第十六話
最初に手を挙げたのはでこぱちだ。
手の届きそうな位置にある窓を覗き込んで、俺を呼んだ。
両掌の大きさほどしかない小窓にはしっかりと硝子が嵌め込んである。硝子越しに、ぼんやりとした灯りが見えた。かなり曇ってはいるが中を覗きこめそうだ。
集まってきた全員が一斉に覗き込む。
狭い。
が、何とか中を確認できた。
部屋の周囲を本棚が取り囲み、大きな木机の上に資料の散乱する空間だ。ほとんど灯りのない中、数名が動き回っているのが見える。いずれも俺たちの方には気づいていないようだ。
薬品の匂いがする。
また、微かだが、カラクリの歯車が軋む音、生物の声が漏れている気がする。
これはほぼ正解だろう。
篝は、自分の強運に感謝した方がいい。
しかし、入り口らしきものが見当たらない……訳ではないが、届かない。
でこぱち4人分ほどの高さに、木の引き戸があるのを篝が発見した。おそらくあれが入り口だと思うのだが、さすがに手が届かない。普段いったい、どうやって出入りしているんだ?
「でこぱち」
先ほど縁の下で拾った縄を放り渡した。
そして上を指すと、でこぱちは理解したのか助走の距離をとる。
腰を落として左腕を構え、駆けてくるでこぱちの踏切に合わせて上へ放り投げた。
高く舞ったでこぱちは、引き戸から少し出っ張った縁に手をかけ、ぶらんとぶら下がる。そのまま片手で器用に木戸をあけた。
鍵がかかっていなかったようで、戸はすんなり開き、するりと中に入り込んだ。
やがて、上から縄が下りてくる。
天音と篝を先に上らせ、最後に俺が縄を掴むと、一気に上まで引っ張り上げられた。
木戸を入ると、扉も窓もない細い廊下が伸びていた。その先には僅かに明るい空間があるようだ。外にいた時よりも薬品の匂いが強まり、床からせり上がってくるような歯車の振動を感じた。
廊下の先、明るい場所に出ると全員が息を呑んだ。
江戸政府は、よくこれを放置してるよ。
床から吹き抜け、屋根の骨組みがむき出しの部屋。所々丈夫な柱が立っているものの、部屋と呼ぶには広すぎる、間仕切りも見当たらない広い空間。この空間が建物のほとんどを占めているのだろう。
壁と柱に等間隔で灯された硝子灯が全体をぼんやりと映し出していた。
その空間の中央を貫く渡り廊下から見下ろせるようになっており、俺たちはその上に立っていた。渡り廊下の先に引き戸が一つ。あそこまで渡れば、下へ降りる道がありそうだ。
外からは微かにしか聞こえなかったが、此処へ来ると足元から生き物の呻き声のようなものが迫り上がってくる。
羅刹研究所――まさか実在したとはな。
先日、江戸城で脱獄してから、密かに朝陽と接触を謀っていた。江戸政府が『羅刹を研究している』という噂について情報を仕入れる為に。
やはり噂はあった。
江戸城七不思議というものが存在する。姿を見せない江戸将軍、数年前の江戸城大火事の原因、大火事の後建設された二つの天守閣、などなど。
その様々な逸話の中に、江戸城から怨霊の呻き声が聞こえてくるとか、羅刹を捕まえて妖怪と交配させて異形を作り出しているとかいうものもある。破茶滅茶な話も多かったが、確かに江戸政府が羅刹を捕えているという噂は存在し、江戸住人の間では『羅刹研究所』という風土の逸話として定着しているらしかった。
その噂と、篝や奏の話を総合すると、こうなる訳か。
広い空間にはまばらにヒトの姿がある。
それより目につくのは、空間の一角を占める檻の山だった。無造作に積まれた鉄檻からは、生物の呻き声がする。
気色悪い。
目を向けていられず、逸らした。
「篝、行こうぜ!」
天音と篝が手摺から軽く身を投じた。
止める暇もなかった。
下からはすぐに悲鳴が上がった。
覗き込むと、篝と天音が研究者らしき人影を殴り飛ばしているところだった。その辺りの白衣を着た人々は戦闘員ではないらしく、紙の如くに飛ばされている。もっとも、羅刹女相手にどうにかしろと言うのは無族には荷が重いだろうが。
まあ、いいか。俺は逃走経路だけ確保しておいてやろう。
歩測と目測で壁際からの距離を測り、大体の目星をつけた。どうやら、地下道の入り口は部屋のちょうど中央にありそうだ。
天音に床板を砕いてもらおう。
刹那、凄まじい殺気が全身を貫いた。
はっと殺気の方向を見ると、渡り廊下の反対側に白衣の男が佇んでいた。まるで金糸雀のように鮮やかな髪色。烏之介を髣髴とさせる胡散臭い笑み。
でこぱちが俺の背側に回り、徒手の構えでいつでも動ける体勢をとった――そう言えば、ずっと刀を手にしていない。そろそろ武器を手に入れた方がいいかもしれない。
廊下の中央へ歩み寄った男は唇の端に笑みを乗せた。
「ようこそ、羅刹研究所へ」
その瞬間、全身がざわついた。
――同族だ
瞳が赤いわけではないというのに、何故だろう、赤目の女将軍を目の前にした時でさえ感じなかったというのに、この男が同じ種族であるという絶対的な確信が脳裏を支配した。
隠し切れぬ殺意が漏れ出している。
そしてそれは、侵入者に対するものではなく、俺個人に向けられている気がした。
「……研究所なんてのは噂話かと思ってたぜ」
「いいえ、存在するのですよ。現に、今、此処に」
男はそこでちらりと下の様子を伺った。
「羅刹を助けに来たのですか……殊勝な事ですが、どうなるか分かっていますか?」
「助けに来たわけじゃねえよ」
この行動が何に繋がるか、考えていない訳ではない。
俺は江戸政府に雇われに来たのだ。それなのに江戸城の牢から脱出した挙句、再び侵入して研究所を破壊している。
普通に考えれば、あり得ない。
しかし、実はあまり怒られはしないのではないかと楽観視していた。
というのも、これは推測でしかないが、俺たちが江戸に呼ばれたのは、あの赤目の女将軍の気紛れではないだろうかと思う。賽ノ地に住む隠密候補に、夜叉族らしき少年がいると聞いて見てみようと思ったのではないか、と。
おそらく浅葱の親父は、俺たちを将軍側につける為に連れてきた筈だ。
だとすれば、将軍と相対する組織の一角であるこの研究所が破壊されることに関して、大したおとがめはない筈だ。
とは言え、もしこの強硬により羅刹研究所の存在が世間に発露すれば、おそらく世間の羅刹への考え方や見方が変わる事は避けられないだろう。
しかし、それは江戸将軍や賽ノ地町奉行、そして多くの政府関係者が対応すべきことであって、俺の知った事ではない。
「お前は邪魔しないのか?」
「……ええ。私は非力ですから」
手をひらひらと振った男は、胡散臭い笑みで誤魔化した。
が、俺自身の勘を信じるならばこいつは夜叉族であり、その身体能力は無族とは比べ物にならないはずだった。
が、邪魔をする気がないのであればこれ以上の問答は無用。
「俺たちも行くぞ」
「うんっ」
でこぱちと二人、渡り廊下の欄干を蹴って下に跳んだ。
だだん、と大きな音をたてて着地すると、天音たちに気を取られていた視線が一気に集まった。
「こっちは夜叉族だ!」
あちらは羅刹、こちらは夜叉。
天音たちが倒して転がしていた研究員と、逃げ惑う研究員を一人ずつ捕獲し、侵入に使った縄で手際よく縛り上げて行った。
俺とでこぱちが参戦したのを見て、篝は戦線離脱。
檻に向かって駆けだした。
「灯ー!」
妹の名前を呼びながら。
その間に、俺たちは研究員の一人を締め上げて檻の鍵を奪い取る。
が、その管理はかなりずさんらしく、どれがどの鍵かも不明であちらこちらに散らばっているものも多い。一つ一つ確認するとなると、骨だな。
そのカギの束はでこぱちに渡し、適当に檻を開けてくるよう指示。
代わりに天音を呼んで、見当を付けたあたりの床板を剥ぐよう頼んでみる。
「アンタ、見かけに寄らず人使い荒いよね~」
天音はぶつぶつ言いながらも肥大化した右腕を振り上げ、床板を破壊していった。
ほれ、と毟り取った最後の欠片を俺に投げ寄越し、天音は床下を指した。
計算した通り、通ってきた地下道への入り口がちょうど其処に姿を現した。
これで逃走経路は確保。篝が妹を連れてくるのを待つだけだ。
と、思っていたら、檻の方からぞろぞろと、あやかしやら羅刹やらの大群が現れた。目測で数十名はいるだろう。皆、研究所に捕えられていた者たちだ。
相棒が片っ端から鍵を開けたのか――それとも、天音辺りが怪力で檻を曲げたのか。
足を引きずる化け狸、半身を失った羅刹族。翼の折れた烏天狗。
どうすんだよ、これ。
「おい、篝」
檻の方を覗きに行くと、彼女は一人の羅刹女を連れていた。顔の辺りに包帯を巻き、容姿は隠れていたが、鮮やかな紅の髪としなやかな肢体がよく似ている。少し弱っているのか、篝と同じ色をした瞳は瞼で半分隠れ、呆然と虚空を見つめていた。
まだ何が起きているのか分からないといった状態らしい。
それでも篝は、俺の姿を見て嬉しそうに笑う。
「会えたよ!」
「そりゃよかった」
ここまで来た甲斐があるってもんだ。
「じゃあ逃げるぞ。話すのはいつでもできる。早く行け。というかついでに全員連れてけ」
篝は妹の手を引いて駆けだした。
その後姿を見送って、積み重なった檻を見上げる。数十の檻はほとんどが開かれ、中の者たちは逃げ出していた。
ここまでするつもりはなかったんだが。
仕方ない、乗りかかった船だ。全員纏めて解放してやればいいだろう。
浜で待っている筈の奏がどう反応するか想像して、少し面白くなった。
と、その時、檻の奥の方から凛とした女性の声が響き渡った。
「大人の羅刹族が来ているのか?」
はっと見ると、先ほどまでいなかった白衣の女性の影があった。研究員の一人だろう。深紫の長い髪を揺らしながら、女性は歓声をあげて篝に駆け寄っていった。
「おお!」
檻の奥に部屋があるのだろうか。全く気付かなかった。
走るのに向いていない草履でぺたぺたと必死に、白衣の裾をばたばたとはためかせて。普段運動しないのか、それだけで息を切らしている。
「本物、本物の羅刹族だ。研究所にいる羅刹は元気がないからな、野山で育った元気な羅刹族は初めてだ」
篝は、灯を背に庇った。
「貴方、ここの研究者ね? 灯をこんな風にしたのは貴方なの?」
きつい口調で問う篝。
対する研究者は、ふむ、と腕を組み、首を傾げた。
「灯と言うのはその個体の名称か?」
篝の問いには答えず、女性研究員は真っ直ぐに詰め寄った。
「二人ともよく似ているな。姉妹なのか?」
並んだ篝と灯を順に観察し、全く退く気配がない。
篝が枷をはめた腕を少し振るだけで、昏倒させられる相手だというのに、全く恐れがない。
それどころか、その女性研究員は、上に向かって大きな声で叫んだ。
「呵瑚! 早く来てくれ。姉妹の羅刹族だ。それも、研究所で育った羅刹と外で育った羅刹だ。違いを見たい。早く捕まえてくれ!」
捕まえる、という単語で篝の纏う空気が一変した。
一瞬で手が髪に伸び、刺していた簪を投じる。
空を切った簪は真っ直ぐその女性研究員に向かって飛んだ。おそらく、研究員の目でこれを視認するのは無理だ。
が、簪は頭上から降ってきた何かに叩き落された。
「?!」
そして、その後から先ほどの男が跳び降りてきた。
足元に刺さっているのは本のようだ。研究用の資料なのか、しっかりとした装丁で重量はかなりありそうだった。
が、あの速さで飛ぶ簪に本を投げて当てるとなると、とんでもない技量だ。
やはりこの男は只者ではあるまい。
敵に回すわけにはいかない。
「篝、早く行け!」
床の真ん中に開いた穴に、無理やり篝たちを押し込んだ。
「おい、呵瑚! 羅刹どもが逃げてしまうではないか。早く捕まえんか!」
女性研究員は、男の背をばしばしと本で叩きながら文句を言った。
「すみません、すみません。でも少し静かにしていてくださいね、阿奈さん」
男は阿奈と呼ばれた研究員を静めてから、俺に向き直る。
相変わらず、胡散臭い笑みを顔に張り付けたまま。
「私は貴方のことが大嫌いですから、邪魔はしません。そうやって自ら泥沼に嵌まり込んでいくといいでしょう」
強い憎悪。男から放たれた強い殺意に思わず後ずさる。
全く知らない相手から、それも夜叉族から恨みを買った覚えはない。
「お前は俺を知ってるのか?」
その言葉で、笑みが一瞬だけ崩れた。
が、それも本当に一瞬だった。
「……あとはご自由に」
そう言って肩を竦めた男は、興奮する阿奈を宥めにかかった。
その間に、その辺りをさまよっていたあやかしや、名も知らぬ羅刹どもも地下道へどんどん押し込んでいく。あとは海岸の奏が何とかしてくれる。
最後に天音を押し込んで、俺たちが逃走すればお終いだ。
と、その瞬間、研究所全体を揺るがすような咆哮が響き渡った。
咆哮の上がった方向から、鍵の束をがしゃがしゃと言わせたでこぱちが駆けてきた。
「青ちゃん、なんかでっかいのがいたよ! すごいの!」
何がすごいんだ。
語彙が少ない。何も伝わらない。
おそらくつい今しがた咆哮を上げた生物の事を言っていると思うのだが……?
再度、咆哮が上がった。
「羅王の檻を開けたのか!」
女性研究員がどこか嬉しそうに言った。
「私も前からあれを観察してみたいと思っていたのだ。が、國滋が絶対に触らせてくれなくてな」
「やめてください、阿奈さん。死んでしまいますよ。死んでしまったら好きな研究もできなくなってしまいます」
呵瑚がやんわりと止めた時、向こうから天音が空を切って飛んできた。
着地に失敗し、背中から転がった。
「天音!」
「ちっくしょ、何だあいつ……強いじゃん」
三度目の咆哮。
ああ、見たくねえな。
檻の角をゆっくりと曲がり姿を現したのは、見た事のない生物だった。