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第七話

 黒船屋。

 看板代わりの行燈(あんどん)にはそう書いてあった。

 玄関を入って、左右の障子の向こうから明るい笑い声が漏れている。極上の美女が銭と引き換えにあれやこれやと客を持て(はや)す、誰が呼んだか極楽浄土。

 ここが女を買う店である事に間違いはないだろうが、烏之介がただそれだけの為に俺を連れてくるとは思えない。

 胡散臭い烏組の頭が店の者と一言、二言交わすと、店の最奥へ通された。

 灯りのない廊下は庭の燈籠だけが(しるべ)だ。滑らかな床の感触を足裏に感じながら、渡り廊下から離れへ向かう。

 其処に在ったのは、派手ではないがしつらえの良い襖だった。絢爛ではなく、むしろ地味ではあるが趣に溢れている。

 烏之介が金糸の入る襖を開いた。

 部屋の中は、闇。

 濃厚に焚き染められた香が零れ、転がり出た。

「おひいさま、誰か来たわ」

「おひいさま、何か来たわ」

 あどけない声が出迎える。

 灯りのない室内に光る金目、青目。

 一揃いが、二つ。

 菖蒲色(あやめいろ)の着物を纏った少女が二人、暗闇に目を光らせていた。暗闇に浮かぶ、まるで猫のようなその瞳は、警戒も露わに俺を射抜いた。

 最初に大門で出会った猫又たちだろう。

「大丈夫よ、春童、秋童。いらっしゃい」

 おねだりをする少女のような、甘い音吐が響いた。

 その瞬間、全身がざぁっと冷える。

 猩々緋(しょうじょうひ)色の過去で、俺を呼ぶ声。

 対になる少女を手元に寄せ、頭を撫でて窘めた女性は、突然現れた俺に視線を移した。

 そして、ぼう、と見入ったようだ。

「――」

 暗室からの逆光の中、俺の姿をいったい何と見間違えたかは分からない。

 呼ばれた名に覚えはなかったが、心臓を鷲掴みにされるような感覚に陥った。

 頬を染め、こちらに手を伸ばす姿に、酷い既視感を覚えていた。喉が張り付いて声が出ない。

 手が震える。

「いらっしゃい」

 抗えない。

 足がふらふらとそちらへ向かう。

 畳に膝をついた。

 一度、山で羅刹女と邂逅した時に、絶世の美貌というものに出会った。伽羅(から)という名で呼ばれていた、白磁の羅刹女。圧倒的な存在感を持つあの羅刹はまさに玲瓏と呼ぶに相応しかった。

 今、目の前で緋色の衣を纏うこの女性もまた、別の意味で絶世だった。

 緩く波打つ烏羽色の髪、伏した目の奥に藤色の瞳が覗き、蜂蜜のように柔らかな肌に穿たれた緋色。目が離せない。目を離してはいけない。

 容姿に冷たさはないというのに、ほんのりと恐怖が滲み出る。

 ふいに手を伸ばされ、体が硬直した。

 頬に触れる手から温かさを感じられるのに、まるで全身の体温を奪われていくようだった。

 猩々緋が視界を埋める。

 芥子の香りに包まれ、少女の音吐が全身を這う。

「おかえりなさい」

 揺籃歌のように、微睡(まどろ)みを誘う少女の声。

 背に当てられた柔らかな手。

 体温。

 全身を包む安堵と、一握りの恐怖。

 俺はこれを知っている。

 憎しみとも思慕ともとれる、ただ胸を焦がす激情が、腹の底で渦巻いた。

 奥底に沈殿していた重い(おり)が、玉石を落とされて舞い上がった。内面を充たす血肉が、舞い上がった(おり)に侵されていくのを感じる。

 喉が張り付いて声が出ない。

 馥郁(ふくいく)たる香りにあてられ、何もかもが麻痺してしまったようだ。

「まあ、大きくなったのね」

 墜ちていく感覚と、全身を根に支配される感覚が絶望を呼び覚ました。

 そして絶望と共に、微かな記憶を手繰り上げた。

「母上……?」

 返事の代わりに、優しい手が背を撫でた。

 この言葉を使うのは、何年振りだろう。反射的に口をついたこの言葉が果たして正しいのかすら理解できなかった。

 全身が緩やかな毒で覆われたように痺れて動かない。

 ああ、まずい。

 また(・・)、立ち止まってしまう。

 なあ、頼むから。

 優しい香りの紅花で芥子の香りをかき消して、紅掛花色(べにかけはないろ)の優しい声音で少女の音吐を消してくれ――

 その途端、不意に耳元で、青ちゃん、と呼ばれた気がした。

 はっとして震えるように息を吸った。

 新鮮とは言い難い(ぬる)い風が肺を充たし、全身の感覚が舞い戻ってきた。

 きさら。

 優しい少女の声がする。

「……きさら」

 茫漠とその名を呟いた。

 また梅雨に戻るわけにはいかない。相棒と少女が引き上げてくれたのに、また陥るわけにはいかない。

 渾身の力を込めて女性の腕の中から転がり出た。

 心臓がこの上ないほどに早く脈打っている。

 体に力が入らない。

 それでも、此処から逃げなくてはいけない。

 再び立つ事が出来なくなる前に。

 藤色の瞳が、不思議そうにこちらを見ている。ゆったりと小首を傾げ、再び俺に手を伸ばす。その手に握られているのは――

 一足で部屋の隅に跳び退った。

 猩々緋色の過去が現実に戻ってくる。馥郁(ふくいく)たる香りの充満する場所で昏迷に捕われた過去。

 俺に刃を向けていたのは、紛れもない、目の前のこの女性だった。

 右耳の古傷が痛む。

 後ろから呼ぶ少女の声を振り切って、俺は離れを飛び出していた。



「青ちゃん!」

 ふらふらと花街の門を潜った俺の姿を目ざとく見つけ、相棒が駆けてきた。

 明るい向日葵色を見て、ほっとした。

 広いでこに皺をよせ、必死の様子でまくし立てる。

「大丈夫? あいつ来てただろ、カラスの奴! おれ、おれ途中で見失っちゃって……!」

「……大丈夫だ、気にするな」

 ぽん、と頭に手を置いて。

「帰るぞ。遅くなると立待にどやされるかもしれねえからな」

 そのまま浅葱家の方向へ戻ろうとしたが、でこぱちがついてこない。

「おい、でこぱち」

「青ちゃん、怒ってる」

「はあ? 何言ってんだ?」

 口調が荒いのは怒っているわけからではない。急に突きつけられた緋色の過去に動揺しているだけだ。

 その動揺を悟られたくはなかった。

 相棒は、上着の裾を握りしめ、肩を怒らせて、唇を尖らせて。

 上目づかいに俺を見た。

 花街の門の傍、日暮れ近くのこの時間は通行人も多い。立ち止まってしまった俺たちを、人ごみが僅かに裂けていく。

「また、おれが戦えなかったから……おれが、弱いから。青ちゃんは俺を置いていくんだ」

 聞き覚えのある言葉を繰り返し、ますます強く両手を握りしめた。

「どうやったらその結論になんだよ」

 弱くない。

 この相棒が弱い筈などない。

 俺はそんな事、一度だって思った事はない。

 それなのに、こいつはいつも同じ言葉を繰り返すのだ。

「おれだってカラスの奴に負けない。ソータイチョーにだって負けない。羅刹にだって負けないのにっ」

 今にも泣きそうな顔で、眉間に皺を寄せて。

 前にこの台詞を言った時も、こんな顔をしていたな。羅刹との戦いで怪我に倒れ、床に伏したあいつが必死に絞り出した言葉だった。

 そうか、俺がこいつの心に傷を植えつけたのか。俺がこいつを置いて出て行こうとしたせいで、置きざりにされる事を極度に拒むようになったのか。

 それがどれだけ辛い事なのか、自分自身が一番よく知っているというのに。

 猩々緋色の過去から相棒のいる現実に戻り、俺自身も少しずつ落ち着いてきた。

 このまま、澱を巻き上げる猩々緋色の過去は(カン)してしまおう。知らなくていい。誰も知らなくていい。俺を澱から引き揚げた少女も、相棒も、賽ノ地の師匠も、誰も知らなくていい。

 ましてや、あの烏組の頭などには絶対に知られたくない。

 俺の記憶から消してしまえば、それで終わりだ。

「でこぱち」

 左手を差し出した。

「お前は弱くねぇよ」

 でこぱちに刀を預けておいて正解だったな。

 俺の腕は一本しかないから、武器を持つと、手を差し出してやることだって出来ないんだよ。

「置いてって悪かったよ。お前に俺の刀、預けてんだから勝手に行く訳ねえだろ」

 お、眉間の皺がちょっと減った。

 分かりやすい俺の相棒は、伸ばされた左手に自分の手を重ねた。

「ほら、帰るぞ」

「……うん」

 しぶしぶながら、でもしっかり手を握ってきたところを見ると、多少ご機嫌は直ったのだろう。

 きさらが竹千代にするように、手を引いて家路をたどる。

 まったく手間のかかる相棒だ。

 ほんのりと心が解れ、再び過去を過去のものとして記憶の底へと沈めてしまった。

 しかしながら、しこりだけが残る。何故あいつは、烏組の頭は俺の母親の事を知っていた――?

 相棒のお陰で澱は落ち着いたが、その疑問だけが胸の内にわだかまり残ってしまった。



 昨日の大捕り物帳も終わり、江戸の町は今日も平和だ。

「号外、号外―!」

 瓦版娘の朝陽が無駄な紙をまき散らしている。一枚手に取ってみると、昨日の総隊長との小競り合いが面白おかしく書かれているだけだった。

 あの後も取材を続けたのだろう、総隊長だけでなく、初日に会った大男――あいつは鳶彦と言うらしい――の総評や、ケイたちの写絵(うつしえ)も載っていた。いつ撮ったのか、戦闘中の俺達の姿もある。

 ぐしゃりと手の内に握りつぶした。

 隠密にありえぬ派手な動きを繰り返している所為で、面倒事にならなければいいのだが。

 額を伝う汗と共に、ため息を振り払った。

「……暑いな」

 江戸の空は、俺がよく知る賽ノ地の空とは異なる色をしている。いつも霞がかっていた賽ノ地の空と違い、江戸の空はいつも抜けるような紺碧だ。

 梅雨の終わりに賽ノ地を離れ、今ではすっかり夏景色。

 町屋の方々に朝顔の蔓が伸び、鮮やかな円を見せつけてくる。其処彼処に夏祭りを知らせる引き札が貼られ、町人たちが祭りの準備に精を出す季節。その祭りには並々ならぬ力を入れているようで、その準備の為にしばしば、店の者がいないことも多かった。

 祭りと喧嘩は江戸の華。

 自警団狼士組が何より力を発揮する時だ。

 気のせいか、紺碧の羽織を纏った若者が増えている気がする。狼士組は、『にわか』というのも受け入れる性質なのだろうか。

 相棒と二人、爽亭に向かうと既に炯たちが座っていた。

「おう、遅かったな」

「別に約束も何もしてねえだろ」

 席に着くとすぐ、優月が煎茶と団子を持ってきた。

「今日は、(ケイ)達が事件を解決したから、お祝いなんだよね?」

「そういう事や。朝陽もすぐ来るはずやで」

 言葉通り、先ほど町の真ん中で瓦版を撒いていた朝陽が爽亭に駆け込んできた。

「あー、暑かった! でも、今回は気合入れて書いたからね!」

 最後に残っていたのか、瓦版を一枚、机の上に叩きだした。

 おお、とどよめいて手にする炯とタケ。

「青くんと耶八くんの活躍も、ちゃんと書いておいたからね!」

「うわー、おれがいる! すごいね、青ちゃんもいるよ!」

 でこぱちは、貰っていいか朝陽にちゃんと確認してから、いそいそと胸元にその瓦版を仕舞いこんだ。

「あいつは? 眼鏡ならそろそろ直るんじゃないのか」

「明日には新しい眼鏡が出来るって言ってたぜ。お前ら、明日もいるんだろ?」

「いや、明日は無理だ。悪いな」

 ようやく明日は、江戸城登城当日だ。

 長い三日間だった。

「せやせや。忘れるとこやった。これ、ウチの総隊長から、あんたらにって」

 炯が片手に乗りそうな小さな巾着を俺とでこぱちにそれぞれ放り投げた。

「狼士組の隊員がみんな持ってる狼煙玉(のろしだま)や。叩きつけたら、中身が破裂して火ぃついて狼煙が上がる。それを見た狼士組は、必ず集まるように言われとるさかい、困ったことがあったらそれで呼ぶんやで」


 爽亭を出る時、またあの峠から江戸を見下ろした時と同じ、歓迎するように若菜色の風が吹き抜けた。

 何故か懐かしい匂いのするソレが、今も心の片隅に疼いている。それは、俺がこの江戸の生まれだからだとでもいうのだろうか。

 いずれにせよ、明日が俺のこれからを大きく左右することになるだろう。

 漠然とした予感を抱きつつ、その日は確実にやってきた。


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