第十四話
何処からか笛や太鼓の音がする。
この夏祭りは、江戸東方の深川帝釈天という寺社に祀られたカミサマだか何だかに五穀豊穣を願う祭りらしい。最も、昼に舞と神輿の奉納を終え、夜はただ騒ぎたい住人達が呑めや歌えと大騒ぎするだけなのだが。
墨色の帳が下りた江戸の町は、いつも以上に賑やかだった。商店は軒先に出店を設け、左右の店を繋ぐ縄に提灯を幾つもぶら下げている。明るい提灯で星空は見えなかったが、橙の柔らかな灯りが町を照らし出し、人々の熱気と相まって江戸のもう一つの姿を見せつけているかのようだった。
常にも増して騒がしい客寄せの声が繁華街に響き渡っている。道端に座り込んで酒をかっくらう大人たちも多く、外へ出ている住人も普段と比べ物にならないほど多い。
少し気を抜けば人の流れに持っていかれそうだ。
通行人の中には紺碧の羽織を翻す自警団が多く混じっている。祭りを仕切るのは、自警団の主な仕事なのだと聞いた。見知った顔があるかと探したが、さすがに分からなかったが。
右手に綿菓子、左手に林檎飴。出店を満喫しながら先導するでこぱちと足元を転がるように駆ける子犬。それを追いかける玖音を、少し遅れてきさらと二人で追いかけた。
玖音の手にはでこぱちが買ってやったらしい小さめの林檎飴が握られていた。
でこぱちと玖音は、ここ何日か江戸の町を歩いて知り合いを増やしたのだろう。時折沿道から声をかけられ、応えていた。
こういうところは本当にすごいと思う。
するとでこぱちは金魚すくいの前で立ち止まり、じぃっと桶を見つめた。一緒にかけていた子犬も、縁に手をかけて覗き込んだ。
犬が手を出す前に玖音が後ろから抱きかかえて回収したが、空を切るように前足をじたばたさせているところを見ると、中の金魚を狙っていたのだろう。
「でこ坊主、やってみるか?」
「うん!」
「後ろのあんちゃんは?」
「俺はいいよ」
人の流れに攫われそうなきさらを引き寄せて、前に庇う。
相棒は金魚すくいが苦手なようで、すぐに破いてしまっては何度も挑戦していた。力が有り余っているのだ。もっと静かに沈めた方がいい。
ムキになり始めた相棒と子犬を抱いて見守る玖音。
まだまだ時間がかかりそうだ。
「きさらも何か食べるか?」
「ううん、いいよ」
こうやって歩いてるだけで楽しい、と言ってきさらは笑った。
「賽ノ地もお祭りってあったけど、こんな大きなお祭りじゃなかったから。それに、夜になると暗くなっちゃうから、こんな綺麗な景色を見られる事もないもんね」
「そうだな」
鈴なりの提灯の灯りに目を細めた。
建屋の二階からも人が顔を出し、体を乗り出し、道行く人と大声で話している。
「青ちゃーん、もうすぐ荒川の方で花火があがるんだって!」
ようやく金魚すくいを諦めたでこぱちが、いつのまにか少し先から手を振って呼んでいる。
「今行く」
自然にきさらに手を伸ばし、彼女も自然に手を取った。
逸れないよう手を引きながら、雑踏の声に耳を傾ける。
元気か、と問う大きな声。最近どうかと尋ねる静かな声。冗談を笑う朗らかな声。子供を呼ぶ母の声。母を呼ぶ子供の声。
そう言えば、花火は黒船屋の二階からも見えると言っていた。
あの人も障子戸を開けて夜空の花火を見るのだろうか。
などと考えていたら、案の定、でこぱちの姿を見失った。
大丈夫。だいたい予想通りの展開だ。
慌てる事も何もない。
先に行っちゃったね、と苦笑するきさらと二人、再びゆっくりと東へと歩き出した。
周囲を歩く人々も東へ向かっている。皆、花火が目当てなのだろう。
「楽しみだなあ。私、花火を見るの初めてなんだ」
賽ノ地で花火と言えば、小さな線香花火が関の山で、今日の江戸の祭りのように空に打ち上げる大輪を見るのは俺も初めてだった。
江戸へ来てから驚く事ばかりだ。文化も考え方も人々の暮らしも、賽ノ地と異なる事の方が多い。
いや、むしろ賽ノ地が異質だったのだろうか。
そう考えると、今、きさらと二人で江戸の町を歩いているのが非常に不思議な気がする。
「青ちゃんと二人で江戸の町を歩く日が来るなんて思わなかったな」
きさらも同じことを考えていたようだ。
「でも、江戸に来て本当に二人とも強くなったね。見違えちゃった」
先日と同じ台詞を繰り返したきさら。
自分自身では気づかないが、傍から見ればそれほど変わったのだろうか。
「それにね」
きさらはそこでいったん言葉を区切った。
「天音さんに襲われそうになったとき、庇ってくれてすごく嬉しかったよ」
庇ったつもりはなかった。ただ、天音がきさらを傷つけようとした瞬間、酷く不快だったのは事実だ。
きさらも忍の一人ではあるし、俺が心配するようなことはないと思うのだが。
江戸へ来るという決断をした時、当たり前について来た相棒と少し違い、きさらだけは俺たちのいざこざに巻き込みたくはなかった。出来ることならば戦を知らず、政局などには関わらず、ただ穏やかに暮らしていて欲しかった。
傷つけるものは全部、俺が排除してやるから、賽ノ地で笑っていて欲しい。もし疲れて、俺と相棒が賽ノ地に帰る事があったら、いつものように優しく迎えてほしい。
そう思うのは、おそらく俺の我儘で、この少女はただ守られる事を望まないだろう。真実を知らされない事も嫌うはずだ。
「……出来れば、お前だけは巻き込みたくないんだ」
それでも、分かっていてもどうしたって譲れない事がある。
知らなくていい。
俺の心の機微などに、お前が心を砕く必要はないんだ。
きさらの瞳を見ていられなくなり、一歩、前に出た。
少し先を歩いて道を拓くように手を引いた。
つい先日、こうやってでこぱちの手を引いて歩いたな。あの時も俺が自分の動揺を隠そうとして、相棒にいらぬ心配をかけたのだった。
そうやって何かを誤魔化そうとしたのが伝わってしまったのか、きさらは雑踏に消え入りそうな小さな声で呟いた。
「……ごめんね、青ちゃん。急に私も江戸まで来ちゃって」
「いや、いい。来てくれてよかった」
きさらがいなければ俺は猩々緋色の過去に囚われてしまう。相棒は羅刹へと傾いていく。
出生と過去とが縛る未来は、確実に迫ってきた。
それでも、きさらと共にいる時だけは別の未来を信じる事が出来るから。
その時、どぉん、と大きな音がして周囲から歓声が上がった。
どうやら花火が始まったらしい。
ぱっと空を見上げると、散り際の赤い花弁が漆黒の夜空に弾けていくところだった。ちょうど、下弦の月が東から上り始めた。
「急ぐぞ」
きさらの手を引き、人の合間を縫って駆けだした。
空を見上げている間を駆け、ようやく繁華街を抜けた。これ以降は暗い道が荒川まで続いている。
花火が上がる度、瓦版に載った写絵のように、周囲の表情がぱっと浮かび上がる。
きょろきょろとあたりを見渡し、ちょうどよさそうな屋根を見つけて上る事にした。
繋いでいた手を一度離し、垣根を踏み台に上へあがる。きさらも同じようにして屋根の上まで登ってきた。
東向きの屋根は棟に腰かけて並んで見るのに絶好の場所だった。
きさらは膝を抱えて座りこんだ。
「うわあ、すごい」
どぉん、と腹の底に響く音をたてて、空に大輪が咲く。華やかな色をした明るい筋が四方八方に飛び散って、その先端を繋ぐと大きな円になった。
下弦の月が浮かぶ空を埋めるように次々と上がる花火に、きさらは歓声をあげた。
花火でなくきさらの方を見ていると、彼女もそれに気づいて笑い返した。
「……青ちゃんが無事でよかった」
花火の音の合間に、きさらはぽつりと呟いた。
「弾次くんっていう羅刹族が現れた時、本当に怖かったんだ。私も玖音もちょうど街に出てたから足止めしたんだけど」
きさらの右手が、俺の左手を握りしめた。
「青ちゃんもハチもいなくって……誰にも、助けてって言えなくて。烏組の人とか旅の人とかが助けてくれたんだけど、私たちだけじゃ何にも出来なかった」
いつも強く芯のあるきさらの声が、弱音に染まって希薄になっている気がした。
時折鳴る花火の音の合間は静寂がより強まって、きさらの悲痛な声はより透き通って聴こえた。
「弾次くんが探してるのが青ちゃんたちだって、すぐ分かったよ。それなのに青ちゃんたちが江戸へ向かった事が弾次くんにばれちゃったから、江戸にいる青ちゃんたちが、また大きな怪我するんじゃないかって心配で、心配で……」
俺の手を握りしめたまま、彼女は俯いた。
賽ノ地から江戸までは大人の足で数日かかる距離、羅刹族が出てすぐ賽ノ地を発たねばあの日に俺たちと会うことは出来なかった筈だ。
いてもたってもいられず、江戸を目指したのだろう。
どぉん、と花火の音がする。
いたたまれなくなったのか、きさらはくるりと俺に背を向けた。
「でも、元気そうな青ちゃんとハチ見たら安心しちゃった」
俺もどうすることもできずきさらに背を向けた。
背に体温を感じる。
しかし、微かに触れた彼女の肩は、震えている気がした。
次々と打ち上げられる花火を横目に、暫し沈黙を共有した。
きさらはやがて、ふっと顔をあげた。首筋に柔らかい髪が触れる。
俺はまだ、振り向けない。
「ねえ、青ちゃん。私と初めて会った日って覚えてる?」
きさらは急に、明るい声で言った。わざと無理しているようでもあった。
「覚えてねぇ」
「……うん、そうじゃないかと思った」
悪かったな。
覚えていないのは本当。賽ノ地に流れ着いたのはちょうど右腕と右目を失った頃で、記憶は紗幕を通したように曖昧なのだ。
「荒れ地で盗賊に襲われたところを、青ちゃんとハチが助けてくれたんだよ」
「そうだったか?」
「うん、そうだよ。あの時から二人は一緒だったよね。すごく仲がいいなあって思ったの、覚えてるよ」
そうだったかと首を傾げていると、きさらは再び笑った。
触れた肩が、髪が揺れた。
立ち直った様子にほっとした。
「青ちゃん、大丈夫だよ。青ちゃんとハチも一緒にいられるよ。喧嘩したって、仲直りできるはずだよ。だから――」
彼女はそうやって繰り返す。俺たちと、自分自身に言い聞かせるように。
「お願い、ハチと一緒にいてあげて」
その一言にどきりとした。
江戸に来てから懸念していることすべてを見透かされたような気がして。
「篝さんの妹を助けに行くんでしょう?」
ああ、その事か。
昨日の昼の、俺たちの喧嘩の原因。
羅刹女やでこぱちは簡単に考えているが、相手は江戸政府で、忍び込む先は江戸城だ。居待のような隠密や浅葱の親父のような剣豪がごろごろしている場所に、いかに羅刹族と言えど少数で殴り込みをかけようというのだ。
真正面から突っ込めば成功率はかなり低いだろう。
しかし、あの黒猫が教えてくれた地下道を使い、静かに行動すればうまくいくかもしれない。特に、将軍側が研究所の存在を敵視していれば成功率はかなり上がる。
行かないつもりだったが、篝、天音、でこぱちの3人では無理だろう。
せめて奏がいれば違うかもしれないが、毎日こっそり海岸に通い、迦羅が出てくるのを待っている律儀な彼女が一緒に行くとも思えない。
暇を持て余している俺が一緒に行けばいいんだろう。
「あー……検討するよ」
「お願いします」
きさらは肩越しにくすくすと笑った。
花火が次々と打ちあがりだす。そろそろ終盤なのだろうか。
夜空いっぱいに火の花が広がる。
緋色、蜜柑色、向日葵、翡翠、青嵐、月白。
様々な色が鮮やかに夜空を彩る。荒川の方からどよめきが上がった。江戸町の様子を見渡せるほど明るく映し出した。
極彩色の火輪は、まぶたの裏に焼き付くほど鮮やかに残った。
残響が残る刹那の静寂、きさらは左手を強く握った。
「もしかしたら、青ちゃんとハチは一緒に生きるのが難しいかもしれない。それは私も知ってる。たぶん二人とも私には絶対に言わないと思うけど、知ってるよ」
きさらの言葉に、一瞬肩が震えた。
「でも、大丈夫。大丈夫だよ」
知っている、と言われることがこれほど嬉しいと思わなかった。理解してもらえているという実感がこれほど深く心に刺さるとは思わなかった。
背中を向けていてよかった。とてもじゃないが、今の顔は見せられない。
胸の奥が熱くて苦しい。叫びだしたい程に熱を帯びた感情が溢れだしそうになった。
もう駄目だ。
「きさら」
この少女は本当に強い。
きっと、俺なんかが守らなくても大丈夫なくらいに、強い。
「ありがとう」
夜空に最後の一輪が花開く。
余韻を残したそれは、流れるようにゆっくりと、下弦の月の空から零れ落ちていく。
まるで終わっていく夏を惜しむように、火薬の匂いが風に流れ、群衆から湧き出るどよめきと歓声が響き渡った。