第三話 愛
1
困った事になった時、どうやって対処するかによって人は本当の姿を知る。
普段冷静で思慮深い人が、本当の困難に直面した時どうなるのか。危機を目の前にした時、どんな行動をとるのか。危機管理意識がどうとか抜きに、災害などが起こった時取る行動などと言い換えてもいい。
本当の姿とは、そういう時現れるものだ、と思っている僕は、その時確かに自分が役立ずの人間である、と確信した。ただ困惑し座っているしか出来なかったのだから。
目の前にいて、じっと僕の顔を見つめている少女。僕にその秘密を打ち明けてくれた少女、セカイさん。それを馬鹿のようにただ見つめ返していた。
雨の音が、そして猫の鳴く声が店内に響く。倒れた音と共に、マスターが息を飲む気配が伝わってきた。僕も一度大きく喉を鳴らし、先程の言葉が何かのジョークではないのかどうか、確かめようと思った。が、そんな事は必要とするまでもなかった。セカイさんは、まるでこれから捨てられるのが解っているような動物のような顔でじっと、そうただじっと僕の瞳を、見つめ続けていたからだ。
嘘だよー、冗談だってー、はは、とでも笑ってくれれば僕の方としても余裕を持ち直し笑い返すことが出来た。そう、心でそう思っていた。願っていた。それならば、僕としてもこの信じがたい吐露を躱すことが出来、また先程のように軽い冗談が言い合える関係に戻れる。
しかし、セカイさんの顔は変わらない。ただ僕の顔を見つめ続けるだけである。
急に、この感覚に覚えがある、とどうでもいい事を考えた。
セカイさんに会ってから、話し始めてから、この感覚が次第に強くなっている気がする。これが何なのかは解らないが。
セカイさんがおかしな言動をする事は、短い時間ながらも解っていた事だ。しかし、それがセカイさんの魅力になっていたこともまた事実。が、その変わった性格が僕に手が付けられない『異常性』から来ているのだとしたら、僕はもう手出し出来ない。ここでやはり逃げ出すのがいいだろうか――と最低なことまで考える。が、でも、その考えはすぐ水に溶けるかのように消える。考えなくなっていった。
セカイさんが、――泣いている。
ぽろぽろと、瞳から透明で天井のライトが反射し鋭く光る粒を辺りに散らしながら、僕の顔の側で、ぽたぽたとそれをテーブルに落としている。
その光景は失礼ながら幻想的にすら思った僕は、少し目を閉じ息を吸い、そして吐いた。目を開けると、その表情に何を感じとったのか、セカイさんは後ずさり、乗り出していたテーブルから離れ、自分の席に戻る。
セカイさんは、まだ僕の方に視線を向けていたが、ようやく自分が泣いている事を知ったのかサングラスを降ろさないよう少しだけ上げ、パーカーの袖で拭く。瞬間、降り続いていた雨が嘘のようにぴたりと止んだ。僕とマスターは振り返り、顔を見合わせ、その止まった雨が窓を叩かないのを呆然と見つめた。
そして、セカイさんは何事も無かったかのように再び僕の方を見る。僕はまだ戸惑いが強かったものの、その涙の意味を考え、そして結論付けた。僕は、僕に出来る事―
別に、この店のSF趣味に感化された訳では無い。もちろんそんな戯言に近いセカイさんの発言を真に受けた訳でもない。僕だって宇宙やタイムマシンに全く興味が無いかと言われば、多少あると答えるくらいに夢を持っている。しかし現実世界に生きている僕にそんな事は全くと言っていい程遠く、関係ないものでもあった。
だから、セカイさんの言葉を真実だとして受け止めた訳ではない。
むしろ、どうしてそんな妄想をするようになってしまったのかを、原因を突き止める精神科医のような気持ちにすらなった。
僕が彼女の話を聴こうと思った理由――それは。
「セカイさん」
僕は尋ねた。
「どうして――そんな悲しそうな顔、するんですか?」
その言葉に、セカイさんはずっと鼻を啜った。そう、それだけだ。僕が、セカイさんの言葉を聞いてみようと思ったのは。
「本当かどうか、僕には判断がつきません。――でも」
そんなに辛そうに話されたら。そう誰だって。
「僕でよければ聴きます。話してくれませんか」
彼女の濡れた瞳が、サングラスの奥に秘められた瞳が、その時僕を強く強く、抱きしめる錯覚に陥った。聴きたいと思った。彼女が涙零す、その理由を。
もう一度息を吸い込み、言う。
「セカイさんの話、聴かせてください」
戸惑いがあったセカイさんの顔が僕の顔を見てきゅっと締まり、大きなサングラスからはみ出した柳眉を上げ、僕に、話し始めた。自分の今までの、過去を。
彼女の話は、僕を現実から遠ざけて行くのを感じずにいられない程、荒唐無稽なものだった。
しかし、そこに手触りとでも呼ぶべき、何か非常なリアルが横たわっていた。確かにそこで生きていた、というリアルさ。細々とした細部の質感。存在感。ありありと浮かび上がる情景たち。語る本人の、言葉という媒介を通じての、本当の世界。
それを聴いている僕は、一つ目のターニング・ポイントを、どうやら通過したようだった。
彼女の事を知る、という僕の目標は達成していたが、そこからまた、僕にとっての闇が広がっていくように思えた。外では猫が鳴いている。雨は、降り続いている。
セカイさんの話――それが後々僕に、どんな変化を引き起こすのかは、全くと言っていい程わからなかった。
2
セカイさんは僕の瞳をじっと射るように見つめた。それは何かを確認するかのようで、そして、それは一種の試験でもあったのだろう。僕という人間を本当に信用していいかどうかの。僕という存在が本当に自分の事を語るにふさわしい相手なのかどうかの。
ふっと、視線を(おそらく)外し、セカイさんは、「まあ、いっか……」と薄く笑い、いや自嘲したのか、して、再び視線を戻し話し始めた。
席に座り直し、テーブルに両肘を着け、指を組む。ふう、と息を吐いてから、セカイさんは口を開こうとした。……ちなみに後ろのカウンターでマスターが恐ろしく静かになっている。……何も、おそらく一言も聞き逃すまいとするような、妙なプレッシャーを発しながら。
その時、入り口のドアの横にある猫用の入り口(?)のような、正方形に切り取られた所をドアにした場所から、一匹の猫が入ってくる。真っ白く、目が細い、少しやせ形のメスで、暫く黙っていたマスターが、「あら、珍しい、来たのぉ~ホント野良って気まぐれねぇ~、待ってなさい、今ちょっとおかし持ってきてあげる~」と席を立った。
セカイさんが「あ、昨日私に懐いてきた猫だ。お~い」と言うと、足音も出さずにこちらにやって来て、その濡れた身体を一回ぶるっと震わせ水気を飛ばすと、その身体のままセカイさんの太ももに飛び乗り、丸くなる。
その光景になんだか和んでしまうが、それどころでは無い。セカイさんの顔がだらしなく緩んでいるが、先程までの決意が揺らがないか、逆に心配になったほどだった。
そこにマスターが煮干しを持って来て、セカイさんの太ももにいるのを確認すると、「アンタねぇ~、その子に失礼でしょうが~降りなさ~い」と少し顔を怒らせその白い猫を見た。
かなりそれが怖かったのだが、猫の方は全く気にした様子もなく、ふわぁ~とあくびを漏らす始末。ふうとため息をつき、「ほらぁ~、煮干し。置いとくから好きな時食べなさ~い」と近くの床に置いた。
「どのくらい前からいるんですか、この猫」
僕は話すことが無いので無理矢理話題を持ってくると、マスターが、「結構前からいるみたいよぉ~? 私こうして野良猫が入ってもいいようにしてるけど、店を始めた時から居るから、もう十年以上じゃないかしら~、その時はもう大人だったから、結構お祖母ちゃんのはずよぉ~、健康よねぇ~」と少し嬉しそうに笑う。顔と違っていい人な事に少し僕も笑う。こういう人だから、今まで営業を続けられたのかもしれない。
そんな空気が一端落ち着いた所で、僕は再びセカイさんが話し始めるのを待つ。セカイさんは白猫の喉を撫でながら、「私、猫って図鑑でしか見た事無かったんだぁ」と言った。
僕はその発言に少なからず驚いていたが、セカイさんは下を見たまま、続ける。
「私ってさ、作られたんだよねー、人間様にさー」
とその人間様、の所を強調して言った。僕は覚悟したものが崩れていくのを感じた。…やっぱり、この子異常なんじゃないのか、という考えが頭を占める。言い様の無い不安が襲ってくる。どこか精神を侵されているのかもしれない、そんな気さえした。
「……私が目を覚ました時、そこにあったのは真っ白い部屋。何処までも清潔で、ゴミも埃も何にも無い、天国みたいな、くそったれの、部屋。何にも無い、窓も、机も、トイレも何にも無い、真っ白くて清潔極まりない、凄く――暴力的な所だった」
その手が少し震えた。僕はその動作で、さっきまで自分が考えた事を一瞬で恥じた。こんな辛そうに過去を語る人間が、嘘をつくはずがない。そういう嘘が本当のように言える人間だって多いだろうけど、彼女にそんな悪い意味で器用な事が出来るようには見えなかった。信用したい、しなければいけない、と静かに胸へ湧き上がって来る。
いつの間にか鼻の頭を赤くしながら、彼女はまたこぼれそうになる涙を必死に抑えようと声を押し殺していた。僕はただ続きを待った。後ろでマスターが一緒につられて鼻を啜っている。まだ始まって間もないのだから、随分と感受性(?)が見た目と違い強いんだな、と思った。
「私が作られた時、世界は、――あ、本当の世界の事ね―詳しい事は知らないけど、私がいた頃はもう遺伝子を操作する事に、殆ど抵抗が無くなってた。寿命も平均で百十位になってて、人間が長く、幸せに過ごすためにはいくらかの非人道的って今のここでの基準でだけど、認められてた。調べたけど、この世界じゃまだ寿命は八十位でしょ? その間に進んだ生命医療で、私みたいな動物と同じくくりにされる人間モドキが生み出されて、人間についてどんどん実験されてた。その結果がその伸びた平均寿命、って事らしいんだけどさ……つまり私は動物実験に使われるモルモットの人間版。……彼らに言わせると私は人間じゃないらしいけど…そんな中、私は『試験管人造ベイビー』なんて呼ばれてたよ……」
その話の独特のリアリティに、僕はただ戦慄して聴いているしか出来ない。僕の生きている内――自分がそこまで生きていればの話だが――に、人間を、生命を蹂躙するような、ないがしろにするような社会が存在することになる事を、想像しただ恐怖と共に震えるしか出来なかった。
そんな僕の方にようやく目を、サングラスを戻し、「この世界じゃ考えられないでしょ? ここにあるSFの本みたいな事が起こるなんて。……って言っても、こっちの方がSFに見えるんだけどね私には。平和っていうかさ。何ていうか、危機感があまり感じられないし」と言って笑う。笑っている場合じゃないのに、笑ってしまっている。どれだけ辛い思いをすればそんな顔が出来るんだ、と言いたくなった。
外では細かい霧の様な細かい雨が窓を叩いている。僕はそれを少しだけ見、また視線をセカイさんに戻した。少しの怒りと共に。
「……でも私たちの世界じゃ異常気象っていうのが凄く起こっててね、理由は全然解らないんだけど。もう、各地で日照り、震災、台風、気温上昇、そして降雨……人間に対して自然が怒っているんじゃないか、って思えるくらいだった。そんな時、ある日本人の家系から、天候を自在に操る、シャーマンみたいな人間が存在するって事が解った。彼らは、天候を自由に、――まあ自分の見える範囲で、っていう制限はあったけど――変える事が出来た。瞳と脳、想像力、意識と無意識、そんな様々な事が調べられて、そこで、彼らの遺伝子を組み合わせた人間を作る事で、この天候をコントロールしようとする動きが起こった…それが今から二十年前……この世界で言うなら三十年後、だね。そして実験から五年後、試作機が作られた。……それが」
白猫の喉に当てていた自分の指で自分の顔を指し、
「――私、っていうわけ」
その告白に、僕は理由もなく胸の鼓動が速くなるのが解った。現在、未来を繋ぐ糸が、確かにあったように思えたからだ。現実感がある夢、――そんな感覚をもっと鋭くしたような感じだ。セカイさんが言っている事に嘘は無いと直感が告げている。その直観がどこから来ているのかは解らないが。
セカイさんは、再び猫の喉に指を這わせ、くすぐる様に撫でる。白猫は気持ちよさそうにそれを黙ってされていた。何か、独特の存在感を醸し出しながら。
下を向いたままセカイさんは、
「でも、上手くはいかなかった。私は――」
それを認めるのがどんなに辛い事なのかは、見てるだけで伝わってくる。セカイさんは唇を噛み締め、血を吐くように、一言、
「――失敗作、だった」
マスターが、奥にいくのが解った。
少し気になったが、そんな場合では無い事にすぐ気付き、そのまま続きを待つ。
その時、掛けられている柱時計が五時を知らせた。大きく振られる振り子が目に留まる。重低音を響かせながら、僕達に時間を知らせるそれは、僕達に時間が過ぎていく事を暗に示しているように思えた。連続的に続く音が、テーブルを挟んだ二人に落ちていく。
その音が終わり、再び静寂が支配しようとする時、セカイさんが、
「サングラス、変でしょ?」
といきなり流れと違うことを訊いた。戸惑った僕は、「いや別にそんな事は……」と焦りながら答える。おかしい、と素直に言えるほど僕はまだ腐っていない。
セカイさんはふっと笑うと、「優しいね」とだけ言って俯く。
自分が最も言われたくない台詞を言われ、拳を握りしめた。優しい? 勘違いしてんじゃねえ、僕はな、この世で一番汚い人種なんだよ。この世で一番、好かれちゃいけない部類の人間なんだよ。君みたいな娘に優しいなんて言ってもらえるような男じゃねんだよ。
『ごめんね、誠一……ホントにごめんね。お母さん、馬鹿だったよね……ごめん、ごめんね……』
思わずあの時の言葉がフラッシュバックし、思わず拳をテーブルに叩きつけたい衝動を抑え込む。息を細く、長く吐き、心を落ち着かせる。……駄目だ、怒りが消えない。こんなの、全然らしくない。全然、らしくない。セカイさんといると、何だか本当に自分が違う人間になってしまったような気がする。僕は、一体どうしたんだろう。僕は一体、何に成ろうとしているんだろう。ぐちゃぐちゃになった頭で、何とか冷静になろう、なろうと心で念じる。僕は、セカイさんを見た。彼女はこちらの方を見ず、ただ猫の喉を撫でていた。その大きなサングラスを、恥じるかのように少し手で隠しながら。
僕が何か言おうとした所で、マスターが奥から来て、そっと、僕とセカイさんの間にコーヒーを置いた。僕が何か言う前に、パチンとウインクをして、
「寒くなってきたでしょお? おごるからゆっくりしていきなさいよ~」
とその時、その瞬間だけは本物の女性より女性らしい表情を作りカウンターに戻っていく。
何故か僕は涙ぐみ、その事を誰にも悟られないようにそのコーヒーを見つめる。傷口から流れ出た血が、その黒い液体の湯気と一緒に巻き上げられて溶けて行くように感じられた。何なんだろう、この気持ちは。胸が凄く痛いのに、凄くうっとおしいって感じてる部分があるのに、何だかとても、蹲って泣いてしまいたいような衝動が、胸から突き上げられる。喉元まで来て暴れる。その香りが鼻から入って、口から出て行く時には、もう僕は冷静さを取り戻していた。そう勘違いさせられただけかもしれないが、僕にとってそれは一つの救いだった。
同じく運ばれてきたコーヒーを見るセカイさんは少し目を丸くし、その中身を見た。一瞬、くしゃりと歪めた顔を、ぶんぶんと首を振り、追い出すようにして僕を見直す。同時に、コーヒーを口に持っていき、話を再開する。
「このサングラスなんだけど……これって、私の『能力』のためなの」
もうSF的だなんだとは思わない。その言葉を信じようと思う僕が居る。
セカイさんがコーヒーに口を付けると、少し意識がそっちに向いたのか、「……美味しい」と言って微笑む。もう一度泣きたい気分になりながら、僕も静かにコーヒーに口を付ける。芳醇な香りが鼻に通った。口に含むと、先程より味が丸い気がした。リラックスするような優しい味。美味しい。マスターの気持ちが、更にそう感じさせたのかもしれなかった。
微笑みながら、セカイさんは続ける。
「その気候を自由に操れる人達のDNAを調べ、人工的にその力を使える道具を作って使おうと考えたらしいの。生命倫理がどうとか言っている場合じゃない所まで来ちゃってたんだねぇ……私はそういう理由から産まれた。でも、さっきも言ったけど私は『欠陥品』だった」
コーヒーに口を付け、ほうと息を吐く。下で寝ていたと思っていた白猫がいつの間にかこちらを見ている。その瞳で、何かを、じっと見通すように。
「私が本当に裸眼で世界を見ると、世界から雨が降らなくなる。見ないと、雨が降る。私の感情の揺れに応じて、強く、激しく、弱く、緩やかに、降る。元々、自由に気象を操る事が目的だったからこれは不自由だったんだよね、作った側としては。で、私は不良品として処分される事になった。もちろん、極秘裏にだけど…その時、安全装置として、いくつか脳に処理された」
その言葉の重さに、思わず僕は背筋が伸びる。それを見、またしても自嘲するかのようにセカイさんは笑い、コーヒーを飲んだ。時間が流れているのが、やけにはっきり感じられる。緩やかに、激しく、鈍重に、そして、確実に。
「サングラスを外して生きると、記憶が無くなるの」
その言葉に、僕は耳を疑う。
もう一度尋ねようと思った所で、セカイさんは頷き、
「そう、だから、私はこれが取れない。自分の目で世界を見た事も無い。いつも、何かしらで目を覆わないといけないから。そして、自分の瞳で見続けて一定の時間が経つと、存在自体が無くなる。逆行していくんだ、身体が。どんどん小さくなって、最後は赤ん坊、作られた時と同じになっちゃう。そうする事で、また新しい人間として誰かに里子として出す事も出来るし、隠ぺいしても全く問題がない。つまり私を縛る、恐怖で縛り付けるには恰好の方法だったってわけ」
あまりの理不尽さに拳を痛むほど握りしめる。何だそれは。自分たちの都合で生み出したくせに、用が無くなったら子供に戻してやり直させる? ふざけるなよこの野郎!!
そう思い唇を噛み締めていると、セカイさんは、僕をサングラスで隠れた顔に優しい笑みを浮かべ、
「だから逃げて来たんだ、この世界に。作りかけの、実験施設にあったタイムマシンみたいなのに乗って、過去に、この世界に」
雨が激しくなっている。先程までの霧のような雨は、いつの間にか一粒一粒大きくなり、弾く音一つ一つが暴力的に思える程だった。
「だからさ、ウインド」
その後に続く言葉が、僕を震わせた。それは、僕にとっては意外以外の何物でもないもので、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
「私を、匿ってくれない?」
その言葉が何度も僕の鼓膜から脳に入り、リフレインした。
セカイさんが、僕の世界に踏み込んで来る。
変わりばえの無い僕の世界の終わる音が、確かに混ざっている。
「ウインドしか頼めない。ううん、頼みたくない」
事態について来れない僕を置きざりにし、時間は、世界は、進む。
「お願い、ウインド。わがままだって解ってる。会ったばかりなのに何言ってるんだってのも解ってる、でも、それでも……」
雨が激しく五月蠅く、鳴いている。彼女が泣きながら、叫ぶ。
「私はまだ、終わりたくないんだよ」
セカイさんが僕に刻み込まれた、六月の夕方だった。
3
僕の道がどこからかずれ始めている。
そう思ったのは、僕の隣で楽しそうに傘を振り回しているセカイさんに関係があるのだが、僕はそんな事は口に出さず、ただ前を見つめた。
天気は小雨といってもいいくらいの落ち着きを取り戻している。これはセカイさんの心が安定していると言ってもいいのか、僕には判断がつけられない。
しかし、彼女がこうやって気分よく過ごしてくれるようなのだからこれ以上詮索するのは止め、素直に喜んだ方が健康的なのかもしれない。
「でも良かった。もしウインドにご家族がいたら、私どう説明しようか悩んじゃってたもん。あ、いや、それが喜ばしいっていうのじゃ無いよ? 私の事を信用してくれないだろうなってだけで」
僕はその言葉に少し吹き出して、「そうだね、何処かの漫画みたいだね、男女が偶然に一つ屋根の下で暮らすことになるなんて」と返した。
その言葉にセカイさんは見える部分の頬を紅くし、
「ウインドは時々妙なことを言うね」
と頬を膨らませて言う。冗談にしては重かっただろうか、と少し反省した。
僕たちは今、僕一人しかいない家へと向かっている。そう、二人で。
内心心臓が破裂するのではないかという緊張が僕を襲っていたが、表面上は少し浮かれている馬鹿な男子高校生を演じている。そうでもしなければこの空間に耐えられなかったからだし、それを抜きにしても魅力的な女の子が一緒に暮らすというのは心身ともに疲れるだろうという諦めも含まれていた。
しかし、そんな中で僕は喜びに満ち溢れている。
店を出る時、そこにさっきの白猫の子供のような、小さな猫がいた。生まれて間もないのは見てすぐ解った。僕はその子を抱き上げ、近くにあった店の桟の下へと走る。そしてそこに子猫を降ろし、身体を持っていたハンカチで拭いてやった。子猫はくすぐったそうに身体を揺らし、その細い目で僕を見つめる。
一通り乾かし終わると、僕はそのハンカチを床に敷き、その上に子猫を乗せた。自分でも嫌になるくらい偽善的だな、と思った。こんなことをしても、この子の一生が変わる訳ではない。僕は自分で人にいい所を見せようとか、人に好感をもたれようとして、結局そういう偽りの優しさみたいなもので覆われる。今回はたまたまセカイさんがいたからそうしたけど、誰もおらず、僕とこの子猫だけだったら僕はただ通り過ぎただけなんじゃないか、という考えがこびりつき離れない。気休めの、安っぽい同情だ。
そう思った時、セカイさんが小走りにやって来て、その子猫を抱き上げ、
「飼おう、ウインド!!」
と嬉しそうに言った。僕は驚き「いや……そこまでしなくても……」と言葉を濁す。しかし、セカイさんの目は真剣で、僕を睨みつけるようにしてから、
「このままじゃ死んじゃうよ、連れてく」
僕は自分の小ささにまた歯噛みした。セカイさんにあって僕にないもの、セカイさんに無くて僕にあるもの、そんな考えがループしかけたが、その思考の中に、そう確かに――セカイさんに魅かれている、自分――がいた。
セカイさんが気付いていない長所、それがどんなに尊い物なのか、という事に、本人は全くの無自覚だろう。見てれば解る。それを意識せずできる事が、彼女の行動を一層大きく見せている。
僕にないもの――それは、一言で言えば―なんだろう、言葉に上手く乗ってこない。しかし、そのセカイさんの胸元で寒さにえている子猫を見れば、何も言葉にする必要はないのかもしれないな、と思う。
僕は小さくため息をつき、「餌、買ってこないとな…」と呟き、その言葉でセカイさんの瞳は更に輝いたのだった。
4
僕達は傘を振り、水気を落とす。今日はボウリングをしたせいか、腕が少し引きつる。明日筋肉痛になるのは間違いない。
セカイさんは僕の玄関の前ではーと感嘆らしきため息を吐いた。いや、そこまで驚くような家でも無いですよ。小さいし、部屋数も多く無いし、一人で住むに少し大きいですけど。
セカイさんは胸に抱いた子猫を抱き直すと、僕に向かい「じゃあ開けてくれたまえ、ウインド君」と高い声を意識的に出し言う。威厳を表す時は低くした方がいいんじゃないだろうか、とも思ったが、些細な事なので別に気にしないことにした。
僕が財布にチェーンで繋がれてる鍵を取り出すと、急いで中へ入った。一緒に入ってきたセカイさんは僕と同じく随分と濡れてしまっている。
手に持っていた猫の缶詰の袋を玄関に置くと、そのまま入って右側の通路を通り一番手前、左のドアを開ける。風呂場に入り、おいだきのボタンを押し、セカイさんに服の着替えを取りに自分の部屋、風呂場から廊下に戻って真正面の部屋に行く。男物しかないのだから、なるべく女性が着ても構わないような服を持ってくる。
玄関で待っていたセカイさんと子猫は一緒になって遊んでいたが、何だかその光景にぎゅっと胸を締め付けられた。理由は解らない。
「二人とも、風邪引くからこっち来て下さい。今飲み物用意しますから」
そう声をかけると、僕は奥の方へ歩いて行き、一人には大きすぎる台所でお湯を沸かし、その間にお菓子類を一通り選び盆に乗せる。まだ玄関では二人(一人と一匹)がじゃれている声が聞こえる。何故か、最近味わった事の無い感覚が僕を襲う。泣いてしまいそうで、身体が温かくなっていくような、不思議な感覚。戸惑うが、決して不快では無い。
お湯が沸いたので、ティーバック型の紅茶にお湯を入れ、ジャンピングするのを見届ける。暫く経ってからバックを取り出し、二人分とお菓子を盆で運ぶ。ちょうどその時、風呂が沸いたので、セカイさんに言って入ってもらう事にする。
居間に通すと、おお~と声を上げたセカイさんは、「いいねえ、古き良き伝統の匂いがするねえ」としきりに感心した。いやまあ、五十年後から来たんだから、当然の感覚なんだろうけど、僕はどう返したものだか解らない。
「今タオル持って来ますね、紅茶飲んだら風呂入って下さい。風邪引くと困りますから。使い方解りますか?」
そう訊くとセカイさんは「あー何とか。赤いのか青いのかはっきり解らないから難しい時あるけど」と笑いながら言ってきた。
僕は、「左に回すとお湯が、右に回すと水が出て来ますよ」と言って着替えを渡す。
「下着は無いんです、すみませんね」
と頭を掻きながら言うと、「君の家であったら、中々勇者だと私は思うけど」と会った時のようにカラカラと笑った。僕の好きな笑い方が見れた事に少し安堵する。
猫の方へ僕は寄って行き、身体を優しく拭いてやる。「優しいねぇ」とセカイさんがからかうように言ってくるが、無視。僕が言われたくない事を、薄々セカイさんも感じ取っている様だった。だからあえて茶化してくる。この人、意外と曲者かもしれない。
「コーヒーの後に紅茶かぁ、洒落てるんだが、カフェイン取りすぎだと憤る所なのか…」
セカイさんは難しい顔をしつつ、別に難しい事は考えてはいなかった。何だか笑える。変なものだ、人が自分の家にいるというのは。
紅茶が冷めやらない内にセカイさんは飲み切り、僕の選んだスェットの上下を持って風呂場へと行く。その時、襖が少しだけ開き、「信頼してるけど、覗いたら駄目だかんね」と念を押してきた。それは信頼していないという事ではないかと思ったが、もちろん声には出さない。
「わかってますよ」
と苦笑いで返すと、思い出した、というように、「あのさ」と少し俯き、僕の方を見ないようにし、
「私の方が年下なんだから、敬語止めてよね、何かかゆくなる」
「解りました、セカイさん」
「――……死ねッ!!」
ばたん! と襖が閉められる。ぷはっと笑いが込み上げた。からかうと面白いなあ、セカイさ……じゃないセカイは。
ふかれ終ってその場で伸びをしていた子猫は僕の方を見、にゃあと鳴いた。そうか、まだ餌をやってなかったな。そう思ってビニール袋から猫缶を取り出し、いつもは使っていない皿に開け、「ほら」と目の前に差し出した。最初は匂いを嗅いだり、慎重にその味を確かめていたのだが、一口小さく食べると目を輝かせ、がつがつと食べ始める。
可愛い、な。
今まで動物をほとんど飼った事の無い僕でも、こうやって可愛がれるのだから、動物とは不思議なものだ。
その時、僕は笑っている事に気付いた。自分の家で、自分じゃない人間や動物と触れ合って笑顔になっている。僕が。この、僕が。
猫缶を食べ終え、子猫は僕の方を不思議そうに見ていた。動物で良かった。
これなら泣いている僕を、セカイに悟られる心配も、おそらく無いだろうから。
ドアを挟んだ風呂場からのシャワー音が、優しく僕の家を包んでいる。
5
「何しんみりしてんの? だいじょぶ、ウインド?」
僕の所にセカイが歩いてきて、湯上りの赤くなった頬を押さえタオルで水気を取っている。僕は少しの間黙り、「ちょっとしんみりしてた」と正直に言うと、「何なに~セカイさんが押しかけ女房風に来たから興奮してるとかじゃなくて~?」とからかい混じりに言う。その言葉を無視し、「シャワーの使い方解った?」と訊くと、「うーん、やっぱり日本人は湯船に浸からなきゃ駄目だよね~、最ッ高だよ、お風呂」と笑顔で言う。サングラスはもちろんかけたまま。邪魔じゃないのだろうか。
そんな事を思っていると、セカイは僕の向かいで餌を食べ、満腹になったのか丸くなった子猫の様子を見て、
「随分慣れてるじゃない。この猫、ウインドの事好きだよ絶対」
「猫に惚れられても全く嬉しくない」
呆れながら返すと、「思ったんだけどさ」とセカイは口を引き結び、
「いくらなんでもウインドは自分を卑下しすぎだよ。会った時から何となく解ってたけどさ」
その言葉にらしくなく僕は狼狽する。内面をいきなり鋭く抉ってくるようなその言葉が、すとん、と胸に軽い音を立て刺さったように思った。黙った僕に畳みかけるように、セカイは、
「何があったのか知らないけどさ。自分のいい所を自分で否定していい事なんてなんにもないよ。せいぜい時々誰かがそれを否定してくれて満足感に浸れるくらいだって。自分のいい所を覆い隠そうとしなくても、充分ウインドはいい奴だって私は思ってるよ。自分を貶めてる暇あったら、自分の好き所数えて楽しめばいいんじゃん? もったいないよ、ウインド」
と今度は優しいとさえ言えるような口調で言ってきた。僕はそれに妙に腹が立ち、何故か解らないが、全部否定したくなった。全部否定して、全部ぶちまけたいと思った。でも、僕の下らない何かがそれを邪魔する。僕が僕自身を語る事が、何か禁忌であるかのようにそれを遠ざける。セカイの真っ直ぐな心に、委縮でもしてしまっているように。
「僕は、そんなんじゃない。僕は、……何だろうな、上手く言えないな……とにかく、僕はそんなにいい人間じゃない。僕は誰かに認められたり、救われたりするような人間じゃないんだ。ま、そういう事にしておいてよ」
そんな風にしか自分を考えられない事に辟易しながらも、僕はただ丸くなって幸せそうに寝ている子猫を見つめた。まるで、セカイの視界から逃げ出すように。
セカイは僕の方に座り、顔を逸らしている僕の頭を持ち、ごつん!、と――頭突きをした。物凄く痛かった。涙が出るくらい、強烈な一撃だった。
僕があまりの勢いと痛みのあまり、尻もちをつき叫んでいると、滲んだ視界の中でセカイが腰に手を当てて立っていた。時々額を擦りながら。痛いのならしなければいいだろう、と思わず叫びそうになる。
セカイは腰に手を当てたまま、その良く通る声で僕に、「アンタね、私を馬鹿にしてんの?」とかなりの怒気を発散させこちらを見る。
驚きと痛みで声が出ない僕に、セカイは、
「アンタが自分がどうしようも無い人間だって言うんだったら、アンタ頼って、信頼して家にまで上り込んでいる私の立場どうなんのよ、ちょっとは頭使いなさいよ、馬鹿にしてるわけ、私を」
と一気に言い終えると、
「自分の凄さに気付きなよ、ウインド……」
と、優しく微笑む。
僕はその姿勢のまま、心の一番奥に、そっと温かい何かが吹き抜けるように感じた。
熱く、赤く、熱した鋼のような色合いの、そのいかようにも変化出来る熱さを持った言葉が、僕の中に入ってくる。その息吹に、ただ目を閉じた。僕は、何かが肩からすべり落ちていくような気がしていた。
言葉の魔法は、直ぐに切れる事もあれば、一生通じ心に留まり続ける事もある。これは、完全に後者だった。僕はまた泣かない様、そっと上を、天井を見上げた。汚れた天井は、幸せにこの家で暮らしていたいつかの日々を思い出させる。
泣かない。泣かない代わりに、僕はセカイに視線を戻し、言う。
「未来人に説教されるなんて、生まれて初めてだよ」
セカイはふっと微笑み、
「未来人ぽく暗号でも伝えてあげようか?」
「遠慮しとく。地下組織に連行されたくない」
二人で笑った。楽しい、と感じている僕がいる。久しくなかった人の声が、する。
何かが始まるように、何かが終わるように、そして考えすぎの頭が心地よい空白で満たされていくように。不思議な感覚だった。
6
フライパンで米と卵、野菜を適当に切ったもので、一気に炒める。チャーハンである。作るのも冷ご飯があればいいし、ありあわせの物で食べれるという利点は捨てがたい。手首の返しで米を宙に舞わせると、連続でぱらりと米が剥がれていくうちに感覚がそこへ集中し、無心、とまではいかないが余分な思考を捨てる事が出来る。返して返して、そこに鶏がらスープの素を入れ、塩コショウで少々味つける。
出来るまでに時間も掛からず、冷蔵庫の中身さえ減らすことが出来る。あり合わせの物で作るなら一番だ、と勝手に僕は思っている。
「うまそーな匂いがするー」
とふらふらと台所までやってくるセカイ。僕はしっしと手を払って、
「邪魔だからあっち行ってなさい。ここは戦場です。民間人が居てはいけません」
「私の時はロボットが作ってたけど」
「そんなSF聞きたくない」
慣れてきたのか、だんだん僕の素が出始めてしまっている。普通の人相手ならこんなにぞんざいに扱わないだろう。セカイは僕との距離をドリルで削りとって行くようだ。まあ、僕の素が出せる相手、というのは貴重極まりない。だからやってあげよう。――しっしっ。
セカイは頬を膨らませ、じっと僕の手元を覗き込んだ後、「私にだって出来る」と強がった。僕は何だか微笑ましくなり、「じゃあ、サラダ作ってくれる? 冷蔵庫にレタスとミニトマトとハムがあったから、適当に千切ってボウルに入れて、サラダドレッシングかけて。お願いできる?」と言うと、顔を輝かせ、「やる!」と言って左隣にある小ぶりの冷蔵庫に向かった。小さな女の子がいる家庭とはこんなものかもしれないな、と笑う。
そんなこんなで料理が完成し、僕達はテーブルに座って、大ぶりのスプーンを使って盛られたチャーハンとサラダを食べる。意外とセカイには好評で、僕としては一安心だったが、サラダの方はちょっとドレッシングが効きすぎていた。でもまあ、一生懸命に作ってくれたのだから残さずに食べる。セカイが「よく食べたね」と自分の分を残していたのに少なからず腹は立ったが。
片付けは二人で共同でやった。僕の台所に人が入るのは何年振りだろう。よくは覚えていないが、母親が僕を残して恋人へと去ってからだから、相当になるのではないか。苦い顔をしていたのを隣にいて気付いたのか、セカイが、「大丈夫?」と訊いてくるので、曖昧に微笑んで誤魔化す。セカイはその生い立ち上、人の感情に敏感な所があるようだった。それがどんな生活だったのか訊く勇気は無いが、彼女にとって苦痛以外の何物でもない事は容易にしれる。僕は彼女が逃げてきた世界についてぼんやり考えた。
人が人を作り出す世界。人が人を機械にしても良心が痛まない世界。そんな所にいて、幸せは感じられるだろうか。僕には想像する事しか出来ない。しかし、息苦しい所だろうな、という気はした。長く生きれば幸せか。死を引き伸ばせば幸せか。色々意見はあるだろうけれど、限定されない生などというのは、かえって人の喜びや生きがいを奪ってしまうものなのではないか、とも思う。
インディアンのドキュメンタリーで、『メメント・モリ』という言葉を知った。〝死を想え〟という意味だった気がする。
必ず訪れる死に、いつも謙虚に受け止めること、今、生きているという奇跡に、感じている大地の息吹に、耳を澄ませる。それが彼らの、透明で透徹な風のような生き方に繋がっているのではないか、と番組は伝えた。
かちゃかちゃと食器を洗う音が響く中で、目の前のすりガラスに霧のような雨が柔く当たる。僕はそれを見て、ふと、隣で食器を拭いているセカイの横顔を見た。
彼女の瞳が少し見える。
インディアンに似ている、と思った。
7
セカイには僕の隣の、父親が使っていた部屋を貸した。当然、そこが新しいセカイの部屋になるわけだが、女の子らしくなく、インテリアに全くのこだわりもなく(全ての女の子が小物や家具や、部屋の飾りつけに興味があるわけでは無いのは知っているが)そのまま押し入れにいれていた布団一式を持ってきて、そのがらんどうの部屋の真ん中に敷くと、そこに仰向けになって寝転び、僕の方をサングラス越しに眺めながら、「キスしたい?」と訊いた。一瞬で心臓が自分の物ではなくなったが、内心を抑え込み「ナンパはしたけどそこまでの勇気は無いね」と笑った。「いくじなしだなあ」と笑い再びセカイは仰向けのまま呟く。
「世界は、結構捨てたもんじゃないね」
僕に聴こえるように言ったのか、ただの独り言だったのか、半別はつかない。でも、僕は同じくセカイが見ているだろう天井を見、
「そうだな」
とだけ返した。
スウェットの上下になったセカイは、今はその長い手足や小さい顔、その顔に不釣り合いな大きなサングラスをだらしなく地面に伸ばし、口元を緩める。
「世界は、捨てたもんじゃ、ない」
もう一度呟くと、僕の方へ顔を向け、
「やっぱりキスしない?」
と言ってきた。
僕は一言、「寝ろ」とだけ言って、電気を消した。おかしそうに笑うセカイの笑い声だけが暗くなった部屋に残される。僕はため息をつきドアを閉める。
唇を指でなぞる。
セカイの唇が、浮かんでいた。
自分の部屋に戻ると、携帯にメールが来ていた。開けると、暮木からだった。何度か事務的なやりとりはしたことがあったが、今回の内容は酷くプライベートなものだった。僕はその内容を読み、思わず笑ってしまう。
『お前が連れて行った女の子、皆が誰だ誰だって五月蠅いから昔からの知り合いだって言ったら、女子の一人が狙ってたのになーって愚痴ってだぞ。このモテ男、死ね。後、狭間にはお前から言えよ。お前の口からだぞ。約束しろ、絶対だかんな。しなかったら殺す。マジで(笑)』
この男が何故女性にモテるのか、これだけで何となく解る。女性本能をくすぐる、とはこういう男なのだろう。隠してるようで隠れてない。隠してないようで隠れてる。そんな解りやすくも解りにくい男、暮木夕。狭間さんとの仲を取り持ってやりたい気持ちで一杯だが、どうすればいいのかが解らない。三人で一緒に下校するとかだろうか。明日、狭間さんに会ったらさりげなく言ってみよう。というより、暮木の一途さは中々心打つ物がある。狭間さんもこいつと一緒になったら幸せになれるのに、僕なんかじゃなくて。と考えた所で先程のセカイの言葉が熱く胸に上る。そこで、少し滲んだ瞳を擦る。嬉しくて泣く、なんてあまり経験したことがないから戸惑う。
暮木の良さに、狭間さんが気付いてくれたらいいけど。
何故か胸が痛かったが、理由が解らず、静かにケータイを置いた。
ベットに飛び込むと、先程のセカイの言葉が耳に残って離れない。何だ、いきなり何を言い始めるんだ、あいつは、と頭の中で煩悩がミキサージュースみたいに掻き回されると、僕から誘ったのに、いつの間にか立場が逆転している。戸惑いがあふれ零れ落ちる。
僕が好きになった女性は、未来人で、ずれてて、サングラスをかけている。
彼女が我が家に来てから、まだ一日すら経っていない。なのに、急速とも言えるような速度で僕達は近づいている。人生は、解らん。解るわけが無かった。
セカイも僕に好意を持ってくれているのは間違いない。だが、それがどこまでのものなのか判断が付きかねる。だからさっきの言葉に素直に従う事が出来なかったのだ。
良く知ってから、なりたい。
僕の頭に浮かんだ答えらしきものに、自分で驚く。僕はそんな真面目な人間だったのか、と。いけない、ホント、セカイと関わる様にかってから自分がガラガラ崩れていく音がする。確実に、着実に、堅実に、僕の方へと押し寄せ、津波のように僕を根こそぎもぎ取り、流して行く。そんな感じだ。
悶々とした中、狭間さんの前髪が揺れている。突然出て来た彼女に、僕は驚く。今は夢の中、なのだろうか、ベットに飛び込み、いつの間にか寝てしまったのだろうか。
狭間さんが何か言った。僕は懸命に耳を澄ます。そこで、僕は周りを見回す。見知った景色な気がした。――緑、クレーター、知らない男女、猫。
夢は唐突に途切れ、気付けば朝になっている。
セカイが僕を見下ろしている。僕は目が点になった状態で、一言言った。
「……おはよう」
「――おはよう!」
外では相変わらず雨が降っている。
雨とも呼べない様な、細かな、穏やかな雨だった。
8
彼女は途切れ途切れに、しかし何かを堪えるように、言った。
「――私、には、関係、ない、し……」
そう言う声のトーンが、既に気にしている、関係しているという証拠ではないかな、と思ったが、我慢して言い足す。
「――そうは思うんだけどさ、友人として、僕にも『恋人』が出来そうだ、ってことは知っておいてくれてもいいかなーって、思うんだけど」
なるべく穏やかでありつつ、ある意味決別を含んだその声に、びくり、と狭間さんの肩が揺れる。相変わらず、目元は厚い前髪のせいでよく見えない。僕がその顔を覗ける日は、もしかしたら来ないのかもしれない。狭間さんとは今、ホームルーム前の教室で、机の前で話している。僕が落ち着いたトーンで話すのとは正反対に、どもり、戸惑い、甲高くなりながら、必死に狭間さんは冷静を装うよう努めているようだった。
そんな彼女の心を傷つけている最低の意識はもちろんある。無ければ僕は相当のジゴロだ。
僕の後ろでは、暮木が凝視しているのがありありと想像できた。出来たが、それを悟られるような真似はしない。僕には僕の都合があり、それは二人を近づける、という事も含まれている。何気ない振りをしつつ、更に言葉を重ねる。
「暮木の奴が、僕にうるさくってさ、狭間さんにちゃんと言えって言うんだよ。お節介極まりないとは思うけどさ、あいつもクラスメイトとして仲良くしたいって言ってるから、今度三人で遊ぼうよ。僕奢るからさ。大丈夫、金はあるんだ」
不敵な笑みを作る様努力して、僕は言う。狭間さんは困惑しているのか手元に持っていた文庫本(SFだった。意外)の縁をしきりに触り、撫で、歪めていた。
「狭間さんも、もっと一緒に何かしようよ。せっかく一緒のクラスになったんだし」
もう六月、そろそろ狭間さんも居心地が悪くなる頃だろう。友人の一人や二人、無理に作る必要は無いけど、世間話するくらいの人がいてもいい。お節介だろうと何だろうと、僕には何故かもうそれが偽善的だとかどうとか考えなくなっていた。セカイのせいかな、とちらりと思った。
僕の今までにない力押しに、狭間さんも僕の方をちらりちらりと見ていたのだが、僕が力強く頷くと、「私で、よければ……」と消えてしまうような声で、言ってきた。
その声は何か大きなものを無くした後に残る、僅かな温もりに浸る様でもあったが僕はそれを無視し、「じゃあ連絡するね」と言って席に戻る。そこに暮木が、「何で俺も一緒なんだよテメエ」と不機嫌そうに言った。吹き出しそうになるのを堪え、「心配だろ?」と笑って言った。
難しい顔をし、
「まあな」
と一言言って前を向く。それからもう話しかけるなと言外に言っていたので、僕も前を向いて、ため息をついた。
振るのとくっつけるのを両方やるのは、とても心臓に悪い、と思う。
セカイは、家で何をしているだろう。
僕の部屋にいついてしまい、猫と共にすっかり僕の家の住人となった彼女は、好き勝手に僕の部屋を漁っていたが、肌色割合が多い本は絶対に解らないはずである。探すだけ探してもらおう。
家に誰か自分以外の人間がいる。
世界が少し、違って見える。気にせいにしてしまうにはもったいない、入っていなかったコップに水が注がれたような、少しの充足感。
授業は始まらない。チャイムが思い出しくしゃみするのを、僕は待っていた。
9
ただいま、と呼べる家がある人は、それだけで幸せだ、という気がする。少なくとも、幸せの片鱗を掴みとっていることは、まず間違いない。
この言葉を言ったのは何年振りだろう。こんな言葉一つ言うだけで、人生は捨てたものじゃないと思う。それが、例えどんな人であれ、僕にはそう感じるのだ。〝ただいま〟を言える人間は幸せだ、と。
ドア開けて中に入る。玄関は綺麗に掃除してあるものの、やはり最近は少し砂が溜まっている。そろそろ箒で掃かないとな、と思い三和土を上がる。
入ると、中から例のセカイの心地よい笑い声が聞こえてくる。その方に歩いて行くと、廊下から白い子猫が僕の方に寄ってきて、身体を擦り付けた。小さいな、と思った時は抱き上げていた。僕の前でにゃあんと一声鳴くと、僕の方に眠そうな目を向けた。
「ただいま」
僕は笑顔になりながら、その子猫にまだ名前を付けていないことに気付く。
どうしたものか、抱えながら部屋の障子を開ける。中では、セカイがいつもの褪せたピンクのパーカーと青みが強いジーパンを履きながら寝っ転がっており、その足をぱたぽたさせながらテレビに釘付けになっていた。僕の方を見もせず、「おかえりー」と良く通る声で言ってくる。……まあ、聴けるだけマシだ、と先程考えたことを修正し頭の中のファイルに入れ直す。僕は半眼を作りながら、
「お前、ずっとテレビ見てたのか?」
と詰問口調で尋ねると、
「うん。ずっと見てた。いやー、中々興味深いね。実に興味深いよこれは」
と悪びれもなく返してくる。
肩越しに頭だけこちらに向け、そんな事を言ってくる居候1。2は大人しく僕の腕の中で眠っている。それにしてもよく眠るな、この子。
腕の中で寝息も立てずすやすや眠っているこの子は、寝顔だけ見るなら正に天使である。起きている時は中々近寄りたがらないから、尚更新鮮だ。
僕はテレビの方に顔を向けた。中で少し古いタイプの時代劇がやっており、その刀の一挙手一投足を決して見逃すまいとする彼女は、中で動いている俳優に合せて身体を動かしていた。余程お気にめしたらしい。時代劇なんて僕達にとっても昔の事なのに、彼女にしてみれば正に異次元世界だろう。髪を剃り、残ったものを頭の真ん中に出しているのだし。
「お気に入りの俳優は見つかったか?」と訊くと、「やっぱり健さんだよ、健さん!! 外せないねえ彼は!!」と満面の笑みで僕を見つめる。そうか、時代を超えても彼の人気は衰えないのか。少し感慨深い物があったが、すぐに気を取り直し、
「料理作るけど手伝うか?」
と言ったら笑顔で「手伝う!!」と返してくる。良い傾向、と見るべきなんだろうか。僕は思わず少し笑ってしまって、セカイは「感じ悪ぅ」と口を尖らさせた。それも何だか可笑しく、笑いを堪え台所に向かう。
持っていたスーパーのビニール袋をテーブルに置き、それからエプロンをする。まな板を出し、野菜を適当に置く。何を作ろうか。ま、いいや、買ってきたコロッケがあるから、それオーブンで焼き直し、あとは野菜炒めでも作ろう。手間のかかる料理は好きじゃない。男だから、というと蔑視発言にも聞こえるかもしれないが、そういうものなのかもしれない。何せ三分すら待つことが出来ず一分で出来上がるカップラーメンが出ているくらいなのだから。
隣でセカイが「私台所立つの初めてだよー」と何やら打ち震えているが、何だかなあ、と思う。大袈裟だ、昨日も入ったじゃないか、野菜千切っただけだけど。
「じゃあ昨日と同じでサラダ作ってもらえるか。やり方は昨日教えたろ、出来るな?」
と言って野菜を包丁で切っていくと、不思議そうな顔で「何言ってんのウインド」と首を傾げてきた。
「私、ここに立つの今日が初めてだよ?」
僕は更に怪訝な顔をし(おそらく)彼女を見た。何言ってるんだ、こいつは。
「昨日ここで一緒にサラダ作ったろ? 野菜千切ってドレッシングかけて」
やれやれとため息を吐く。すっかり忘れてやがるな、こいつ。
その瞬間、セカイは驚愕に目を見開いたと思うと同時に、俯き唇を噛んだ。僕からは下に少しずり下がったサングラスと、彼女の後頭部しか見えない。何か、何か重大な発見をしたとでも言うように。僕の方にそのままの体勢で、
「うん、そうだったね、すっかり忘れてた……」と小さく言い、僕が流石に心配になって声をかけようとした所で、セカイはばっと顔を上げ、僕の方を見た。サングラスに阻まれた彼女の視線は、僕へ真っ直ぐ続いていた。何の意味かを図りかねていた僕がどうしたのか尋ねようとした所、
「じゃあ、もっかい教えて? ただ千切ればいいんだっけ」
といつも通りの態度で僕に接してきた。濁りはじめていた空気を拡散させるかのようなその態度に、少なからず僕は違和感を持ったが、少し首を振って考えを追い出した。
その違和感を、僕は見逃してしまっていた。いや、知っていたからどうだ、何か出来たんじゃないか、とは今は思えない。でも、気付けなかった事を後悔しないほど、僕は人間が練れていない。
一緒にサラダを作って、野菜炒めとコロッケを二人で食べた。
相変わらずドレッシングが効き過ぎて、セカイはそれを残していた。
10
「――忘れちゃうものと忘れないものの差って、何だと思う?」
唐突に、セカイはソファで寝転びながら僕に言ってくる。漫画を捲る手を休める事無く。僕はため息とも諦めの念ともつかない感情で、「何だよいきなり」と返した。
が、返した後で、セカイの言っていることを改めて考えた。そうか、言われてみればセカイはそういう世界に生きているのだから、そういう事を考える事もあるよな、と思い直し、正直に、
「それはやっぱり、本人にとって大切かそうじゃないのかの違いじゃないのか?」
と答えた。
僕はその時部屋の掃除中で、セカイがどこからか買ってきたドーナッツのカスを取り除くことに集中しており、会話もおざなりになっていた事を後悔した。真面目に訊かれたのにちゃんと返さないのは悪かったと思い、持っていた箒を置き椅子に座る。
セカイはソファで足をパタパタさせながら僕の漫画に目を落としながら、「ふーん」と言ってちらりと僕に目を向け、
「じゃあ大切じゃなかったら、消えちゃうのかな」
そう、言った。
僕はその顔に、その表情に、その態度に、何故かその場が冷たい、氷の中のような、暗く、凍りついているような感覚に襲われる。
喉の奥が粘つき、何とかその粘膜から舌を剥がすと、無理矢理「……大丈夫だって」とわざと明るく話す。セカイが僕の事をじっと見ている事に何故か酷く狼狽しながら。
「いくら記憶が無くなるって言ったってさ、ちゃんとお前はこうして僕と話したり、聴いたりしてるじゃないか。記憶が無くなるとかそれ以前に、そういう行為が記憶に既に密接に関わってる事だって何かで読んだ事あるぞ。何を気にしてんのか解んないけど、お前が心配するみたいにその記憶が大切じゃなくて消えてくなら、もっかい大切だと思って記憶し直しゃいいじゃないか。何度でも、何度でも覚え直しゃいいんだ。そうすりゃ、忘れる忘れないの問題じゃなくなるだろ? お前だってもうこの時代に来てるんだから、サングラス越しにだって世界をいくらでも見れるし、覚えられえるんだ。僕だって、一杯新しい思い出が出来る様に協力する。もちろん、そのサングラスを外せば記憶が無くなるのかもしれないけど、逆にそうじゃなかったら無くなる事は無いんだろ。だったら、そんな心配じゃなくて、これからの事考えようぜ。無くなる記憶どうこうの前に、まずお前は果物の皮むきから覚えろ。……だから、……――心配すんなって」
自分でも何を言っているのかよく解らなくなった。セカイが訊きたいのは何かもよく解っていなかった。
ただ、僕はセカイの今しているこの顔は、成るべくなら見たくないと、いや、なるべくと言うのは違う、絶対に見たくない。そう強く、思った。
セカイは僕の顔を少しじっと見た後、サングラスを、目を下に下ろし、「ねえ、この次のは? もう終わっちゃう」と持っていた漫画本をひらひらかざした。そのいきなりの態度の変化に、氷解した空気に、僕は毒気を抜かれたような気分になり、暫くそのまま固まってセカイを見る。セカイは笑っていた。「早く持ってきてよー、カケネがどうなったか凄く気になんじゃーん」と能天気に見える態度で主人公の身を案じる。「……少し、待ってろ」と僕は何も考えず、いや考える事を避け、頷き黙って僕の部屋まで行く事にした。頭に浮かんだ何かから、必死に逃げ出すように。
セカイの隣を通る時、ちらと、漫画を見るセカイを盗み見た。
唇を噛み、セカイはただ終わりのページをじっと、睨みつけていた。
11
セカイが来て二週間が経とうとしている。
僕がほぼ家事をして、セカイが時々気まぐれにそれを手伝うといった感じで毎日が進む。その間にいくつかの日常の決まり事が自然と決まってきていた。
まず一つ、セカイの趣味に対し文句は言わない。これは、まあ考えて貰えば解るとおり、彼女はこの時代の事を殆ど知らない。よって、彼女が興味があるものが、必ずしも僕にとって好ましいとは限らない。例えば時代劇。これは、僕が全く興味がないものの一つであり、尚且つ僕の好きなドキュメンタリー番組と高確率で被ることが多い番組でもあった。
ここでも一悶着あったのだが、やはり僕が最終的に折れる事になった。彼女が泣きそうな顔で「切腹してやるぅ!!」と言った時には心臓が本気で止まるかと思った。
その後、笑いながら暴れん坊将軍のテーマを口ずさんでいた時には大いなる脱力感を感じもしたが。
そして二つ目。
セカイのズレた価値観を否定しない事、である。
前述した通り、セカイの住んでいた世界は五十年後である。どんな世界なのか知らないが、こちらの常識が通用しない所があることは最早間違いない。
一つ上げれば、彼女には掃除の概念が無い。
どういう事かと言えば、彼女が居た世界では、掃除、洗濯、全て自動でロボットがしてくれていたとの事で、寝ていても放っておいてもしてくれる、という考えが既にある。
そんな彼女が自ら進んで掃除をする、または家事をするとお思いだろうか、する訳が無い。だから基本家事は今まで通り僕の役目である。だが、本人も自分が居候という自覚はあるのか、積極的に手伝ってはくれる。…まあ、次の日にはそれを忘れている事も多いのだが、まあそれには目を瞑るべきなのだろう。
一つ絶対に彼女が譲らなかったのが子猫の餌やりである。
セカイは拾ってきたこの子猫にやたらと好かれているのだが、最早彼女は目に入れても痛く無いのではないかと言う程名前すらないその子を溺愛しており、忘れそうになっても、僕の助言でいつも寸前で餌をきちんとやっていた。ちなみに未だ名前が無いのはセカイがうんうん唸りながら出した名前が『チェブルスキー四世』であり、僕が未だに認めていないせいである。ネーミングセンスが無さ過ぎる。どこから出て来た四世。お前はその前の三人を知っているのか。
今では僕が勝手に『シャワー』と言う名前を付け呼んでいる。セカイは認めていないが、もうこれで確定だろう。ちなみにシャワーとは驟雨、つまり通り雨の事であり、この子と会った日の事を意味しているのだが、セカイは普段使うシャワーと同じだから嫌らしい。まあ、僕もネーミングセンスが無いという事なのだろう。どっちもどっちである。
しかも、そんな彼女の名前すらも、時々セカイは忘れる。口から出てこないのだ。僕が心配して教えてやると、私は認めてないから呼ばないだけ、と意地を張るように見せ、凄く、不安そうな顔をする。僕はよく解らないが、そんな時彼女を抱きしめる事が多くなった。……まあ、それ以上に発展したことがないかどうかは、ご想像にまかせようと思う。
とりあえず、僕の口から言える事ではないとだけは、言っておく。
そんな感じで、僕とセカイはだんだんと文字通りこの〝世界〟に慣れていった。距離も縮まり、笑う事も多くなっていった。僕は、時折見せる彼女の不安げな顔を見るのが嫌で、よくふざけた事を言うようになった。僕自身とは違う人物を演じるようになっていった。セカイは、それに気づきながらも僕の冗談に笑うようになる。彼女なりの優しい心配りなのだと、既に気付いていた。逆に、僕が癒されていたのだろう。僕は、自分の弱さを感じる事が多くなった。どんどんどんどん弱くなり、そして、強くなった。セカイはいれば、どんなにも強くなれると思った。
そんな風にして、日々は過ぎて行く。
そして、そんな僕はいつの間にか少しずつ変わっていたらしい。お節介なくっつけ役を、進んでやることにしたのだから。
暮木夕と、狭間快。この二人の『遊びと銘打ったキューピッド役の日』が、もう明日にまで迫っていた。




