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第一話 遇

   


 1





 狐の嫁入りだ。 

 気付いた時には既に、ぱらぱらと(しずく)が落ちてきていた。 

 ぽつ、と落ちる雨が差していた陽光を(さえぎ)り、次第に激しくなってきたところで慌てて玄関へと戻る。

 少し突き出た(さん)の所で、僕と同じく空を見上げ口を開け、突然の天気の変調に驚き舌打ちしたり笑っている生徒達がいた。

 ぼんやりしてるとよく言われる僕にしても、これは中々困った事態だった。

 夕食はどうしようか悩んでいた所で、スーパーに早めに寄り帰ろう、と思っていたのを完全に断念せざる得なくなる。振り向き、傘を貸し出していないか校舎へ戻ろうかと思った。

 今行けば、傘の一本や二本は借りられるかもしれない。

 コンビニで買うのはまだ、もったいなかった。

 靴を脱げ気味にしつつ校舎の靴箱前で来たところで、誰かに呼び止められる。

「誠、一くん」

 声で解ったが、あえて僕はそちらに顔を向け、ぎこちなくならぬよう笑顔を作った。そういう配慮をしなければいけない人というのは敏感で、注意が必要である。

「何? 狭間(はざま)さん」

 後ろに立っていたのは、少し長身ながら前髪をとても伸ばした女の子だった。

 僕は今まで、彼女の顔の全部を把握(はあく)したことが一度もない。

 色々理由はあるだろうが、やはり大きいのはその表情も隠してしまう()()()()にある。

 その他には少し猫背気味の立ち姿と、いつも何かに(おび)えているような態度、それらが複合して彼女の顔を解りにくくしている。特に、僕は気にしないけれど。

 狭間(かい)さん。

 気持ちのいい晴れた日に生まれたという由来を持つ、僕のクラスメイトである。

「降ってきちゃったねぇ、少し油断してた。今日の天気予報で晴れだって言ってたのにさ」

 ふにゃりと笑い彼女を見た。狭間さんは僕の眼をなるべく見ようとし、しかしやはり視線はどこか僕の顔辺りをさまよう。少しだけ見えるその両目が僕を捉えていることだけは無い。

 反応が返ってこないことも知りつつ、僕は辛抱強く彼女の口が開くのを待った。外では最早狐の嫁入りなどと言う事は出来ず、厚く暗い雲が重なり空を包もうとする。光が差し込まなくなり、校舎の中の蛍光灯が強い光を発している事に気付く。誰かが付けたのだろうが、ここまで一気に天候が変わるとは思ってなかった。

 騒がしくなってきた玄関。そろそろ普通の下校時間が来ようとしており、向こうの廊下から騒がしく帰宅する生徒達が談笑しながらやって来た。その天気に気付くと「マジかよー」「持ってきてねえしー」「しゃーね、走ってかえっかー」等と実に高校生らしい会話をした。

 傘を借りに行くなら今の内だろうけど、僕はそれが出来ない事情があった。

 それは僕の眼の前で、そわそわとその長い髪を揺らしながら迷っている、狭間さんが持っている物に目が行ったからだ。

 狭間さんは、僕の方に視線を(おそらく)向け、震えがちのその声で僕に言ってくる。

「傘、無いの……?」

 その綺麗な喉仏が上下するのを、僕は黙って見た。静かに首肯する。僕は雨音と彼女の綺麗なソプラノを同時に感じた。何だか不思議な気持ちになる。その感覚に戸惑っていると、狭間さんはばっと僕にその透明なビニール傘を僕に突きだした。

 ほぼ予想通りの行動だったので、僕は曖昧に微笑むと「どうすればいいの、それ」と()く。訊くのはここでは失礼だと思ったし、彼女の性格上傷ついてしまうかとも思ったが問題は彼女の持っている傘が恐らく()()()()だということである。

 それを借りるという事は彼女が今度は濡れてしまうだろうし、そうでなくては伝説の相合傘なるものをしなくてはならなくなる。ちらと、何故こんなに天気のいい日に、しかも天気予報も告げていなかった日に彼女が傘を用意しているのか考えたが、彼女の事だから常に学校に一本くらい置いているのかもしれない。真面目で用意がいいから、そういう所に気が付くのだろう。

 戸惑っていると、彼女の方もその事に気付いたのか次第に慌て始め、「あ、あの、その、私用事があるから、まだ校舎にいるの。だ、から、その、よかったらと思って…」と途切れ途切れに言ってくる。僕はその不器用さに少し微笑ましい物を感じ笑うと、

「いや、僕も実は傘そろそろ買おうと思っててさ。帰りにコンビニ寄って買うから、それは狭間さんが使って。濡れると乾かすの大変でしょそれ」

 さりげなく長い前髪をからかうと、その見えづらい頬が赤くなり、怒ったようにこちらを見てきた。彼女は優しい。しかし、どうにもそれが空転しがちな事は、僕にも短い付き合いながらよく知っている。心根が優しいことが必ずしもその人を幸せにしないことも、僕達はもう知っている。

「濡れると風邪ひくよ……」

「僕も一応高校生でね。青春するのさ」

「何年前のドラマ……?」

「僕は好きだけどね」

 二人で笑う。僕はスーパーに向かうために、少し降り止んできた空を見上げる。

「空は、いい、よ、ね」

 唐突に狭間さんが言う。少し驚き、振り返って彼女を見る。狭間さんは、僕でもかろうじて解るくらいの笑みを浮かべ、

「なんて、いうか、さ、気持ち、よく、なるの、何だか、強くなれるような、気が、するの」

「髪切ったら、その下からエスって書いた服が出てくるの?」

 一瞬意味が解らないようだった狭間さんは、少し経ち、僕に笑ったような、怒ったような顔をし、言う。

「誠一、君、なんて、片手で、持てるんだか、ら」

 笑って、もう一度空を見る。

 不器用者同士がじゃれ合う、放課後である。




 2



 ()(ぐも)誠一。十六。好きな事は百円ショップめぐりと料理、家事全般。テレビのドキュメンタリー番組、煎餅(せんべい)。あと餅。

 両親は子供の頃に離婚。父親に引き取られたが小六の時に事故で死亡。それから一人暮らし中。奨学金をもらうため、成績はそこまで悪くはない。良いとは思うけど、それを自慢するような自信も無い。将来は教育関係の仕事を目指している。

 プロフィールを頭に思い描くと、なにやら自分が自分で無いような錯覚を覚える。

 僕の人生を総括しようとしたらかなり時間がかかる筈だが、自分の人生を簡単に述べなさいと言われれば恐らくA4用紙一枚で事足りる。不思議なもので、それを誰もが履歴書というもので書くが、それに収まりきることは無いのと同じである。履歴書の方が簡潔かつ自己アピールという訳の解らないものも付いてるので、もっと悪いかもしれない。

 今、僕はコンビニで傘を買い、くるくる回しながら空を見ていた。

 これならこれで、狭間さんと一緒に帰ってもよかったな。

 しかし、狭間さんが僕に好意らしきものを抱いているのは間違いないが、それが何故か皆目見当がつかない身としては、素直に喜ぶわけにもいかない。

 僕だって一人の人間なのだからもちろん好かれれば嬉しいし、たとえ僕の方から友情らしきものを感じてたとしても、彼女にしてみれば本気なのかもしれないのだから避ける方が違うのだろう。しかし、僕は何故か彼女と付き合うとか、そういう感情が湧いてこないのだ。

 それは両親が早くから不仲だったことも関係しているのかもしれないし、僕自身に問題があるのかもしれない。

 ドライ過ぎる所があるのは自覚しているし、友人も多くは無い。

 狭間さんが僕に抱いている幻想も、僕を知ったら去っていく、そんな気さえした。そうか、今考えて解ったが、好かれるのがそんなに好きではないのかもしれない。

 好きになってもらうのは嬉しいとか言いつつ、奥底ではどうせいつか居なくなる、些細な事で何処か遠い所に行ってしまう、そんな感情が埋まっているのかもしれない。特に、狭間さんを見ているとそんな気にさせられる。あの人を怖がる所にそんな匂いを感じてしまうのかもしれない。僕はいい人間では無い、人から好まれるような人間ではない、そんな事を考えているのかもしれない。

 妄想中止。そんなのはどうでもいい。狭間さんがどうあれ、僕に付き合う気が無い、それで十分ではないか。彼女の好意に応えてはあげられないが、友人として上手くかわしていければいい。それで今は充分だろう。

 友人として。よく解らないが僕は唇を無意識に噛んだ。

 振り払うように再び空を見上げる。スーパーは後二十分程の距離にある。商店街の中の小さな個人経営の店に寄ることにする。

 小さな頃から通っているので、色々とおまけもしてもらえるし、僕の方としても気が楽だ。些細な冗談を言い合える関係というのは貴重なもの。性格が悪いと思っている僕でも、彼ら店の夫婦には素直でいい子になれた。自分で自分をいい人間だと思える相手が好き。それは実は皆そうなんじゃないかと思う。

 狭間さんの事は実はよく知らない。

 ただ、全くと言っていい程、彼女は喋らない。まるで、何かを懺悔でもしているかのように。全く。そんな彼女が浮かない程高校は幼い所ではない。友人がいないだけで済んでいる分、まだ自分の通っている所はいい人間が揃っていると思う。

 彼女が話すのは僕だけ。僕だけなのだ。だから僕は、彼女も自分が優しい人間だと思わせてくれる人間と思いたいのかもしれない。最低だな、と自嘲する。全く、最低だ。

 僕がそんな事を考えながら歩いていると、空は再び黒く陰り始め、その身体から重たい水滴を落とし始める。けぶる、というような表現が最も適切な程、その勢いは増し、瞬く間に制服が水気を吸って重くなる。少し小さ目の安いビニール傘では、その勢いに僕の身体全てを守る訳にはいかず、はみ出た肩はじっとり、いやずっしり重くなる。役立たずだなと自分の見通しの甘さを八つ当たりして傘にぶつける。

 買い物などしたくなく、このまま帰ってシャワーを浴びたかった。まあ、今のままでも充分天然シャワーを浴びていると言えば浴びているのだが。当たりたいのは、こんな季節に相応しくない、凍えるような冷たい物ではなく芯から暖めてくれるものである。

 通りに目を向ければ、向こうから自動車や自転車が走って水しぶきを上げる。

 車はともかく、自転車に乗っている人の顔は鬼の様で、口を醜く歪め、しきりにぶつりと呟いている。

 すぐ過ぎさってしまうので、僕も相手も全く関係無いのだが。

 歩道を歩いていると、車の上げる水波に、思わず避けた。ここで水までかぶってしまったら、目も当てられない。僕は少し歩く速度を上げた。買い物しないと、今日食べるものが無くなる。なるべく賞味期限の近いものは早めに食べてしまいたい。まだ冷蔵庫に残っているのは何だったか、頭で思い浮かべた。ついでに献立(こんだて)も考える。ネットでいい物があったら参考にしよう、とつい癖で上を向いてしまう顔を前に戻す。

 雨足が強まっていく。僕は思考をふわりと宙に浮かせ、重なった雲を見る。

 あの空の向こうに何があるのか、と考えて、僕達人類は遂に今は姿を隠している月にまで届いた。あと何年すれば、僕達はこの空の向こう側を完全に理解出来るのだろう。昨日よりも今日、今日よりも明日、そして進んで行く。でも、僕達の姿とか形みたいなものが変わっても、僕は僕だ、という思考からは逃げられない。一時の清涼剤のように、自身が成し遂げた事を思い悦に浸るが、結局僕は昨日の僕とは違っている。脳みそが、ただ僕は僕だ、という錯覚を押しつけているだけで。

 空の向こうにまた違う世界があって、僕達はそこに住んでいる生物から見れば僕達こそが宇宙人だ。彼らにとって、僕はどんな風に映るだろう。そこには人間同士の煩わしい見てくれや偏見が取り外された新しい関係が待っている。そんな空想に耽ることしばし。

 雨の音が次第に僕の耳から遠ざかる。

 アスファルトに落ちた雫がささやかなメロディーとなり心を打つ。

 今日という日がまた終わる。明日という現実感が無い世界へとまた踏み込む。

 僕達の世界はどうやって終わるのだろう。どうやって、僕達に降りかかってくるだろう。この、雨のように。

 現実感が何もない世界で――いや、世界は今でも現実が溢れているという事は重々承知だが――僕は今、傘を差し歩いている。遠くで誰かが叫んでいる。その声は、まるで今しがた悪夢から目を覚まし、飛び起きた時に出る絶叫のようにも思える。いや、単純に怒鳴り声か何かだったとは思うが。

 また少し大降りになってきた空は泣きじゃくるように大粒の涙を零している。僕はそれを見て、なんだか泣きたいような、不思議な気分に陥った。

 空が誰かのために泣いているんじゃないか、そんな気さえする。

 涙を流す、その行為に、誰がその雫を拾えるだろう。とめどなく溢れるその液体に、僕らはいつも震えることしか出来ない。無力だ。無力で鈍感で、世間知らずだ。

 取り留めのない思考から離れ、僕は前を見て大きく息を吐く。空の粒が地面であるアスファルトを黒く汚す。『止まれ』と白く書かれた地面を、車が速度を下げて運転している。僕はその水しぶきに嫌な顔をしつつ街路樹の葉が出す音を聴く。水の跳躍で視界が少しぼやける。歩いていくと、通りの向こう側に人が立っている。随分びしょぬれで、僕は最初精神を病んだ人が、そこで何かしているのだろうか、とも思った。自分でも偏見が強い事に、自分で気付かされる瞬間だった。失礼だな、と思いかぶりを振ると、そのままその人がいる真向いまで足早に歩いて行く。

 ざああ、という音が鼓膜と視界を揺らす中で、僕は横を向いているその人物が、驚くほど透き通ったような瞳で空を見上げている事に気付く。

 こういう時は無視して通り過ぎるのが一番だ、と、足早になるのでもなく、かといってじろじろ見る訳でもない。優しい無関心、というのが彼らを世界で疲れさせない技術である。

 そうは思ったのだが、その人から目が離せなかった。いや離せなかった、というより、自分の目が自分の脳を裏切り、そのままそこに居続けたい、このままずっと視線を外したくない、といった、何か強制的な衝動だった。

 女性だった。女性といっても、僕達よりも年齢が高いわけではなく、どちらかというと僕よりもやや下かもしれない。

 ただ、その表情や物腰、ショートカットにし濡れた髪が、僕よりも随分と大人びて見え、年齢よりも若いであろうことを、無意識にすっと通り過ぎてしまったような感じがした。

 顔立ちは整っている。すっと真っ直ぐに伸びた鼻筋、小さ目な唇、形の良い頬の輪郭、少し高めの身長、僕よりも少し下くらいだろうか、その背に相応しく、すらりと伸びた四肢。

 異様な光景だった。彼女は傘も差さず、ただ、そこにいる。いただけなのに、何か他人を視界から外させる、意識させないようにさせる、そんな力でも持っているかのようだった。

 向かいの歩道で、じっと、ずっと空を見て笑う。気味が悪い、とは何故か思わなかった。綺麗な笑い方だったからだろうか。

 彼女は何かの絵画の一部分のような、そこだけ世界が丁寧に切り取られ、剥がされ、違う所にペーストされたような、馬鹿馬鹿しい想像すら働く。

 彼女を見ている時、まずその不自然極まる付属物に、目がいかない訳にいかなかった。

 濡れた身体の上に乗っている、整っている()()()顔立ちに付いている、その異質なもの。僕の身体はそこに縫い付けられているように動かない。歩道の真ん中で立ち尽くしているものだから、後ろから来ていた自転車のベルに気付くのが一瞬遅れ、その運転手が小さく舌打ちするのが聞こえた。

 僕の向かいにいる彼女にしても同様で、彼女の横を女子高生などが通っていくと、あからさまに汚い物でも見るかのような顔をし一瞬黙り、少し離れた所で何か蔑むように会話した。僕は彼女の異常さの原因のひとつを、その顔に、見た。


 今は六月。随分と気候も温くなり、過ごしやすい、一番好きな季節になろうとしている。そんな中でこの雨。彼女の付けている、()()()意味が解りかねた。

 彼女にも後ろから雨のせいで音が聞き取りにくくなった自転車のベル、かしゃ、かしゃ、という最早ベルの機能を殆ど果たしていない道具の音も正確に反応し、避ける。目線はしっかりとその自転車を追っていたし、一番最初に考えた理由も消えた。温い温度の中、彼女の周りだけ、熱を持っているようだった。

 彼女が、こちらを向いた。動揺しながら、僕も彼女を見返した。一本の線が出来た――ような気がした。

 彼女の僕には解らない瞳を、僕は覗き込むような気持ちで見つめ続ける。


 サングラス、()()()()()()()()()が、僕に向けられた。

 彼女はこんな日に、褪せた桃色のパーカーを羽織り、何処にでも売っていそうな普通のジーパンを履き、立つ。そこまでなら別にいいのだが、顔には何故か大きなサングラスをかけている。

 その色から、奥に秘められた瞳の様子は全く解らない。僕は酷く心身が消耗するのを感じた。力が入りすぎ、逆に力が入らなくなる。見つめていたのはどのくらいか、あまり長い時間ではなかったように思う。でも僕にとっては、何だか下手なメロドラマの主人公とヒロインのワンシーンのように遅く、スローモーに時間が流れているように感じる。

 しばし目が(おそらく)あったと思った後、彼女はふい、と視線を外した。

 らしからぬ自分の行動に、いつものように僕は何とか思考を働かせようと努力した。

 サングラス越しの顔に、僕は一体何を見たというのか。その内僕の中で、いつもなら絶対にしないであろう行動を、ほぼ無意識に行う。

 信号が赤に変わったのを機に、傘の意味をほぼ無くしながら僕はその通りを横切った。足が水たまりに落ちて跳ねた水が周りに飛び散る。靴は完全に乾燥機前に行くことが決定した。走る内に次第にスニーカーの内側から水が忍び寄る。足が冷たい。

 渡りきると、その少女の前、二メートル程の距離を取って近づく。少し首を傾げる彼女は、ここから見ていても整った容姿をしているのが何となく、察せられた。

 周りでは車の排気ガスの音が響き、僕達の側を駆けていく。その音を通し、僕らの今の状況がとても滑稽な事に気付いた。何しているんだろうか僕は。

 彼女に向かい、ここからどうしようと、自分で近づきながら考えた。本当に、何も考えないまま、僕はこんな所で傘も差さずずぶ濡れになりながら、しかもおそらく耳も目も悪くないのに大きなサングラスをかけている女性に、近寄ってしまった。

 どうしよう、と真剣に思う。

 何も考えていない僕の前で、綺麗な、聴いた事があるような、無いような声が、僕の前から聞こえてきた。

「何してるの?」

 その声の主が僕の眼の前にいる女性からだ、という事に耳を疑った。何をしている、それは正に僕のセリフでは無いか。僕の方こそ、そう訊くべき、訊いていい質問である。

 しかし実際に言われてみれば、僕自身何をしているのだろうと思う。何をしているか訊くのも、この場合では妥当と言えた。

 粘つく口の中を一回唾を飲みこむ事で抑え、

「君の方こそ何してるんだいこんな所で。そんなに濡れたら、風邪ひくよ?」

 ほとんど何も考えず口から勝手に言葉が出る。何を言っているのか、いや、自分の頭の中で反芻してみると別におかしなことは言っておらず、場にそぐう発言だったとは思うが、言ってみるとどうも棘棘しい感じになった。

 だが、彼女は特段気にしたような様子もなく、顔下半分から見える口を大きく横に伸ばし笑顔を作ると、嬉しそうに、

「空見てたの」

 と小さな子供のように言った。

「空が真っ暗でもさ、何か空っていいじゃない? ま、私がかけてるメガネが黒いから、尚更そう見えるんだけどさ、何ていうかさ、この世の全てが詰ってるって感じがするんだよね空って。だからこうして、空を見るのが大好きなの。ちなみに傘は差さないでね。濡れながらじゃないと空気の肌触りとか身体に当たる雨粒とかが感じられないじゃない? だからいつも私空を見る時は濡れちゃうんだ。馬鹿みたいなんだけど」

 言っている事が滅茶苦茶で、本当ならあまり近づかない方がいい、と考える所かもしれない。何故そんなことをするのか、何故こうやって楽しそうに濡れていられるのか、何故こうやって少し寂しそうにもしているのか。僕には全然解らなかった。が、ただ一つ言える事、それは僕が彼女に思いもかけない程、鮮明に、より鮮やかに色味を持って感じている、という事である。

 暗い風景の中、彼女の輪郭だけが色が付き視界に入る。そのデータが僕の中に書きこまれ、新たな情報を産み出したように感じた。

 つっかえそうになる声を何とかごまかしつつ、傘を揺らし、水気を取ると、僕は彼女に傘を差出し、「使いなよ」と言った。

 彼女は驚いたように差し出されたその安っぽい透明のビニール傘をじっと(おそらく)見たが、

「――別にいいよ。言ったでしょ、私濡れるのが好きなの。大丈夫、でもありがとね。いい人なんだね、あなた」

 笑いながら、ずり落ちて来そうになるサングラスを指で押し上げつつ、ぺっとりと身体に張り付いた髪をついでに直す。その瞬間、少し雨足が弱まり、つい上を見る。サングラスから指が離れると、また雨が降り荒れ、なんだ一瞬か、と肩を落とす。

 なんにせよ、このまま会話が終わってしまうのは避けたかった。こんな変わっている娘に、僕が惹きつけられる理由が見つからなかったが、僕は彼女を見つめ話そうとした。

「この時代はいいねえ」

 彼女が僕が言おうとした瞬間また話しかけてきて、僕を見る(と、思った)。

 ふいっと上を見上げたかと思うと、何か嬉しそうに口元を緩め、「さっきさ」と呟き、「この辺りに住んでる猫に会ったんだぁ」

 上を見続けたまま、彼女は続ける。

「撫でたら濡れた身体震わせて、くっついてきたんだよ私に。可愛かったなあ」

 すると、また顔を僕の方へ向け、近づき、また笑いかける。

「雨で、ごめんね」

 言われた意味が解らず、僕はただ棒立ちになった。

 彼女はまた、そのまま歩いていってしまいそうになる。

 追わなければ、と思った。

 しかしその背中に声をかける事は何故かためらわれた。そのままその濡れた背中が遠くなる。鼻歌を歌っていた。旋律が空に溶け、混ざり合うように飛んでいく。五線譜が濡れた空気に乗って僕に辿りつく。

 僕はしばらくそこで、雨に打たれていたのだった。



 3



 ぼんやりとテレビを見ている。ニュースがいつの間にか終わり、お笑いタレントの旅番組が放送されていた。全く頭に入って来ないけど、字幕が流れていくのが妙に速い。僕の中のリズムが中と外で違うのが妙に綺麗に理解できる。

 肘をついていると、洗濯機のガタゴトいう音が壁越しに伝わる。目に悪そうな画面の明滅で網膜を焼いていると、思考はまたさっきの所に行く。

 彼女は一体、何者だったんだろうか。

 そんな事をもう何度考えただろうか。

 考えても意味が無い事は解っている。僕ももう一度会えるとは、あまり思ってなかった。と、いうより何なのだろう、この頭のもやは。彼女に対して、僕は一体何を考えているのだろうか。そこからして謎である。

 会って話がしたい。そうなのか? 会って一目でもいいから見たい。そうなのだろうか? 考えれば考える程、僕は彼女に会って何がしたいのか、あやふやなものに変わって行く。

 不思議な人だった、と言えればそれまでなのだ。別に固執するような事柄でもない。でも、実際僕はこうやって彼女に対して謎と言ってもいい程頭のスペースを大量に使い、思考の袋小路に入らせている。

 彼女に会いたい。何故か、強くそう思っている自分がいる。不思議だ。誰かにこんなに心揺らされる事が、今まであったろうか。いや、会ったのだろうけど、自覚的にそう感じることは無かった。あの声が何故か、僕の耳に何度も木霊する。何度も何度もリフレインする。

 カップの中の安い紅茶が湯気を立てる。それに(ほとんど)ど口をつけないまま、また会える可能性に賭けてみるしかない自分に、少し腹が立つ。何であの時、引き留めなかったのだろうか。そう考え、でもそうした後の事など全く考えてもいない自分がいて、どうせ結果は同じでしかない、とも思った。意味が無い、とも。

 夕食を作る事も忘れ、先程寄った店で必要の無い醤油を買い店主のおじさんに驚かれたし、一体どうしたんだと心配される。相当に彼女の事で頭が一杯だったのだろう。気付けばそれ以外にも必要の無いものを買ってしまっていて、それすらおまけしてくれる店主とおばさんに、改めて感謝の念が湧き起こった。

 湯気が立ち昇り、匂いを僕の前まで連れてくる。白いマグカップに口を付け少しだけ飲む。何を考えているんだ、僕は。

 もう一度会えるかも解らない人の事でこんなに悩むとは、本当にらしくない。いつもの適当な僕に戻るべきだ。そう頭は語りかけてくる。しかし何故かあの笑顔が頭から離れない。後ろの窓から空を見た。先ほどまでの雨がぽたりと止み、雲がちぎれ殆ど快晴と言っても良いレベルにまで回復している。

 もう一度口を付ける。その味が喉を通り、僕の身体の一部になった事を、何の感慨もなく感じた。

 ――会いたい、もう一度。

 再会など出来はしないかもしれないいが、それでも僕はそう思った。

 会って何をするのか、何を訊くべきなのか、何を話せばいいのか、そんな所までは到底考えられなかったが、とにかく会いたい、と強く思った。

 僕らしくない、と考える自分と、妙に高揚する自分がいて、それを突き放すように冷静に見つめているもう一人の自分がいる。彼らは皆独立した存在であるものの、それぞれ僕であることは間違いない。テレビではコーナーで『びっくり人間大特集!!』なるものがやっており、何とはなしにそちらへと視線を向けた。

 ちゃぶ台に乗せた肘をどけると、そこには十歳くらいの利発そうな少年が立っており、その横にいたアナウンサーが大きな声で彼を紹介し始める。

『今日ご紹介するのはいつでもどこでも天候を自由自在に変えられるという奇跡の少年、(かい)(せい)くんです。その力の実態はまだ解っていませんが、アメリカで急きょ作られた脳科学チームが魁星君の脳を現在鋭意調査中!! もしかしたら、この世界を変えてしまう可能性もあるのです。では魁星君、今日の天気は曇りだけど、晴らすことは出来るかな?』

 どうやら録画で撮ってあるらしい。その時の少年がやたら堂々とし、そして優越感を滲ませた顔をしているのが少し不快だった。まあ別にイロモノだろうから、気にしてもしょうがない。

 僕はチャンネルを変え、もう一度ニュースを見る。中々面白い事は転がっていないようだ。伸びをして少し滲んだ涙を拭き、起き上がり、料理を作る。

 何故か気分的にスパゲティを食べたくなったので、麺を固めにゆで、即席のペペロンチーノの素を出し、軽くあえて油を少し垂らし完成。ちゃぶ台に持って行き、ほうれん草のお浸しと昨日作った味噌汁を煮直し、手を合わせ食べ始める。

 ニュースでは猿が自分の考えている事をやっきになって伝えようとする所が出て来る。知能は他の猿よりも数段高い、という事も解って来たらしい。

 進化の過程についての重大な発見に繋がるのではないか、との期待が大きい、と滑舌のいいキャスターが笑顔で微笑む。

 僕はスパゲティを、食べた。



 4



 快晴。

 まさしくこういうのを快晴と言うのだろう。晴れ渡って澄み渡り、どこまでも続いていく(比喩でも何でもなく事実である)、そんな空に抱かれ、僕は今日も学校へと登校した。

 いつもの席にショルダーバックを降ろし、周りを見渡す。何人かの友人が僕に向かって挨拶してきた。僕も笑顔で返し、雑談とも呼べない様な話をする。相変わらず僕の世界は平凡で波少なく、かといって何処かに欠損が無いわけでもない僕の性格は、彼らの中に馴染めないもう一人の自分がいる事に気付く。

 愛想笑いはもう慣れた。一種の技術であるから使い込んでいけば、その内自分でもそういう風に自然となっていく。口角を上げて笑うと、楽しいという気分が増すと何かで読んだ。それは半分本当で半分嘘である。楽しくはならないが、辛くもならない。それが作り笑顔の効用だ。

 外は五月蠅い位の日差しが差している。目を細め窓の外に目を向ければ、散歩している犬とおじいさん、自転車で通勤しているのかスポーツタイプの細タイヤでヘルメットにスーツという出で立ちのサラリーマンが軽快に走る。

「日雲、お前はどうすんの今日のボーリング大会。来るだろ?」

 笑顔で話しかけられ多少戸惑うが、これが彼らにとって普通なのだ。僕がいちいち反応しすぎである。もっと気軽に、とも思うが、自分の社交性の不自由さについ呆れてしまう。

 あまりぎこちなくならないよう、僕は実生活で何度も訓練した笑みを浮かべ、

「あぁ、今日だっけ。忘れてた。うん、暇だから行こっかな、僕凄まじく下手くそだけど」

「皆そんなもんだって。あれはな、そういう奴がいないと面白くはならないゲームなんだよ、全員上手かったら逆に行きたくなくなるだろ、普通」

 友人、(くれ)()(ゆう)のような人間は、僕とは違う生命体なのではないか、と考える事がある。社交性があり、優しく、いい意味でおおざっぱ。もちろん友人も多いし、性格も解りやすく親しみやすい。『企業が欲しがる人材特徴』なるものの上位ランキング項目をそつなく集めましたみたいな彼が、僕を〝友人〟として扱ってくれているのは謎だが、それでも嬉しくは思う。ただ、同時に軽い、いや重いか、嫉妬心が疼くのも事実。彼のようになれたら、という妄想が起こることもしばしばだ。が、彼だって劣っている所や短所はもちろんある訳で、隣の芝生は青く見える、というやつなのだと思う。

 彼は僕から数瞬、視線を僕では無く教室窓際後方、誰とも話そうとしない人物、このクラスの宇宙人的存在、友人でもある狭間快の方を見た後、僕に向き直り、

「ちょっといいか日雲」

 その口振りに、僕は真剣味が混じっているのを察し背筋を少し伸ばす。暮木はこほッと空咳(からぜき)すると、僕の前の席の椅子を背を前にして、肘を背もたれに乗せ言ってきた。

「なあ、あいつ来んのか」

 と言われ、まさかとは思ったが、僕は確認のためもう一度振り返り、彼女―狭間さん―の方を見、「あいつって?」と訊き返す。

 暮木は僕の方をまじまじと見、

「あいつだよあいつ。狭間」

 と緊張して言ってくる。今日は参加型のボウリング大会があるが、それに僕達のクラスメイトは殆ど参加することになっていた。僕はその存在自体、昨日のずぶ濡れサングラス少女の事で頭がいっぱいですっかりさっぱり忘れていたのだが。そうだ、そういえば狭間さんは参加するのだろうか。僕以外話す相手がいなかったりボウリングのルール(解らないことは無いと思う)とか大丈夫か知らないし、それに周りの女子達がどう思うかである。やはり必要最低限しか話そうとしない彼女はクラスの女子達から煙たがられており、ある意味仕方ないかもしれないが、僕でさえも最初話しかけられた時は大いに驚いた。

 目の前の好青年百%な暮木にしてみれば助けてあげたいという、傲慢にしか感じない事でも許せるから不思議だ。そういうお節介焼きが少なくなった今、そういう存在は地味に貴重である。そんな存在がクラスに一人いると思えれば、世界はそこまで捨てたものでは無いと思えるだろう。僕は微笑ましくなり暮木の顔を見た。見た、のだが、何かそれとも違うようだ。何が違うといえば、彼が周りに溶け込めない人間を輪に加えてやろうといった正義感や道徳心に支えられた世間一般の〝優しさ〟では無く、もっと生暖かく生臭い、何か人間的な臭いのする空気だったのだ。

 僕は探りを入れる気持ちで「狭間さんに直接言ってみれば?」と振る。

 その瞬間のことを、僕は死ぬまで忘れない。

 言った直後、あの暮木が。あの暮木夕が僕を一瞬、強く睨んだのだ。それは僕の知っている暮木夕が持つプロフィール欄には絶対に記載されないであろう類の表情、感情であった。言葉にすれば、漢字にすればたった二文字の語で表す事の出来るもの――

「出来たら苦労しねえよ、お前しか話さねえじゃねえか、あいつ」

 ――嫉妬、だった。

 勘違いかも知れない、とも思ったが、僕の眼はもう元に戻った眼の奥の光が強まっていた事を、事実として認識してしまった。僕は別に鈍感ではない。それなりに人の感情だって解る方だと勝手に自負している。

 驚いている僕に構わず、少し必死になりながら暮木は、

「ほら、やっぱ高一のクラスって二年三年と違って別れちまうかもしれねえじゃん? だからせっかくの縁なんだからよ、少しは仲良くしてーじゃんか。日雲は頭いいから解っだろ?」

 と早口に言ってくる。僕は苦笑、したのだろうか自分でも解らない感情を持て余しながら、暮木を見た。

 なんだ人間じゃん。

「一応声かけてみるよ。どうせなら楽しい方が馴染めるかもしんないしね」

 本当の意味で暮木夕なる人間と、今更ながら僕は友達になりたいと思った。

 本当にひねた性格しているなぁと、自分自身苦笑しながら。



 5



 授業は淡々と食べ続ける食事のように、軽快に何の面白味もなく消化されていった。僕はまたあの少女の事を考えていたが、それはあまりにも無駄な思考であり、堂々巡りにならざるを得ない。もう一度会える可能性はどのくらいなのか、それすらも解らない。情報機器が発達した現代とは思えない様な悩みの中、何かが僕をその境目に立たせている。会えるか、会えないか、の境目に。もしかすると、僕は調子が悪いのかもしれない。

 熱病にうかされたような思考の中、あの鮮やかな邂逅に比べると、授業の中身はとても無味乾燥なものに感じられた。頭のスペースを容赦なく削り取ってくる悪魔のようにも思える。

 暮木の席を横目で見る。彼の席は廊下側後ろから三番目で、かなりドアに近い良い席なのだが、そんな事はお構いなしに彼は自分の反対側、黙々とノートにシャーペンを走らせている狭間さんの方へ向けられていた。かちかち、という音が暮木のシャーペンから聞こえ、出しては戻し出しては戻ししているようだ。完全にうわの空である。

 何故彼のような青春謳歌的完璧人間が彼女のよう、といっては失礼だが興味を魅かれているのか、全くと言っていい程解らなかったのだが、バランス的には釣り合いが取れるかもしれない。友人は人を映す鏡だと言うのを聴いたことがあるが。男女の関係は補うものだ。美女と野獣の例えを出すまでもなく、決していい人間だからいい人間に魅かれるわけでは無い事がその証明だろう。

 僕は狭間さんと暮木の関係を進展させたいと思うし、その努力もしたいと思う。

 何故か、喉の奥に魚の小骨が引っかかったような感じがし、一瞬顔をしかめる。何だ。無意識に喉を触る。特に何も無い事は痛みが無い事からも解っていた。が、何か異物感のような気持ち悪さ、苛立ちが走る。

 狭間さんを見る。

 彼女は黙々とシャーペンを動かす。晴天、である。



 6



 チャイムが鳴り、僕達を制服という(くさび)から解き放つ時間がやって来た。

 もちろん、僕達はこれから近くのボウリング場へ行って時間を潰すはずなので、制服から完全に開放されたわけでは無いのだけど。

 クラスの中で皆が伸びをしたり雄叫びを上げたり、気の早い人はふざけてボウリングのフォームを真似して笑いを取っていたりと様々である。僕は窓際で筆記用具や教科書、ノートなどを鞄にしまいながら、素早く帰ろうとしている狭間さんに目をやり、彼女が立ち上がる前に席を立ち、歩く。

 近くに行った所で、何か不思議な感覚を覚えた。それが何かは解らなかったが。

「狭間さん」

 声を若干柔くして、声をかけた。

 露骨にびっくりしたらしく肩が跳ねる。僕は苦笑しながらその目元を見る。うん、変わらず今日も顔が解らない。

「せ、いいち君。どう、した、の」

 おどおどしている彼女は何処か小動物を思わせた。長い前髪は動く度にしゃらりと動き、よく手入れされているようだ。知り合いの子が天然パーマがかかってるから真っ直ぐなストレートに憧れる、と言っていたのを思い出す。無いものねだり、というのは人類が滅亡するまで続く感覚だろうな、と思った。

 その顔になるべく優しげな顔を向け、

「狭間さん、今日のボウリング大会、出る?」

 そう訊くと彼女は少し目を見開き(隙間から少し見えた)、何故か周りをあたふたと見渡しはじめる。それを聴いていたらしい女子の子は「うえ、来んのかよ」と苦みが強い顔をした。それが聞こえたのかは知らないが、狭間さんは、

「ううん。私、帰ってやる、ことある、から」

 と少し(うつむ)き言った。

 タイミング悪かったかな、と思ったものの、「皆で行くと盛り上がるからさ、少しでいいから顔出さない? 一緒にやろうよ」と少し強めに誘ってみる。

 戸惑いを表した狭間さんは、少し迷ったようだがもう一度周りを見、

「う、うん。大、丈夫。誘ってくれて、ありがと、誠一、くん」

 とぎこちなく笑う。少し胸が痛んだが、ここで無理矢理連れていってもおそらく逆効果だろう。おとなしく「そっか、じゃあまたね」と笑って狭間さんの席から離れた。

 戻っていくと、暮木が僕の方をじっと見ていたが少し慌てその眼を逸らし、直ぐに自分の態度に気付いたのか若干申し訳なさそうに見返し「駄目だったか?」と訊く。

 真剣に聴いていただろうに。少しおかしかったが、僕は至極自然に「うん、ま、しょうがないね」と緩く返す。暮木はその大体の人間が好感を持つであろう整いすぎず、崩れ過ぎず、一般的だからこその涼しさを持つ顔を曇らせ、「そっか」と俯き気味に言った。

 なんだかこの二人を本気で応援したくなってきている自分に戸惑う。

 それと同時に、自分でも形容しがたい黒々した雲が胸の中に広がっていくのも感じ、更に戸惑う。僕は、一体どうしてしまったというのだろうか。

 暮木は僕に何か言いたそうな仕草をしたが、僕はその胸の中に相反する気持ちがあることに納得がいかなく、珍しく憮然としてしまった。暮木が「おい、大丈夫か日雲」と心配した声で我に返り、慌てて作り笑顔を浮かべた。

「ああ、ごめん、ちょっと考え事してた。気にしないで」

「――そっか。ま、それならいいんだけどよ。……残念だな、来ねえのか狭間」

 しかしその顔は、僕でもそんなに親しくしている訳ではないのだな、という一種の安心感も含まれていたようで、やはり微笑ましくなった。こんな風に、僕も人から想われてみたいものである。……狭間さんには悪いけど。

 そう話していた所で、「じゃ行くぞー」と皆が声を上げているのを見て自分の鞄を手に取り、団子になって一緒に扉から出て行く。

 最後に残った僕はちらりと振り返り、窓際の席を見た。

 狭間さんはとうに居ず、音も無く机が持ち主の不在を嘆いた。

 外は快晴だったのが黒い雲が向こうからやってきており、またか、と首を振る。

 今日は持ってきていて良かった。傘の持参をここまで喜べるのは初めてかもしれない。

 昨日会った雨の少女の事が浮かび、傘を持っていればまた会えるのではないか、という妄想に似た衝動に動かされたとは、誰にも言えなかったが。 



 7



「んだよ、また降ってきそうだな」

 一緒に歩いていた暮木は毒付き、僕の方を向いて言った。

 ずっと考え事をしていたので、それには「ああ、そうだね、今日傘持ってきといてよかったよ」とぶうん、と持っていた傘を振り言った。

 考え事というのはもちろんあの女の子のことであり、僕はどうやったら連絡がつくか、と馬鹿みたいに、確率の低い悩みを延々長ったらしく引き伸ばして考えていた。そんなことはもう何度も考え尽くしたはずなのに、浮かんでくるのは正にそういう取り留めのない、また口に出すのは絶対に出来ない悩みだった。

 今日一日の空気を全て帳消しにするような、黒くおどろおどろしい雲がビルの向こうからやって来ていて、また振り始めると言った暮木の言葉を忠実に叶えてくれそうな湿った匂いになってきた。

 傘を振りながら考えを再開する。近くに住んでいる、いう事も十分にありえる。

 あの日あの時間帯に、徒歩で商店街近くまで来ていたのだ。だとしたら、近くに歩いて帰れる場所に住んでいるという事だ。もしくは、この近くに来て、わざわざ道路に行って雨に打たれて空を見上げていた、という事になる。まあ、そういう意味の事をするかもしれないが。あんなところで雨に打たれずぶ濡れで笑っているような女の子だから。

 ますます自分が不思議になってくる。正直に言えば、かなり不気味な行動だと言える。少なくとも変わっているという言い方はかなり婉曲(えんきょく)した言い方であり、気味が悪い、と思うのがまず最初に来てもおかしくはない。

 だけど僕はこうやって彼女を何かしら気にしている。何故か、と問う事も今はしない。今はただもう一度話したい、そんな気持ちが大部分を占めていた。僕は長くなった前髪をかき上げる。何だ、らしくない、本当に、らしくないな。

 人に対してかなり冷たいと感じる事も多い僕が、ここまで誰かに固執(こしつ)する、という事に、自分自身で腹が立つくらいである。

 もう一度、彼女のあの切り取られた風景を思い出した。僕はそこで少し合点がいく。ああそうか、そうか僕は――

「綺麗、だったのか」

 思わず口からその言葉が漏れ出た時、慌てて口を閉じた。隣の暮木が一瞬戸惑うような顔を向けていたが、それを曖昧な笑みで返す。その言葉が落ちた瞬間、僕の中で何かが弾け、そしてすとんと腹の底に落ち着く。そうか、僕はあの時あの光景が、何となくではあるが、ずっと感じていたのだ。あの光景を、あの隠された瞳を想像し高揚感に浸っていたのだ。柄にもなく。

 何だかんだ言ってそれは僕の心を動かすには充分すぎる程の力を持っていた。僕が囚われしまうほど、あの光景は美しかった。僕にとっては。

 そんな事を考え無言で歩くと、気まずくなったのか、僕に暮木は「知ってるか日雲」と声をかけた。

 僕は考えを中断され、うっとおしいとは思わないまでも放っておいてくれればいいのに、とは思ったが、まず間違いなく彼の善意なので、何も表情には出さず笑って答える。

「何を?」

 話題を返してきたことにほっとしたのか、暮木はあからさまに安心し(やはり人間がいい。先程の対応を申し訳なく思った)、「この前の地震、あれだよ」と笑って言う。

「ああ」

 僕も記憶を引っ張り出しそれに応じる。

「この前あったやつでしょ、一発だけ揺れたあの」

 暮木は微笑み、「そうそれ」と何がおかしいのか、くすくす笑う。こんな仕草も女子に好かれる理由の一つだろうな、と思わずにはいられない。少年(今現時点でも少年というのは置いておいて)のような笑い方に、僕は人間とは一人一人違うものだな、と正にどうでもいい感想を持つ。

「あれってさ、何か都市伝説があるっぽくて人が落ちてきた、宇宙人でも来てたんじゃないかって噂になってんだよ」

 と、都市伝説なる物の宿命のように、冗談めかして言う。そうか、と思うと同時に、あれは確かにそう思っても仕方無いかもしれない、頭の中で言った。

 二カ月前の夕方。ここ(かみ)(しずめ)町にある山林の中で、大きな地震とも言える様な衝撃が走った。

 救急車や消防署が駆けつけ、急行したものの、そこには半径十メートル程の丸くくぼんだクレーターがあるだけで、周りの木々を押し倒しながら何かが落ちてきた、と考える者もいた。僕は多分何か爆発物が置いてあって、それが誤爆したのではないかと考えていたし、事実そういう見方が大半だった。そこにあったものが金属片や銀色の布などだったので、尚更その意見は固定化し、今は通説になっている。

 僕はそれが楽しくてたまらない、といった様に笑う暮木に疑問を浮かべた。どうしてそんな事で笑えるのか、僕は良く解らない。暮木は、

「いや、そんな顔すんなって。結構面白いのがさ、それと全く同じ事十四、あれ、五年前だったか? にも起きているってことなんだよ。それ調べた奴がいてさ。どうやら本当に同じだったらしい。違うのは、その時は近くに人がいて、何かが落ちてきた、ってことしか言ってないって事なんだよな。友達の友達の―っていういわゆる『噂』だから、確かなことは言えねえんだけどさ。どうも、何やらありそうではございませんか? 殿」

 僕を殿と呼んだのには笑った。

 どちらかというと僕の方が言うセリフに感じたからだ。こいつは人を傷付けず、かつ笑いに持っていくという何処かの上流階級みたいな能力を有しているので、心底羨ましいと思わずにはいられない。僕もこんな力があったらな、と考えてしまう。

 必要とされる人間がもしこの世にいるのだとしたら、コイツのような人間が増えればいいのだ。こいつのように人のささくれだった心をほぐせるような人間が。

 だからこそ疑問に思う。

 何故、暮木のような人間が僕みたいな人間と付き合おうとしているのか。もちろん今日知った事実の中に、狭間さんと仲良く出来る唯一の人間、というアドバンテージを持っている僕と、少しでも近づきになりたいのが目的なら解る。僕は僕でそれなりの力添えもするし、取り持つくらいなら出来なくもない。しかし、暮木は僕をそれだけではない、何も打算も関係なくただ友人として僕に付き合ってくれている面がある。僕はそれが謎だ。僕のような人間に付き合って、一体何の得があるのか。利害関係が含まれない関係は僕にとっては難しい。色々邪推してしまう。本当に嫌になるくらい嫌な性格だ。

 そんな事を思いつつ、僕は暮木に「あの地震って何か変な感じだよね。不発弾でも埋まってんじゃないかな」と少し真剣に言った。暮木は少し黙り、

「宇宙人でも来てたりしてな」

 と言った。

 僕は驚き半分呆れ半分でその意味を考えた。まあ個人の自由である。何を考えていようと空想妄想で捕まることは無いのだから。それを実行に移すかどうかが分かれ目、とも言えるが。

「銀色をして頭部が大きくて胴が短くて手足が長い物体は興味がないよ」

 からかうように笑うと、暮木は、

「ロマンがねえよ日雲」

 と言って真剣に怒る。つくづく女性に好意を持たれる態度をするな、とこちらも感心半分呆れ半分だ。性格の多様性、顔面の位置の違いがここまで違うとなると、人間同士が中々解り合えないのも納得である。

 空見れば、先程までの抜けるような青空が、次第にビルの向こう側にいた分厚く無愛想な雲に占領されているのが見えた。ぶうん、と傘を回す。何かどうでもいい優越感に浸る。その理由が傘を持ってきたかどうかだけで得られるのだから、随分と僕も安い人間だ。

「雨かぁ、ついてねぇなぁ……ま、ボウリングだから関係ないけどな」

「そうだねぇ」

 二人で毒にも薬にもならない会話を続け歩いて行く。僕たちは集団の最後尾、少し遅れ付いていく。件のボウリング場は駅前にあり、娯楽施設も神鎮町にはそこに集中している。遊ぶなら駅前、飲むのなら少し先に行った飲み屋街道へ行けばいい。

 二人で会話していると、何故か僕にしては珍しく気を張らなくてもいい事に気付く。僕とは正反対の人間だからだろうか、快活に、表情豊かに話を続ける暮木に、適当に相槌(あいづち)をうつが、それが苦ではない。基本、僕は聴き側に回ることが多いが、それは別に僕が聞き上手、という訳では別になく、ただ単純に聴くくらいしか出来ないだけだ。

 暮木の方も気分良さそうに話している。それに安堵し僕も頷き返す。

 二人で喋っているのが辛くならない、というのは珍しいことだ。

 暮木の方もそう思っているのか、ますます話が加速する。僕はそれに笑顔で(あい)(づち)を打つ。

 人との距離の長さ短さは時間で測れるものではないのかもしれない。

 空が暗く音が鳴っても、僕の中で会話の高ぶりで晴れ渡っている。

 暮木は、嬉しそうに喋る。

 僕はただ、嬉しそうにそれを聴いたのだった。



 8



 ボウリング場は意外と大きい施設だ。

 複合型というのか、ボウリング場単体では無く、その他にゲームセンターや様々な娯楽施設、料理店が入っており、神鎮町は意外と金があるのだろうか、と少し考えた。

 流行の施設のボウリング場は三階にあり、僕達がエレベーターを二つ占領して着いた時、中から温かいとも、冷たいとも感じない心地良い温度が出迎える。外では再び昨日のように雨が降り始めており、一階の売店に傘があった事に皆が喜んでいた。

 今日も元々晴れ続けるはずだったのだが、またしても、という事になる。天気予報でも昨日の事はニュースになっており、異常気象だどうのこうのとキャスター達が騒いでいるのを聴いた。何が原因か解らないとのことだが、現代科学を盲信しすぎなんじゃないか、という意地悪な考えも浮かぶ。

 今日は平日ということもあって人もあまりおらず、少し寂しい感じだ。

 レーンの方に目をやれば、十二、三レーンある中埋まっているのは五個ほど。そのまばらに人が入った奥。そこに、僕は信じられないものを見た。いや、信じられないと言う言葉では足りない。顎が外れそうな程、僕はその光景に目が離せなかった。

 僕は確かにその時、言葉という言葉を飲み込み、意識の底に持って行った。

 顔は良く見えないが、特徴は間違いない。

 褪せた色の桃色パーカー。

 何処か良品店で買ったかのように生地が青すぎるジーパン。

 その、大きな、大きな顔を覆う、サングラス。

「――えおぁ……」

 変な吐息とも声とも呼べない空気が漏れる。それはまさしく、昨日会った、――あの。

「い、た……」

 サングラスをかけ雨に打たれていた、あの少女だった。










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