕は何も出来ず、ただお玉を握りしめ立ち尽くした。セカイは叫ぶ。僕の前で、僕の視界で、僕の世界で、泣き続ける。

 その叫びが落ち着きを取り戻しはじめ、セカイはゆっくりと僕の方へと歩いてきた。まるで魂を抜かれ、彷徨う幽霊のように、幽鬼のように。僕の前まで来て、僕のエプロンに顔を埋め、もう一度呟く。僕の鼓膜に、容赦のない響きを伴わせながら。「嫌だよウインド……」その顔を上げながら、僕に、彼女はこう言った。


「消えたくないよぉ……――まだぁ」


 世界が、終わりを告げる。瞬間。

 僕とセカイは抱き合う。優しく、緩く、しっかりと、そして残酷に。

 セカイは僕に、その涙でべとべとになった頬に無理矢理笑みを作りながら、僕に言ってくる。何度も何度も、謝ってくる。

 何も聴きたくなかった。聴くつもりもなかった。だが言葉が勝手に反響する。

 セカイは僕に言い続けた。


「ごめんね」


 僕は、動く事が出来ない。

 外の雨が、滅茶苦茶に窓を叩き続け、揺らし、暴言を吐き続ける。声が枯れるまで止めないと、主張し続けている。噛み殺さんばかりにばんばんガラスを、壁を、殴り続けていた。僕は涙さえ、出てこなかった。

 セカイは小さな、小さな声で、僕に言う。掠れる様で、噛みつくように、僕の顔を見つめて、言う。


「私を殺して、ウインド」


 僕は、何も、出来なかった。


「私がウインドを、忘れる前に」


 お玉が音を立てて、床に落ちる。

 僕達の揺り(かご)が音を立て壊れる音が、した。








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