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第二十一話


 紺碧の羽織に身を包んだ総隊長真言(しんげん)が、砂州を歩いて渡ってきた赤目の女将軍を出迎えた。

 背後に隊長格を3名従えた真言は、柔和な笑顔で挨拶した。

「自警団狼士組の総隊長を務めております、真言(しんげん)と申します」

 赤目の女将軍は、一瞬迷った後、凛とした声で告げた。

「二十三代将軍、翆蓮(すいれん)だ」

 将軍、という言葉に真言は一瞬、息を呑んだ。集まっていた住人達からもざわめきが漏れる。想像していた将軍の姿からかけ離れていたせいだろう。

 真言は、その驚きを隠さず言葉にした。

「驚きました。てっきり、将軍は年を召された男性かと思っていました。まさかこんな美しくお若い女性だったとは」

「数年前、父より任を継いだ。以来、一度も公の場には出ていなかったからな」

 将軍は手を差し出した。

「挨拶が遅くなってしまった。申し訳ない」

 が、総隊長は握手を交わさず軽く頭を下げた。

 その行動に、将軍が軽く眉をあげる。

「どうした、夜叉族の手など握れぬという事か?」

「いいえ、とんでもございません」

 そう言ってひらひらと振った掌。

 縄を強く弾き過ぎたせいで皮がむけて真っ赤に腫れあがり、全体から血が滲みだしていた。

 その手を見て、将軍翆蓮(すいれん)ははっとした。

「とても、将軍様のお手に触れるわけには参りません」

 そう言って引っ込めようとした手を、掴んだ。

 痛みに顔を顰めた真言を見て、翆蓮はぱっと手を離した。

 が、再びゆっくりと、今度は傷に触らぬよう真言の手を取った

「私は、遠くばかり見ていて足元を疎かにしていたようだ」

 唇を引き結んだ翆蓮は、ぽつりぽつりと呟いた。

「江戸城内にあのような化物を飼っていたなどとは、私も全く知らなかった。羅刹族との和平ばかりを夢見て、足元を見ていなかったのだな……その結果、江戸の者たちに多大な迷惑をかけた。すまなかった」

 人々は静まり返り、将軍の一挙手一投足に注目していた。

「皆の働きは対岸から見ていた。素晴らしい、素晴らしい力だ。皆が江戸を誇る心こそが、江戸が誇る何よりの宝だ。しかし――」

 将軍はそこで言葉をきった。

 一度息を吐き、そして大きく吸って叫ぶように言った。

「私は、もどかしかった。目の届くところで、手の届かぬところで誰かが傷つくのは!」

 将軍は、まるで泣きそうな顔をしながら叫んだ。

 感情表現が素直なところは、まるで人の上に立つ者に向いていない。

 しかし飾らないその姿は好感を得るだろう。赤目であろうが、女であろうが、そこに立っているのは江戸の町を思う施政者だった。

「羅刹との和平は絶対だ。長年の私の夢だ。それを諦めることは出来ん。しかし、これからはもっと、江戸の町に力を注ぎたい。皆が愛するこの町が平和で明るくあるように」

 将軍は笑った。

 まるで子供のように無邪気な笑顔だった。

「橋をかけよう。江戸の町と、江戸城を繋ぐように。そうすれば、私はもっと江戸の町に近づける。今のようにもどかしい思いをすることもなくなる。なあ、どうだろう、権左!」

 付き従っていたハゲが、大きく頷いた。

「とてもよい案だと思います。姫様の御心のままに」

「では決まりだ。明日から始めよう。江戸城からの大橋を!」

 将軍の声に、群衆からは歓声が上がった。

 この砂浜から江戸城までの大橋はさぞ見ものだろう。信天翁(しんてんおう)へと渡る橋。

 そしてその橋は、江戸政府をより民へと近づけるはずだ。そして、将軍への信頼を大きく深める事だろう。

 計算か天然かは知らないが、将軍翆蓮(すいれん)は江戸の住人を味方につけたことになる。

 今後、将軍の反勢力がどう動いていくかは分からないが、それでも頭一つ抜きんでたことに変わりないだろう。

 と、そこへ、何処へ姿を消していた奏がやってきた。

 奏の姿を見た総隊長はすぐにこちらへ駆けてきた。

「羅刹族の方ですね。討伐にご協力いただき、ありがとうございました。」

「協力したわけじゃないわ」

 冷たく言い放った奏。

 しかし、羅刹女があの化物を討伐しようとしていたのは事実。

 羅刹と和平を結ぼうとしている将軍が、江戸の住人の前で化物に止めを刺したのも事実。

 奏がどういう思想で以て羅王の討伐に参加したかという事も、あの化物を生み出したのもまた江戸政府であったという事も、関係なく。

 ただ事実だけが残る。

 今後、和平への考え方は大きく変わっていくだろう。

「ねえ、天音を見なかった? どこにもいないんだけど」

「天音なら江戸城にいたよ。まだいるんじゃないかな」

 でこぱちが答えた。

「居るならいいわ。姿を見ないから勝手に賽ノ地に帰ったかと思って。迦羅様もまだだし、放っておいていいわよ」

 奏は腰に手を当て、肩を竦めた。

「呼んでくるよ!」

 止める間もなく、でこぱちが砂州を駆けだした。

 仕方ない。

 俺もその後を追って砂州を歩き出した。


 ちょうど砂州を渡りきった頃、砂の道は海に隠れはじめた。将軍とお付のハゲは海岸に残されてしまったが大丈夫なのだろうか。

 白柄の刀をでこぱちに渡すと、再び背負い込んだ。

 薄暗い石の階段を上り、今度は寄り道せず研究所へ向かった。

 研究所をぐるりと取り囲んでいる塀を上る梯子は、先ほどと同じ降りたままだった。塀を上ってみると、カラクリ式の折り畳み梯子もそのままだ。誰も戻さなかったらしい。

 塀の上から見下ろすと、砂州は完全に海に戻っていた。波の合間に羅王の角と髪がゆらゆらと見え隠れしている。この分では、流されていくのも時間の問題だろう。

 その辺りだけ、海の色が血で濁っている気がした。

 江戸の町を荒した羅王。研究所で創られた生物兵器。一体どういった技術で、何をどうやってあの生物を作ったかは分からないが、あんなものが何体も存在するはずはない。まずは一安心だ。

 でこぱちの逃がしたあの羅王で、酷い被害が出なくてよかった。どれもこれも、狼士組の働きのお陰だ。

 海から研究所に視線を戻すと、でこぱちがすたすたと振り返らずに研究所の中へ入って行くところだった。

「でこぱち」

 呼んでも、振り返らない。

 真っ直ぐ何かを目指している。

 翻る向日葵色の上着が不安を誘った。

 そのまま渡り廊下を歩くのも待ちきれず、欄干からすぐに下へ飛び降りて行った。慌てて後を追って階下に飛び降りる。

 既にでこぱちの目には何か映っているのか。脇目も振らず一心に部屋の中心に向かっていった。

 運動をしたわけでもないのに、心臓の鼓動が早まる。

「おい、でこぱち」

 ようやく立ち止まったでこぱちに声をかけると、その向こうに立っている人影に気付いた。

 薄暗い研究所で目立つ金糸雀(カナリア)色の髪をした白衣の研究員だった。呵瑚(カコ)と呼ばれた彼はおそらく、夜叉族。何故このような場所で無族に混じって研究などしているのか知れないが、得体の知れぬ怖さがあった。

 その右手は赤く染まり、彼自身もどこか傷ついているのか、身体は少し傾いでいた。

 天音はどこへ消えたのだろうか。

 構えようとしたところを、でこぱちに制された。

「青ちゃんは下がってて」

 表情が見えない。

「こいつは青ちゃんを殺そうとしたんだ」

 その言葉で、呵瑚(カコ)は隠していた殺意を完全に顕わにし、高らかに、裂けるように笑った。

「よく気づきましたね」

「だっておまえ、青ちゃんばっかり見てたもん」

 庇うように大きく手を広げて俺の前に立ちふさがるでこぱち。

 そのさらに向こうに、倒れ伏した天音の姿が見えた。肌蹴(ハダケ)た着物から覗く背中が、一面真っ赤に染まっていた。その背に開いていたはずの痣が、傷から流れた血で見えなくなるほどに。

 執拗に羅刹族の痣を狙ったのだろう。呵瑚(カコ)の異常な執着と歪んだ性癖の一端を感じ、思わず顔を顰めた。

 でこぱちは呵瑚と向かい合い、双方徒手で構えた。

 体格差は歴然。

「やあぁーっ!」

 大きく気合を入れて飛び込んだでこぱちの一撃は、軽くいなされた。

 実力差も大きすぎる。

 初めて羅刹族と邂逅した時のように、立っている次元が違い過ぎるのだ。

 何度も何度も攻撃を仕掛け、一度も当たらない事にでこぱちが苛立ってきているのが分かる。

 少しずつ、でこぱちの瞳に影が下りてくる。

 まずい。

 でこぱちは全身を使った渾身の一撃を防がれ、そのまま床に突っ伏される。

 凄まじい音がして床が揺れた。

「でこぱち!」

「動かないでください」

 呵瑚は静かに告げた。

 そして床に伏せたでこぱちの腕を捻り上げた。

「動けば、折ります」

 腕がみしみし、と音を立てている。

「うあああ!」

 でこぱちの口から叫声が迸った。

「やめろ!」

「動くな、と言いましたよ」

 寸でのところで踏みとどまる。

 こんな時、俺は冷静に判断できない。咄嗟に動けるのは相棒の方で、いつもそれに引っ張られていたのだ。

 もしでこぱちなら、こんな時どう動くだろう。

 何も考えずに、誰より早く前に突っ込んでいくかもしれない。

 その迷いがすべてだった。

 刹那の迷い。

 次の瞬間、でこぱちの叫び声は止まり、同時に呵瑚の身体が宙を舞っていた。



 目の前を踊り狂うのは見慣れた相棒の姿。

 速く軽く舞ういつもの動きは鳴りを潜め、まるで本能で狩る事を知っている獣のように鋭く強く、乱暴に敵を翻弄する。

 江戸に来てから少しずつ、少しずつ近づいてきた羅刹に遂に捕えられた。

 一瞬にして形勢逆転。

 天音との戦いで怪我を負っていたらしい呵瑚から余裕の笑みが消えた。

 あっという間に、全く容赦のない相棒の一撃で金糸雀(カナリア)の髪が床に倒れ伏す。

 俺はなお、一歩も動けなかった。

 耶八はそのまま容赦なく敵の肩を踏み抜いた。

 声にならぬ叫びが呵瑚から漏れ、痛みに体がのけぞった。

「羅刹、嫌いなんだね」

 耶八の声に、背筋が冷えた。

 あの声だ。

 俺の右腕を持って行った、羅刹族との邂逅の時に姿を見せたでこぱちの中の羅刹。

 徐々に乗っ取ろうと浅い意識まで上がってきていたそいつは、各上相手との戦闘で一気に相棒の意識を乗っ取った。

 耶八は、呵瑚の背に乗り上げたまま、纏っていた白衣を剥いだ。

 覚えのある言葉を吐いて、耶八は笑った。

「夜叉は敵」

 さらに紺色の着物を襟首から無理やり裂いた。

 現れた背に、夜叉族の証である青い花びらのような痣は見当たらなかった。

 痣の代わりに腰の辺りには引き攣れたような傷跡が残っていた――まるで、『夜叉の証を無理に焼き消したような』。

「おまえも羅刹にしてやる」

「何をっ……?!」

 止めに入る暇はなかった。

 馬乗りになり、手を振り上げたでこぱちは、勢いよく呵瑚の背に爪を立てた。

 鋭く薙いだ爪が、背を抉り上げる。

 今度は呵瑚の喉から悲鳴が上がった。

 右を三回、左を三回。

 往復した爪が背を抉り、傷を刻む。

 痛みのためか衝撃のためか、呵瑚は途中で意識を失ったようだ。

「ほら、できた」

 立ち上がった耶八がその出来上がりを満足げに見下ろした。

 指の形に肩甲骨の辺りを抉り取り、そこにはまるで羅刹の背に開いた痣のような傷が残った。


 耶八の狂気に呆然となった。身体も思考もすべての流れを留めてしまったかのように動けない。いったい目の前で何が起きているのかわからない。

 露程も動けぬまま、すべてが終わってしまった。

 高らかに笑う耶八を、もはや連れ戻せる気がしない。

 そして、耶八の目が俺を捕える。

 俺を敵と視認した。

 一瞬で耶八は距離を詰める。

 寸でのところで掴みに来た手を払い、再び距離を置いた。

 これまで数え切れぬほど手合せを繰り返してきた。何度も取っ組み合いの喧嘩をしてきた。爪の先ほどの間合いの差も覚えている相棒だ。

 その気になれば、避けられぬ攻撃ではないのだ。

 少なくとも、この相棒に獲られるわけにはいかない。

 俺がずっと危惧していた事が現実になってしまう。

 感情と裏腹に右目と右腕を獲られた時と同じ倦怠感が全身を覆う。大切なモノはいつも、俺を傷つけて消えるから。

 心の底に植え付けられた心的外傷が邪魔をする。手足を止めろと囁いてくる。

 しかし、その澱の重さに、藤色の瞳のあの人を思い出した。俺と同じ過去の傷を持つあの人。俺の心の奥に澱を沈めたあの人。

 また、会いに行くと言ってしまったから。

 怒涛の攻撃を紙一重で読み切って避けながら、歯を食いしばった。

「何やってんだよ、でこぱち……!」

 これまでのように、衝撃を与えれば戻せるだろうか。

 それとも、もう戻ってこないのだろうか。

 戻ってきたとしても、それはでこぱちなのだろうか。

 俺が心の何処かで畏れていたのはでこぱちが羅刹に墜ちる事じゃない。

――何より恐れたのは、羅刹側に傾いたでこぱちが、俺を傷つけて悲しむことだ

 正面から迎え撃つ気で足を止めた。

 向日葵色の上着が翻り、背に負った白柄の刀を隠した。

 嘘偽りなく、真正面から突っ込んできた相棒を真正面から受け止める気で手を翳した。



 が、衝撃は襲ってこなかった。

 代わりに、目の前に現れたのは、細く括った浅縹(あさはなだ)の髪を翻す忍装束の女性だった。髪の間からは鈍色をした耳が飛び出している。

 片手で耶八の動きを流して封じ、俺を牽制して留めた彼女の姿に見覚えがあった。

 忘れるはずもない。

 そして、上から降ってきた声。

「仕事してるか、悪童ども」

 忘れるはずもない。

 俺とでこぱちの間に立ちふさがったのは、賽ノ地町奉行、近松景元その人だった。


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