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第二十三話


 でこぱちはぐっと唇を噛みしめた。

「もし青ちゃんが夜叉で、おれが――羅刹だったとしても、関係ない」

 やっぱりお前も気づいていたんだな。

 俺が何者なのか。

 自分が何者なのか。

 もしかすると、自分の中にいる羅刹族の本能むき出しのままの人格がいるにも気づいているのだろうか。

 迦羅はでこぱちの言葉を聞いて、さも可笑しそうに笑った。

「お前の母は、そう教えなかった筈だぞ?」

 母と言う言葉に、でこぱちは反応した。

「おかあさん……?」

「ああ、そうだ。耶八、私の元へ来い。お前の親に会わせてやろう」

 その言葉に、でこぱちは大きく目を見開いた。

 ああ、母親に無理やり引き合わされた時の俺と同じだ。突然、家族の話をされてもどうしていいか分からないのだ。これまで、そんなものが存在しなかったから。どういうものなのか想像もつかず、自分がどう接していい分からないのだ。

「でこぱち、行って来い」

 そう言うと、でこぱちははっと俺を見上げた。

「お前を一緒には連れていけない」

「やっぱり、おれが弱いから?」

「違う」

 俺も、でこぱちもまだ強くなれるというなら。

 でこぱちは、羅刹の元へいった方がいい。その方がずっと強くなれる。

 むしろ、『夜叉は敵』だと言う耶八が夜叉の里へ向かえばどうなるか、火を見るより明らかだ。俺一人でさえ、呵瑚と言う名の夜叉族一人でさえ本能を抑えられないというのに。

 それより何より、俺の中の夜叉の想像図が正しければ、彼らは、決して羅刹族を身内に招き入れたりはしないだろう。

 しかし、俺は興味があった。

 物静かとも言われる夜叉族のもう一つの側面。

 夜叉族は膨大な知識をその一族の中に貯めこんでいるという噂がある。強さを求める羅刹族と対照的に学問に秀で、裏から無族の治世を操る事を趣味としているという。

 奏の言葉を借りれば、陰険で根暗で鬱陶しいヤツ、という事になるが。

 その場所へ行けば、俺の欲求は充たされるかもしれない。もし機会があるのなら行きたい。

 たとえその為に、相棒と別れても――?

 でこぱちの眉が見る見る下がり、まるで泣きそうな顔になった。

「やだよ。おれ、青ちゃんと一緒だもん」

 ふるふると首を横に振り、俺の上着の裾をしっかりと握りしめた。

 何でそんな事言うの。

 全身でそう言っていた。

 俺はどうしようもなくこいつに甘くて、我儘を言われるとどうしても通したくなってしまうのだ。

 心が揺らぐ。

 自分自身の欲求と、相棒を悲しませたくないという願望の間で揺蕩う。

 すると、頑なに拒否するでこぱちに迦羅が動いた。

「ならばその身に刻んでやろう」

 玲瓏な羅刹女が目を細め、狙いを定める。

 そこから本当に一瞬だった。

 迦羅が距離を詰め、でこぱちを床に叩き落すまで。

 凄まじい音がしてでこぱちの頭が床にめり込む。

 いったん力の抜けたでこぱちの身体は、しかし、すぐに床から飛び上がった。

 野山の獣のような動きで、迦羅に跳びかかっていく。

 が、怪我をしていたとはいえ、夜叉族の呵瑚でさえ一瞬で屠った耶八の攻撃は、全く迦羅に届かなかった。

 迦羅という羅刹女もまた、景元と同じ、俺たちとは異なる次元に立っている。

 空を舞うように襲い掛かる耶八は、完全に(タガ)が外れている。

 もはやでこぱちと耶八の境界は曖昧で、ほんの少しの隙間さえあれば顔を出してくるのだ。俺に、それを止める術はない。羅刹に傾く度、こちらへ引き戻してももはや追いつかないのだ。

 コイツ自身が中を自覚し、御することが出来ない限り。

 完全に意識が迦羅の方へ向いている隙に、俺は耶八を後ろから思い切り殴り倒した。

 耶八は床に倒れ、向日葵色の上着が床に広がった。

 この瞬間、ほとんど動いていないに息が切れた。昏倒させる一撃にすべての力を注いだせいだ。

 荒い息を整えながら、白磁の羅刹女を見上げる。

 おそらくこの羅刹女は信頼できる。鍛える事こそあろうが、でこぱちを無下に殺したりはしないだろう。そんな確信があった。

「迦羅、頼む。こいつを連れて行ってやってくれ」

「よいのか?」

 迦羅は冷徹な美貌に笑みを乗せた。

 子供たちの足掻きを楽しがっている様子でもあった。

「いい。殺したりしないでくれるなら、それでいい」

 自分の進む道を見つけてしまった今、過去の澱に沈んで身を滅ぼす事だけは許されない。

 今度は、左腕と左目をくれてやる訳にはいかないのだ。

 左目を獲られれば書物を読めなくなるし、左手を獲られれば刀を振る事もできなくなってしまう。例え相棒が欲しがっても、これを獲られる訳にはいかない。

「恩ある方の面影がある。悪いようにはせんよ」

 迦羅は小さく呟いた。

 その秘色の瞳には、これまでなかった慈愛が映っている気がした。

「では、私たちは今のうちに出発しましょうか」

 静観していた烏之介がぱちん、と扇子を閉じた。

 不良奉行とその隠密のあやかしの姿は、いつの間にか消えていた。

 でこぱちの背負った白柄の刀を持っていこうとして、手を止めた。

 これは、預けたままでいいだろう。

 何をしようが、こいつはどうあっても泣くだろうに、 預けた刀にいつかまた会う可能性を残そうとしたのだろうか。

 少しでも、ほんの少しだけでもいいんだ。心が軽くなればいい。

 そして、俺がもっと広い世界を見てから帰ってきた時、もう一度相棒に出会い、この刀を返してもらったとしたら、世に言う奇跡なるモノを信じてやってもいい。

 救いなき世では、一度別れてしまえばもう二度と会えない事も往々にしてあるのだから。

 地下道に入る間際、向日葵色の上着に目を獲られた。何年もずっと、一緒だった相棒。

「残す心は、ありませんか?」

 烏之介の問いには答えなかった。

 心残りがないと言えば嘘になる。

 しかし、それ以上にこれから向かう先に高揚していた――導き手が、コイツだというのはひとまず置いておいて。

 賽ノ地で過ごしたあの梅雨の時期、俺は大切なものを守ると決めた筈だった。相棒の背を守り、きさらのいる賽ノ地の為に動くと決めた。大切なものを守るため、単純に賽ノ地への羅刹城誘致を止めさせればいいと思っていた。

 しかし、江戸へ来てそれは崩れた。

 様々な思惑が絡み会い、様々な思いが交錯する中で自分を見失いそうになっている。

 実際に将軍の姿を見た。羅刹研究所の存在を知った。篝と話して、和平が何かを考えた。母親に会って、過去と向き合った。狭い世界に身を置いた黒猫が身を滅ぼそうとしていたのを見た。

 そして、日輪のような活動力を持つ江戸の住人達の力を目の当たりにした。

 例えば、賽ノ地に羅刹城を誘致させるのを止めさせたとしよう。そうしたら、その後はどうなる?

 別の場所に羅刹城を作るのか。別の場所に羅刹城を作るとして、何処に造るのか。その場所にもまた無族は住んでいるだろう。そうなったら、議論は堂々巡りだ。

 そうなった場合、和平を取りやめるのか――それは江戸将軍が翆蓮(すいれん)である以上はあり得ない気もするが――それとも別の選択肢があるのか。

 そもそも、将軍が『和平』を目指す理由は何だ?

 賽ノ地以外の住人達は、和平の事をどう考えているのか?

 何一つ、答えは出なかった。

 このまま賽ノ地に戻ったところで、俺の中での答えは出まい。狭い世界を見ていては、この先など想像できるはずもない。もっと広い世界を知らねばならない。

 だから俺は、知らず知らずのうちに先達を求めていたのかもしれない。

 この乱世を生き抜く知恵をつけるには、強さを求めるだけでは不足だ。ジジィや居待や、相棒と共に居る事では得られないモノを授けてくれる誰かを。

 その相手がこの胡散臭い烏組の頭だというのはどうにも納得いかない話だが。

「行きましょう」

 最後に見た向日葵色は、あの祭りの日に見た花火のように、鮮やかに脳裏に焼き付いた。


 地下道を烏之介と二人で越え、海岸に出た。夏の日差しは江戸に到着した頃と変わらず苛烈に天頂から降り注いでいた。

 町の住人達は海岸から退いたようだ。辺りに人影はほとんど見当たらなかった。

 海岸から江戸城を見る。

 砂州はすっかり消え、海の上に浮かぶ信天翁(しんてんおう)はどっしりと構えていた。あの場所に昏倒した相棒を無理やり置いてきた。郷愁に耽りそうになり、すぐに目を逸らす。

 その時ふと、霞色の瞳をした彼女の事を思い出した。

 彼女もきっと泣くのだろうな。

 ハチと一緒にいて、と懇願したのは他でもないきさらだった。きさらもきっと、予感していたのだろう。非常に聡い彼女の事だから、俺の事もでこぱちの事も、この結末が来ることも分かったうえであの言葉を告げたのだ。

 そして、俺にも自分自身にも言い聞かせるように大丈夫、と繰り返した。

 会いたい。

 自然にそう思った。

「出発は夜まで待ってくれるか?」

「ええ、いいですよ。残す心のないように」


 夜になるのを待って、黒船屋の塀を越えた。母屋からは華やかな音が流れており、人々の笑い声も聞こえてきた。

 そちらに気付かれぬよう気配を殺していたつもりだったが、縁側の廊下を歩いていた繻子に発見されてしまった。

 江戸に到着した時分には満月だった夜空の月は、下弦の月を経て、晦日(つごもり)へと向かっていた。新月が近い。灯りのほとんどないこの場所で俺を見つけるなど、本来ならあり得ない事だった。

 繻子はかなり夜目が効くらしい。

「青様~!」

 繻子は着物が乱れるのも構わず、俺に向かって大きく手を振った。

「何処へ行ってらしたの? 町では昼間、怪物が現れて大変だったと聞きましたわ。青様の事、江戸城の近くで見かけたというお客さんがいらっしゃったの。青様はお怪我などされていらっしゃいませんか?」

 んな大きな声を出したら、あの人に見つかるだろうが。

 仕方なく繻子の元へ駆け寄った。

「怪我はしてねえよ。お前こそ、大丈夫だったのか?」

「青様があたしの心配してくださるなんてっ。なんてお優しいのかしら」

 両手で顔を覆ってくねくねと体を揺らした。

「化物が暴れたのは西の方ですから、花街に被害はありませんでしたわ。此糸さまも無事です。青様も無事でよかった」

 顔立ちと声に幼さを残した遊び女はそう言って無邪気に笑った。

「町で死人は出なかったと聞きました。怪物は……あたしも少し、見てみたかったりしますけど」

「やめとけ」

 見て面白いもんでもない。

 と、ふと繻子は目を伏せた。

「どうした?」

「あっ、いえ、今日は父様がいらっしゃる日なのに、まだ……父様も無事ならいいなと思って」

 こんな場所にいる少女が実の父を持つとは思えない。おそらく養い親か、身請けするつもりの誰かか。

 繻子は唇を尖らせて月を見上げた。

「遅いな、呵瑚(かこ)さま」

 呟かれた名に慄然とした。

 あまりにも聞き覚えのある名だったからだ。

「どうしたの、青様。もしかして、父様の事を知ってるの?」

 一瞬、答えに窮する。

 耶八が屠ったあの夜叉族――あれが、繻子の養い親だとでもいうのだろうか。

「江戸城で見た。生きてはいた。けど、もしかすると当分会えないかもしれない」

「えっ?」

 繻子にそれ以上聞かれないよう、すぐその場を離れた。

 そうそう座敷から長い時間離れていることは出来ないはずだ。追ってきた声は無視し、繻子を呼ぶ遣手の声がするまで、離れの裏に身を隠してやり過ごした。



 繻子の声が遠ざかってから、離れの障子窓を開けた。

 漏れる月明かりに、座敷の端に座っていた少女が振り向く。

「あっ、青ちゃ……」

 大きな声を出される前に、部屋に飛び込んで左手で口を塞いだ。

 見開かれた霞色の瞳。

 膝の上に乗せられているのは、包帯巻きにされた黒猫だった。

 静かにするよう、人差し指を唇に当て、離す。

 きさらは理解したのか、肩の力を抜いた。

「大丈夫そうか?」

 黒猫を見て言うと、きさらは表情を曇らせた。

「今は少し落ち着いてる。でも、外に見える怪我も多いんだけど、それ以上に内側がぼろぼろなの。きっとこれまで酷い事をいっぱいされてきたんだと思う。それに毒も……」

 悲痛な表情で黒猫を見下ろした。

「寝てるのか?」

「分かんない。起きてたり、寝てたり。でもあんまり動かない方がいいと思う」

「そうか」

 本題を切り出せず、沈黙してしまった。

 きさらはそんな俺の様子に不安を抱いたのか、霞色の瞳で真っ直ぐに俺を見上げた。

「ハチは? どうしたの?」

 最も聞かれたくなかった問いに、思わず目を逸らした。

 ああもう、分かりやすすぎるだろう。自分自身の事ではあるが、もう少しうまくごまかせないものかと嫌になる。

 きさらは青ざめた。

「悪い」

 責められる前に謝った。

 そんな俺に、きさらはすねたように唇を尖らせる。

「……ずるいよ、青ちゃん」

 どうにも答えようがなく、笑う事しか出来なかった。

 きさらもつられて笑う。

「今度は、どこに行くの?」

「分からん」

「帰ってくるの?」

「……分からん」

「もう」

 きさらはくすくす笑った。

 笑顔を見られてほっとした。

「髪、結びなおしてあげる。後ろ向いて?」

 そう言えば、此糸に髪を束ねていた糸を渡してしまってから、髪を下ろしたままになっていた。

 きさらは器用にくるくると髪を束ね、赤い糸で留めた。

「はい、できた」

「ありがとう」

 窓の外で、烏が一羽、かぁ、と啼いた。

 呼んでいる。

 行かなくては。

 きさらの頭を抱き寄せた。不意の事で驚いたのか、彼女が身を固くしたのが分かった。

「賽ノ地なら、いつか戻るかもしれない」

「分かった。待ってるね」

 声を震わせた少女を解放し、窓枠に足をかけた。

「気を付けて」

 後ろから声が追いかけてきた。

 そして、声だけでなく微かな足音が追いかけてきて、ふっと肩に乗り上げた。

「黒猫」

「あっ、まだ動いちゃ駄目なのに」

 この小さな体のどこに駆ける力を遺していたのか。

 最後の力を振り絞って俺の肩に飛び乗った黒猫は、静かに告げた。

「あの場所から連れ出したのはお前だ。私も連れて行け」

「お前、死ぬぞ?」

「それもいい」

 全く。

 きさらの手が黒猫を連れ戻す前に、窓枠から外へ飛び出した。



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