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第二十二話


 軽く引っかけただけの桔梗色の着物の端から右肩に鮮やかな刺青が覗いている。

 端正な顔を軽い笑みで崩し、朋香に向かって突進したはずのでこぱちの頭を思い切り掌底で弾き飛ばした。

 移動から攻撃まで、動きが全く見えなかった。

 俺もでこぱちも、あれから随分強くなったつもりだ。羅刹族を怖れる事もなくなり、誰かに負ける気もしなくなった。きさらにも強くなったね、と言われるほどに。

 しかし、それは一時の幻想だったようだ。

 やはりこの男は違う。俺の手が到底届かぬ、桁違いに遠い場所で見下ろしている。

 胸の奥で、澱と異なる何かがちりりと焦げる。

 でこぱちはぶるぶる、と頭を振った。眉が下がり、不安そうな表情で辺りをきょろきょろと見渡すと、俺を見つけて駆けてきた。

 そして、何かに脅えたように俺の隣に寄り添った。

 朋香もすぐに飛び退って景元の傍に控えた。

「……何でお前が江戸にいるんだよ」

 かろうじて景元に向かって呟く。

「きさらちゃんに聞いたろ? 賽ノ地に羅刹族が現れたんだよ。だからこうやって江戸まで来て将軍に直談判してんじゃねえか」

 町奉行は研究所を見渡しながら答えた。

「それなのにあの女ときたら、羅刹族は怖くないだの無害だの、理解しようとしろだの、もっとお互いを知れだの、感情論ばっかりだ。話にならねえ」

 手元に落ちていた研究結果と思われる紙束を机の上に叩きつけ、景元は暴言を吐き捨てた。

 正午過ぎの日光が壁の隙間から差し込み、部屋の中を照らし出した。

 研究所は酷い有様だった。

 あやかしや羅刹族が捕えられていた檻はすべて開け放たれ、羅王が逃亡した所為で壁に大きな穴が開いている。地下道への入り口を開ける為床板を剥いだ痕もある。資料と思われる本や紙が大量に散乱し、正体不明の液体が入った硝子瓶が床に落ち、割れていた。

 何より、研究員が数名斃れている。命があるかは分からないが、動き出す気配はなかった。

 もはやこの場所は使い物にならないだろう。

 景元は床に倒れ伏した呵瑚と天音を一瞥した。

「これもお前らが?」

 違う、と言いかけて口を噤んだ。

 天音は違うが、呵瑚をやったのは耶八だ。

 その沈黙をどう取ったのかは分からないが、景元はそれ以上何も言わなかった。

 その時、きぃ、と扉の軋む音がして、研究所の奥の扉から見覚えのない男が現れた。

 烏帽子を被り、潰れた蛙のような顔をした背の低い親父が妙な笑いを金の扇子で半分隠しながら登場した。毛皮の外套を床に引きずりながらこちらへ向かって歩いてくる。

 景元はうんざりした顔をした。

田之倉(たのくら)殿」

「おやおやこれは近松殿ではありませんか。むふふ。このような場所でいったい何を?」

 怪しげな笑い。

 生理的嫌悪を覚えて思わず顔を顰めた。

 江戸城内で見た顔にいたかと記憶を探ったが、思い出せなかった。到底、研究者には見えないが、この場所にいるという事は将軍の反勢力の人間なのだろうか。

 田之倉とかいう蛙のような親父は、床に落ちている天音と呵瑚を見て目を細めた。

「この被検体はこの田之倉がいただきますよ、むふふ」

 金の扇子を一振りすると、田之倉の背後の空間が大きく横に裂けた。

 そこから、人の大きさほどもある大きな手が伸びてきた。

 目を見張っている間に、その手は天音と呵瑚を掴み、再び裂け目へと消えて行った。

「天音!」

 でこぱちが追い縋ったが間に合わず、田之倉の背後の空間は再び閉じてしまった。

 今のはいったい、何だ?

「式神、か」

 景元が掃き捨てるように言い、田之倉は笑う。

「むふふ」

 でこぱちが呆然と立ち尽くした。

 江戸の人間はあやかしに慣れていない。それは、あやかしがいないからだと思っていたが、どうやら違ったようだ。江戸は賽ノ地と変わらず、いや、むしろよっぽどあやかしに溢れているのではないだろうか。

 ただ、住人が気づいていないだけで。

 日輪の活動力を持つ側面と、あやかしが暗躍する側面と。江戸は魔窟だ。ヒトの世にヒトならざるモノが入り込み、暗躍する土地。ヒトの与り知らぬうち、魔のモノが入り込んでいる。

 賽ノ地と違う意味で奇妙な街だった。


 と、その時、場の空気が変わった。

 一瞬で全員に緊張が走る。

 只ならぬ気配に上を見上げた瞬間、白色の衣を広げた羅刹女が音もなくふわりと飛来した。

「ここに集まっておったのか」

 絶世の美貌を持つ白磁の羅刹女が秘色の瞳を細めた。

 この羅刹女が此処に居るだけで、空気が一変する。大気が肌を裂きそうにぴぃんと張り詰めた。

「これはこれは迦羅殿。むふふ、今日もお美しい」

「黙れ無族の狸。貴様と話すと不快極まりない」

「むふふ、これは失礼」

 田之倉は金の扇子を開いて口元に当て、楚々と退いた。

 被検体と称して天音と呵瑚の身柄を回収しに来ただけなのだろう。それ以上、引きずる事はなくもときた扉へ戻っていった。

 田之倉が去るのを確認し、迦羅がこちらを見た。

「近頃よく会うな、夜叉族の少年。それに……」

 迦羅はでこぱちを見て、目を細めた。

「……まあいい。無族の城は退屈で仕方がなくてな。そろそろ西の住処に戻りたいのだが。道中共にするか? 景元」

「御冗談を」

 景元は肩を竦めた。

 そして俺たちに向かって叫んだ。

「お前らこそ、一緒に帰ったらどうだ。この様子じゃ、何もかも引っ掻き回しただけで終わったんだろ」

 返す言葉もない。

 景元の命で二重間者として江戸城の内情を探りに来たはいいが、江戸城で羅刹女と戦闘して牢にぶち込まれ、挙句、牢破り。さらには江戸城へ再び侵入して羅王を放ち、危うく江戸の町に壊滅的な被害を咥えるところだった。

 一体何の為に江戸までやってきたのか分からない。

 羅刹研究所を潰したことと言い、羅刹女と共闘して羅王を倒したことと言い、むしろ結果的には将軍の味方になるよう動いてしまった気もするが。

「まあ、機会は何度でもある。お前が赤目である限り(・・・・・・・)な」

 やはりこの男はそれを狙っていた。

 直情的な江戸将軍の姿を見た時からうすうす感づいていた。何故江戸の将軍が夜叉族なのかは知らないが、同じ赤目を持つ俺に興味を持っているらしいことは確かだ。

 それに(カコツ)けて、俺たちを江戸城内へ送り込む算段だったのだ。

「本当に、腹立つな」

 すべてこの男の手の内で踊らされているようで気に喰わない。

 江戸へ来てから時折覚える苛立ちもすべて、この男の所為だ。

 治世の異なる町を見て、この男が目指している賽ノ地の姿を知った。日輪のような活動力と、土地に対する誇りを見た。

 これまで知らなかった世界を知った。

 そして俺は一つの結論を出した。

「……なあ、悪いが、なかったことにしてくれるか」

 そう言うと、景元は眉をあげた。端正な顔立ちに、疑問の色が浮かぶ。

「何をだ?」

「全部だよ」

 澱とは異なる、腹の奥に溜まる鬱屈した感情のようなもの。

 この男に対する嫉妬のような、自分の無力に対する怒りのような。

 自覚した時、俺は初めて自分の意志を手に入れた。

「あんたはすごいよ。俺にはとてもあんたのように上手く立ち回る事なんて出来やしねえ」

 ほんの少しだけ、心の底を吐露する。もう二度と言わない。この一度きりだ。

 もう二度とこいつを褒めたりしない。

「俺はまだ何も出来ない。賽ノ地の事も江戸の事も、今はまだ考えられない。俺はまだ何も知らないし、何も決められない」

 賽ノ地と、江戸と。

 たった二つを知っただけで絶望するほどに、俺は無知だ。

 何が正しくて何が正しくないのか。自分が何を望み、その望みをかなえるにはどうしたらいいのか。

 俺には何も分からない

「決断するには、不足が多すぎる。このままじゃ、俺は無力のままだ。俺は――もっと、知りたい」

 初めて願望のようなものを口にした。

 これまで何に対しても距離を置いてきた俺が、初めて切に願った。

――もっと、知りたい。

 単純で、原始的で、直情的な願い。

 しかしそれは俺が初めて手に入れたものだった。

 賽ノ地で無力を感じた時も強くありたいと願ったが、今は少し違う。

 でこぱちがきょとんと俺を見上げていた。

 つい先ほどまでそこにいたはずの羅刹の姿は影も見当たらない。

「だから、俺はまだ、道を決めないでおきたいんだ」

 黙って俺の言葉を聞いていた景元は、ふぅ、とため息をついた。そして、でこぱちに尋ねた。

「お前はどうだ、黄色」

「おれは青ちゃんと一緒だ」

 間髪入れず、でこぱちが答える。

 その頭に、ぽん、と手を置いた。

 でこぱちは、強くなりたいと繰り返した。誰にも負けないように、誰を相手にしても勝てるように。大切なものを守れるように。

 もう少しだけ、共に歩むことは出来るだろうか。

 強さを求める相棒と、知識を求める俺とは、まだ一緒にいられるだろうか。

「俺たちはまだ、何処にも属さないことにする」

「若いねえ」

 景元は肩を竦めた。

「だとよ烏之介……どうせ、いるんだろ?」

 その声ではっとすると、いつの間にか朋香の背後に烏之介が立っていた。

 全く気付かなかった。

 相変わらずにこにこと笑顔を湛えた烏組の頭は、手にした扇子をぱちんと閉じた。呵瑚とよく似ている気もするが、烏之介からは全く敵意を感じない。

 それがむしろ、恐ろしくもあるのだが。

「私に言われても困りますよ、景元様」

「んなこたねえだろ。お前ならこの悪童どもを望む場所まで連れて行ってやれるはずだ」

 小首を傾げた烏之介は笑みに細めた目を薄く開いた。

「ですが、私が連れて行くと何処にも属さないという彼の信念に反するのでは?」

「相変わらずお前は理屈っぽいな」

 面倒くさそうに頭をかいた景元。

「命令だ、烏之介。こいつらをお前の故郷へ連れて行け――これでいいか?」

「ええ、ご命令とあらば仕方ありません」

 本当に面倒くさいヤツ、とブツブツ言いながら、景元は俺たちを追い払う仕草をした。

「お前らとっとと失せろ。烏之介について行け。おそらく、お前らの望むものが手に入るはずだ」

 この得体の知れない男について行けと景元は言う。

 しかし、意外な声がそれを分断した。

「ふむ、それは困るな」

 白磁の羅刹女だった。

 迦羅は腰に手を当て、唇に笑みを乗せた。

「黄色い方は、ウチに貰おう。目の前でむざむざ、夜叉族に渡す訳にはいかんからな」



 迦羅の言葉で、心臓が竦み上がった。

 逃げて逃げて、逃げて、誤魔化して誤魔化して。

 結論を先延ばしにしてきた現実を目の前に突き付けられた気がした。

「えっ、おれ……?」

 でこぱちが不安げに見上げてくる。

 心臓が耳元で鳴り響いている。

「耶八と言ったな。私と共に来い。今よりもっと強くしてやろう」

 迦羅が手を差し伸べた。

 強く、という言葉にピクリと反応したでこぱちだったが、しばらく逡巡した後、俺に寄り添った。

「……おれ、青ちゃんと一緒がいい」

「そいつらが夜叉族でもか?」

 そいつら。

 迦羅は確かにそう言った。

 俺だけではない。ふっと烏之介を見ると、笑みをほんの少し潜め、迦羅を見ていた。

 夜叉族。

 北倶盧洲(ほっくるしゅう)の西に住処を持つ一族を羅刹と呼ぶなら、東に住む一族は夜叉と呼ばれている。背に赤い痣がある羅刹族に対し、腰に青い花弁のような痣を持つのが夜叉族だ。

 粗暴で野蛮とされる羅刹族と対照的に、夜叉族は物静かだ。

 一説には、無族に紛れて多く暮らしているとも言われるその一族はほとんど謎に包まれていた。

 江戸の将軍もそういった夜叉族を親に持ち、生まれたんだろう。

 もし迦羅の言うように烏之介が夜叉なのだとしたら、俺がこれから行くべき場所は、夜叉の里。

 そろそろ認めざるを得ないのかもしれない。

 江戸へ来てからずっと、赤目について考える事も多かった。母親と会い、否応なしに自分の過去を意識せざるをえなかった。

 それでも自分が夜叉であることを認めなかったのは、(ひとえ)に相棒の存在が在るからだった。自分が夜叉であるかに興味はなかったが、認めてしまった時に気付かされる現実を畏れていたからだ。

 いつか相棒と、進む道を別つ事。

 互いの背を守ると誓ったのに、紅と蒼の痣を背負うお互いの末々は正反対の方向へと続いていた。


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