Flowering
私は花を撒く人である。
花で溢れた籠を持ち、籠から花を撒いて、旅をする。
一輪草、石楠花、紫陽花、ダリヤ、スイートピー、アイリス。どんな花も籠にはある。それを手ですくって投げる。籠から花が減ることはない。湧いて出てくるように、色とりどりの花で満たされる。
花は私の足許に散り、私が歩いた後には、花の道が蜿蜒と続く。
私が花を撒く人だと、誰が決めたのか、誰かに言われたのか、分からない。でも、私は最初からそうしていたし、そういう人間だった。
籠は私のためにあり、それは私が花を撒く人だからである。
私は花を撒きながら、あちこちへ旅をする。世界中に花を撒き散らすのが本分だ。何故なのか、何のためなのか、分からない。考えたことがあるが、考え始めると遠い虚無の淵を覗き込むような心地がする。
私は考えるより前に花を撒いていた。考えて答えを出したとしても、後付にしかならない。
花を撒いていなければ、私は私ではないのだ。
遠い虚無の淵は、旅をするうちに何度も出現した。私の小さな心臓を震わせて、悲しいという小さな石を積み重ねていった。
ある日、チョコレートのように滑らかな壁の家が並ぶ住宅街を歩いていた。黒いアスファルトに、私はチューリップの花を撒いた。
リボンのついた制服の女の子が三人、私を見つけ、やって来た。
一人が問うた。
「何をしているの」
「花を撒いています」
「何のために」
「分かりません」
「分からないのにやってるの」
「そうです」
「馬鹿みたい」
二人目が眼鏡をキラリとさせて問うてきた。
「何のためにやってるの」
「さあ。綺麗だからでしょうか」
「綺麗だと思わない人もいるかもしれないよ」
「そうかもしれません」
「私は嫌い」
「残念です」
三人目はニヤニヤ笑った。
「そんなことやっても何にもならないよ」
「そうかもしれません」
「馬鹿みたい」口を揃えて言うと、彼女たちは通りすぎていった。
悲しみの思考が、身体の内側から抉り取られるようにしてひらひらと、虚無の底へと落ちていく。
何でやっているのか分からないことをやる。馬鹿みたいかもしれない。嫌いな人もいるかもしれない。こんなことをやっても何にもならないかもしれない。
すべて本当のことだ。
なんて私は不要なものなのだろう。
私はチューリップの花を撒きながら泣いた。
私は花束を作れない。
籠に溢れる花は、すべて、茎から花の部分のみを切り取ったものである。
「花束を売ってくれないかしらねぇ」
ある日、乾いた色をした木の家々が並ぶ町に、コスモスを撒いて歩いていたら、老齢の女性に声をかけられた。
花の刺繍がちりばめられた、灰色の毛糸のカーディガンを着た彼女は、ニコニコと微笑んでいた。
「道に落ちていて、とても綺麗だと思ったの。友達に是非見せたくて」
私は期待に応えたいと思ったけれど、できなかった。
「すみません、できないのです」
「あら、どうして?あなたは花屋さんでしょう?」
「花屋ではないのです。この花は、みんな茎から外されています。花束は作れません」
「まあ、変なのね。それならあなたは一体どうしてそんなことをしているの?」
「私は花を撒く人なのです」
「まあ、酔狂だこと」
彼女は眉を吊り上げた。
「こんなに綺麗な花を無残に千切りとって、可哀相だと思わないの?売り物になってもおかしくないくらいなのに。あなたのやっていることは、利益にもならない、まったく無駄なことね」
踵を返し、彼女は去って行った。
私は道の上に点々と続く、私の歩いてきた跡を眺めた。ピンク、紅色、白。アスファルトに寂しく散っている。
確かに無駄なことかもしれなかった。彼女は綺麗だと思ってくれたみたいだけれど、それが何になるのだろう?
私は花を撒くことはできるが、花をもたらすことはできない。
期待に応えられない私が悪いのだ。
「他人の迷惑も考えて欲しいね」
夜の繁華街で薔薇の花を撒いていたら、警察に捕まった。
警察は困ったように私に注意した。
「何のイベントか知らないけど、勝手に往来に花を撒かないでくれ」
「イベントではありません。私の役目です」
「役目って、君どこの者」
「私は花を撒く人です」
「・・・君、ひょっとして狂ってる?」
「狂ってません」
「所属は?」
「そんなものはありません」
「個人のただの狂人か。ねぇ君、分かってる?」
「何でしょうか」
「公共の場に花なんて撒いたら、掃除を誰がすると思ってるの。町のボランティア、公務員、清掃員。そういう人たちに、無駄な労力をかけさせる。君は楽しいかもしれないけど、迷惑なの。花なんか腐るし片付けるのが大変なんだから」
警察官はそう私を叱ると、去って行った。
私の胸の内は再び悲しみで満たされた。
だけど、気付いた。
狂っていると思われようと、迷惑であろうと、私は花を撒き続ける。
そう気付いて、私は泣いた。泣きながら、歩き続けた。ぽろぽろと溢れ落ちる涙に霞む目の前を彩るように、薔薇を撒いた。すくって撒いて、すくって撒いて、すくって撒いて。柔らかな色たちがふうわりと、歩く私を包み込み、道に優しく着地して、跡を作った。
鮮やかな、悲しい薔薇の花弁の足跡を。
むせかえるような薔薇の香りに、悲しみはあまやかな味を帯びた。
そう、虚しい。
誰に言われたわけでも、与えられたわけでもないのに、最初から存在する私。
花が湧き出る籠に、疲れない足。
私を私たらしめるすべては、誰にも役に立たないものだ。
お金にもならなければ、誰かの幸福にもならない。
何の意味もなく、迷惑で可哀想なことをしている。
ゴミになるようなことをしている。
けれど、私が例え何であろうと、私は花を撒き続ける。
籠に花は湧いてくる。
それは綺麗だ。
花を祝福し、足跡を残してきた道を思い、私は悲しみを愛す。
街も人も、思い出という結晶になる。結晶は脆く、砕け散り、私が撒く花に宿って、ひらひらぽろぽろと道が連なる。
その日、撒いたのはシロツメクサの花だ。
シロツメクサの白いボンボンのような花は、ころころと道に転がった。
美しい蔦の生け垣の家のベランダから、声が降ってきた。
「あなたの花は平凡だね」
鳥の囀りのような声は、その家に住んでいる少年だった。
「そんなことはありません。どの花も奇跡です」
「奇跡?どこにでも咲く、ただの野花じゃないか。花は品種だよ。父が大事にしているゼラニウムを見てよ」
彼は見事な赤いゼラニウムを咲かせている鉢をベランダから見せた。
「まあ、すごい」
「手をかければかけるほど、綺麗に咲くんだ」
「それでもこの花が劣っている理由にはならないわ」
「何故」
「自分たちで頑張って咲いているのも、見事だと思うの」
ころころと私の手からシロツメクサが零れ落ちた。
彼はそれ以上何も言わなかった。私は会釈して通り過ぎた。ころころ、ころころと、シロツメクサを撒きながら。
街を離れて、家並みが途切れていき、森に入った。木々が覆い繁り、小道は暗かった。
花がたくさん咲いていた。ヤマユリやドクダミ、リンドウやヘビイチゴ。人気はほとんどなく、梟が時折ほう、と鳴いた。
胡蝶蘭の大きな花をひらりと手に乗せ、腐葉土の上に落とす。どこであろうと私は変らず花を撒き続ける。
胡蝶蘭は大胆な姿を、森の蔭に主張した。
「噂には聞いていましたが、花を撒く人とはあなたのことですね」
もうすぐ森を抜けようというときに、男が現れた。
赤と青と黄の幾何学模様をあしらった奇抜な服装の男は、目をくるくるさせて言った。
「確かに私は花を撒く人です」
「なるほど。自然の織りなす木々と腐葉土に人の手が入った反骨の胡蝶蘭を差し挟む!実に芸術的、芸術的だ」
私は彼の言葉に度肝を抜かれ、ぽかんとしてしまった。
彼は熱心に言った。
「君は真の芸術家だ。私の求める反骨の芸術家!」
「そんなつもりはありません。これは私の役目なのです」
「ならば君は生まれながらの芸術家なのだ!この世界の矛盾を暴く孤高の女神!」
怖くなって、私は委縮しながら歩いた。
胡蝶蘭を撒き散らしながら、森を抜け出した。
いつの間にか、男はいなくなっていたが、思わぬ誤解に私の気持ちは傾いだ。花を撒く人でいることが、誤解や思い込みに繋がっているのなら、私はやはり悲しい。
私は芸術家ではない。
寄せて、返す、砕ける。
音が聞こえる方に行くと、そこに海が広がっていた。
私は砂浜を歩いた。波間は夕陽の光に縁取られ、海は美しかった。湾曲してどこまでも続く金色の砂浜には、点々と私の足跡が残り、海から吹いてくる風は次々にそれを消していくのだった。
籠に溢れたのは桜の花びらだ。海岸に咲くことがあまりないであろう花。風が吹くと自ら飛び出すように、舞い上がった。波の泡沫のように、羽より軽く、空高く舞い上がっていく。
砂浜で大きな金毛の犬と、子供が遊んでいるのに出会った。波打ち際で追いかけっこをしていた彼らは、私に気付いて走ってきた。
彼らは桜の花びらに戯れ、はしゃいだ。風に吹かれる薄紅色を、捕まえようと跳び上がったり、波が攫う花びらを追いかけた。
夕陽の金色が満ちた、眩しい風景だった。
笑い声が弾ける。波が打ち寄せる。空気が震える。
桜が舞いあがる。
風に乗って、遠い遠い空の向こうに、私の心が浮かび上がっていく心地がした。
港で客船に乗り込んだ。
私は船の端の柵に寄りかかり、波に揺られながら白い百合の花を海に撒いた。
「死者への餞かね」老紳士にそう言われたきり、同じ船に乗る人たちが、私の役目に口を出したり咎めたりすることはなかった。
黒い海の上に、白い百合が漂っていく。いずれ海の体内に飲みこまれる花々だった。
海はすべてを飲みこみ、引きずり込み、育んできた。きっと自らが何者か分からなくなるほどたくさんの歴史と未来を。
それを思えば、花など、私など、なんとちっぽけな存在なのだろう。
海の深さと厖大さに畏怖を覚えながら、私は白い百合の道標を、転々と残し続けた。
深い闇の奥底に沈んだ、誰かや何かを思った。
静かに、穏やかにいられればいい。
そっと目を閉じ、百合の花を手向けた。
次に着いた町で、騒がしい市場を、けたたましいカーニバルの雑踏を通り抜け、私は花を撒き続けた。
奇異の目で見られたこともある。
だがすべてではない。
ある日、そのことに気が付いた。
海を渡るその前も、花に目を細める人はいた。
何のためにそんなことをする?
分からない。それでも私は花を撒く。
誰が何を思おうと、苦しかろうと悲しかろうと、私は考えるよりも前に花を撒く役目を負っていた。
それは私の悲しみを作った。恐怖も作った。迷惑や怒りもあった。
だが、そのすべてが花を撒く人が受ける役目なのだ。
悲しみは存在するけれど、微笑みも、美しさも、嘘ではない。
籠は花で溢れて、私はそれを撒く。
それが、私の世界だ。
町を離れると、灼熱の太陽が照らす荒れた砂地へと出た。
誰にも出会いそうにない土地であっても、私は花を撒いた。籠に溢れてくるフリージア、ガーベラ、アベリア。様々な花が荒れた砂地に散らされていく。
時折熱い風が吹く。花は砂にまみれて転がって行った。私の歩いた跡もすぐに消えた。
砂に足をとられ、風で飛んでくる砂粒を痛く思いながら、私は花を撒く。
そのうち雨がざっと降った。
何もない砂地に川ができ、力強く濁流が砂地を走っていく。私が撒いた花も押し流した。
荒れ狂う雨は砂地を一変させたが、止むときは呆気なかった。川はどこかに流れ過ぎていき、灼熱の砂地が厳然として戻ってきた。
変らず私は花を撒き続けた。
そしてある日、忽然と目の前に赤い色が広がっているのに出くわした。
近付いていくと、それが砂地を一面、覆っていることに気が付いた。
砂地を赤く彩るのは花だった。
「まさか。辿り着いた」
私はそこに一人の男も見つけた。彼はひどく衰弱した様子で、へなへなと崩れ落ち、茫然と一面の花畑を眺めた。
彼はしばらく花畑に目を見張った後、私に気付いて、ぼんやりと言った。
「君を追ってきたんだ」
思わぬ言葉に、私は驚いた。
「私を?」
「私はワイルドフラワーを研究している者だ」
「ワイルドフラワー?」
「不毛の地で、わずかな雨水をきっかけに咲く花だ。砂地に根を張り、わずかな水で花を咲かせた、花の大群と聞くが・・・。ここまで咲き広がっているのは見たことがない」
よく見たら、彼はパンジーの花を手に握っていた。
「それは?」
「君が撒いていたものだろう。ワイルドフラワーを探すうちに、道に迷ってね。死ぬかと思った。だけどこれが飛んできてね。こんな荒れ地にパンジーなどあるわけないのに、次々に風に飛ばされてくる。まさか誰かいるのかと、花の飛んでくる方を目指して歩いていたのだ」
風が吹き、ワイルドフラワーは小さな花を揺らした。
「私は花を追ってこの花畑を、そして君を見つけた」
籠に花が溢れる。
パンジー、マリーゴールド、ブーゲンビリア、カラーマジシャン、ベゴニア・・・
風に飛ばされ、色とりどりに遠くを目指していく。満開の花に、誘われるように。
「この光景を見るまで、遠くて辛い道のりだった。しかし私はまだしぶとく生きたい。だってほら、こんなに素晴らしいではないか」
衰弱し、くたくたの様子だった彼の目がキラキラし、生きる力が表情に漲っていた。
青い空の下、白い砂地に広がる、赤い小さな花たち。
揺れて笑っているような花を眺めて、私は頷いた。
「そうですね」
過酷な土地で咲く花はとても美しかった。
花籠を抱き締めて、私は空を仰いだ。
まさか、私が撒いた花が、誰かに届いているとは思わなかった。
随分遠くまで旅して歩いた気がするけれど、そうしてきてよかったのかもしれない。
籠からひらひらと花が舞い上がる。
自ら飛び出していき、風に乗って荒れた土地を越えていく。
世界は思わぬ可能性に満ちている。
そして、まだ、世界は終わっていない。
花で溢れる籠を抱えて、私はこの人を導こうと思う。
いずれ人里に着くだろう。
彼は命がけの旅と、荒れ地に花が咲く光景を人々に知らせるだろう。
そして、私はこれからも、花を撒きながら、歩く。
何故なら、私は花を撒く人だから。
これからについてタロットカードに聞いたら「DEATH」が出ました。
好まれようとそうでなかろうと、生きているうちに何かしないと、死ねばその場で終わりです。
なので、投稿しておこうと思いました。
意外と迷信深いでしょう?
読んで下さり、ありがとうございました。
(2014年9月11日)