第十九話
江戸の町を東から西へ駆けた。
避難する人々に逆らい、狼士組の忠告を無視し、ただひたすらに走った。
進行方向に土煙が上がる。
武家屋敷を抜け、町屋の方に入り込んでいるようだ。
西へ近づくにつれ、人の気配がなくなっていく。代わりに、羅王と戦っているらしい人々の叫びが聞こえた。怒涛のような雄叫びが上がっている。
町屋の辺りの道は入り組んでいる。屋根を行った方が早い。
塀を足場に上へ跳び上がったところで、狼士組の隊士と鉢合わせた。こいつらも屋根を飛び回っているようだ。
「何だ、お前っ! バケモノがいるんだ、早く逃げろ!」
逃げるわけないだろ。
屋根に上がると、土煙が上がる場所がよく分かった。
隊士は無視して羅王がいると思われる方向へ向かう。おそらく、でこぱちもそこにいるはずだ。
屋根には等間隔に見張りと思われる狼士組の隊士が待機している。
その中に、知った姿を見つけた。
同時に向こうも気づき、大きく手を振った。
「こっちや! 耶八もこっちにおんで!」
炯の声で向かう方向を変えた。
タケと炯とセイが固まっていた。どうやら眼鏡は復活したらしいな。
と、よく見ると炯の胸元に白くて丸い物体が抱えられている。あの見覚えのある姿は。
「兄ちゃん! 伝言は俺様がばっちり伝えてやったぜ! ソータイチョーと、この女になっ。出来るだろ? 俺様仕事出来るだろ? 俺様の仕事の速さに驚いてくれよ! なあ、兄ちゃん!」
ぴーぴーと鳴く大福餅。
五月蠅い事この上ない。
「総隊長もあっちか?」
「ああ、今は隊長格と耶八と、あと浅葱の跡取り息子が相手してる。俺たちは戦力にならないから待機だ」
悔しそうにタケが言う。
セイが新調した眼鏡をくいっとあげた。
「仕方ないじゃろう。わしらじゃ、あがぁな化け物にゃぁ太刀打ちでけん」
どぉん、と大きな音がした。
羅王が暴れている。大きく振り上げた腕と、捻じれた角の生えた頭が少しだけ見えた。
急がなくては。
「あ、この鳥はどないすんの? アンタの事探しよったみたいやけど」
「知らん」
「あっ、恩着に報いようと必死で飛んだ俺様にその態度はないんじゃないかい? ちょいと兄さん、礼儀に欠けて……」
よく回る口だ。
もう聞かなくてもいいだろう。
刀の柄で横っ面を張り倒した。
「炯、五月蠅いと思うけど持っといてくれ」
「まあ、ええねんけど。めっちゃさわり心地ええし」
「頼んだ」
再び喋り出す前に、その場を離れる事にした。
総隊長真言と鳶彦と呼ばれていた大男、それに知らない男が二人、羅王の周囲を取り囲んでいた。おそらく狼士組の隊長たちなのだろう。
「あっ、お前!」
最初に俺を見つけた鳶彦が指差して寄ってきた。
「訳分かんねえ伝言、突然寄越すんじゃねえよ」
「訳分かるだろ。あのバケモノの事を知らせてやったんだ」
「口の減らねえガキだな」
総隊長の真言がまあまあ、と宥めた。
「今はそれよりあの化物を何とかする事を考えよう」
「ああ、そうだ。それについては当てがある」
簡潔に、羅王の事を話す。正午までにあのバケモノを砂州まで連れて行きたい、という事も。
「……何故江戸城にいたのか、ってのは今聞かないよ。とりあえず、砂州まで行けば何とかなるんだね」
真言と鳶彦は、揃って腕を組み、考えこんだ。
「誰かが囮になるのは簡単なんだけど、途中で興味を失って逃げられた時の事を考えるとあんまり、ね」
「じゃあ、引っ張るしかないだろ。アイツを海岸まで持っていけばいいんだよな」
鳶彦はすぐに、近くにいた隊士を呼び付けた。
何かを言いつけると、隊士は少し戸惑いながらも頷いて、屋根の上を跳んで行った。
「弱らせて、縄引っ掛けて、引っ張ってくしかねえだろ」
判断が早い。
が、弱らせて縄で引っ張るというのは、言うほど簡単な事ではない。
「真言、俺も準備にでてくる。怪我ァすんなよ、総隊長」
「分かったよ。そっちは任せる。鳶彦も無茶しないでよ」
二人は拳を突き合わせ、鳶彦は去って行った。
「……こういう時の判断力はやっぱり鳶彦に敵わないなあ」
その後ろ姿を見て、真言がしみじみと呟く。
「やっぱり鳶彦の方が総隊長に相応しいと思うんだけど」
真言は一つ、ちいさくため息をついて腰に差していた刀を抜いた。
「さ、俺達も行こうか。いつまでも彼らだけに任せておくわけにはいかないからね」
残っていた二人の隊長にも声をかけ、総隊長は紺碧の羽織を翻して屋根から飛び降りた。
でこぱちと立待も数名の武士と共に、翻弄するように羅王の足元を駆けていた。
そしてもう一つ、見知った影が飛び交っている。
「奏」
それは、背に痣を背負った羅刹女の姿だった。
まさか彼女が味方してくれるとは思ってもみなかった。
「でこぱち! 立待!」
叫んで、下に飛び降りる。
「青ちゃん!」
「青殿!」
「悪い、遅くなった」
目の前にすると、改めてその大きさに圧倒される。
基本的には四足歩行のようだが、立ち上がれば平屋の家は軽々と凌駕する巨躯。とても倒せる気がしない。
生半可な刀では傷の一つさえつけられないだろう。
ずっと手にしていた白柄の刀をでこぱちに投げる。でこぱちはそれをすぐに背負い込んだ。再び相棒に刀を預け、俺は敵を観察する。
三つの目玉がぎょろぎょろと動く。
化物は、どうやら二足歩行が出来ないらしい。姿かたちは人型だが、腰の形が異なる。獣のようなあの形では、二本脚で立つ事は出来ないだろう。
動けなくするには、両手足を切断……とまではいかなくとも、動けなくなる程度に痛めつける必要はあるだろう。
「奏!」
名を呼ぶと、羅刹女は不機嫌そうにこちらへやってきた。
「何か言いたい事でもありそうだな」
「……ありすぎて言えないわ」
天音たちが掘り返した砂浜を均しておけと言った事、地下道から灯だけでなくあやかしや他の羅刹をぞろぞろと海岸へ送って押し付けた事。何より、羅王が浜に泳ぎ着いて最初に出会ったのは奏だろうからな。
「ところであれは、無族が羅刹族を研究した結果だとでも言うのかしら」
静かな声で呟いた奏。
そうか、奏が最も怒っているのは、砂浜の事でも押し付けたあやかし達の事でもない。
「あんなもので羅刹族を真似たつもり? 巫山戯るのも大概にして欲しいわ」
奏の瞳は羅刹族の誇りを傷つけられた事に対する怒りに支配されているのだ。あの化物が、羅刹族から作られた。それが赦せないのだろう。
動機は何にしろ、奏の戦闘力を使えるのは有り難い。
と、羅王の周囲で叫声が上がった。
取り囲んでいた武士たちが、でこぱちや立待が抜けた事で包囲を崩され、突破されたのだ。
やばい。
「でこぱち、立待と離れるな。絶対に二人で行動しろ。体がでかいから、思わぬ方向から攻撃が来る筈だ。二人で組んで、右に回れ。右に回ったら、後ろから足を狙え。体の構造は人間と同じはずだ。腱を切れば動けなくなるだろ」
こくりと頷いた立待とでこぱち。
狼士組は上から狙うだろうから、俺たちは地で攪乱する。
「奏、手伝ってくれ。俺たちだけじゃ無理だ」
「……貴方って、見かけに寄らず人使いが荒いわよね」
既視感。
天音とそっくり同じ台詞を吐いた奏は、肩を竦めて刀を構えた。
「いいわよ。あの胸糞悪いバケモノを倒すためならね」
「助かる。俺と奏で前に引きつける。全員でかかればあいつも混乱するはずだ。でこぱちも立待も、無茶だけはするなよ」
「分かった」
「承知しました」
でこぱちと立待が同時に頷き、駆け出そうとして、でこぱちははっと立ち止まり、背の刀を抜いてこちらに向かって放り投げた。
白柄の刀は、寸分の狂いもなく俺の掌に納まった。
「青ちゃんも気を付けて!」
「分かってる」
刀を構えて奏と並ぶ。
賽ノ地で羅刹族を倒した時の事を思い出すな。あの時も、敵だったはずの烏組の女に背を預け、共闘したのだった。
あの時もでこぱちと離れ、あいつは深手を負ったのだ。
羅王を挟んで向こう側、向日葵色の上着が翻る。
本当に、気をつけろよ。
「こっちもやるわよ」
四肢を獲るという意図は、言わずともこの羅刹女に伝わっているはずだ。
この上なく頼もしい助っ人を得て、羅王に向き直った。
羅王の攻撃手段は、主にその頑丈な両腕だ。
あれで吹っ飛ばされたら痛いでは済まない。現に、数人の武士が既に戦線を去っている。距離を取りつつ、戦線に参加しない狼士組が怪我人を回収していった。
うまい連携だ。指示を出す方が正確に戦局を読み、さらに指示を受ける方が指示を出す側を信頼していないと出来ない事だ。
「腕を動かなくさせるっては難しいわね。とにかく……切り刻む?」
奏は刀を構え、次の瞬間、羅王の懐に飛び込んでいた。
あの頑強な腕を落とすのは無理だ。
飛び込んできた奏を、羅王は逆手で迎え撃つ。
奏の視線が一瞬、こちらに向けられた。
ったく。
一瞬遅れて俺も捨て身で飛び込んだ。
奏を狙う爪をを太刀で受け止める。とてつもない衝撃に全身が揺れる。
奏はにこりと笑い、その間に逆手の指を一本、容赦なく落とした。
痛みを感じるのか、羅王が咆哮をあげる。振り回された指の付け根から赤い血液が迸った。
その隙を狙い、立待が強襲をかける。
非常に正確なその一撃は、確実に羅王の脚の腱を削いだ。
馬鹿でかい咆哮は怒りか悲しみか。
そこへ、上空から紺碧の羽織を纏った男が降ってきた。
「少し手伝わせてもらうよ」
正確に暴れる羅王の頭上に着地した総隊長は、手にしていた小太刀を思い切り羅王の左目に突き立てた。
すぐに身を退き、俺たちの位置まで下がってきた。
暴れる羅王が太い指で小太刀を引き抜き、力任せに投げ捨てた。
ただの小太刀が漆喰の壁を粉砕する様子を見てぞっとする。
気を抜けば一瞬でやられる。
再度、刀の白柄を強く握りしめた。先ほどの攻撃をまともに受けたというのに、刃毀れひとつしていない。これまで振ってきた刀が実はすべて鈍だったのではないかと疑いたくなる強度だ。
今度は合図なしに、奏が飛び込んでいった。
次は遅れずついて行く。
奏があっという間に二本目の指を落とした。
受ければ死が見える一撃をかいくぐり、隙を狙って損壊させていく。
一撃離脱戦法で少しずつ殺いでいく。
自分より実力が上の奏と組むことで、否応なしに引っ張られる。普段よりずっと反応よく動けている気がする。
でこぱちも慎重な立待と組ませたのがよかったようで、無茶をせず確実に傷を与えている。
総隊長もどうやら次は右目を狙っているらしく、幾度か飛び込もうとしては寸でで諦めるのを繰り返している。
「総大将は後ろに下がってろよ。あんたがやられたら狼士組全体が総崩れだろ?」
囲いを作り、住人の避難の起点となっている狼士組が崩れれば、被害は一気に拡大してしまう。
そうならないよう、普通なら一番偉いヤツは後ろに下がっているべきだと思う。
「黙ってられない性格なんだ。君も俺と同じ手合いの人間だと思ってたけど、違うのかな?」
総隊長はそう言って笑った。
まるで見透かされたようで腹立たしい。
江戸町全体を仕切っているのが狼士組なら、でこぱちや立待、奏に指示を出しこの戦闘の場を仕切っているのは俺だろう。
だから、自分にそう言うなら俺もどこかへ下がっていろ、と総隊長は言いたいのだ。
退ける訳ねえだろ。
その事も分かったうえで言うのだ。本当に、性格悪い。
「そろそろ鳶彦が帰ってくる頃だ。それまでに、もう一つくらい目を潰しておかないとね」
そう言って総隊長は再び地を蹴った。
俺と奏で何本か指を斬り落とし、でこぱちと立待が羅王が足を引きずる程度に破壊した頃。
ようやく鳶彦が戻ってきた。
屋根に上がった大男は、その肩に見た事のないほど太い縄を担いでいた。太さが俺の腕ほどある。それを何巻もしたものを軽々担いでいるのだ。羅刹族並みの怪力だな。
鳶彦は屋根から羅王を見下ろすと、満足げに笑った。
「だいぶ弱ってんな。よし、やるぜ」
担いでいた太い縄を肩からおろし、端を両手に持って羅王に向かって飛び降りた。
落ちる瞬間、うまく角と腹にひっかけ、着地と同時にその縄を引いた。
結び目が作ってあったらしく、縄はうまく締まり、羅王を捕えることに成功した。
無論、羅王も黙ってはいない。
これまでの比にならぬ力で暴れはじめた。
「おおっと」
鳶彦が縄を持って踏ん張るが、到底抑えられそうにない。
縄を握る手からじわりと血が滲んだ。
と、そこへもう一本、縄を引く手。
「手伝うよ、鳶彦」
「悪いな真言」
さらにもう一本。さらに一本。
縄を持つ手が増えていく。紺碧の羽織を着た隊士たちが次々に屋根の上から降りてくる。
羅王が啼いている。咆哮とは異なる苦しげな呻きは、明らかに弱っている。
「よし、一気に行くぞ!」
鳶彦の号令で、狼士組は一斉に縄を引いた。