第二話
中央都江戸の町の中、やんや、やんやと人だかり――猩々緋色と向日葵色、極彩色の着物を翻す西軍は余所者。揃いの羽織を翻す東軍は江戸町自警団。
黄昏時の街道が、喧嘩の舞台に早変わり。
誰かが合図を出すでもなく、誰かが宣言するでもなく、序幕は切って落とされた。
活気のある街だな、と思う。
町の様子は、先ほど峠から見下ろした通りだ。見渡す限りの甍の波が押し寄せてきそうなほど整然と並べられ、左右に押し迫る木造や漆喰の建屋に隙間はほとんど見当たらない。
賽ノ地とは比較にならない――俺は、無意識に緋色の髪をした不良奉行の後姿を思い出していた。
整備された町並み。多くの旅人が行きかう町道。賑やかな商店の立ち並ぶ繁華町。
江戸を知っているあいつは、明確に賽ノ地の行く末を見極めている。
「……ちっ」
忌々しい記憶を振り払い、再び敵に目を向ける。
各々武器を手にした狼士組の3人が敵意を向けていた。
「ウチは狼士組一番隊の炯や。よう覚えとき」
「同じく一番隊の武」
「わしはセイじゃ」
刺又の女が炯、鉞担いだ方が武、妙な方言をしゃべる黒髪がセイ。
残念ながら、人の名前を覚えるのは得意なんだ。
「おれは耶八! こっちは青ちゃんだよ」
こちらまで名乗る必要はないと思うが。
「ほんなら、自己紹介も済んだところで……大人しく捕まっとき!」
先手を獲ったのは刺又の炯だ。
柄の部分を大きく振り上げ、突っ込んできた。
無防備すぎるだろう。
振り下ろされる前に、腹を蹴り込んでやった。
「……っぐ」
後ろ向きに吹き飛んだ女を、鉞のタケが受け止めた。
「女子の尻を触るくせに、喧嘩では女子に容赦せんのかい!」
「喧嘩売ってきたのはそっちだろ」
生憎、博愛精神は持ち合わせていない。
そしてちょっと待て。先程、逃げて行った男のせいで、とんでもなく不名誉な称号を付けられたのは気のせいか。
弁解の余地なく、タケが鉞を振り上げた。
「覚悟せい!」
反対側から、黒髪のセイが三つ又の槍を振り上げる。
俺とでこぱちを挟んで両側、鉞と三つ又の槍が迫る……いや、あれは槍ではない。農民が草を集める時に使うアレだろ。
タケが手にした鉞も、桑名で会った甚兵衛が持つような装飾のある戦闘用のものではなく、樵が使用する武骨で飾り気のないものだし、動きも酷く素人くさい。少なくとも、正統な武術を修めた者たちでない事は確かだ。
自警団を名乗る割に、どこかおかしい。
「でこぱち」
指で下を示す。
軽く頷くでこぱち。
背中合わせに短く合図、拍子を合わせて同時にその場でしゃがみこんだ。
当然、武器を振りかざして突っ込んできた彼らの視界から、俺たちは一瞬消える。
目標を見失い、足を止めようとした金髪のタケの膝頭を蹴り飛ばした。
同時に背後で、でこぱちが刀を軽く横に薙ぐ。
二人、反対方向へ駆け抜けた直後、タケとセイがどぉっと地面に倒れ込んだ。
見物客から歓声と悲鳴が上がった。
退屈な喧嘩だ。賽ノ地で敵の居なかった俺とでこぱちの敵ではない。
ましてや、羅刹族とは比較にならない。
今考えてみると、単純な戦闘能力で言えば、烏組は頭一つ抜きんでていたな。さすがは元羅刹狩りと言うべきか。
足を引きずりながら立ち上がった二人と、痛む腹を抱えた刺又の女が再度、集合した。
額を突き合わせて3人、ぼそぼそと相談しているようだ。
「早くしてよー」
手にした刀を一振り、でこぱちが唇を尖らせる。
と、ふいにタケが片手を高々と上げた。
降参か、と思えば、高らかに宣言する。
「我々に、戦術を練る時間を与えることを要求する!」
「はあ?」
訳のわからない宣言に、思わず口が開く。
「せんじゅつ、ってどうやって戦うか考える事だよね?」
「そうだな」
「うん、いいよ!」
仕方ない。
ため息一つ、左手に持っていた抜身の刀を地面に突き刺した。抜身で持ち歩くせいで、刃毀れと錆が酷い。
刀の好悪に執着はないので、使えなくなれば奪っていたのだが、最近は持ち変えることが少なくなっていた。今、この刀でヒトは殺せない。羅刹を殺した時のように力ずくで破壊することは出来るが、斬ることは出来ないからだ。生きるための戦いでなければ、それで十分だ。
隣で伸びをする相棒に尋ねる。
「退屈だろ」
「うん、まあね。だから、少しくらい考える時間をあげてもいいかなって」
隣の相棒は、いつものように楽しそうな表情だった。
余裕だな。
有無を言わさず相手を殺していたあの頃に比べると、戦いを楽しむ余裕が出来たのは悦ばしいなのか、それとも戦いに興じるようになった事を憂うべきか。
俺たちが強くなっていくにつれ、『生きていく為の手段』だった筈の命を賭けた喧嘩が、それ自体を目的とした闘争に変わるのは必然だった。
「ま、いいんじゃないか?」
ぽん、と頭に手を置いてやる。
そこでようやく、作戦会議も終わったようだ。
「ほな、行くで」
三人各々武器を構え、三方に散った。
おいおいマジか。
「2人で駄目なら3人! 今度は逃がさん!」
今の相談に何の意味もなかったことを知る。
三人寄れば文殊の知恵、なんてのは、一人が一人分の知恵を持ってこそだ。最初から空の頭を三つ集めても、知恵の中身は空のまま。
どれだけ油断をしようとも、まあおそらく、俺たちがこの争いで命を獲られることはないだろう。
「覚悟ぉっ!」
何度目かの台詞を叫び、三方から武器が降ってきた。
「でこぱち」
「なあに、青ちゃん」
「今度は、跳べ」
再度、拍子を合わせて上に跳ぶ。
タケやセイ程度の背丈なら、軽々と飛び越せる。
前回と同じだと思ったのか、タケとセイは俺たちを追って視線を下へと向けた。
「タケ、セイ、上や! 阿呆!」
女が叫ぶが、遅い。
素人が四方から敵にとびかかればどうなるか、火を見るより明らかだろうに。
目標を見失った金髪のタケの後ろ頭を踏みつけて、蹴り飛ばす。背の側ではでこぱちがセイを馬跳びの要領でこちらに押しやっているはずだ。
相棒とは長い付き合いだ。どう動くかなど、言葉にせずとも分かっている。
猩々緋色の着物を翻して地面に着地した時には、勢い余った二人が額から正面衝突し、翻筋斗打って地面に転がるところだった。
そこへ勢いを殺し損ねた炯が突っ込み、紺碧の山が出来上がった。
やんや、やんやと客が騒ぐ。野次が飛び交い、歓声が上がる。
ついでに銭やら食べ物やらが投げ込まれている気がするが、気のせいか?
墨色の帳が下り始め、視界が効かなくなってきている。闇に慣れぬ目が相手の顔をぼやつかせる、誰が詠んだか誰そ彼時。提灯が目立つ繁華街に、黒山の人だかりが出来ていた。
その人だかりから、えらく目立つ大男が割って入ってきた。背後には無表情の男を一人、連れている。
翻る紺碧の羽織――現れた2人が炯たちと同じ狼士組であることは間違いないだろう。
「何やってんだ、お前ら」
大男は、大きな手で倒れ込んだタケの頭を掴みあげた。
そのまま空中に吊り上げる。
「いでーっ」
何て握力だ。
整えていないぼさぼさの黒髪、無精髭、そしてやる気の見られない半分閉じた目。紺碧の羽織は狼士組の隊服なのだろう。幅広い肩にかけるようにして羽織っていた。
武器を手にしている様子はなく、こちらに対する敵意もないようだった。
むしろ3人に対して怒っているようだ。
「何やってるか聞いてんだよ」
「この不埒者に制裁を加えとるところや。鳶さん、邪魔せんとって」
「そうじゃ、そうじゃ。こいつ、茶屋の腰掛に化けとったんじゃ。見過ごすわけにゃいかんけえの」
「はあ? 化けた?」
「おれたちじゃないよ! そいつらが勝手に青ちゃんが化けたって決めつけたんだ!」
唇を尖らせて反論するでこぱち。
現れた大男は俺と並んだでこぱちをじろじろなめまわすように見た。
「炯、化けたってのは、この目立つ極彩色の上着のヤツらが忍だと思ったって事か?」
「えっと、それは……」
「それともあやかしだとでも思ったか?」
返答に詰まった炯の、一本伸びた前髪をつまんで引っ張りながら。
「言ってんだろ、人に喧嘩を売る時は、ちゃんと理由がある時だけだ。んなことしてっから狼士組の評判が悪くなんだよ。ほんで俺の仕事も増えんだ」
「そうはゆぅても、こいつら、どう見ても怪しい恰好じゃけえ。刀も抜身やし……夜叉族やし」
セイがそう言った瞬間、大男の隣にいた物静かな男が黙ってセイを殴り飛ばした。
いや、違う。
何処から取り出したのか、旋棍を手にしている。拳でなく、旋棍で弾き飛ばしたようだ。
無表情で同僚に制裁を加えた男は、無言で武器を収めた。
がりがりと頭をかいた大男は、あまりやる気のない口調で俺とでこぱちに詫びを入れた。
「若気の至りだ、赦してやってくれ」
「うん、いいよ。あいつら、全然強くなかったし」
結局最後まで退屈だった、とでこぱちは肩を竦めた。
「そうなんだ、そこが問題なんだ。お前たちくらい強けりゃ、あいつらも焦りもしねえんだろうがな。手柄立てようと必死になってるもんで、ちょいちょい無関係のヤツを巻き込んじまう」
鳶と呼ばれた男は軽く頭を下げた、
「悪かったな、狼士組の若いのが。浅葱の旦那の客人なんだろう? あいつらにはあとで謝りに行かせる」
「いらねぇよ、めんどくせえ」
地面に刺していた刀を抜き取り。
「行くぞ、でこぱち」
狼士組の隊士達を後にした。
浅葱家の屋敷は、武家屋敷立ち並ぶ界隈、海に面した場所にある。
漆喰の塀が長く続く先に堂々たる門構え。宿直が開門し、中に入れば賽ノ地にあった浅葱家の屋敷と比べ物にならぬほど手入れの施された庭が広がった。
既に薄暗いが、石燈籠に灯が入り、飛び石の庭をぼんやりと映し出している。
建屋に入り、割り当てられた部屋に通されると、格子の向こうには暗い海が広がっていた。
「この部屋はご自由にお使いください」
目の揃った畳部屋。床の間があるところを見ると、客用なのだろう。裸足の汚れたまま歩くのも気が引けるほどの部屋に通され、落ち着かない。
「よろしければ、羽織袴など、必要であればお渡しします」
「いや、いい」
この上、正装などさせられようものなら、全身が拒絶反応でも起こしそうだ。
「湯殿には後程、ご案内いたしますが、もし、あまり肩肘張らぬ銭湯の方がよろしければそちらへご案内しますが」
「あー……好きにするよ。この時期ならその辺の川でいい」
「庭の池でもいいよ。おっきい鯉がたくさんいたから、捕まえんのも楽しそうだし」
「うわああ、庭の池はやめてください! 父上が怒られます……!」
慌てて止めに入る立待。
父親が、いったい誰に怒られるのかというのは疑問ではあるが。
世話になっておいて申し訳ないので、大丈夫だと思うが、もし万一、でこぱちが池に飛び込もうとしたら一応止めておいてやろう。
「池はやめとくよ。後で風呂を借りる」
「お願いしますっ……!」
立待はてきぱきと布団を敷き、手ぬぐいなど、生活に必要なものを揃えて俺たちに手渡した。
旗本の跡取り子息だというのに、健気な事だ。
「江戸城へ出向くのは三日後です。それまでは、ごゆるりとお過ごしください」
そう言って立待は退室していった。
その後姿を見送って。
「青ちゃん、さっき、立待が、お風呂があるって言ってたね」
「ん? ああ、そうだな」
「こんなおっきいお屋敷に来るのって初めてだから、見てみたいな」
まあ、それもそうか。
今後、どういう道を歩むにしろ、武家屋敷に来ることもそうそうあるまい。
何より、池に入るよりずっとマシだ。
手ぬぐいを引っ掛けて部屋を出る事にした。
湯殿に到着して、引き戸を開けた。
脱衣所に、もうもうと立ち込める湯煙。籠がいくつも置いてあり、屋敷だというのに、まるで公共の銭湯のようだ。
賽ノ地の屋敷もそうだったが、江戸の屋敷にも敷地内に道場があるのかもしれない。敷地が広すぎてまだ把握しきれていないが。稽古用に、後で場所を聞いておこう。
おそらくここは、道場に来た人々が汗を流す場所なのだろう。
湯殿があると思われる方向からは水音がしていた。
向日葵色の上着を畳まず籠に入れ――きさらに見られていたら、ちゃんと畳みなさい、とすぐお説教だっただろう――腰布に手をかけ、すでに服を脱ぎ始めている。
俺の方も上着を籠に放り込んだ。
と、湯殿の水音が止まり、立てつけの悪い引き戸ががたがたと鳴った。
そちらを見れば、長い黒檀の髪。
髪を流していると普段の稽古着姿とは印象が違うが、立待に間違いない。
「立待、いたのか」
「ああ、お二方、申し訳ありません。こちらは道場生用の湯殿でして、お客人用は別の場所にあるんです」
立待はほとんど体を隠していない。
俺はそれに違和感を覚えた。
半分着物を脱いでしまったでこぱちがこちらを見て、立待に気付く。
「あれ、立待、いたの?」
そう言えば、居待がいつだったか『姉上』と口走った事がある。立待の他に兄弟がいるのかと思っていたが、それは間違いだったようだ。
全身から血の気が引く。
「なんだ、立待って女の子だったんだ。何でいつも男の子の恰好してるの?」
同時に、恐ろしい殺気が全身を貫いた。
ヤバい。
「……でこぱち」
「なあに、青ちゃん」
「逃げるぞ」
きょとんとしたでこぱちの手を掴み、咄嗟に駆けだした。