第六話
橋を渡ったところに朝陽がへたり込んでいる。
その向こうに、紺碧の羽織を翻すタケと炯の姿が見えた。
「でこぱち!」
刀貸せ、と言うより早く、抜身の刀が飛んできた。
左手で受け取り、朝陽の隣を駆け抜ける。
次の瞬間には、タケと炯の前に立ち、相棒と背中合わせで敵に切っ先を突きつけていた。
「遅いで!」
「悪い」
ついでに朝陽に、巻き込まれないよう逃げておけ、と言おうとして、すでに姿が見えない事に気付いた。本当に、ちゃっかりしている。
目の前には黒衣の男。覆面で顔は分からないが、正に鍛えられた体躯と隙のない構えは一筋縄ではいかない事を示していた。武器は所持していないように見えるが、纏う衣と足運びは忍びのそれに近い。暗器を所持しているとみて間違いないだろう。
が、俺たちを見た男は、構えを解いて逃走を謀ろうとした。
「逃がさないよ!」
でこぱちと左右に挟み込み、逃げ場を塞ぐ。
じりり、と乾いた土の地面を踏み締め、膠着状態。
遠巻きに人が集まり始めた。諍いが危険だとは思わないのだろうか、先日もそうだったが、江戸ではすぐに人が寄ってくる。絶対的な住人数が多いのもあるだろうが、そもそも騒ぎとみると集まってくる性質があるらしい。
先に動いたのは敵の方だった――あまり人が集まるのは嬉しくないようだ。
男は瞬きするほどの間に、両手から礫を放った。
正確に鳩尾を狙ってきたそれを、刀の柄で受け止める。かなりの衝撃だが、動きを止められるほどではない。かなり手加減しているようだ。
同じく礫を避けたでこぱちが、先に突っ込んでいった。
駆ける勢いに乗せた凄まじい速度で剣劇を仕掛ける。
しかし、黒衣の男は不思議な足運びでするりするりとそれをかわした。刃に触れるか触れないか。紙一重のいなしはでこぱちの最も不得手とする相手だった。ゆらりくらりと、突っ込んでくる勢いを横に逸らす。
突っ込んできたでこぱちを受け流して、横を抜ける気だ。
させるか。
男が逃れる方向に回り込んだ。
勢いを殺された男があわや、立ち止まる。
そこへ後ろからでこぱちの一撃が迫った
「これで終わりっ」
甲高い金属音がして刀が弾かれた。
目にもとまらぬ速さで小太刀を抜刀した男は、でこぱちの刀を全力で弾いた後、地面を転がるようにして体勢を整えた。
低く構え、いずれかを突破するつもりのようだ。
俺とでこぱちも再び左右に分かれ、距離を取った。
手強い。
相手に殺すつもりがないのもやりづらく、こちらとしても殺すわけにいかないというのも難しい。何より、来るもの拒まず、去る者追わずの俺達は、逃げる相手を追いかけるのも慣れていない。
出来るなら、時間をかけたくない。
視線ででこぱちに合図。
一度に左右から斬りかかった。
でこぱちの刀が上段を薙ぎ、俺は足元を狙う。
そうなると、逃げる先は一つ。
男は、刃を避けて高く跳び上がった。
予定通りだ。
でこぱちは空を切った刀を返し、落下の瞬間を狙う。
「やぁっ!」
身動きの取れぬその刹那、大きく気合を入れて振り翳した一撃は、完全に男を捕えた……はずだった。
しかし切っ先は空を切り、でこぱちが前のめりにつんのめる。
着地の瞬間、男が腹筋をばねに体を折り畳んで刃をかわしたのだ。
が、避けられるまでは想定済み。
背後に回り込んだ俺は、着地した男の後頭部を踵で鋭く蹴り込んだ。
鈍い手ごたえがあり、黒衣の男は地面に手をつく。
転がったところへ、背中にでこぱちが乗り上げた。
しかし、でこぱちの体重では軽すぎる。押し戻されそうになったところを、駆け込んできたタケが足元に乗り上げ、炯が刺又で首根っこを押さえた。
「観念しろ! この野郎!」
いい捕捉だ。
炯とタケの連携によって、しっかりと取り押さえられた男は抵抗をやめた。
これ以上逃げるつもりはなさそうだ。
でこぱちは男の背中から降り、俺はでこぱちに刀を返した。
「あんたが『狼士組連続襲撃事件』の犯人やっちゅう事は分かってんねん!」
紺碧の羽織を翻し、悪事を働く輩を取り押さえる。これぞ江戸自警団の真骨頂。
これで事件は一件落着。
めでたし、めでたし。
――と、いう結末ではないだろうな。
二人に抑えられた男がふるふると肩を震わせ始めた。
「え、お前、泣いてんのか? 怪我か? 痛いのか?」
タケがぎょっとして足の上から退ける。
しかし男は、次の瞬間大きな笑い声をあげた。筋骨の張った男にしては柔らかな笑い声だったが、炯は頬をひきつらせた。
「何やねん、あんた、なに笑てんの?! 馬鹿にせんとって!」
ひとしきり大きな声で笑った男は、刺又で地面に縫い付けられたまま、ごめんごめん、と謝った。
それを聞いた炯が首を傾げ、眉を顰めた。
おそらく、聞いたことのある声なのだろう。
男は覆面をとった。
その瞬間、炯とタケの顔が青ざめた。
「……っっ!」
「まこさんっ……?!」
慌てて刺又を引っ込める炯。
呆然と立ち尽くすタケ。
男は、背中に着いた土をぱたぱたと叩きながら立ち上がった。
「まさか、捕まるとは思ってなかったよ。よくやったね、炯、武」
「誰? ケイたちの知り合いなの?」
「……狼士組の……総隊長や」
炯は絞り出すように告げた。
「ソータイチョーって?」
「狼士組で一番偉いヒトや!」
覆面の下から現れたのは、声によく似あう柔和な美丈夫だった。年の頃30前後か。左右色の異なる瞳が人目を惹く。覆面をしている間は隠密のような空気を纏っていたが、急激にその雰囲気は消え去っていた。
男は人好きのしそうな笑顔で炯の頭にぽんぽん、と手を置いた。
「な、何でまこさんが?」
「それはね……」
「狼士組の抜き打ち昇級試験だろ」
人差し指を立て、説明しようとした男の言葉を遮ってやった。
肩を竦めた総隊長は、少し不満げだった。
「何だ、君は分かってたのか」
「そりゃそうだろ。東から順に、正確に下っ端だけ選んで狙えんのは内部のヤツしかいねえだろ。やられたヤツらはおそらく口止めされてたな? これだけ自警団が巻き込まれて、調査してんのが炯とタケしかいねえ方がおかしいし、狼士組の感じからして、仲間がやられたら草の根分けてでも犯人捜して報復しそうに見えるんだがな」
その前から、アタリはつけていたが。
「挙句、残された文字が『不合格』ってんだから、目的は馬鹿でも分かる」
そう言ってから、馬鹿でも分かるは言い過ぎだ、炯達は分かってなかったな、と改めた。
でこぱちがぽかーんと口を開けて聞いていた。隣で炯とタケも同じ表情で固まっていた。
別に俺が種明かしする必要もなかったんだが、何となくこの優男の雰囲気が気に喰わないので柄になく長い台詞を喋ってしまった。
「ふんふん、じゃあ、今回の襲撃事件は、悪意のあるものではなかったんだね」
何処へ隠れていたのか、朝陽はさらさらと覚書をしながらいつの間にか戻ってきていた。
瓦版のネタにするつもりなのだろうか。
そのまま総隊長に聞き取りをはじめる。
「真言さん、抜き打ち試験というのは貴方の独断ですか?」
「いや、賛同してくれた隊長たち一緒に」
「隊長さんは、あと二人で合ってます?」
「うん、そうだよ。よく分かったね。西は鳶彦、中央は紅蔵が動いてくれてるんだ」
得意げに笑った朝陽は、さらに詰め寄った。
「で、今回の試験の結果はどうでしたか?!」
それを聞いて、総隊長は炯とタケを見た。
二人は各々の武器を胸元に握りしめ、背筋を伸ばした。
「実は捕まるなんて思ってなかったんだ。本当にすごいと思うよ」
「でも、俺たちの力じゃないんですよ、まこさん」
「朝陽がいてへんかったらこの場所を見つけられへんかったし、耶八と青がおらんかったらまこさんにやられとったと思う。せやから、まこさんを捕まえたんはウチらの力やない」
悔しそうな声で、二人は告げた。
「そうだね。君たち二人では他の隊員と同じように僕にやられていただろう」
総隊長はやんわりと、否定せず頷いた。
「でもね」
真言と呼ばれた男は続ける。
「人に力を借りる事が出来るのも、君たちの強さだよ。一人で何かをしようと思わず、それぞれ得意な分野を持って集まったんだ。それが大きな力になるという事が分かっただけでも、今回、君たちは大きく成長したはずだ」
ゆっくりと諭すように。
そして、懐から鋏を取り出した。
「鳶彦がいつも言うだろう、『焦るな』って。少しずつでいい、もっともっと味方を増やすといい。大丈夫。そうすれば、君たちはもっと強くなれる」
炯の鉢巻を手にして。
先の方に鋏をいれた。
しゃきん、と軽い音がして鉢巻の先が短くなる。
「合格だ」
ケイとタケがぱっと顔を輝かせた。
が、すぐにはっとした。
「このままだと、セイだけ下に居残りだな」
「ああ、ほんまや」
炯は片方だけ短くなってしまった鉢巻の先をじっと見つめた。
そして、決心したように唇を引き結んだ。
「まこさん、ほんまに申し訳ないんやけど、ウチらの昇級、ちょっとだけ待ってくれへん? もう一人、一緒に上がりたいヤツがおんねん」
「出来れば一緒の方がいいよな。アイツすねるだろうし」
二人の言葉を聞いて、総隊長は驚いて目を丸くしたが、すぐに元の笑顔に戻った。
「……それも君たちの強さなんだね」
反対側を切り取ろうとしていた炯の鉢巻から手を離して、タケの鉢巻を片方、手に取った。
「じゃあ、君たちの評価は『保留』だ。次はちゃんと、3人で行動するんだよ」
さきん。
ハチマキの先が切り取られた。
朝陽がものすごい勢いで筆を走らせている。
明日の瓦版には、もしかすると彼らの話が載るかもしれない。
いつの間にか、辺りは薄暗くなっていた。
そろそろ浅葱の屋敷に戻らねば。
帰るぞ、とでこぱちに声をかけようとして、ふと視線を感じた。
居待の修行とやらを受けるようになってから、こういった視線には敏感になってしまった。
花街へと向かう橋の真ん中に見知った姿。
――広げた扇子で隠す口元。笑みに歪んだ目元に、ぽちりと泣き黒子。
考えるより先に、足が向いていた。
「青ちゃん?」
不思議そうなでこぱちの声。
その声も喧騒も、遠ざっていく。
自分自身の心臓の音だけ、耳元で煩く鳴り響いている。
人ごみに消えて行く後ろ姿を無意識に足が追っていた。
賽ノ地での、別れの瞬間の言葉がどうしても思い出せない。
あの雨の季節に心の奥底まで沈めたはずの澱の声が緩やかに目覚めようとしていた。
朱塗りの門を駆け抜けた。
先程とは異なる街が出迎えた。鮮やかな色彩と高濃度の芥子の香り――俺はこの街を知っている。
どこかで、ちりぃん、と鈴の音がする。
客寄せの声と雑踏とに溢れた道を往けば、煤けた漆喰の建屋が左右から圧迫してくる。雪洞の灯りの下を彩り鮮やかな衣を纏う男女が行き交い、焚き染められた香が其処は彼となく漂う。
雑踏の先、線の細い背中を見失いそうになって思わず駆けた。
遊女達が手招きする店の前を駆け抜け、さらにその奥へ。
後を追っていた相棒の足音は、いつしか雑踏に消えていた。
いや、この男が敢えて撒きやすいように誘導したのだ。
「お久しぶりです」
ようやく立ち止まった線の細い男は、笑みを崩さず振り向いた。
「何でこんなとこにいんだよ。またアイツの差し金か?」
アイツ。
賽ノ地町奉行、近松景元。俺たちを江戸へ遣わした張本人。
「いいえ、違いますよ。此処にいるのは個人的な事情です」
心臓が痛むほど鳴り響く。
高濃度の芥子の香り。
「お時間あれば、ご一緒していただけますか? きっと貴方の疼きも治まると思いますよ」
烏組の頭、烏之介はそう言って胡散臭い笑みを口元に張り付けた。