第二話 会
1
無意識、というものは、夢の分析で説明できる、と誰かが言った。何かの本だっただろうか、よくは知らない。昨日の夢を見る限り、それは当たっているようにも、外れているようにも思えた。
こんな夢だった。
僕が居るのは森の中。その奥に、昨日出会った少女が居る。彼女は僕を見て、『未来と過去について、考えたことはある?』と微笑みながら尋ねた。僕はそれに『これからあることよりも、今どうやって暮らしていくかで精一杯。そんな暇無いよ。考えると辛くなるから、考えないようにしてる』、と誰にも文句が言われない世界なので、大分僕の優等生、善人ぶりも陰を潜めていた。彼女は気を損ねるわけでもなく、ただ笑い『そっか。それもそうだね。その通りだ、うんうん』とふるふるそのザクザクのショートカットを軽く揺らす。服は昨日見た時と同じ桃色パーカーと青すぎるジーンズ、髪型にも変化はない。しかし、髪はよく手入れされているようで、真っ直ぐで艶やかな髪質であることは知れた。今はその手入れされた髪が風に揺れている。
何より、僕がその夢で一番驚きだったのが、その顔についている大きく黒いサングラスが、無くなっていたこと――つまり、見たくて見たくて仕方なかったその顔――を、初めて見る事が出来た事であった。
その顔は、何か僕の中に一瞬懐かしさ、なのだろうか強い既視感、デジャ・ヴとでもいうのか、そういうものを感じさせたがそれが何かは解らない。
瞳を隠すと、人は人を認識するのが難しい。彼女の場合もそうだった。彼女であることは間違いないが、素顔を知った時、大きな戸惑いと、期待を更に上回れた感じがして、鼓動が速くなる。
全体的に柔らかい印象の目鼻立ちだ。
唇は最初から見えていたため、その細くも柔らかそうな質感をたたえ、赤さも引き込まれるような引力を持っていたし、鼻筋も顔の真ん中をその鼻梁で真っ二つに分けているようで、高くはなく、低いと言ってもいいくらいなのにそれが逆に涼しさをそこに添えていた。頬の輪郭も滑らかな卵のようで、肌は病弱と思う程白い。しかしその顔が作る表情はいつも不敵と言ってもいいように、また大胆不敵と言ってもいいようにいつも薄く笑みを作っており、それが悪戯好きの子どもがそのまま大きくなったような印象を与えていた。
そして何よりも、その隠された瞳は――と思った所で突然夜になり、突然雨が降り始める。僕と彼女は一気にずぶ濡れになり、昨日と全く同じ状況になった。僕はにわか雨だ、と思うより速く彼女に近づき手を取り走って森の更に奥、大樹の前に来て雨宿りをする。ここで、いつもの僕らしくない行動により、夢の中に彷徨っている、という事が自分のなかではっきり意識され、同時にこれは僕の願望であるのだな、とも思った。願望ならば、もっと快感に満ちた性的な話になろうものにな、とも思った。
隣で走ったせいか少し息を上げている彼女を横目で見る。衣服が濡れ、パーカーの方は桃色が濃く黒めになっているだけだったが、その下、青すぎるジーパンは元々フィットする素材で作られているためか、更に肌に張り付き、色も最早黒と言ってもいいようになっている。恥ずかしさと後ろめたさで少し下げた目線をすぐに戻す。
そこでぴたりと、夢の中で初めてお互いにしっかりと目線がぶつかった。瞳は不思議な色をしている。あまりに、あまりにその瞳は―色が薄く、それでいて呑みこんで体内に取り込む、吸収するとでも言わんばかりで、星屑を散りばめたかのような光を宿し、今はもう雲と雫で隠れてしまった空にかかる星を砕いて入れたように―そんならしくも無い詩的な表現が、さして上手くも無い感想が、僕の内に灯る様に起きた。大きい色素の薄い瞳が全体の部位と合わさることで、その美は完成したとでも言うように、僕は雫が滴り落ち視界に邪魔になる髪に苛立ちのようなものを感じた。僕と目があった事それ自体が驚きのように、微かな怖れを抱くかのような、捕らえて離さないとでも言うような顔が、そこにあった。
彼女のその身体が震えているのが、寒さのせいなのか、それとも僕に対する何かのメッセージだったのかは解らないが、彼女はこう言って、笑おうとしたように見えた。
――『やっと、会えたね』――
そこで夢から冷めたのだった。
2
足が何かに乗っかり、浮き上がっているような感覚に囚われた。
どのくらいそうしていただろう、少なくとも、僕の中ではかなりの時間を有してはいた。感覚が何処か遠くに急ぎ足で去ったかのように覚束なく、雲の上に立ったような、というのは文章としてはおかしいが、いや別に比喩表現なのだから関係ないとも思うが、とにかく、僕はその光景に自分がどう対処すればいいのか、どう反応すればいいのか全く解らなかった。しかしそのどこか冷えた個所もある頭の隅で、行動を起こすための装置が作動するような音も聴く。それは不快では無く、自分の意志から遠ざかっていくようで実は近づいているという事も、解ったように思えた。
ふらふらと、と言うのは言い過ぎかもしれないが、――足取りも確かでは無いという意味では間違っていない――歩みで、僕はそのレーンの方へ歩いていく。後ろで皆が自分の靴を貰い、わらわらと機械に自分の名前を登録しているのを見て、構わずそちらへと向かう。暮木が戸惑ったように僕の背に「おい、どうしたんだよ日雲!」と呼びかけるが、頭の中の少しのスペースも使わず、「ごめん……ちょっと僕用があるから……」とまるで夢遊病者のような感覚の中呟き、彼女――サングラスを夢の中とは違いかけているが――を視線で追う。その瞳は隠れてしまい窺えないが、真剣に前を見つめているのは引き結んた唇から知れた。
視線(と言うと語弊があるが)の先にはボウリングのピンがあり、彼女は少し後ろに下がり、手に持っているピンクのボールが細く白い指に収まっていた。その三本の指、中指、薬指、親指が指の中ほどまで刺さった状況で、彼女は一度胸の高さまでボールを持っていき、それをかき抱くようにして胸に押し付ける。そこに左手を添え、右足を下げ、歩幅を再び探すように磨かれた薄茶色の床を擦りながら確かめ、そこからぶうんと大きく右腕を後方に降り、その球の重さを感じるように地面と水平となった腕が反動で前へと振り抜かれる。ごとん、という地面とボールが触れる音と共にそのまま真っ直ぐに回転を速めその先にある十本のピンに向かう。大きな石を動かすかのような音が鳴り、僕の視線もそのピンの先端に注がれる。そのピンの一番手前にある孤独な一本がその無慈悲な球に弾き飛ばされたと思った後、連鎖的に後方のピンが雪崩を起こすように弾かれて、遂に十本全てのピンが地面にその底面を維持していく事が出来ず倒れ吹き飛ばされ後方へ飛ぶ。――直後、『ストライク!』という文字がそのレーンの機械の画面に現れ、目を向ければ何やら連続して取ると何かのプレゼントの抽選権が貰えると書かれていた。遠くてよく見えないが。軽快な音楽が一瞬流れ、時間が再び僕の中で動き始める。彼女の全ての動作を一瞬たりとも見逃さぬように見つめていたのだが、やはりそれは昨日感じた時と同じ、まるで彼女がこの場所とは違う所から張り直されたもののように感じた。後方で騒いでいる大学生らしき人達のハイタッチすら霞んだようだ。
僕は、再び息をしはじめた世界と再会を喜ぶかのように大きく息を吸い込み、彼女の前へと歩みを進める。先ほどの美しい挙動から、彼女が相当の経験者であることは知れたが、そんなことは些細な事だ。ボウリングというのは何やら宇宙的で、ルールが簡単でしかも奥が深い、と誰かが言う。多分後方で騒いでいるクラスメイト達の一人の声が脳内でクローズアップされたのだろう。彼女の雰囲気に合っていて、満足そうにレーンの方を向いているのはとても絵になった。
と、その濃いサングラスがピクリと揺れ、僕の視線に気付いたようにこちらを見た。――一瞬、彼女の口が驚きの形を作った事が僕は解った。その表情から、忘れている訳ではないのだな、という事が解り、安堵する。昨日今日でいきなり忘れられたりはしないだろうが、それでも、だ。
「あなた、えっと確か……昨日……だよね」
そう呟くように言われた時、心臓が勢いよく跳ねた。その声は、あまりに、そうあまりにも昨日見た夢の中での彼女の声と一緒だったからだ。僕は粘つく喉の唾を飲み干し、つっかえないよういつものように作り笑いを浮かべながら――成功したかは自信無いが――彼女に向かって微笑み、「や、あの時はどうも」と言った。
僕と彼女に昨日出来た線が、再び結び直され、強くなった気がした。
その糸は細くあり、固くもあり、太くあり、柔くもあった。つまり、僕達の関係性の中で紡がれるもの、僕達の感情によって作用されるもの、そんな気がした。今はそれが始めての時よりも強くなった、それだけなのだとも。
「あーっと……ボウリング好きなの?」
何だそれは、と自分で自分の台詞に顔が赤くなった。何だそれ。その正にどうでもいいとしか言えない、何の意味もなさない空っぽな言葉。
少し戸惑った表情を浮かべ、彼女は僕に、
「うーん、好きっていうか、これくらいしか知ってる物なかったというか。……成り行き?」
見た所一人で来ているようだったので、相当熱心なボウラーかと思ったが、そう言う訳でもないらしい。しばしその黒いサングラスの奥の瞳を何とかして透かし見ようとした。ちょうど、音を立てボールが機械によって左手側から吐き出され戻ってくる。そちらに彼女の顔が向いたので、僕は慌て「あ、ごめん、邪魔しちゃったね」と震えそうになる言葉を何とか正常に聞こえるよう言う。
逡巡したのが見て取れたが、僕も突然の事に頭が混乱しており、上手く働かない。どうしよう。確実に変な男である。昨日たまたま知り合った女性に声をかけるなど、いつもならはほぼ不可能な事をしてしまっている。何かの衝動なのは間違いない。僕がその掠れそうになる声を発そうとした瞬間、僕達が入ってきたエレベーターから濡れた女子大生のような大人し目の子達が私服を触りながら「あー濡れちゃったぁ」「突然だもんねぇー」とそれを少しも嫌に思っていないだろう、という感想を持ってしまったほどあっけらかんと傍を横切り、サングラスの少女の後ろでやっていたメンバーと合流する。そんな中、後ろから暮木が「おい、日雲、やんねーのか」と言ってくる。僕はぐちゃぐちゃとなった思考から何とか言葉を探し、「あーうん。ちょっとやめとく」と笑い返しすぐにまた彼女に向き直る。クラスメイトから「何、日雲くんナンパ!?」「うわまじまじ!? 見かけによらねー」などと勝手に言う。それがサングラスをかけた彼女を見ると「何あいつキモくね、なんでこんなとこでグラサンかけてんの」「いいじゃん別に、ほらやろーよ!」と口々に言っていた。内心激しい怒りを感じていたが、それは表に出さず、
「ごめん、悪気ある訳じゃないんだ、気にしないで、本当」
と一応弁護する。本心は全く逆だけども。
少女も「あー気にしないで、言われ慣れてるから」と笑って返した。
心の中で更に後ろで騒いでいる女子に罵詈雑言を吐き、僕は、
「何かさ、昨日会ってから何となく気になってて。あれからどうしてんだろう、みたいな。風邪引かなかった?」
僕が精一杯、穏やかな人間像を構築する事に腐心していると、彼女は、
「私こう見えても頑丈なんだよ。時々ああやって空見るんだけど、やっぱ変だよねぇ、普通の人から見たら。ま、自業自得、ってやつだね、あれ、この言葉ってこれであってるよね」
僕はそれに僅かに首肯し、
「合ってると思うよ、確かにそれは、自業自得だ」
と言ってぎこちなく笑う。
彼女も一緒になって笑う。僕達の中が、ようやく温かな、心地の良い温度になってきた。ふと、横目で彼女が見た方向にボールがあった。邪魔しちゃ悪い、と思うと同時にこの瞬間だけは逃せない、と自分のそういった感情面をサポートしてくれる声が張り上げる。今しかない。今、この瞬間にしか、無い。
「あのさ、よかったらなんだけど……」
唾を飲み込む。息が速くなる。それを悟られないよう焦り、更に速くなっていく。口が一瞬で渇き、喉の奥がひりっと焼けた。自分で出来る笑みを何とか浮かべながら、必死に、
「一緒にボウリング、しない?」
その言葉を吐いた瞬間、僕は今なら氷でも一瞬で溶かすことが可能だろう、と思った。
何気ない風を装っているが、言っている事は、何でもない只の誘いである。男が女を誘っているんだから、他に意味があったら誰か教えてほしい。少なくとも僕の放った言葉はそういう意味が含まれている。むしろそれしか無い、という事も出来る。
彼女は少し迷った後、僕に微笑み、「手加減しないけど、いい?」とにやりと笑い返した。その笑い顔はそのまま夢の中の彼女と一緒で。
僕は内心心臓が壊れそうに軋むのを聴きながら、「任せてよ」と言ってから、「僕はね」と切って、「これでもね」とまた切ってレーンから見、反対方向にある重く色とりどりの三つの穴が開いている球体を手に取る。薄いブルーにグリーンのマーブル模様。ちょっと地球に似てるな、と正にどうでもいい事をちらりと考えながら、言う。
「アベレージ50なんだ」
それを聴いた彼女はぶっと息を吐き、それから高めのソプラノボイスをその喉で奏でる。ボウリング場の視線が少し彼女に向かい、直ぐにまた自分達のゲームに意識を戻していく。よく響く笑い声に、僕も少し驚く。と、同時に安心した。どうやら、警戒心は解いてくれたようだ。
「名前、名前教えてよ、何ってーの、あなた」
涙が滲んだ彼女のその顔に、僕は本日最大の笑顔を浮かべて返す。
「日雲。お日様の日に雲って書いて、日雲。名前はウインド、――風の、ウインド」
緊張しているのを悟られないように早めに喋る。言ってからウインドって何かカッコいいな、とぼんやりと考える。またぶふっと笑い、彼女は「どう見ても生粋の日本人にしか見えないけど?」とまたくすくす笑う。僕も手ごたえを感じ、
「いや、ハーフなんだ。沖縄と秋田」
「――北海道じゃないのかー!!」
ひーっ、ひーっと、おかしくてたまらない、と腹を押さえる。笑い上戸なのだろうか、と見ていて思う。
僕は再度ボケようかと思ったが、後ろのクラスメイト達が何か言っているのでここで止めにした。そこで顔を上げる彼女が僕を涙交じりに見た。
「ボケるねぇあなた。やるじゃない」
褒められて素直に喜ぶべき所なのか判断がつかない。つかないが、僕はもう駄目だろうな、と感じずにはいられない。
まだ、この気持ちに名を付けるのは早いかもしれない。まだ始まってすらいないのだから。でも、あえて言うのならば。
「じゃあ、アタシの自己紹介ね―うーん……言えない事も結構あるからなぁ、変に思われない話題……あ、好きな物はナマコだよ、美味しいよね、あれ」
今度は僕が吹き出す番だった。ついてくるポイントが微妙すぎる。この一言で彼女の事が良く解った気になれるから、自己紹介という意味では高得点なのかもしれない。
「名前はね……げ、それも駄目か……うーん、どうしよ」
そう言ったかと思うと、腕を組み、そのままの姿勢で首を傾げた。何だかその仕草がリスや小鳥のように思え、気付かれていないようだったが、また僕の心は舞い上がった。
ちらり、と彼女は僕の持っていたボールに目を向けた。「そうだ、そうしよう」とぽん、と手を打ち笑いながら言う。「――セカイ」え?
「私の名前はセカイ。カタカナで――セカイ。……でどーだろう?」
どうだろうも何も、それを僕に訊くのか、と思ったものの、僕は反射的に返した。
「……よろしく、――セカイ」
「……よろしくね、――ウインド」
二人でぷっと笑い目を細める。
僕達の線は今どうなっているだろう。願う。切れないでほしい。ずっとこのまま、解けないでほしい。そう願う。
後ろのレーンで、誰かがスペアを出したと騒いでいる。その喧騒の中で、切り取られた世界に、僕達は張り付けられている。
周りの風景を、置き去りにして。
3
「いやぁ、それにしても本当にボウリング下手だねぇ、逆にびっくりしたよ私」
「そこまで褒められるとは何だか照れくさいな」
「褒めてる要素どこにあったのさ!!」
あははは、とセカイさんは笑う。僕はその笑い方が、何だか妙に気に入ってしまった。人を不快にさせる笑い方、というものは、本人の努力や矯正で治る物ではない。僕自身、自分が笑っている所をビデオカメラに映された時は、大いに自分に失望したものだった。笑う、という行為はその人が関与できない何かがある、とその時気付いた。
セカイさんが笑うと、何だか空気に染み通り空気を喜ばせるかのような感じがした。その場にいる人を楽しませる、一緒の空気を吸いたくなる、一緒の空気に染まりたい、そんな事さえ思う気がする。
カラカラ、という擬音があるが、正にそんな笑い方をセカイさんはした。僕に張り付いて、それでいてすっと離れていくような、そんな感覚。今外に出て一緒に傘をさして歩いてる道とは正反対の、からりと晴れ渡るような綺麗な声。
そんな風に心拍数が酷い事になっているのに気づかれぬよう、自分自身最大のユーモア、ギャグ、冗談、考え付く限りの面白い人間像に近づこうという虚しい努力を続けた。幸い、笑いやすいらしいセカイさんは今の所好感触なのだが、こちらの心臓がいつまでもつか、声がもつれないようにしているがいつ限界を迎えるか、というリミットに怯えながら、表情では柔らかい笑顔を保っている。セカイさんは楽しそうに傘を回す。小学生でも今時持たないような明るいイエローの傘。僕はその先の尖ったとも言えない様な少し丸い先端を見た後、ふと上を見た。視界の半分が傘によって半透明になっている。雨足がどうにも昨日よりも強いような気がした。セカイさんがサングラスをずり上げる度にその雨がリズムよく激しくなり弱くなり、まるでセカイさんが操ってるかのようだった。僕はセカイさんの表情が楽しげであることに、心から嬉しくなる。嬉しい? 僕が人と接してただ嬉しい? 思わず笑った。僕が嬉しいか、そうか。
セカイさんは僕の内心など知るわけが無く、「ウインドはよかったの? 皆と一緒じゃなくて」と悪戯っぽい笑顔で僕を見る「いいんだよ」と僕は正にどうでもいいと言わんばかりに切って捨てた。何やら「ナンパ成功か日雲!?」「大人しそうな草食だと思ってたのによぉ!!」とからかわれた。冗談交じりに僕も返したが、内心余計なお世話だ、と毒づいていた。「日雲、お前なぁ……」と本気で怒った暮木には真面目に謝ったが。僕にとって複雑だが、狭間さんにそういった気持ちになることは無い。申し訳ないけど、僕にだってそういう権利はあるはずだ。何か、違和感がまた襲う。何か、重大な勘違いをしているような気がした。何か―と考えたが、答えは出なそうだったので、止める。
僕達は二人でボウリングをした。三ゲームやって、僕とセカイさんのスコア差は四百点近くという大虐殺であり、ボウリングというスポーツはここまで差を広げられるものだったのか、と逆に感心する。左でやっているクラスメイト達の、特に女子の視線が痛かったが、僕は何とか気にしない風を装った。ナンパなどという物が成功するとは思わなかったし、事実ボウリングとは全く関係なく汗でボールが滑るし、セカイさんとの話をいかに詰らなくしないかに全神経を使っていたので(それは今でも継続中だ)途中で自分が何を言っていたのかが全く解らなくなったほどだった。緊張のあまり頭の回路がショートしたらしい。僕の言葉なのに、僕の手から勝手に離れ飛んでいくオモチャの飛行機のようだった。
しかし結果的にはセカイさんも楽しんで(本当に遠慮というものが全くない完璧なスコアを叩き出し)くれたみたいだし、僕も人並みにボウリングというものの面白さ(と切なさ)を感じる事が出来た。水溜まりを避けぱしゃぱしゃと他の小さい溜まりに突っ込んでいく彼女は、靴が濡れるのもお構いなしに歩いて行く。僕もそれに付いていく。ゲームが終わった後、僕の方からお茶に誘った(これも僕にとってはあり得ない行動で、自分自身最高に驚いた)のが、流石にその時はクラスメイトの好奇心と不躾な視線を感じて嫌になった。何だよ、僕がそういう事をしちゃいけないってのかよ。僕の勝手だろうが、放っておけよと心の中で汚く罵っていたのだが、考えてみると人は人に対しこうであってほしいという、願望みたいなものがある。それから逸脱、またはその言動が彼、彼女らしくないというのは見ている人間にとってあまり気分のいいものではないのだろう。それは、自分の中の判断基準が揺らぐからであり、自分が持っているパターンが崩れるからだ。ニュースやワイドショーに人たちが群がるのも、それが自分の持っているパターンを(簡単に、自分の持っているパターンに擦り合せてくれるので)守ってくれるからなのではないか、という気がする。パターンを壊したくない、それが普通の人の考えであり、そう考えると僕の今している事は確かに自身のパターンから大きく逸脱しているのだな、と思った。
セカイさんは嬉しそうに、
「そういえばさ、今って西暦何年? 教えてくんない? お金は作り出せたんだけど、大雑把でさあ、あ、これも駄目か。ま、いいや。今って何年の何月?」
と訊いた。
僕はもう一度彼女を見直し、彼女が本当にまともなのかを確かめようと思った。歳は僕と同じ感じなのに、そういう事を訊くということはあまり思考が働かない障害の人かもしれない。申し訳なくなってくる。しかし、今まで一緒にボウリングをしたり、嬉しそうに楽しそうにはしゃいでいるのを見、そしてこうして会話をしている分には全くの正常、むしろ言葉の端々に顔を出す知識と回転の速さを見る限り、とても聡明な印象を受ける。僕はでは何故そんな事を訊くのか解らなかったが、とりあえず、「今は西暦二〇一☓年六月十日だよ、何、自分の居る場所が解らなくなった?」とからかい混じりに言った。
セカイさんは腕組みし、渋い顔を作り(おそらく)、ずり下がったサングラスを指で押し戻す。雨が少し止む。振り始める。何なのだろうか、これは。
「じゃあ、ちょうど五十年か……次は……、アレ見る限り次はなさそうだしなぁ……、ここで骨を埋めるしかないのかなぁ……はぁ……」
僕には何を言っているか皆目見当がつかない。しかしボウリングから出てから初めて、彼女はその顔に「痛み」や「辛さ」といった感情を表に出した。まるで、自分のしたことが取り返しのつかない事だ、というのを再確認するかのように。
「僕に出来る事あったら、遠慮なく言って。せっかくナンパしたんだし」
心臓限界に挑みながら、顔では調子の軽い好青年を演じる。次の言葉を待っていると、「うん、まあ」とこれまたそっけない言い方で躱されてしまった。罅割れ始める心を誤魔化すように、「僕はこれでも役に立たない事では定評があるからね」と言う。
セカイさんがようやく先程の笑顔に似た何かを感じとり、僕に向かって言った。
「じゃあ相談するよ。話聴いてよね、未来で、過去でもいいけど」と笑う。
僕も、「任せて。僕はいつどこにいてもスーパーマンの如く駆けつけるよ。未来でも過去でも今でもさ」と興奮しつつ返した。
その言葉を聞いたセカイさんは一瞬僕の顔をじっと見、やれやれと肩を落とし、
「期待しないで待ってるねー」
と笑った。
雨足が強くなる。
傘が二つ並んで歩いていく。
距離が少し、縮まったような錯覚を覚えて。
4
セカイさんが行ってみたいという店に行くことになった。
自分から誘っておいて相手の知っている店に行くというのは、いかにもかっこ悪いものとは思ったけど、僕が知っている店なんてスタバとかタリーズしかないから(友人と来て適当に頼むくらい)、それなら、とセカイさんが誘ったのがこのカフェだった。
なんというか個性的というか、今の時代に確実に合っていない。良く言えば独特。悪く言えばかなり趣味が悪い店に来た。
ここに来て日が浅いらしいセカイさんは、実は昨日まで殆ど自室から出ない生活を送ったらしい。
詳しい事は教えてもらえなかったが、ますます僕の中でセカイさんが不思議な存在に思えてきた。来たのは二か月前なのに、出たのが昨日。どれだけ引き籠っていたのかという話である。
ここで普通の人ならサヨナラしてもおかしくない状況なのだが、話に夢中になっており、そんな事は些細な事、と思うようになっていた。僕も充分、彼女に毒されているのかもしれない。
店の前まで来ると、セカイさんが「うっわー、やっぱ凄いねぇーこりゃ!」と苦笑している。
昨日、僕と別れてからたまたま見つけたらしいのだが、それはちょうど僕がいつも行く神鎮町商店街から更に奥に三本入った裏路地にあった。
周りが怪しい、という事は幸い無いけれど、どうしてこんな地元民の僕でも来たことも聞いたことも、こんな派手な外装など見れば一発で覚えてしまうような店を知っているのか訊くと、「歩き回った」というシンプルな答えが返ってくる。呆れそうになるがもう一度店を仰ぎ見、思った。
――ピンク、好きなんだなあ。
その店はこじんまりしていて、通りから完全に隔絶された所にある。印象では、こんな所に来る客はほぼ間違いなくピンク色が好きなのではないかと思う。
外装は蛍光色とは違い、落ち着いた雰囲気を醸し出してはいる。
その落ち着いたトーンなのが更にこの店を不思議なものに変えている。精一杯、周りに合せる努力はしました、だからこれでいいでしょ、文句は聴きませんよ、と言わんばかりのピンクだ。
ドアの所は取っ手が鉄の上に金の塗料を塗っていた様で、少しそれが剥がれ下地の銀が出ている。『WELCOME』と書かれたプレートも同じで、それの方が少し劣化が激しい。
何だかんだ言って、前から営業はしているらしい。リピーターが多いのか、と考える。
さりげなく「セカイさんって、好きな色あります?」と軽い感じで訊いたのだが、即答で「ピンク!!」と答えたので、そうですか、と曖昧に微笑んだ。そうか、そういう人もいるよな、と妙に感慨深かった。
屋根は黄色。派手な外装に、これでもか、と主張しているそれは、セカイさんの興味を引いてしかたないらしい。
「私の地元はこれが当たり前でさー」
とどんな地元ならこんな色使いが許されるのだろうか、と真剣に思わせる発言が続く。
僕は隣のセカイさんが瞳をキラキラさせている事を容易に想像し、彼女の少し動く身体が小刻みに震え、静かな感動に浸っている。何だか、それこそ初めて宇宙を知った子供のように。
「あまり外に出れなかったんだよねー」と言うその態度に、僕は強く胸を締め付けられる感覚を味わったが、こんな僕でもそうなる位、その表情は大きいサングラス越しでも鈍く、悲しげに光っていた。雨が激しさを増し、外に居る事が馬鹿馬鹿しく思えた僕は、セカイさんに、
「じゃあ入りましょっか、……凄い店ですけども」
と言うと、セカイさんも、
「――入るとしますかぁ!」
と本当に飛び跳ね喜ぶ。
その動作に甘い衝動が襲うが、極自然を装い、「開けまーす」とおちゃらけた雰囲気を崩さない様にした。人は誰でも役者だなと、痛感する。
ここから、僕は思いもかけない方向に人生をシフトする事になる。
それは、僕達の関係性に少し、いや確実に変貌させるものでありながら、僕はそれに対しその時何も考えてはいなかった。
セカイさんと僕、二人に起こる出来事、その前兆。扉を開け、そして始まる。
「いらっしゃ~い」
セカイさんを巡る僕達の、物語が。
5
唖然とした。何だ。何だこれは。
隣にいるセカイさんは嬉しそうに飛び跳ねる。僕はその光景にただ呆然とし、その光景を見ていた。セカイさんは「すっごいね、すっごいね!!」とやたら興奮した態度で向かっていったが、僕は別の意味で興奮した。いや、凄いな、これは。
僕達が入った喫茶店、『ムーミン』は、その可愛らしい名前と裏腹に、派手なピンクと黄色と金の外装だった。が、その中身はまた別の意味で驚きだった。
まず、入ってすぐの右脇には美しい木目の本棚があり、そこに並んでいるのは全てSF、サイエンス・フィクション小説や、相対性理論の本やら時空論、ワープやタイムマシン、宇宙人やら未確認生命体やらのオカルト本やら様々な超常現象としかジャンル分け出来ない様な、様々な書籍が並ぶ。中には『貸出可』とまで書かれているものまであり、相当普及させたいのだなあ、としみじみする。
奥には宇宙船をイメージした《宇宙戦艦ヤマト》のような模型が数々置かれた棚があり、ガラスケースの中に綺麗に収められている。即座に理解した。ここのマスター、かなりの猛者だ、と。
その中の一つ、卵のような形をした銀色の模型に、何故かセカイさんは釘付けになっていた。僕はその異常なまでのプレッシャーを放ち始めたセカイさんを不思議に見ていたが、それより先、奥の方のカウンターからマスターが声をかけてきた。
「あっらぁ~お客さん、そんなとこ突っ立てないで奥入りなさ~い。寒いでしょお~」
と太い声で言う。僕はそちらに顔を戻し、――硬直する。
「あらぁ~、随分可愛い男の子と、これまたミステリアスな女の子じゃな~い! アタシのニューサイエンス魂が唸って来るわぁ~、ささ、奥にどうぞ~」
それはなんというか、僕が今まで遭遇したことが無い存在、部類の人間だった。
「やだぁ~イケメンにそんな見つめられたら、アタシ困っちゃう~、化粧大丈夫かしらぁ~」と言って手鏡を取り出し見始める。その濃い化粧に彩られた顔は、どう見ても、僕がどう頑張っても。
「うん、大丈夫ねぇ~ささ、こっちいらっしゃいよぉ、今メニュー持ってくるからねぇ~」
……男の人、だった。それも、かなり男らしい顔をした、逞しい体つきの。ピンクのエプロンをした、……男の人。
僕が何も言えず突っ立ていると、隣にいたセカイさんはもう先程までの険しい顔を止め、隣で、「……よーし、行こうウインド!!」と駆けていく。僕は濡れた傘を傘立てに差すと、濡れたまま奥の席へ向かう。そこは天体望遠鏡が置かれていたり、プラネタリウムが飾ってあったりと、中々確かに心躍るものがあった。腐っても僕も男、ということなのだろうか。
そんな風にして周りを見渡し、席へと着く。セカイさんはその個性的なマスター(?)が持ってきた早速メニューを見て、でも「うーん、解んない漢字とかあるなあ、古すぎ」とか呟いていた。そんな未来人みたいな事言われても困る。
セカイさんは僕に、
「ウインドは何食べたい? 私ね、このイチゴのアイスクリーム!!」
「じゃあ僕はコーヒー、モカで」
そう言うと、マスターさんは、「はいはい~ちょっと待っててねぇ~五十年くらい~」と今時夜店でもやらないんじゃないかというネタで奥へ消える。セカイさんに、
「セカイさん、イチゴ好きなんですか?」
と訊くと、セカイさんは、
「本物イチゴすらも、拡大解釈すればピンクじゃ――」
「――ないです」
あれはどう頑張っても赤という色である。くれぐれも間違えないように。
しかし、僕はその返答に何だか今まで持っていた緊張がほぐれるのを感じる。セカイさんは不思議な雰囲気と感性を持つ。僕に無い物、僕が恐らく望んでも手に入らない類の豊かさを持っている。それを羨ましいと思うと同時に、だからこそ魅かれたのだろうな、と考えた。人は自分に無い物を他人に求める。それは決して浅ましい事や愚かな事ではない。それは、僕達が生きて行く上で、無くてはならない感情なのだと思う。セカイさんにあって、僕にないもの、セカイさんにあって、僕にないもの、それがぐるぐると回っているのがこの世なのだ、と思うくらいには、まだ僕は擦れていないらしい。まあ、もちろん、セカイさんに無くて僕にあるものと言ったら、身長もしくは前立腺くらいだと思うが。
ふと気になった事を訊いてみる。
「セカイさんって、そういえば幾つですか?」
僕の疑問に、セカイさんは「幾つだと思う?」と何処かの年齢を詐称する水商売系の、少し歳がいっているかもしれないキャバ嬢が使うような言葉で返してきた。
それが解らないから訊いてるんだけどな、とはもちろん言わない。苦笑し、「そうですねぇ…」と言葉を探す。僕と同じかそれ以下だ、という見当は付けていたものの、実際どうなのか解らない。とても大人っぽい表情や仕草をする一方でとても子供らしい、素直で疑う事を知らない無邪気さもあるように思える。見た目だって、二十五と言われれば頷けるし、十四と言われても大人っぽいで済ませられる。そんな不思議な雰囲気が彼女の本当の歳をベールで覆い隠しているように思えた。
「三十一くらいですかね」
と冗談を放ってみる。見る見るうちに彼女の顔つきが険しくなっていくのを見た僕は慌て、
「嘘です嘘。十六くらいですかね」
と返す。セカイさんはまだ少し怒ったように頬を膨らませていたが、「あのねウインド」とその持っていたストローで僕の方を指しながら、
「女に歳の冗談はご法度よ。それがどんなに下らなくてもね」
と本気で怒り返していた。僕はしどろもどろになりつつ、「すいませんでした」と頭を下げる。
その行為で何とか機嫌を取ろうと思ったのだが、セカイさんは実は怒ってなどなく、
「――……ふふ、ははッ、あは、くぅふ、ふふふッ、ふあ、あはははははッ!! ―はあ~あ、……本ッ当にからかうと面白いねえ、君」
と言われ、からかわれていた事が解る。しかし僕は不機嫌になるどころか、何だかほっとして逆に笑えた。セカイさんは少し楽しそうに、
「ちょっと惜しいかなー、今ちょうど十五なんだ。誕生日迎えたばかりだからね」
とおかしそうにまた笑う。僕はへえ、思って、じゃあ僕より一つ下ですね、と返すと、
「そっかー、年上なんだぁ、よぉっし、よろしくね先輩!!」
僕の中に下級生に先輩と呼ばれて嬉しくなる部分があるとは驚きだ。それほどセカイさんの態度が可愛かったのもあるし、セカイさんが初めて僕に近づいた瞬間のようにも思えたからだった。
「セカイさんはどうしてこっちに引っ越して来たんです? 学校って何処なんですか?」
僕はコーヒーの匂いが強くなってきた店内で、セカイさんに色々質問した。セカイさんのことをもっと良く知りたいと思ったし、それがまず第一歩だろう、と思ったのだ。
セカイさんは少し唸ってから、「ノーコメント」と言って首を少し横に振る。
僕は何か訳ありだなと即座に解ったが、それ以上追及しようにも、セカイさんの顔が僕の視界に映り込んだ時、ああ、これは駄目だ、と直感した。
どうすればいいのか、と僕も渋い顔をしていたら、今度はセカイさんが慌て、
「いや、別に言いたくないって訳じゃないんだよ、ただ言っても信じてもらえないだろうからさ――……」
と言ってくる。僕は、「いや、いいんですよ」とそんなに信用でき無さそうなのか、と自分を自分を責めていたのだが、それを出したら逆にセカイさんが気にしてしまうだろうと思い、無理矢理笑顔を作る。僕は、
「言いたくない事の一つや二つありますよ。僕だって腹の中、真っ黒ですもん。セカイさんが言いたくないんだったら、別にいいです。いつか話してくれたらなあとは思いますけど。でもそれも、これからも付き合ってくれると嬉しいな、友達関係を維持したいなって下心なので、そこんとこよろしく!!」
と、わざと陽気に茶化した。そうだ、僕に出来る事なんてどうせそれくらいだ。
何の能力も武器も才能も持っていない人間に出来る事なんて、ただ聴く事、待つ事くらいじゃないか。
そして僕の方から再び笑顔を向けると、今度はとても自然に、声が出る。
「セカイさんいると、いい意味で調子ガラガラっと崩れるんです。だから、もっと崩してほしいですよ。遠慮なんかしないでください」
偽りなき僕の本心。出会ったばかりの人間に向ける熱さでは無い台詞。それでも、口から出たそれは、僕にとって一番苦もなく滑り出た言葉だった。
その時、ちょうどコーヒーと、イチゴのアイスクリーム(イチゴが混ぜ合わされたアイスクリームに大きなイチゴが一個乗っていた)と、僕の頼んだモカがマスターの持つ盆に乗せられやってきた。僕はテーブルに置いてあったミルクを少し垂らし、砂糖を入れ、それを口に持っていく。あち、っと言い、少しずつ飲んでいく。美味しい。見かけと違って腕はいいようだ。と、思ったが自分は偉そうにコーヒーの事を知っている訳ではないなあと苦笑する。
マスターが「ごゆっくり~」と言って腰を揺らしながらカウンターへ戻る。僕達の間に、静かで穏やかな空気が落ちた。外はさああ、と霧のような、シャワーのような雨が降り続く。セカイさんが「やっぱピンクじゃん…」と呟いたのを聴いて、「そうですね」と僕も穏やかに訂正した。何だか、そんな場合でもないのに、僕はこの流れている時間がやたら愛しく感じられた。
スローテンポで店内に流れているクラシックが鼓膜に入り優しく撫でる。それにただ耳を傾け、コーヒーを啜った。ちびちびとアイスを削っては口に持っていくセカイさんは、何やら険しい顔をし、僕をちらりと見ていた。
それが憎しみや怒りではなく、戸惑いから来ているものなのだと信じていたが、何かしてしまっただろうか、と心配になる。でもそれほど心配してもいなかった。
それはセカイさんの顔に赤みが差し、なにか照れくさそうに身体を動かしていたからかもしれない。
僕がコーヒーを飲み終わり、セカイさんもアイスを食べ終わって残るはイチゴだけとなった時、急にセカイさんは口を開いた。
「聴いてくれる?」
驚きながら僕は、「何をです?」と返した。セカイさんは真剣な顔をし、「ウインドには、言ってもいい」と呟いた。
何が起こるのだろう、と僕は身構えたが、そういう場合ではないと椅子の上で姿勢を正す。少し息を吸い、僕は「はい」と答えた。
するとセカイさんは僕の残っていたコーヒーを奪い、一気に飲み干した。僕は戸惑う前に(自分の水飲めばいいのに)と冷静な考えを抱いた。
けほっ、けほっと一気に飲んだコーヒーが器官に詰まったのかむせたセカイさんは涙目となり、僕をキッと睨んだ。(ように見えた)
「いい、絶対馬鹿にしたり、笑ったりしたら駄目だかんね、約束だかんね」
と念を押され、僕の意識は一気にそちらへと戻る。
こくこくと頷く僕に、セカイさんは言う。
「――私、未来から来たの」
唖然とする。聴いていたらしいマスターが、がたんと椅子から落ちる音がした。
僕は口を開ける。何を言われているのか、もう一度先程の言葉を反芻し、もう一度、繰り返した。「未来……?」
セカイさんは身を乗り出し、僕にサングラスをぶつけようとするかのように顔を近づけた。
「信じて、お願い」
僕はただその顔の表面の白さに心奪われ、一言、こう言うしかなかった。
「何年後、から……」
我ながら頭の悪い返しだな、とまた頭の何処かから声がする。
セカイさんは、「――五十年後」と言い、僕の瞳を覗き込む。サングラスの奥の瞳が、今ならちゃんとよく見えた。綺麗で大きな目だった。
「――助けてくれない?」
その口がもう一度、開く。
「逃げて来たんだ。私」
外のけぶるような雨と、クラシックと、セカイさんの声が、ミックスされ僕の耳を打つ。静かに、僕達は見つめ合っていた。何も言わず、何も言えず。
暗くなった世界で、セカイさんの瞳だけが僕を動かす。忙しなく、僕の心を掻き乱していく。
「縛られるのはもう、嫌なの」
セカイさんが濡れかかった瞳で、最後に言った。
「この世界の事教えて。お願い」
猫が外で鳴く音が、聞こえた。
それがこの世界のものでは無いように思えたのは、気のせいだったのだろうか。
僕はセカイさんと、出会った。
雨が降り続く音の響く、妖しい喫茶店の中でだった。