第二十話
わーっしょい、わっしょい。
まるで祭りの神輿を担ぐ時の掛け声だ。
狼士組の隊士達が、海岸へ向かって縄を一斉に引いている。
でこぱちと立待の連携で、左右の足の腱を切られた羅王は立ち上がれず、指の少ない手で地面をひっかいている。振り回す両手が左右の町屋を粉砕したが、今はそれに構っている場合ではない。
本当に少しずつ、羅王の身体が海の方へと引きずられている。
しかしながら、海岸まではまだ随分と距離があった。
まずいな。
羅王は、足は動かないが、指の減った両腕で地面を掴んでいる。これを引きずるにはかなりの力が必要だ。
もしかすると隊士たちの体力が持たないかもしれない。
もう少しバケモノの方の体力を削ぐか。
再び刀を構え、羅王の方へ向かう。
すぐにでこぱちも追ってきた。
向日葵色の上着の端が裂けて千切れている。間一髪の攻防があったようだ。
「あいつの腕、一本だけでも斬り落とせないかなあ」
「……俺には無理だ」
今の技量では残念ながらあの腕は落とせない。
「でこぱち、お前やれるか?」
「うーん、多分、刀が壊れちゃうかな」
だろうな。
現実、奏でも指を落とすのが精一杯だ。
だとすれば、足と同じように腕も腱を切断すればいいのだが、腕の腱は踵の上にある足と異なり、肘の内側にある。捨て身覚悟で飛び込んでも、うまく切れるかどうか。
だが、少しずつ、縄を引く隊士の足が止まっているのも事実だ。
羅王が咆哮と啼声を上げ、引く力に抵抗している。
太陽は順調に天頂へと向かっている。このままでは砂州が現れている間に海岸へ連れていけない。
「仕方ない。一か八か、やるぞ」
「うんっ」
でこぱちと並んで刀を構えた時だった。
ずずず、と急に羅王の身体が引きずられ始めた。
何だ、と見ると、縄を引く人数がさらに増えていた。屋根の上から飛び降りて来る者、通りの向こうから駆けて来る者。皆一様に紺碧の羽織を翻し、羅王の縄を手に手に取っていく。
その中には、タケやセイたち、下っ端の姿もあった。
鳶彦と並んで先頭を引く総隊長が、らしくない怒鳴り声をあげた。
「何をしてるんだ! 二段以下の者は避難誘導を担当しろと言っただろう! 巻き込まれたらどうするんだ!」
「まこさん、そがな事ゆわんでつかぁさい!」
「俺たちだって、江戸の町を守る為に狼士組に入ったんだ! 手伝わせてください!」
隊士の数は増え続けている。
街中に散らばっていた狼士組が集まってきているようだ。
少しずつ、少しずつ羅王の身体が引きずられていく。
「お前ら、生意気言いやがって!」
先頭で踏ん張る鳶彦が、血の滲む手にさらに力を込めた。
それでも、羅王は少しずつしか動かない。
砂州が現れる時刻は迫っている。
息を切らした立待が俺たちと並んだ。
「自分はまだ大丈夫です。何とか残りの指も落としましょう。少しでも、彼らの力に」
「分かった。行け!」
号令で、でこぱちと立待が羅王に向かっていく。
しかし、このままでは無理だ。何か、大きく突破口を作らないと――
どうしたらいい。
どうすれば、あれを海岸まで連れていける――?!
その時、通りの向こうで大きな声が上がった。
はっと顔をあげると、海岸側の道から人が溢れだしてきた。
狼士組ではない。
鬨の声を挙げながらこちらへ走ってくるのは、江戸の住人たちだ。商店街の人間から武家屋敷の使用人、子供から大人まで、老若男女様々な人々が集まってきていた。
避難したはずの江戸の町人たちは、手に手にしていた麻縄を、狼士組の引く太い縄に結び付けていった。
まるでつい先日の祭りの日のように、人並みは通りいっぱいに押し寄せ、それでもまだ後ろからやってくる。
予期せぬ事態に、鳶彦と真言がもはや罵声のような怒鳴り声をあげる。
「避難組の責任者、誰だ! 住人は逃がせっつったろーが!」
「責任者は葵之進だよ、もう、何やってるんだ!」
しかし、何本も結び付けられた縄は集まってきた人々に手渡され、人々は手に取った縄を引き始めた。
羅王が悲鳴のような啼声をあげる。
地面を掻きながら、しかし着実に海岸へ向かって羅王の身体が動き始めた。
「せーのっ、そいやー!」
屋根の上で縄引きの掛け声をかけているのは祭りでも先導役をしていた火消しの長さんと、鍛冶屋の大吾。
縄を引いている中には、爽亭の優月や瓦版屋の朝陽の姿もあった。
大きな掛け声をかけながら、全員が懸命に縄を引いている。
羅王が引きずられ始め、正面で相手をしていたでこぱちと立待も戻ってきた。
「なんか急に引っ張られてったよ?」
「どうしたんでしょう、これは」
「分からん」
掛け声をかけていた鍛冶屋の大吾が狼士組に向かって叫んだ。
「正午までに砂州だったな、江戸っ子の根性見せたらあ!」
何故、その情報が出回っているんだ。
誰かが、砂州までにあの化物を海岸へ連れて行かねばならない、と住人達に吹聴して回ったらしい。
一体誰が。
と、そこへ降りてくる濃い紺青の忍び装束。
「玖音!」
子犬を抱えた忍び装束の玖音が息を切らしていた。
「何で自分たちだけで解決しようとしてんのよ!」
「もしかして、玖音がみんなに知らせてくれたの? あいつを海岸まで引っ張る、って」
「最初に動いてたのは、あたしじゃなくて狼士組の女の子。あたしはちょっと手伝っただけ」
「炯の事か?」
「名前は分かんない。でも、よくしゃべる丸くて白い鳥みたいな変なイキモノを連れてる子」
……炯だ。
炯と玖音の呼びかけで、江戸住人は続々とこの場所に集まりつつあるのだ。自警団狼士組を助ける為。そして、自分たちの手で自分たちの町を守るため。
「自分も、引手に回ります」
「あたしも行くわ」
立待は刀を納め、狼士組の隊士に混ざって縄を引きだした。
玖音も一緒になって縄を引く。足元で、懸命に端を咥えた子犬も地に足をつけ、踏ん張っている。
狼士組の隊士らが避難するよう警告するが、集まった人々は、全く聞く耳持たないようだ。
人々は懸命に縄を引きながら、口々に言った。
「江戸は儂らの町だ。儂らにも手伝わせろ!」
「力仕事なら任しとけ! 全員でやれば何とでもなる!」
「狼士組だけに任せとく訳にはいかんだろ!」
気づけば、とんでもない人数が縄を引いている。無族一人一人の力は小さくとも、これだけ集まれば大きな力になる。弱った羅王などが太刀打ちできる力ではない。
江戸の一大事に、全員が一堂に会し、武家も町人も、職業も関係なく、全員が一心に縄を引く。
背筋が震えた。
江戸の町を最初に見下ろした時に感じた、日輪のような活動力の根源を見た気がした。
自分たちの住んでいる土地を誇りに思い、大切に思い、自らの手で守ろうとする。考えてみれば、自警団という組織がある事自体、主体的に秩序を守ろうとする考えの表れなのだろう。
江戸という町の強さを、まざまざと眼前に見せつけられた。
しかし、あの化物が暴れ出す可能性がある。
今は引っ張られる力にに抵抗しているからいいが、もし『縄を引いている方向に向かおうとしたら』。
大参事は免れない。
実は、今綱渡りの状況なのだ。
「でこぱち。俺たちは囮に回るぞ」
「分かった」
二人で羅王の正面に回った。
左目は総隊長が潰している。残った二つの目がぎょろぎょろと動いて俺とでこぱちを捕えた。
「お前の相手はこっちだ!」
この化物に耳に値する器官があるかは分からないが、確実に、でこぱちの声に反応した。
立ち上がって威嚇しようとしたのか、太い前足が空を掻く。
もうこの怪物に、逃げ出した時と同じ力はない。
空を掻いた腕を見て、でこぱちが容赦なく指を落とした。
大きく咆哮をあげた化物。
住人達の掛け声。
日輪は天頂に迫っていく。
夏の日差しの中、全員が汗だくになりながら引っ張り続け、バケモノはとうとう、海岸の砂浜まで引っ張り出された。
さすがにこれ以上は危険だ。狼士組の指示に従って、住人達は蜘蛛の子を散らすように海岸から逃げ出す。
残された目で小さな生き物が逃げていくのを捕えたのか、羅王は動かぬ足でそれを追おうとした。
が、させるわけがない。
人々に気を取られて俺たちから目を離したのが運のツキ。
高く舞ったでこぱちが、羅王の頭の上にうまく乗った。
「追わせないよ」
そして、両手で持った刀を思い切り左目に突き刺した。
断末魔のような悲鳴があがる。
振り切られたでこぱちが、砂浜に背中から落下した。
すぐに起き上がり、俺との隣に並ぶ。
日輪は天頂、海は干潮。
海岸から江戸城に向けて伸びる長い砂州が姿を現している。
俺とでこぱちは砂州側に立ち、羅王の注意を引く。
もはや立ち上がることは出来ない羅王は、引きずられて削れた膝を動かし、指の落ちた手を動かし、それでも俺たちを追って動き出した。
一つ残った目玉をぐりぐりと動かし、長い舌をだらりと垂らし、砂州へ侵入してくる。
その執念だけは讃称に値する。
つかず離れず、羅王が追える速度で少しずつ誘導していった。
砂州の先、江戸城の石垣を見ると、正面に立っている菖蒲色の髪の男が見えた。その隣には、阿奈が立っている。そして何故か、その隣には茶屋の腰掛に化けていた、将軍配下の忍と思われるあの男が立っていた。
どうやら、ちゃんと準備してきたようだな。
準備がなければこのまま羅王を江戸城に押し付けて帰ろうと思っていたが、どうやらその必要はなさそうだ。
と、江戸城側から誰か飛び出してきた。
その姿を見て、驚いた。
江戸紫の着物を翻し、翡翠色の長い髪を風に流したその姿。
忘れるはずもない、江戸城軍の姿だ。
その後ろを少し遅れてハゲの男が走ってくる。姫様、と叫んでいるところを見ると将軍の側近らしい。
「手を貸すぞ、少年」
「いらん」
にべもなく切り捨てると、赤目の女将軍ではなく、後ろを走ってきたハゲが肩を怒らせた。
「姫様に向かっていらんとは何だ!」
「まあ、権左。そう言うな」
ハゲを宥めた将軍は、口の端に笑みを乗せた。
羅王が息も絶え絶えの咆哮をあげる。
将軍はその姿を見て目を細めた。
「……こんなモノを江戸城内に飼っていたとはな」
そして、鉛色をしたカラクリの腕で腰の刀を抜いた。
「牽制し合いで、手を出せずにいたのが仇となったな」
ゆっくりとした動きで刀を頭上に振り翳すと、鈍色の刃を天頂の日輪が照らし出した。
強い意志を持った赤目が、羅王の姿を捕えた。
刹那、将軍は地を蹴る。
高く舞ったその姿を、羅王の最後に残された目玉が追った。
砂に半分埋もれていた手を振り上げ、将軍を叩きつけようと振り回す。
が、その手は空を切り、指の付け根から血が飛び散っただけだった。
血滴が将軍の肌を掠める。
が、将軍は怯まなかった。
高々と振り上げた刃を一閃。
最後に残った羅王の一つ目を切り裂いた。
羅王が両腕をあげて最後の咆哮をあげる。
羅王の背後へ着地した将軍は、再び大きく刀を振り上げた。
「比良! 打てえっ!」
隣に立っていたハゲが頭を抱えて身を伏せる。
俺とでこぱちも咄嗟に砂州に伏せた。
次の瞬間、江戸城側から砲撃音が響き渡った。
高速で巨大な鉄の塊が飛来する。
それは両腕を大きく広げた羅王の胸元に吸い込まれるように着弾した。
凄まじい貫通力を持ったその弾は、羅王の腹を貫いて、砂州に突き刺さった。
湿った砂と血が混ざって重く舞い上がる。
伏せた視界の中で、腹に頭ほどの大きさの風穴をあけられた羅王が声を失い、力を失い、砂州に倒れ伏すのを見た。
海岸沿いの人々から歓声が上がった。
結局誰一人、逃げてねえじゃねえか。
三つ目を潰され、足を獲られ、指を失った巨躯の化物。その死体を見下ろした時、羅刹族を屠った時の感情が蘇った。
思わずでこぱちを見ると、同じく複雑な表情でその姿を見下ろしていた。
その表情が殺したくなかった、なのか、こいつに敵うようになりたい、なのかは、俺には分からない。
羅王の死体の向こうで、刀を納めた将軍が立ちあがった。
「少年達のお陰で均衡は崩れた。今後、吉と出るも凶と出るも分からんが、感謝する」
そして真っ直ぐ、海岸へ向かっていった。
赤い目を隠すこともなく、高い位置に括った翡翠の髪を颯爽と海風に靡かせて。凛とした横顔が強く目に焼き付いた。
海岸に集まった江戸の住人達がざわめいている。無理もない。江戸将軍の容姿は未だ公開されていないのだ。
吉と出るか凶と出るか。
将軍の言葉を思い出す。
そうか。
彼女は一歩、踏み出すつもりなのだ。
赤目の女将軍は、真っ直ぐな砂州を真っ直ぐに江戸の住人達の元へ歩んでいった。




