第八話
江戸城登城当日――日輪は天頂、海は干潮。
瑠璃紺の海に聳え立つ白壁の江戸城が最もよく見える場所に立った。
潮が引いていくにつれ、海の上に立つ江戸城へと向かう長い砂州が姿を現した。日に二度のみ行き来が出来る、細い砂の道だけが唯一の入り口だった。船で辿り着いても到底上までたどり着けないであろう、足の掛け場もないほど堅牢に組まれた石垣が阻んでいる。
「この砂州が姿を現している時間は短い。ひとまず、行きましょう」
浅葱の親父が俺たちを促した。
立待は留守番で、居待のみが共に来るようだ。
聞けば、居待も江戸城に用事があるのだとか。用事の内容を聞いたが、妙な笑みで誤魔化されてしまった。
長い砂州を渡ると、石垣の一部に入り口があるのが見えた。
門番が守るその入り口の中はひやりとして、夏だというのに肌寒い空気に体温が奪われる。
「秘密基地みたいだ」
あたりをきょろきょろするでこぱち。
魚介の腐ったような生臭さが周囲に満ちている。
海水に濡れたままの石段を上りきると、漸く江戸城が姿を現した。
漆喰の美しい白壁が聳え立ち、鉛瓦の花緑青がそれを飾る。海の上に浮かぶ天然要塞、誰が呼んだか信天翁。
壮大なその姿に圧倒された。
「将軍様は、あの上にいるの?」
「ええ、そうです。天守閣は、将軍の御為に作られるものですから」
見上げた先には、互いに競い合いながら天を突かんとするかのように、天守閣が二つ伸びていた。
この二つの天守閣が一体何を表しているのか、なぜ争うように天を目指すのか、俺には分からないが、それだけで一枚岩ではない江戸政府の内情が知れるようだった。
「何で天守閣が二つあんだよ」
思わず口に出た問いに、浅葱の親父は曖昧に笑っただけだった。
白々しい。
これまで考えないようにしていたが、『将軍』と『江戸政府』はもしや別のものを指しているのか? 浅葱親子の言う『江戸』は何を指している?
俺たちは、本当に将軍の敵になのか?
ああもう、めんどくせぇな。
ジジィが俺を江戸に送り込みたいわけだ。この駆け引きは、でこぱちには無理だろう。
江戸城の屋内に入ってしばらく進み、いくつもの階段を上った処で、『ここで待て』と通された部屋の真ん中で俺とでこぱちは正座していた。
というより、正座せざるを得なかった。
数十畳、下手をすれば百畳以上はあろうかという部屋に、二人で座らされているのだ。周囲にモノがない上に、壁までが遠いだけなのだが、何故これほどまでに落ち着かないのか。
寝転がって昼寝でもしようかと思ったが、どこかぴりぴりとした空気が満ちていて、それどころではない。
隣のでこぱちももぞもぞと動いている。じっとしていられないようだ。
この場合は、俺も無理だ。
待て、と言われたからには多少の時間があるはずだ。少しくらいこの場を離れたっていいだろう。
「でこぱち」
「なあに、青ちゃん」
「出掛けるか」
ぺたぺたと裸足のまま廊下を歩くでこぱちの足音、背に背負った二本の刀がかちゃかちゃと触れ合う音。気配など簡単に消せるくせに、気にしていない間は全く騒がしい。
廊下の窓からは江戸の町が一望できた。
ふと足を止めて江戸の町を見下ろす。
江戸を貫く街道を真っ直ぐ西に行くと荒川まで続いていて、その荒川を渡ってしまえばその先にはヒトの手がほとんど入っていない荒れ地が広がる――無論、暮らす人間もいるが、江戸の将軍の采配は届かない。
つまり、今現在ヒトの世の東極は荒川と言えるだろう。賽ノ地が西の端なら、江戸は東の端に位置していると言っても過言ではない。
狭い土地だ。
ヒトと羅刹とが折り合いをつけるには道理で狭すぎるはずだ。
先ほどまで砂州だった場所が、すでに海に戻っていた。本当に、この城に入れるのは一瞬だけなんだな。
「砂州がもう消えているわ……ここは本当に、天然の要塞なのね」
考えていた事と同じ言葉が隣から聞こえて、思わず返答していた。
「要塞って……北倶盧洲の中央政府だってのに、いったい何から身を守ってんだよ」
「何って、それは口に出すのは野暮ではなくて?」
ん?
待て。
俺はいったい誰と会話しているんだ?
でこぱちとこんな会話をするはずがないだろう。そもそも相手の声が女性のものだ。
と思ったら、反対隣から相棒の歓声が上がった。
「うわあ、すごい。立待の家も見えるかな? 優月の店も」
「賽ノ地も見えるかしら?」
「えっ、賽ノ地も見えるの?」
「見えるわけねぇだろ、篝。アタシたちが、江戸までどんだけ歩かされたと思ってんの?」
お前もお前で、いったい誰としゃべってんだよ。
声の方向を見て、絶句。
そして目が合った相手も息を呑んで飛び退った。
「賽ノ地の盗賊っ……!」
「お前、迦羅とかいう羅刹と一緒にいたヤツか」
考えるより先に、体が動いた。
でこぱちの背から刀を一本、引き抜く。
ほぼ同時にでこぱちも刀を構えていた。
反対側を確認すると、さらに二体の羅刹族。
二人とも見たことがある。俺は記憶の底を攫った。
右腕が肥大した荒っぽい印象の女は『天音』。嫋やかでしなやか、踊り子のような風体の羅刹女は『篝』。
そして、俺の眼の前にいるのは迦羅と呼ばれる羅刹女と行動を共にしていた『奏』だ。
天音は肥大した右腕を一振り。
「アンタら、衝剥を殺ったってガキんちょどもじゃん。久しぶりぃ~」
「え、もしかして、弾次が探してたっていう二人? 何だ、まだ子供じゃない」
不満そうに口を尖らせた篝。
冗談じゃない。
賽ノ地の荒野のど真ん中ならともかく、ここは将軍のお膝元、江戸城の本丸だ。
「何でお前たちがここにいるんだよっ!」
でこぱちの叫びが俺たちの心情のすべてだ。
何故ここに羅刹族が。
「それは此方が言いたいわ」
奏と、天音・篝が俺たちを挟みこむようにして立った。
「弾次の代わりのアタシがあいつらの仇、とっちまおうかな」
そうだ。
俺たちは賽ノ地で元羅刹狩り集団の烏組と共闘し、羅刹を2体、屠っている。仇と言われても仕方なく、受け入れる以外の選択肢はない。
しかし、すぐには仕掛けてこなかった。
どうやら、言葉通り向こうも困惑しているようだ。
思ったよりも冷静だな、と思う。これがあの時に倒した羅刹の男たちなら、この瞬間にも攻撃を仕掛けてきていたはずだ。此処が江戸城内だという事を理解する程度には冷静になれるようだ。
お互い、攻撃を仕掛ける事も、背を向けることもできず睨み合いに入ってしまった。
が、刹那、上方から何かの気配が降ってきた。
これは、殺気?!
敵から目を離すのは論外、しかし上から攻撃されては元も子もない。
一瞬だけ視線を上にやる。天井の隙間、窓からの光で一瞬、刃が煌めいた。
その刃は、真下にいた俺達でなく、羅刹に向かって飛んだ。
「?!」
飛来するそれを、天音が体を捻ってかわした。
避け切れず掠めたのか、赤い筋が頬を裂いた。
「のやろ……無族のくそガキども、覚悟しな!」
「ええっ、今の、おれじゃな……」
言い訳を聞いてなど貰えないだろう。
肥大した右腕を振りかざし、天音が先制した。
わざと大きな素振りで上から覆いかぶさってきた。
最初から直にあてる気はなかったのだろう。つい今まででこぱちが立っていた場所の廊下の床板を勢いよく叩き割った。
破片に目を細めている間に、今度は篝が頭に挿していた簪を引き抜いた。
まるで舞うようなしなやかな足運びで間合いを詰めた。
鋭利な簪が付きだされ、足を引いたでこぱちと背中合わせにぶつかる。
「うわっ、とっ」
「悪い」
俺の方は、目の前の奏が全く動かない。
と思ったら、彼女は怒声を上げた。
「やめなさい、天音! 篝! 迦羅さまに迷惑かけたいの?!」
肩を怒らせ、俺の後ろででこぱちと戦う二人に対し怒りをあらわにした。
どうやら、奏には戦う気がないようだ。
俺は刀を下ろした。
振り向くと、身軽に壁や襖の取っ手、桟を使って縦横無尽に駆け回るでこぱちを、天音が大雑把に追いかけまわしていた。が、こちらもこちらで本気ではなさそうだった。
その代わり、当てる気のない天音の大雑把な攻撃と、篝の適当な攻撃で、建屋の損傷が激しい。
これは確実に怒られるな。
俺の隣で怒鳴っている奏の気持ちは分からなくもない。
「もうー……」
ため息をついて止めるのをあきらめた。
「意外だな」
「何が?」
俺の声に、奏が不機嫌そうに反応した。
「羅刹は全員、戦闘狂かと思ってた。案外冷静なんだな」
「貴方、衝と剥を倒した子よね。悪いけど、あんなのと一緒にしないで頂戴」
凛とした横顔できっぱりと言い切った。
ちらりと見やると、背には大きく羅刹族の証の痣が花開いていた。背後の敵を睨みつけるようなその痣は、夜闇の中でこそよく目立つだろう。
逆に、今度は奏が俺をじっと見た。
「で、貴方は夜叉族なの?」
真っ直ぐに問われたのは初めてだった。
賽ノ地のきさらやジジィはそんな事を聞かなかったし、でこぱちは気にしていないし、そう言えば、賽ノ地町奉行所のヤツらも何も言わなかったな。浅葱の親父も気にしていないようだったし、浅葱兄妹――浅葱姉弟も何一つ聞いては来なかった。
江戸についてから、何度か意識はしたが。
「分かんねえ。母親は、無族らしいんだけどな」
相手が羅刹族という事もあるだろうか。素直に答えてしまっていた。
「そうなの? でも、貴方も夜叉らしくはないわね。私の知っている夜叉族はもっと陰険で根暗で鬱陶しいヤツばかりよ」
「夜叉の知り合いがいるのか?」
「多くはないけどね」
目の前で繰り広げられている諍いを止めることは諦めたのだろうか。
もはや廊下は目も当てられぬ状態になっていた。
でこぱち自身も楽しそうだし、でこぱちを殺す気はないようだし、『待て』と言われた間の時間つぶしにはちょうどいいかもしれない。
しかし、もし浅葱の親父が戻ってきたらこの惨状をどう説明すればいいのか。
「もう……迦羅様に何て言い訳しようかしら」
奏と同時にため息を零した。
その時だった。
「貴様ら、何をしている?!」
廊下の端から鋭い声が飛んだ。
髷を結った武士が青ざめた顔でこちらを見ている。浅葱の親父ではないようだが、正直、髷を結ったヤツはみんな同じ顔に見える。
まっさきに篝がその武士の元へ駆け、喉元に鋭い簪を突きつけた。
「黙って頂戴な」
武士はひぃっと息を呑んだ。
しかし、その背後から城の警護と思われる集団が現れる。多勢に無勢、篝は武士を放り出して天音の元まで戻った。
「もう、いいところなのに!」
俺と奏が並んだ背後からは、隠密と思われる部隊が音もなく現れた。
散々派手に暴れたツケだ。
奏は、ああ迦羅様、あの二人を止められなくてごめんなさい、と呟きながら両手をあげて敵意のない事を示した。
廊下の向こうでは、物量にモノを言わせた武士たちが天音と篝をひっとらえ、でこぱちを床に伏せたところだった。
後ろから敵意が迫ってくる。
避けることもできるが、ここは奏の選択が正解だ。
俺は甘んじて捕縛を受けた。
最後まで抵抗していた天音も奏の説得で大人しくなった。
そこでようやく、武士の波の向こうに浅葱の親父の姿を発見する。傍から見ても青ざめている親父は、俺とでこぱちを見て、両手で顔を覆ってしまった。
本当に申し訳ない事をしたと思う。待っていろと言われた部屋を出たことに、他意はないんだ。
後で謝っておくことにしよう。
「――何だ、騒がしいぞ」
そこへ、大きな声が響き渡った。
凛々しい声と共に現れたのは、翡翠色の髪を高い位置に括った――赤い目をした女の姿だった。