第十五話
祭りが終わった次の日。
江戸の町はこれまで見たことないほどに静まり返っていた。いや、静まり返るというよりは死屍累々、という言葉が相応しいだろうか。昨日まで飲んで騒いだ大人たちが、繁華街の真ん中、裏路地、飲み屋の玄関に転がっていた。
其処彼処から呻き声が聞こえる。
昨日の華やかな街の様子が嘘のようだった。
誰かが暴れたのかは知らないが、提灯を吊り下げた縄は途中で切れて半分垂れ下がっていたし、道端には割れた食器がいくつも転がっている。
それは花街も例外ではなく、夕刻、そろそろ姐様や客が花街に現れるのを待つ禿達が、忙しそうに道を掃除してまわっていた。慣れているのか非常に手際が良く、みるみるうちに食器の欠片が消えて行く。
今日は夕立もなさそうだ。花街の大通りに強い西日が差していた。
その様子を塀の上から見ていると、背後に視線を感じた。
敵意ないその視線は、おそらくあの人だ。
振り向くと、やはり緋色の衣を纏った美しい女性がこちらを見ていた。
呼ばれたわけではないが、呼ばれた気がした。
塀から飛び降り、離れへの廊下に佇むその人の元へ向かう。
「貴方も外に興味があるのね」
少し高い位置から見下ろす此糸は、静かにそう言った。
外に、興味?
的外れな問いに答えを見出せないでいると、彼女は少し首を傾げた。藤色の瞳に表情はなく、ただ漠然と見下ろされた。
見上げた母の姿に、再び恐怖がほんのりと滲み出でる。
頬に手が伸ばされた。
まだ藤色の瞳に表情はない。
体温のある手が幾度か頬を撫でていく。相変わらず、温度はあれど皮膚の奥から冷えていくようだった。
「貴方もいなくなってしまうのかしら」
頬に当たる指が不意に力を帯びた。
考えるより先に体が動いていた。
しかし一瞬遅く、がり、と皮膚が削られる。
飛び石まで退いて、再び緋色の彼女を見やる。
心臓が強い音をたてて拍動している。
先ほどまでと同じ無表情。完璧な顔立ちは、ぞっとするほど美しかった。怒りも悲しみも感じられない作られた能面のような顔。
爪に付着した血を舐めて、此糸は視線を伏せた。
「シロさんも、行ってしまったものね」
シロさん。
呟かれた名は、最初に花街で会った時に俺に対して問いかけた名だ。
逆光の中、『俺を誰かと見間違えた』。
そのシロと言う名が父親のものだとは思いたくなかった。
例えば、俺と同じ赤目で俺と同じ青髪で。この母親と幼かった俺とを花街に置き去りにした奴だったりした日には。
目の下をかなり深く抉られたらしい。瞬きをする度に痛みが走った。
「赤は嫌い」
少女の音吐が、気だるげな響きを帯びた。
「嫌いなの」
ゆるゆると首を横に振り、我儘を言う子供のように。
嫌い嫌い、と繰り返した。
ざわと澱が騒ぐ。胸元をぐっと握りしめた。息が吸いづらいほど苦しい。
喉元まで脈動が押し迫ってくる。耳元を轟々と流れる血潮の音がする。
緋色の過去が呼んでいる。
しかし、俺はもうあの頃のような子供ではないから。
嫌いな赤目を刃で抉られるような事はしない。
「……俺は、そのシロって奴じゃない」
此糸の少し眉が動いた。何を言っているのかわからない。そんな顔をしていた。
抉られた頬が痛む。
「貴方も行ってしまうのね」
目を細め、絞り出すように。
俺は大きく頷いた。
「行く。相棒が待ってるからな」
そろそろ海岸へ向かわねばならない。
篝と天音を連れて、でこぱちが既に待っているはずだから。もしかすると、痺れを切らしてとうに3人で向かっているかもしれない。
じりじりと距離を取る。
怒りとも悲しみともつかぬ感情を秘めた母親を置いて、俺は塀の上に跳び上がった。
其処へ、甲高い繻子の声が響き渡った。
「此糸さま、探しましたよ! もうみんな揃って稽古を始めてますよ?」
じっと俺の方を見つめる此糸の視線の先を繻子が追う。
「あっ、青様~!」
こちらに向かって手を振る繻子を一瞥し、俺は塀の向こうへ飛び降りた。
海岸へ到着すると、案の定3人の姿はなかった。
代わりに、奏が一人、松の木に寄りかかっていた。迦羅に忠誠を誓った羅刹女は、今日も一人、江戸城を見つめて主の帰りを待っていたようだ。
「よお」
声をかけると、奏は此方を一瞥した。
「貴方も行くのね」
「ああ。3人はもう地下に入ったのか?」
「ついさっき、嬉々として出かけたわ」
「お前は?」
問うと、奏は肩を竦めた。
「行かないわ。もし貴方が行かないのであれば、代わりについて行こうかと思ってたけど」
「……そりゃ、どうも」
やはり奏とは仲良くなれそうな気がする。
砂に埋まった鉄扉を探そうと浜に出て、絶句した。
砂浜のあちらこちらに掘り返した跡がある。地形が変わるほど荒された砂浜はもはや前景を留めていなかった。奴らの仕業だ。
記憶にある鉄扉の位置に向かうと、掘り返され、開きっぱなしの扉があった。
額に手を当ててため息。
「せめて隠して行けよ……」
これだけ掘り返された鉄扉を再び埋め直す気力はない。
遠くにいる奏に声をかけた。
「おい、ヒマならこれ、埋めとけよ!」
奏が嫌だという前に、地下道へ飛び込んだ。
性格上、きっと不機嫌ながらも頼みを聞いてくれるに違いない。それどころか意地になって砂浜を元の通りまっ平らにしてくれるかもしれない。
二度目の地下道はそれほど苦労しなかった。既に頭の中には完璧に地図が入っている。ついでに反対側の壁に手をついて歩き、分かれ道などが見当たらない事だけ確認した。
ついでに言うなら、この地下道に入った時から聞き覚えのある声が遠くから反響して聞こえている。
賑やかな3人は少し先を歩いているようだ。
無防備に城の中に入る事だけは止めなくては。
仕方なく足を速めた。
ほどなくして、先に地下道に入った3人に追いついた。
「あっ、青ちゃんだ!」
「お前ら、うるせえよ。しかも砂浜全部掘り返したろ」
「何? アンタが埋めてくれたの?」
「奏に押し付けてきた」
そう言うと、天音はにんまりと笑った。
「アンタ、奏の扱いが分かってきたね~」
「そりゃどうも」
ついでに、既に天井の扉を押しあけようとしていた篝の足を引っ張った。
きゃっと地面に尻もちをついた篝が恨めしそうにこちらを見ている。
「何するのよ、もう!」
篝が簪を手に攻撃を仕掛けてきた。
しかし、ここ数日で篝の攻撃は見切っている。
速さはあれど、癖さえ掴んでしまえば避けるのは簡単だった。
刺せど刺せど当たらない事に、篝の方が先に業を煮やした。
両手に持っていた簪をぽいっと捨ててしまう。
「あーもう、ムカツク! 何で強くなってんのよ!」
強くなったわけじゃなく、相手をするのに慣れただけだ。
身体能力が高く、初見の相手でもそれなりに戦える相棒と違って、俺は相手の癖や型を覚えて戦う方が得意なのだ。それが相手からすれば、強くなっていくように感じるのかもしれない。
「せめて夜まで待て。っつーか日が落ちるまで海岸にいろっつったろーが」
誰一人俺の話を聞いてなかったのか、聞いていても無視したのか。
問題児が3人に増えただけじゃねえか。
「いいから日が落ちるまで大人しくしてろ」
日の入り後、数刻も待てばいいだろう。
もっとも、この地下道でこの3人がどこまで『待て』を我慢できるかにかかっているが。
俺は大きくため息をついた。
それよりも、時間のあるうちに江戸城に侵入した後の事を考えておかねば。
黒猫に導かれた牢からの道と、ひっ捕らえられてから通った道のりは覚えている。まあ、普通に考えて扉を出てからは逆に辿れば地上に戻れるはずだ。
しかし、江戸城は二つの区画に別れている。本丸のある区画と、詰所などがある区画。その二つは海で分断されており、間に跳ね橋がかかっている。おそらく研究所があるのは後者だ。細かい位置は分からないが、門番の詰所が入り口付近にある事を考えると、手前の区画の奥側であろうことは簡単に想像がつく。
が、地下道を通れば江戸城本丸まで抜けてしまう。
となると、区画を跨いで移動せねばならない。二つの区画の間の隙間は、飛び越せる距離ではないが、どうにかして越えねばならないだろう。
縄の一本もあれば違うと思うが、この3人が何か用意しているとも思えない。
まあ、道具は何一つ持ってこなかった俺の言えたこっちゃないが。
が、そこでふっと気づいた。
海岸からここまで歩いて来た距離。
江戸城から出る時に歩いた距離と全く合わない。逃げる時は焦っていた上に知らぬ道だった為に長く感じたかもしれない。しかし、その分を差し引いても、計算が合わない。明らかに、俺たちが逃げる時に使った鉄扉よりかなり手前だ。
篝が天井に造り付けられた鉄扉を開けようとしていたから、当然ここが出口と思っていたが、おそらく違う。ぱっと見ると、この場所は地下道の行き止まりではなかった。
だとすると、この扉は一体何だ?
「なあ、この天井の扉って他にもあったのか?」
「え? ここが最初よ。だからここから出ようとしてるんじゃない」
「これは逃げた時に入ってきた扉じゃねえよ。前の時は、三方が壁だった。この地下道の突き当たりだったはずだ」
そう言うと、そうだっけ、と篝は首を傾げた。
「でこぱち、先まで行っていくつ扉があるか見てこい。ついでに、ここから何歩目にその扉があるかも数えてな」
相棒を送り出してしばらく、足音はすぐに戻ってきた。
「数えてきたよ!」
でこぱちの話を聞くと、扉はこれを合わせて4つ。
一番奥のものまでおおよそ2000歩、その一つ手前は1600歩、そして最後が500歩ほど進んだところにあるらしい。
普通に考えれば奥二つが本丸、手前二つが詰所側に繋がっているとみていいだろう。
あまり正確ではないが、記憶にある江戸城内と照らし合わせて、今いる場所が詰所の真下だろうと踏んだ。
結論として、可能性が最も高いのは次の扉という事になる。
「すごいわね。江戸城の何処に何があるかまで覚えてるの?」
「当たり前だろ」
そう返すと、天音と篝から歓声と拍手。
すごいだろ、おれの青ちゃんだぞと得意げなでこぱち。
まるで寺子屋の師にでもなった気分だ。
「俺の適当な予想でよければ次の扉から出るのがいいんじゃないかと思うが、どうする?」
天音はにっと笑った。
「どうせアタシらだけなら適当に出て、適当に暴れるだけだっただろうからな。いいぜ、アンタの事信じてやるよ」
「じゃ、行くか」
そう言うと、でこぱちがぱっと表情を明るくした。
どうやら退屈しているようだし、とうに日も沈んだだろうからな。
率先して篝が凹凸のある岸壁を上り、天井に造り付けられた鉄扉に手をかけた。
「静かに出ろよ」
念のため釘を刺し、下から見上げて待つ。
全員が上にで終わったところで、俺も壁を上った。とっかかりが多くてよかった。片腕では上りづらい。
最後はでこぱちに手を引かれて床に立ち、重い鉄扉を閉めた。
えらく埃っぽい場所に出たな。
地下牢とは全く印象の異なる、ガラクタの置かれた物置小屋と言った印象だった。さびた刀から割れた硝子、何が入っているのかわからない風呂敷包み。不要なものを雑然と放り棄てた印象だ。足元は土がむき出しで、柱は潮風で腐りきった木材。天井は低く少し油断すれば梁に頭を打ちつけそうだ。
物置小屋と言うよりは、建物の縁の下か。
ということは、これは天井ではなく床板。
頭の上の床板の隙間からは、地面に向かって液体が漏れ落ちている箇所もあった。
「ここ、どこなの?」
「知るか」
月が出たのか、床下を抜けたところから微かな明かりが漏れている。
「とりあえず出るぞ」
静かにしろよ、と再び釘を刺し、灯りに向かって歩き出した。
腰を落として歩くこと暫らく、床下から出る事が出来た。周囲に人影はない。
静かに床下からはい出ると、建物の全景が確認できた。
窓も戸もほとんどない、のっぺりとした木造の建物だ。そして、建物の周囲を漆喰の塀が取り囲んでいた。庭と思しきものは存在せず、建物と塀はほとんど寄り添うように高く伸びている。
塀は高く、辛うじて江戸城の天守閣の先が見える程度だった。まるで、何かを隠しているかのように。
もしかすると、正解かもな。
三人に合図し、入り口を探すことにした。




