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第十八話

 研究所に入ると、ちょうど渡り廊下の向こうから阿奈(あな)という女性研究員が駆けてきた。相変わらず、走りづらそうな草履をぱたぱたと言わせている。

 俺の顔を見てまるで知り合いにでも問うように軽く声をかけてきた。

「おお、どうだ? 羅王は暴れているか? 私も今、様子を見に行くところだが」

「とっくに海岸に向かったよ」

「あいつは泳ぐのか?」

「知らん」

 こんなところで問答している暇はない。

 阿奈の方は無視して、不機嫌そうな男に念を押した。

「俺たちは地下から町に戻る。お前、ちゃんと準備しとけよ」

「準備とは、何のことだ?」

 阿奈が首を傾げた。

 でこぱちが代わりに答えた。

「あの羅王って怪物を倒すのに、カラクリ大砲っていうのを借りるんだ!」

「大砲? 羅王を倒すような砲があるのか?」

 半分顔の隠れた男は、ぼそぼそと呟いた。

「……ある。けど」

 前髪が長い上に俯いてぼそぼそ話しているためほとんど声が聞き取れない。

「すばらしい! その大砲とやら、私にも見せてもらえるか?」

 阿奈が興味を持った。

 よし。後は押し付けて行こう。

「分かったな、正午に正面の砂州だぞ。忘れんなよ」

 最後に念押し、二人を置いて再び地下道の入り口を目指した。


 渡り廊下の中央付近に差し掛かかると、廊下の先に黒い塊が落ちているのが見えた。先ほどは気づかなかったが、毛玉のような黒が蹲っている。

 少し目を細めて見て、愕然とした。

 思わずそちらに駆け寄った。

「おい!」

 声をかけずにはいられなかった。

 答えるかどうか分からなかったが。

 黒い塊の下には、乾きかけた血が塗りたくられていた。何度か叩きつけたのだろうか、引きずられたような跡が幾筋も残っている。

 隣に跪き、そっと触れてみた。

 ピクリとも動かないが、冷たくはなっていない。

「……黒猫」

 呼びかけると、動かなかった黒の塊の間から、金色の目が覗いた。三日月のように細く、鈍く光っていた。

 ただそれだけ。

 声は出なかった。

 三日月はそのまま雲に隠れ、また動かなくなった。

 だからあの時、連れ出しておけばよかったのだ。

 でこぱちがいつもそうするように、黒猫を懐に仕舞いこんだ。

 町に戻ったら真っ先にきさらの元へ走ろう。

 賽ノ地の話に目を見張り、逃げようと言った時に『どこへ』と問うた黒猫。今度こそ、外へ連れ出してやる。此処にいたら、こいつは将軍と研究所の間で板挟みになり弱っていく。

 お前はもっと広い世界を知るべきだ。

 胸元から微かな声がした。

「置いていけ。意味もない命だ」

「……今度は連れてく」

「どこへ、だ」

 黒猫が再び問う。

 ついこの間と同じ問い。

 答えられなかった答え。

 馬鹿馬鹿しい、自分らしくない。嫌になる。

 ああもう、めんどくせぇ。

 相棒のように、何も考えず犬を懐に入れるような、そんな風にできればいいが、俺には無理なんだよ。考えて考えて、それでも出ない答えに苛々すんだよ。

 何処へ行くのか。

 そんな事俺の方が知りたい。

「知らん。何処へでも行ける」

 身を挺して俺たちを研究所入りから逃れさせた黒猫。

 今度こそ外へ連れだしてやる。

「でこぱち、行くぞ!」

 衝撃を与えぬよう、胸元を庇って下へ飛び降りた。着地の衝撃でか細い鼓動が止まってしまうのではないかと不安になる。

「天音?」

 着地してすぐ、でこぱちの声が響いた。

 顔をあげると、そこには篝と共に逃げたはずの天音が立っていた。

 背に大きく痣が開き、こちらを睨みつけている。

「なあ、ほんと、嫌になるよな。オマエたち夜叉族は強さを求めてるわけでもないってのに軽々アタシらとおんなじ強さまで上ってくる」

 俺たちに応えたわけではない。

 天音が向かい合っているのは、金糸雀(かなりあ)の髪をした男だった。手にした本で口元を隠し、隠し切れぬ笑いを誤魔化すように。

 呵瑚(カコ)と呼ばれていた白衣の研究者は、天音を前にしても全く恐れていなかった。

「ガキんちょどもは手ぇ出すなよ」

 大きく手を広げ、いつものようにとんとん、と下駄で拍子を取りながら攻撃の瞬間を狙っている。

 羅刹女が己の力量を謀る相手を見つけた。

 それだけの事だ。

 邪魔をすれば、俺たちがとばっちりを喰らう。

「行くぞ、でこぱち」

 でこぱちが一瞬迷ったのは、天音が心配だから、という理由ではないだろう。

 自分も混ざりたい。

 ふと見えた横顔は、そんな表情をしていた。

 命を賭けて、自らの力を測る戦いに身を投じたい。戦う相手を完膚なきまでに破りたい。

 羅刹族に見られる当たり前の感覚が、目覚め始めている。

 別れは、近いのかもしれない。

 そんな予感を振り払うように地下道を真っ直ぐ駆けた。



 地下道の出口、砂浜側の扉は開け放してあった。

 しかしあたりに羅刹の気配はなく、奏や篝の姿もなかった。研究所から逃がしたあやかしも見当たらない。ただ、付近の松が何本も倒れており、明らかにあのバケモノがここへ上陸したことを示していた。

 懐を揺らさぬよう抱えながら、花街へと駆けた。

 花街へ抜ける繁華街が恐ろしいほどに静まり返り、人っ子一人見当たらない。どこか、遠くの方で破壊音がする気がする。

 と、唐突に屋根の上から声が降ってきた。

「お前ら、何をしている! 退避命令を聞いていなかったのか!」

 紺碧の羽織を翻す狼士組の隊士が焦ったように叫んでいる。

 とりあえず足を止めた。

「みんな避難したのか?」

「当たり前だ! あんな、バケモノ……っ! お前たちも早く逃げろ! 帝釈天の近くまで行けば三番隊が誘導している!」

 さすがだな。

 つい先ほど大福に伝えたばかりだというのに、もうこれほどまでに避難が済んでいるとは。

 自警団の名は伊達ではなく、江戸町住人の信頼も厚い。

 俺たちにこれほどの手際で住人を避難させる伝手はない。

 餅は餅屋とはよく言ったものだ。あの総隊長が、それぞれに出来る事と出来ない事があるから仲間を増やしなさい、と言った意味もよく分かる。俺たちに出来なくて、炯たちに出来る事はたくさんある。

 でこぱちが口元に手を添えて大声で尋ねた。

「そのバケモノ、今どこにいるの?」

「西だ。武家屋敷の辺りをうろついているらしい」

「西ってどっち?」

「立待の家がある辺りだ」

 そう答えると、でこぱちは息を呑んだ。

「青ちゃん、おれ、行ってくる!」

「分かった。俺もすぐ行く」

 でこぱちと別れ、さらに東へ駆ける。少しずつ、避難している人々が道を歩くようになってきた。この辺りはまだ避難が済んでいないらしい。あのバケモノが西へ逃げたというのなら、こちらは避難してくる側か。

 それならきさらはまだ、花街にいるだろう。

 灯りの点いていない朝の黒船屋の看板を横目に、土足で上がり込んだ。

 店の親父を無視し、庭を突っ切って離れの襖を開け放った。

「きさら!」

 息を整えながら飛び込むと、まるで祈るように俯いていた紅掛花色の髪をした少女は、はっと顔をあげた。

 懐に入れていた黒猫を慎重に取り出す。

 その姿を見て、きさらは口元を両手で覆った。

「なんて酷い……!」

「コイツが俺たちを江戸城から逃がしてくれたんだ」

 きさらはすぐに柔らかな布団に清潔な白い布を敷き、黒猫を横たえた。

「頼んだ」

 すぐに立ち上がり、離れを出た。

 一刻も早く西へ向かわねば。

 そして、昼までにあのバケモノを砂州へ追いつめなければならないのだ。

 ところが、離れから出てすぐの渡り廊下で俺は足を止めてしまった。

 母屋から、あの人が歩いてくる。

 ふさがったはずの目の下の傷がずきりと痛んだ。

(あお)、何処へ行っていたの?」

 縋るような少女の音吐。

 心臓が急激に縮み上がり、全身が強張り、体温が失われていく。

「何処へ行くの?」

 縛られそうになる四肢が震える。囚われてはいけない。

 退いてもいけない。

 此処で退いたら、ずっとこのままだ。

 ぐっと拳を握りしめた。

 目の前の美しい人を見る。脳裏に焼き付いた幼い日の記憶と寸分たがわぬ容姿。紛れもなくこの人は俺の母親で、あの猩々緋の過去がやってくるまでは共に暮らしていたんだろう。

 あの瞬間、何があったかは知らない。

 あれから何が在ったかは知らない。

 ただ、一つだけ分かる事がある。

 この人の持つ世界は狭い。漆喰の塀に囲まれたこの黒船屋、花街だけがこの人の世界の総てであったのだ。

 不意にあの黒猫が脳裏をよぎる。二つの組織の合間に身を置いて、滅びようとしたあの黒猫。

 あの黒猫もまた、小さな世界に身を横たえて生を終わらせようとしていた。

「母上」

 この言葉は今も不自然だった。何年も離れていた時間が不自然なものにしていた。

 これからその年月を埋める気があるのか、自分自身の感情はよく分からなかった。

 母親を前にすると、自分は感情を殺してしまうという事だけは分かっている。まるで透明度の低い硝子を一枚隔てているかのように、まるで他人事なのだ……いや、他人事として見ようとしてしまうのだ。

 きっと俺はそうやって、自分を守ろうとしているんだろう。

 大切なものはいつも、俺を傷つけて消えるから。

 あの猩々緋色の過去の前、俺はこの人の事を何より大切に思っていたはずなのだ。刃を向けられた事で絶望し、心の奥底に澱を沈め、何もかもを諦めてしまうほどに。

 そこまできてようやく、俺はこの人の気持ちが分かるような気がした。

 この人もきっと、大切な人が自分を傷つけて、消えたのだ。

「俺は此処にはいられない」

 藤色の瞳が大きく見開かれた。

 怒りのような、絶望のような。大きな感情がその藤色に映っていた。

「でももし待っていてくれるなら、また会いに来る」

 左手で、髪を束ねていた糸を解いた。ばらりと髪がほどけて頬にかかった。

 解いた糸を、呆然と立ち尽くす母の手首に巻きつける。

 また戻ってくる証に。

 この人が、俺と同じ傷を負ったこの美しい人が少しでも心を重くせぬように。

 ほんの少し、麻痺した心が動いた気がする。あの時はただ恐怖だったこの人の感情を理解できそうな気がする。

 今は無理でも、いつか。

 きさらの言うように少しずつ、近づいていけばいい。

 此糸は、結ばれた糸を見、そして俺を見た。

「行ってしまうのね」

 藤色の瞳が揺れた。

 こくりと頷く事しか出来なかった。

 何故だろう。ひどく息が苦しい。

「少し、待ちなさい」

 此糸は離れに入り、すぐ戻ってきた。

 その手に刀を一振り、携えて。

 柄の白い、大ぶりの刀だった。遊び女を買う店には似つかわしくない、重量のあるそれを、母は静かに差し出した。

「持って行きなさい。私には必要のないものだから」

 受け取ると、これまで降ってきた刀とは違う重さが左腕全体にかかった。

 その辺りの武士から奪った刀とは違う、業物だ。

「ありがとう」

 武器のない今、羅王との戦いに挑むには非常にありがたい。

 素直に礼を言い、受け取った。

 相棒が、狼士組の面々が、あのバケモノと向き合っているはずだ。

 俺も急がねばならない。

 受け取った刀の柄を持つと、妙にしっくりくるのが不思議だった。

 まさか、親父の形見とか言わねえだろうな。

 この刀の由来を聞くのは恐ろしかったので、そのままくるりと背を向けた。

「気を付けて」

 母の声が俺を送り出した。



 江戸に来てから考えている事があった。

 澱とは異なり、自分の無力を知る時に腹の奥に溜まる鬱屈した感情のようなもの。

 近松景元に対する嫉妬に近く、自分の無力に対する怒りにも近い。

 俺には何も出来ない。

 相棒が、自分は弱いと呟くように。

 俺は自分が何も知らない事を知る。

 黒船屋の玄関を出て握りしめた白柄の刀に視線を移し、一度だけため息をついた。

 めんどくせぇな。

 めんどくせえ、と何もかもから逃げてきた。それもそろそろ終わりにしよう。

 だからこれが最後だ。

 もう、戻れないかもしれないから。

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