第十七話
いや、あれは生物かどうかも怪しい。
立ち上がれば天井にも届きそうな巨体。皮膚は動物にあり得ない、植物のような苔色だ。辛うじて人のような形をしてはいるが、頭蓋の両側から曲がりくねった巨大な角が二本伸び、顔面中央の目玉以外に、左右にもひとつずつ、赤の目玉が蠢いていた。
頑強そうな両手足でしっかりと床板を踏み締めると、天井と壁がみしみしと音を立てて揺れた。
べろりと伸びた舌が、中央の目玉を舐める。
「何だ、あれ」
「あれは羅王。國滋が……研究員の一人が作った、生物兵器とでも呼びましょうか」
生物兵器、羅王。
そう呼ばれたソイツは、3つの目玉をぐるぐると回しながら辺りを確認した。
そして、次の瞬間、こちらに向かって突進した。
反射的に左右に散る。
羅王はそのまま勢いを殺さず、壁に突進していった。
凄まじい衝撃で建物が揺れる。
壁に激突した巨大生物は、再度咆哮を上げ、巨大な腕を振り上げた。
この建物は木造だ。羅王が腕を振ると、凄まじい音がして壁が張り裂けた。
「……冗談だろ」
頑強な腕を二度、三度と振り下ろす間に、みるみる壁の穴が広がっていく。
血走った目がぎょろぎょろと蠢いた。
最後の咆哮。
完全に壁を突き破ったソイツは、そのまま外へ逃げ出していった。
見た事のない巨大な生物が、建物の壁をぶち破って逃走した――あまりに現実味のない出来事に、呆然となる。
その場にいた全員が動けずにいた。
と、そこへ甲高い声が響いた。
「よう! そこの旦那っ! ついでにちっとこの籠を開けてくれよーう!」
耳に刺さる声に、はっとした。
何だ、と思って見渡すと、籐を編んだ鳥籠が床に転がっていた。先ほど、羅王が駆け抜けた時に檻の上から落ちてきたんだろう。
「みんなを逃がしに来てくれたんだろー? 泣ける話だねえ。兄さん、そのお慈悲を俺様にもすこーし分けちゃくれないか?」
中はよく見えないが、白い物体がばたばたと動いているのが見えた。
正直、こいつに構っている暇はないのだが。
めんどくせえな。
「端に寄ってろ」
そう言うと、勢いづけて籐の鳥かごを踏み抜いた。
脆い鳥籠には足型に穴が開き、籠の中から聞こえていた声は止まった。
「……悪い、つぶしたか?」
籠の中を覗くと、白い物体が高速で飛んできて顔面にぶつかった。前が見えない。
もこもことしたそれを無理やり引っぺがす。
そいつは、大福餅に手と耳を生やしたような、丸々太った鳥のようなナニカだった。ヒトと同じ言葉を喋っているところを見るとおそらくあやかしの類なのだろう。
くちばしのようなナニカをぱくぱくと動かして、すごい勢いで喋りはじめた。
「ありがとよ、兄さん! このみみっちい籠ん中じゃあ、さしもの俺様もこのまま朽ち果てるのを待つだけだったからよ。助けてくれて嬉しいぜ! 恩に着る!」
やかましいな、こいつ。
面倒になって放り投げると、短い翼らしきものをバタバタと動かして再びこちらへ飛んできた。
……飛べるのか。こいつやっぱり鳥の類なのか?
「そりゃないぜ、兄さん。俺様、この恩義には必ず報いるからよ、俺様を置いてかねえでくれよ」
勝手に頭の上に乗ってきた。重い。
再び襟首を摘み上げ、部屋の隅に向かって思い切り放り投げた。
あーれー、と飛んで行った、やかましい大福餅に構っている場合ではない。
でこぱちが羅王の檻の鍵を開けたというのであれば、適当な支持をした俺にも責任がある。何か起こる前に、早くあの生物を追わねば。
「でこぱち!」
先程と同じ要領ででこぱちを上の渡り廊下へ跳ね飛ばし、欄干まで縄で引き揚げてもらう。
そこからすぐに入り口の木戸へ向かった。
木戸を開けた瞬間、歓喜の雄叫びのような咆哮が響き渡った。
空が白みかけ、辺りは霞がかって薄暗い。木戸のある位置はちょうど塀と同じ高さで、右手に江戸城本丸、左手に江戸の海岸線、正面の海からちょうど、朝日が昇るところが見えた。
すると、真っ直ぐに海岸方向へ四足で駆けていく羅王の姿が目に入った。どうやらこの塀は爪をかけて上ったらしい。
あいつ、江戸の町に向かってやがる……!
泳げるのか、そうでなくともあの巨体だ、潮の引いていない砂州でも歩いていけるのか。
いずれにせよあんなものが江戸の町に放たれたら、とんでもない事態になる。
今すぐ、止めなくては。
「屋根から塀まで飛べるか?」
「やってみる」
木戸の桟を足場にするすると上へ登っていくでこぱち。ほとんどない凹凸を上手く利用してあっという間に屋根までたどり着いた。
そして、瓦屋根を棟まで上がり、勢いづけて屋根を駆け下る。
「えいっ」
掛け声とともに跳んだ相棒は、研究所をぐるりと取り囲む高い塀の上にぎりぎりで飛び乗った。
よし、これでこの場所から脱出できる。
塀からたらされた縄を伝って俺も塀の上へ登った。
見れば、すでに羅王が海へ飛び込もうとしているところだった。
でこぱちと二人、塀から外へ飛び降りた。
そしてすぐに羅王の後を追おうとしたのだが、その前に警備隊の声が響き渡る。
「曲者だ!」
思わず舌打ち。
駄目だ。間に合わない。
大きな水音が響いて、羅王は海へと飛び込んでしまった。
あれが江戸の町に辿り着いてしまう前に、何とかしなければ。せめて、連絡する手段があれば――
「ひどいぜ、兄さん。俺様を放り棄てるなんてよお。助けておいて、後はサヨナラってか? くーっ、冷たい! 世間様の風は冷たいぜ! 俺様、嘘は言わねえよ。必ず兄さんの役に立つからよ、恩を返すまでは一緒に連れて行ってくれよーう」
投げ捨てたはずの大福餅が上からぱたぱたと降りてきた。
でこぱちが大福餅に興味を持ってつんつんと突き始めた。
ああもう、うるっせぇな。
投げ飛ばしても投げ飛ばしてもついてくる大福餅にいい加減苛々してきた。
海に放り込んでやろうか……と思ったが、ふと気づく。
「おい、大福餅。恩を返すと言ったな」
「おうよ! 俺様何様大福様! 粉骨砕身、兄ちゃんのために働くぜい」
「よし」
俺はずっと懐に温めていた狼煙玉の巾着を取り出した。
ケイたちの言葉を信じよう。
「中に狼煙玉が入ってる。これを持って海岸まで飛べ。そこでこの狼煙玉を岩にでも叩きつけろ」
そうすれば、狼士組が海岸に集まるはずだ。
「すぐに、紺碧の羽織を着た奴らが集まってくる。そいつらに、妙な怪物が泳いでいくから江戸の住民を避難させるように伝えてくれ」
が、ふと不安を覚える。
果たして狼士組がこの大福の言う事を信じてくれるだろうか。
甚だ疑問だ。
「もし信じて貰えなかったら、総隊長を呼んでもらえ。もしくは、刺又を持ってる蜜柑色の髪の女を探せ。そうしたらそいつらに、『青』と『耶八』からの伝言だと伝えるんだ」
「合点承知!」
でこぱちに突きまわされていた大福餅が、くるり、と宙返りした瞬間。
大福のようだった体が、すらりとした猛禽の身体に変化した。頭と襟首に飾り羽、そして長い尾羽。全身が純白の猛禽が甲高い声で啼いた。
「お前、鳥だったのか」
「おうよ、兄さん、なんだと思ってたんでい! ちゃんとした名前だってあるんだぜ。雪のように白い羽、美しき襟飾り、長い尾羽! その名も――」
「早く行け大福」
大福姿だった時と同じように首根っこを捕えて放り出した。
まだごちゃごちゃと叫んでいたようだが、かなりの速度で海岸へと飛んで行った。あの速さなら、すぐに狼煙が上がるだろう。
だからと言って、あのバケモノを倒す方法は到底思いつかないが、考えている場合でもない。
海岸側、詰所から警備要員と思われる武士たちが雪崩れ出てきた。
さて、とっととあれを片付けて俺たちも地下道から海岸へ向かわねば。
「とりあえず、刀奪うか」
「そうだね」
最初にかかってきたヤツの攻撃をぎりぎりでかわし、手元を蹴りあげて刀を落とさせた。
となりででこぱちも同じようにして刀を奪っていた。
いつも通り、背中合わせに刀を構え。
ちょうどその時、海岸から立ち昇る狼煙が見えた。
俺たちに向かって雪崩れ込んでくる敵を蹴散らしていった。
倒しても倒しても出てくる警備。このままでは体力を削られる一方だ。
キリがねえな。
人質でもとって突破するか……と思った時、ちょうど視界の隅に刀を持たないヤツが一人いる事に気付いた。
戦闘員ではないのだろうか、長い菖蒲色の髪が顔にかかり、どんよりと曇った表情をしている。あいつにしよう。
大きく刀を振りかざして周囲の敵を遠ざけ、狙いをつけた男の方へ走った。
まだ年若いソイツは、不健康そうな色白、なで肩。おそらくやはり、戦闘員ではない筈だ。
と、思ったら、腰の辺りに挿していた筒状の何かを構えた。
あれは何だ?
見た事のない物体に、一瞬反応が遅れた。
ぱあん、と何かが破裂したような音がした。同時に、こちらへ向かって高速で飛んでくる球のようなものが見えた。
避け切れない。
その弾は、俺の右腕が在るべき場所の着物を裂いて行った。
「っぶねえ」
何だこれ。
あの筒から、凄まじい速度で何かを打ち出しているようだ。
非戦闘員かと思いきや、新型の武器を持つ警備員だったようだ。
しかし、距離を詰めてしまえばそれまでだ。
攻撃に移る僅かな動作で攻撃の瞬間は簡単に読める。あんな速度で飛ぶ弾が途中で方向を変えるとは思えないので、おそらく筒の向いている方向だけを気にしていればいい。
そうすれば本人に戦闘力はない筈。
攻撃の瞬間の筒の向きを見ながら弾を避け、一気に距離を詰めた。
「えっ、えっ?」
驚いている間に、背後から回り込んで喉元に切っ先を突きつけた。
「動くな」
果たしてこの男に人質としての価値があるかどうかが問題だな。
と思ったが、少なくとも今この場所にいる全員の足止めには成功したようだ。刀を振っていた武士たちは一斉に手を止めた。
しん、と一瞬の静寂。
俺は刀を突きつけたまま、後ずさる。
「おい、お前」
男の耳元に小さな声で尋ねる。
「あの研究所に入れるか?」
「えー……入れない事もないけど」
「じゃあ、来い」
襟首を捕まえて引きずった。悲鳴を上げている気もするがどうでもいい。
でこぱちが追いすがる敵を蹴散らしながら追ってくる。
研究所の白壁まで到着すると、男はのろのろと立ち上がり、ぶつぶつ文句を言いながら壁を擦った。髪が長すぎて顔がほぼ隠れている。辛うじて見える口元は、不服そうに歪んでいた。
「もう……だから江戸城は嫌なんだ……」
男が壁を触ると、その一角がぼこり、と凹んだ。中の空間には細い紐が一本伸びている。
無造作にそれを引っ張ると、上からばらばら、と縄梯子のようなものが降ってきた。
「はい、登って」
「お前が最初に行け」
男の尻を蹴飛ばすと、恨めし気にこちらを見ながらもしぶしぶ上り始めた。
その腰から、先ほどの筒を一本、引き抜いてみる。
特に何の変哲も見られないが……火薬のにおいがする?
「あっ、ちょっと、獲るなよ!」
「これ、どうなってんだ?」
そう問うと、男はのぼりながらぼそぼそと答えた。
「火薬を少しだけ爆発させて、その力で弾を飛ばしてんだよ。カラクリ砲。小さい弾だけど生き物なら大体、破壊できるから重宝するよ」
へえ。
火薬の力が上手く伝わるよう、筒状なのか。よく考えてあるな。
そして、これならば非力な人間でも強力な礫を放つのと同等の力を持てる。いや、威力からみればもっと強いだろうか。貫通力は礫と比べ物にならなさそうだ。
そんな事を考えながら縄梯子を上る。
塀の上まで登り切ったところで、今度は男が瓦を一枚外した。瓦の下に現れた木枠を押し込むと、がこん、と大きな音がした。
そして、俺たちが侵入した時に入った木戸に繋がるよう、折りたたまれた梯子が塀から伸びて行った。きりきりと歯車の回る音がする。塀の中にカラクリが仕込まれているのだろう。
こうやって中に入るのか。面白いな。
でこぱちが嬉しそうに梯子の降りてくる様子を見ている。
今は無理かもしれないが、時間があればカラクリを作ってみるのも面白そうだ。先ほどのカラクリ砲などは、片手で使いやすいし、もう少し小型にしたものなら一つ手元にあってもいいかもしれない。
小さくする、と考えたところでふと思い立った。
「おい、この武器、もっと大きさのでかいヤツ、作ってねえか?」
問うと、縄梯子を上っただけで息を切らしている根暗そうな男はふてくされた口調で応えた。
「ある、にはある。カラクリ大砲だ。でも、重いしでかいし、狙いつけんの大変だから使いたくない」
十分だ。
「お前もさっき、見ただろう? あの羅王とかいう怪物」
あの状況で、警備達があの怪物に気付かぬはずがない。あれの存在を知っていて見ないふりをしたとしか思えない。
返答をせず顔を逸らしたところを見れば、正解なのだろう。
「そのカラクリ大砲ってのは、あの羅王を倒せるか?」
「当たれば倒せると思うけど、当たんないよ。よっぽど当てる的をどこかに括りつけるかしないと、とてもじゃないけど命中しない」
括りつける、か。
とてもじゃないが、先ほど見たあのバケモノを縛ることの出来る方法など思いつきもしない。
だが、縛らなくていい、どこかで動きを止められるか、狙いを一つに絞ることが出来れば……
「……砂州だ」
江戸城から、一本伸びる砂州。
あの場所に、あのバケモノを追いつめることが出来れば。
「おい、お前、そのカラクリ大砲ってヤツを準備しとけ」
「はあ?」
「あのバケモノを正午までに砂州に連れてきてやる。あの場所なら、外さねえだろ?」




